渡邊芳之さんからのメール


ABO FAN


Pencil_and_Paper32.gif (245 バイト)渡邊芳之さんからのメール(その15以降)

 このページでは、その15以降を紹介しています。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その15) H12.2.13 9:05

【筆者注】このメールは、読者の最大素数さんからのメール(その9)、 私の返事(その14)追記を公開した直後に到着しました。

ABOFANへの手紙(15)


今日は論点シンプルなので短いでーす.


1.ふたたびふたたびランダムサンプリングの問題

「統計」の問題はABOFANさんの土俵だけに,さすがに執拗な反撃ですね.でも残念ながらランダムサンプリングの問題では勝ち目は私にあると思います.とはいえ議論はたしかにかみ合ってますねえ(笑).

>  私が言いたいのはそういう意味ではありません。独立心の強さでは、現実にそういう
> 間違いをしている性格心理学の大家がいるのです。個人批判になると思うので、ここで
> はあえて名前は出しません。その13の図は、その人のことを想定して書いたものです
> 。(^^;;

それは単に,その心理学者もABOFANさんと同じように間違っているだけで,私が間違っている訳ではありません.ただ,大事な独立変数を発見できないという間違いは確かに誰にでもあり得ることですから,指摘されたら改めればいいだけのことです.その大家に指摘してあげましょう.大村先生だったら私が指摘しておきますよ.詫摩先生だったらちょっと言いにくいな.他に性格心理学の大家というのはいないと思うので(笑).

>  ということで、血液型以外に独立変数は無限(?)ですから、すべての交互作用を調
> べるのは事実上不可と言っていいでしょう。今回はたまたま独立変数がわかっています
> が調べられるわけです。つまり、ランダムサンプリングをすると、かならずいくつかの
> 独立変数が無視されることになります。無視された独立変数が従属変数に何らかの影響
> を与えている可能性がゼロとは言えません。これがランダムサンプリングをしてはダメ
> という根拠です。

これは,科学的仮説の検証と統計との関係を誤解しています.統計,とくに統計的検定は発見的な手続きではなく「検証的な手続き」です.一般に科学的な仮説が提出され,統計によって検証される流れは以下のようになります(1〜4の順序は絶対的です.ただし前に戻ることは可能).

  1.さまざまな場面での現象の観察から,科学的仮説が生成される.
  2.その仮説を実際に検証可能な形に組み直す.具体的には独立変数と従属変数,それぞれの測定方法などの特定.
  3.独立変数以外の要因は統制された条件(たとえばランダムサンプリング,あるいは実験室実験)での独立変数と従属変数の観測・測定
  4.データの統計的処理,統計的検定

 つまり,ふつうの仮説検証の流れでは,データを採って統計処理する前に,現象の綿密な観察から独立変数,従属変数を特定(想定)し,それらの関係についての仮説を立ててから,はじめてデータを採るわけです.

ABOFANさんが挙げた例(O型とB型では血液型と立場の強さが相互作用して独立心を決める)でも,本当にそういう関係があるなら,データを採る前に各血液型の人間をよく観察していれば,そうした独立変数の存在や相互作用の可能性はかならず「目撃」されるはずです.そもそも血液型性格学,というもの自体,人間についての綿密な観察に基づいて作られているものだと思いますよ.

「独立変数の存在の可能性は無限でどれだかわからない」というのはデータ以前の観察が不十分な証拠で,ほんとうにそうならそもそもデータを採ったり統計したりすること自体が無意味です.

>  1でも書きましたが、私が主張する「ランダムサンプリングはダメ」というのは、そ
> ういう意味ではありません。独立変数があらかじめ決まっていれば、ランダムサンプリ
> ングをした方がいいに決まっていますしかし、独立変数がわからなくて探し出す
> 場合には、ランダムサンプリングをしていない、つまり「偏った」データから「異常値
> 」を探し出して詳しく調べるという作業が絶対に必要です。その結果、新しい独立変数
> が探し出せるかもしれません。単純にランダムサンプリングをすると、この「異常値」
> そのものが消えてしまうのです。そういう意味で、ランダムサンプリングはダメなので
> す。

ABOFANさんが繰り返すように私も繰り返しますが,統計的検定ということ自体が「独立変数,従属変数が特定されてはじめて利用できる手続き」なのです.独立変数がわからないならそもそも統計的検定など使えないし,使っちゃダメなの.

ただし,上のABOFANさんの分の後半は,部分的には合っています.たしかに独立変数がわからなくて,それを探し出すためにあえて偏ったデータを集めて分析する(発見的なデータ分析?)ということは「アリ」です.ただし,そのデータに統計的検定を施すのは間違い.

そういうことをするのなら,まず発見的なデータ分析から独立変数やそれと従属変数との関係についての仮説を作り,それに基づいてこんどは独立変数をきちんと指定したうえでランダムサンプリングした検証的なデータを採って統計的検定を行うことで初めて仮説が検証される,という二段構えの研究プロセスを経なければならないです.

統計的検定をするならランダムサンプリングしなければ絶対にダメです.何らかの理由でランダムサンプリングではダメというならそのデータについては統計的検定はできません.これはABOFANさんや他の心理学者がなんと言おうが私が正しい.

念のため付け加えておけば,私は統計的検定をするためにはランダムサンプリングが絶対必要といっているだけで,ランダムサンプリングしていないデータが無意味だといっているわけではありません.たとえばフィールドワークのデータはどれも「ケース」であってランダムサンプリングなどされていません.でも,フィールドワークのデータには意味があります.

しかし,そこでは誰も統計的検定などしないのです.あえてランダムサンプリングしない,あるいは原理的にランダムサンプリングできないデータでは,統計的検定以外の「仮説検証法」を用いなければなりません.多くの場合それはABOFANさんの大嫌いな「理論的・論理的な分析」になるんですけどね.単一事例で使える「シングルケース統計」なんてものもありますけどね.

心理学のデータなんてランダムサンプリングしてないのだから,全部「フィールドワークのデータ」として扱って,検定なんかやめたらいいと思いますよ.前に述べたような「検定の記述的用法」だって,やっぱり間違いです.そこでも,データに意味がないのではなくて,そのデータに統計的検定を施すことに意味がないのです.


>> じゃああなたはなんで検定するんですか,と問い返すと多くの人はまともな答えがで
>> きないようです.
>
>  統計の計算ができるからじゃないでしょうか(笑)。その人は計算ができないんです
> よ、たぶん。

これはたぶん冗談だと思うけどわざとまじめに反論します(笑)が,これもABOFANさんぜんぜんわかってない.統計的検定を使わないのは「そうしたデータはこれまで心理学では統計的検定の対象とされていたが,少なくとも自分から見てこのデータは統計的検定には適さない,だから検定しない」ということなのです.

あえて言えば,私にしてもここで取り上げている「統計を使わない知り合い」にしても,学部生時代や大学院生時代には複雑な統計を駆使した研究をしていましたし,院生時代は官公庁や大企業の調査の統計委託でガッポガッポ儲けていましたし(バブル時代だったのね...),大学で統計の授業もやっていた(現在もやっている)わけで,統計についてはいちおう「プロ」として扱われてきた人間です.計算はできますし(注1),これまでの議論で明らかになったように統計の基本的な仕組みについて人に教えることもできます.

それでも統計的検定を使わないとか,統計的検定に批判的なのは,統計的検定にはそれに適したデータとそうでないデータがあって,適していないデータに統計的検定を施すのは間違い(「計算ができる」からといって計算してはいけない!)なのに,心理学者はそういう間違いを平気でするからです.

つまり,統計を使う人の方が,使わない人より統計をわかっていないわけです.たしかに多くの心理学者は統計技法は駆使しますが統計の基本的な仕組みや前提には非常に無頓着です.そして,それはABOFANさんにも共通する特徴だと思います.そういう意味ではABOFANさんはすごく心理学者っぽいわけで,多くの心理学者がABOFANさんを否定しきれないのはそのせいでしょうね(笑).

でも,なにかの方法について本当に理解するということは,それを使えるというだけじゃなく,それを使っちゃいけない場合についてもきちんと認識することです.格闘技だって,習った技をすぐケンカで使いたがったりするのは初心者だけでしょう?

>> ある条件のもとで「差がある」なら,一般的には「差がある」ということになる,と
>> いう主張はまったく理解できません.
>
>  私の書き方が悪かったようで、補足しておきます。物質Aと物質Bがあったとします
> 。例えば、この2つの物質の性質が同じかどうか調べるために、例えば、
>
> 密度
> 色
> 水に対する溶解度
> 油に対する溶解度
> 電気伝導率
> 比熱
>
> を調べたとします。この場合、1つでも違えば「差がある」ことになります。他の全部
> の性質が同じでも、です(当然!)。

もちろんです! ただし物質Aと物質Bのサンプルがきちんとランダムサンプリングされていればね(笑).

ただし,これABOFANさんは「鉄とアルミ」みたいな例を想定していると思うのですが,まあ鉄のサンプル間にはあまり個体差がない(群内が均質)だし,アルミもそうでしょう.だからランダムサンプリングしないで「一般に鉄とアルミでは色が違い,アルミの方が白っぽい」と結論しても,それほど間違った結果にはならないでしょう.

でも生物はそうじゃない.サンプル間の個体差がすごく大きいのです.たとえば「色」について,アニメマニアの男性1名,ガングロのコギャル1名というサンプルで比較して,コギャルの方が黒かった,とします.これを「このアニメマニアとこのコギャルでは,コギャルのほうが黒い」というなら別にかまいませんが,「一般に男より女では肌の色が違い,女の方が黒い」と結論したら,間違いである可能性が大きいですよね.このときには男性と女性のサンプルをきちんとランダムサンプリングした上で比較しなければいけないのです.わかりますよね?!

前回「統計的検定は農学から出てきた」といいましたが,これすなわちもともと大きい個体差が想定される「生物」を対象にして作られた,ということです.生物について何らかの仮説を検証するときには,物性みたいな話をするときよりランダムサンプリングの意味が重要になるわけです.


(注1)計算はできる  現在ではふつうは統計計算は統計ソフトに粗データを入力すれば全てお任せでやってもらえますから,統計を使うためには計算ができる必要すらありません.


2.薬などで性格が変わる問題

> プロザックを飲むと性格が変わるとか、肝臓移植で性格が変わるとか、様々な実例があ
> るわけです。状況主義ではどう説明するのでしょうか??
>
> 行動によって測定された性格ではないから意味がないということなのでしょうか?

この問いは2つの独立した問いからなっていますので,まず整理します.

 1.プロザックで性格が変わることを状況主義は説明できるか
 2.プロザックで性格が変わったというデータを渡邊は信じるか

先に2から答えますが,私はそのデータを見てないのでわかりませんが,それが質問紙など(とくに本人の)性格認知に基づいたデータで報告されているなら,あまり意味はないでしょうね.なぜなら,プロザックによって変化したのが,本当の性格なのか,薬の向精神作用などの影響で性格認知だけが変わった(この可能性は大)のかが区別できませんからね.肝臓移植の場合も同じ.

つぎに1に行きます.

プロザックの効果に限らず,人体内部で起こっている生理的な変化が,性格と深く関連する内的要因に影響を与えることはありえます.たとえば前に「気質」のところであげた「アドレナリン」の問題を考えれば,(そういうことができるかどうか知りませんが)何らかの薬品でアドレナリンの分泌を増やせば,外的刺激への反応傾向が変化することはじゅうぶん考えられます.

しかし,そうした変化も量的なものが中心になることは前にも言ったとおりです.そして,そうした量的な変化が具体的にどのような性格変化につながるかは状況に依存します.

すごく単純に考えて,薬品によって状況への敏感さが高まったとしたら,快状況におかれている人は「明るく」「陽気」になる方向で行動が変化するでしょうし,深い状況におかれている人はますます「暗く」「陰気」になるのではないでしょうか.

たしかにプロザックによって性格は変わるかもしれませんが,どう変わるかは状況によってさまざまでしょう.だから,「プロザックを飲むと暗い性格が明るくなる」みたいなことは一概に言えません.これはさまざまな向精神薬,麻薬の類でも同じことで,とくに強い麻薬などを初めて摂取したときには,その場の状況やその人の過去経験によって「超ハッピー」になるときもあるし,徹底的にイヤな気分になることもあります.お酒も似てますよね.

ただ,一部の向精神薬のように「暗い気持ちを抑え,明るい気持ちを強める」などある程度変化の方向性を決められるものもありますから,性格との関係もいろいろでしょう.それにしても,その薬の「明るい気持ちを強める」効果だって状況などの文脈によって強くも弱くもなることは,経験を積んだ精神科医だったら当然知っていることです.

あと,肝臓移植の場合はちょっと問題が違って,肝臓移植をしなければならなかったような人は当然病気になっているわけで,肝臓が入れ替わった以外に病気によって周囲の環境や人間関係,仕事環境などがすごく大きく変わっているわけですよね.このとき,もし性格が変わっても,それが肝臓移植の直接の影響なのか,移植までしなければいけなくなったことによる環境の変化の影響なのか,区別できませんね.

脊髄移植などを受けて血液型が変わったら性格が変わった,などの例(あるかどうか知りませんが)でも,その性格変化が血液型の変化に起因するのか,脊髄移植に随伴する環境の変化によるのかはわかりません.

今日はこれでおしまいです.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その15)追伸 H12.2.13 10:45

ABOFANへの手紙(15)追伸


危惧したとおり,手紙を書いて送ってからHPをみたら新しい内容がアップされていました.それで追伸です.


1.ランダムサンプリングの問題

ABOFANさんはいろいろ例を挙げられていますが,それらもすべて手紙(14),手紙(15)に書いた内容で十分整理可能なことだと思うので,これらについて改めて論じる必要はないと思います.

たとえば,

> つまり、男子と女子とでは、血液型による回答の傾向が違うのです。ですから、回答者
> を均質にしないと差が出にくくなるのということですね。こんなに簡単に実証できると
> は…私自身も驚いています。(^^)

そういうときだって,それは性別が独立変数なんだから血液型と一緒に分析に投入すればランダムサンプリングしても交互作用が有意になって「血液型の性格の関係」は検証されますって!

それらのデータで心理学者がABOFANさんの求めるような結果を出せないのは単に分析のモデルが間違っている(必要な独立変数を分析に投入していない)だけで,ランダムサンプリングの問題じゃぜーんぜんないですよ.ABOFANさんはそのデータを分析し直せばいいだけなのです.

そもそも,能見さんの本詳しく読めばどこかに「血液型の現れ方は性別によって違う」くらいのこと,必ず書いてあると思いますよ(注1).もしそれでもABOFANさんが「性別が独立変数になるなんて気づかなかった,ランダムサンプリングしたデータではわからない」なんて言ってるんだったら,ABOFANさんの能見本の読み方が足りない,ってことになっちゃいますよ.それじゃあ「能見父子のお役に立ちたい」なんてのも難しいですね(かなり意地悪モード).

ランダムサンプリングの問題は「渡邊が正しい」という結論で完結できると思うのですが,まだだめ?(笑) だめならまあ話をはじめた責任としてわかるまで説明しますけど.


(注1)性別が独立変数  心理学者だって,仮説を立ててデータを採ってみて全体で有意差が出なかったら,とりあえず性別や年齢などの「デモグラフィック特性」を試しに独立変数に投入してみて,交互作用が出ないか確かめるのがふつうです.ただしこれは「なんとか差を出したい」ときの行動で,血液型データで心理学者がそれをやってないとすれば,意識的にしろ無意識的にしろ「差を出したくない」という構えはあったのかもしれませんね(笑).でもABOFANさんこの部分だけを取り出して心理学者批判を展開しないように(あらかじめ牽制).


2.最大素数さんのメールについて

やっぱり来ていた(笑).

> この「機能」を担っている「生体側」のナニカを「意識」と呼ぶことはできないのです
> か?

まあ,呼ぶか呼ばないかは勝手,というかデータ以前の心理学者の志向性によると思います.ただしはっきりしているのは,それはわれわれが日常的に「意識」と考えている「ディスプレイに映っているもの」とは別のものだ,ということです.そうすると,ここで「意識」という言葉が互換しない2つの意味を持つようになってしまいます.私はそういうことはきらいですね.別の名前でいいじゃん.

> もう一つ良く判らないのが、「行動の予測」の内容です。(学問の目標として、とか方
> 法論上の仮定として、というような意味では判ります)読んだままでは、既知の「(意
> 識・行動)出力」の原因となった「(環境)入力」と同じ(ような)入力においては同
> じ(ような)出力がある、ということを言っているように思えます。しかし、これは
>
>   1.人格レベルと言うにせよ、行動のと言うにせよ、首尾一貫性より普遍的な方 
>    向での一貫性を認めることになる。こと、
>
> 及び別の問題として
>
>   2.実生活では、あらためて「予測」などと構える必要が無い「同じ(ような)
>     入力」の繰り返しと、殆ど「同じ(ような)入力」などというものはない 
>     事態とから成り立っており、他者理解にはナンの役にも立ちそうにない。
>
> ことなど、渡邊さんの言いたいことと違うことは明らか(な筈)です。

前提はその通りですね.そして,

1については,性格における一貫性というのは状況の変化を関数にしたときの一貫性を言っているので,状況という入力が変化したら行動(そのパターンとしての性格)が変化すると仮定した時点で,少なくとも性格心理学における「一貫性の仮定」は否定したことになります.「首尾一貫性」についてはその関数となる状況をもっと的確に分析できるわけですから問題ない.

もちろん「状況に応じた行動をする」というレベルの(普遍的な?)一貫性を認めるというのならその通りですが,具体的な入力の内容に応じて具体的な出力が変化することをふつう一貫性とは呼ばないでしょう.

2についてですが,ほんとにそうでしょうか? とくに,私たちの生活にそれほど「ほとんど同じような入力というものはない事態」があるでしょうか.それは私は疑問だなあ.

たしかに「初めて出会う人」や「初めて行く場所」みたいなものはたくさんありますが,そこでの私たちの行動は「過去の似たような人との経験」や「過去の似たような場所での経験」あるいは「過去に初対面の人との間にした経験」とか「過去に初めて行く場所に行ったときにした経験」みたいな強化歴にかなり依存しているはずです.だったら,そうした場面での人の行動もやはり「過去の入力=出力関係」から説明・予測できるじゃないですか.

本当に新奇で,過去の経験からまったくなんの情報も引き出せない状況におかれると,われわれの行動はまったくランダム(試行錯誤,フリーオペラント)になるか,「泣きわめく」「とりあえず怒る」「笑うしかない」といった感情反応だけに特化されるか,「立ちすくむ」「ただオロオロする」といったように行動自体が停止します.でも,そういう場面って一生のうちでも数えられるくらい(500回くらいまでは想定?)の数しか起きてないと思いますよ.

そういうことにならないように,われわれ人類は社会(家族)とか文化とか学校とか会社とか風習とか法律とかいうものを作って,日常生活の状況ができるだけ同じことの繰り返しになり,ランダムにならないように構造化しています.また,しつけとか教育とかいったものも,子どもがふつう自然には経験できないような経験を強制的に与えて,今後の社会生活のさまざまな場面で成功可能性の高い行動をするのに必要な強化歴を与えていると考えられます.

人間は進化の過程で他の動物よりずっと優れた「環境に合わせて行動を形成する能力」を持っている分,それに無駄な動作をさせないために環境に余計な変化が生じないよう心がけます.伝統主義とか保守主義とかもそういう「生活の知恵」のひとつなんですよね.

この話,かなり面白いはずだけどどうですか?(笑).


> 問題行動の修正・除去などにはこうした「予測」は有効でしょう。しかし、結局のとこ
> ろそういうことならば、性格検査や一貫性という概念・考え方を「否定」する根拠も理
> 由も意味が無いんじゃないでしょうか。

そんなこと全然ありませんよ.性格に一貫性があるとか,それが性格検査で測れるとかいう思想自体が,「環境とは独立の,内的な存在が性格や行動(の具体的様態)を因果的に決めている」という主張を含んでいるわけです.

そうなら,問題行動の修正も「こころ」の修正によってしかできないし,だから心理学はカウンセリングとか精神分析とか不経済な方法で「こころを修正」し,「こころの結果としての行動」を変容させようとするわけでしょう? 

そして,そういう「心理学的対処」は,少なくとも「はっきり特定できる問題行動の修正」という目的では実際には悲しいくらい治療効果がないんですよ.(こころの悩みへの対処,とか自分発見,とかいう目的にはある程度役立つわけですけど.)

でもそういう考え方を捨てて,「行動は環境の関数である」と考えることで,問題行動の修正をしたいなら環境の中にその原因を探していく,というアプローチをとれます.このとき環境要因は少なくとも原理的には客観的に観測・操作可能ですし,その関数としての行動(の変化)も観測可能,非常に「科学的」ではっきりした手続きを採ることができます.

性格に関していえば,従来型の性格心理学は「所与」としての人の性格を記述したり,説明したりすることに重きを置いているのにたいして,私のような行動主義的性格理論は性格の変化を説明・予測したり,実際に性格を変化させたり,性格を制御したりすることに重きを置いています.

性格の制御なんていうと素人は必ず「非人間的」とか拒否反応を示しますが,性格の問題点とか,性格の歪みとかで悩んでいたり,実際に社会生活に困難を抱えている人がたくさんいるのに,従来の「一貫性性格心理学」は性格変容に対する具体的な指針はなにも提出することができなかったわけです.どっちが非人間的ですかね(注2).

ちょっと話はズレますが,第2次大戦中にスキナーはアメリカ軍に依頼されてハトにミサイルや戦闘機を操縦させて「カミカゼ特攻」させる研究をし,かなり成功したようです.これは結局終戦に間に合わず,また電子制御の発展で不要になったわけですが,このエピソードはスキナーや行動主義の「非人道性」や「不道徳性」を主張する人たちの格好の攻撃材料になっています.

でも,人間にやらせるよりはハトにやらせる方がマシではないですか? 「人間なら本人の同意の上でやらせる,なにもわからないハトにやらせるのは卑怯」? カミカゼ特攻隊に「同意」した兵士たちは本当に自由意志だけで決めていたでしょうか? 人間に死を強制するよりハトに強制する方が少なくとも「人道的」ではありませんか?

こういうことでもわかるように,行動主義の基本は徹底した合理主義と結果主義です.なにかを合理的に制御できてその結果として人の幸福につながるなら理念(や雰囲気)にはあまりこだわらない,というのが行動主義者です.

> 「迷走」の例としては、ふさわしいものが、YG性格検査の質問項目にいくらでもあり
> まして、例えば「よく考えずに行動してしまうことが多い 」「早合点の傾向がある」
> などなど、確信「はい」の例としてあげた「いつもなにか刺激を求める」がある「のん
> きさR」の群の中でも、その半分以上は、渡邊さんの「馬鹿馬鹿しい」例と
> 似たようなレベルなわけです。

それははっきり「そのとおり」です.YGで言えば「頭が良くなったり悪くなったり決まらない」とか「スパイのような人がいる」とか,オレだってどう答えていいかわかんないよ.でもそういう項目にも「意味はわからなくても統計的な妥当性があるのだ」というわけです.YGをつくったT先生に同じようなことを聞いてたいへん怒られたことがあります.「理屈を言ってないでとにかくデータを取れ,データを取れ」ってね.そういう問題かよ(涙々).

> 3.統計の根拠
>
>> ほんと,ある筈なんですが,どうも見あたらないんですよ.
>
> ああ、やっぱり、という感じでガックリ。とはいえ、結構気合い入れての質問だったの
> ですよ。「(それについての理論を)なんか聞いたような気がするが憶えてない」的に
> 軽く受け取られないように、ってネ。内燃機関の原理・仕組みは知らなくても上手な運
> 転は可能だ、ということかなー。

上手な運転なんか全然できてないだろう!っていうのが私の立場.ずっと上の方にあるランダムサンプリングの議論なんかでも,それはわかります.大事故を起こす前にもう一度教習所に通った方がいいよ,ということです.ただ,ちゃんとした教習所が少ないんだよねえ(笑).


(注2)性格変容と性格の制御  これらの問題は拙著「性格は変わる,変えられる〜性格変容と多面性格の心理学」(自由国民社)で詳細に論じています.この本は現在品切れ中(実質的に絶版ということ)で,書店ではまず手に入りませんが,公共の図書館などにはけっこう入っているようです.この本の読者から唯一届いた「ファンレター」にも「図書館で借りて読み感動しました」とあって複雑な気持ちになりました(笑).私の手元にはまだたくさんありますからご希望の方には割引価格でご提供いたします.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その15)

 本文と追伸を一緒にして返事を書きます。論点はほぼ整理できたので、手短に行きます。そろそろまとめられるかな?

1.ランダムサンプリングの問題

 まず最初に追伸からです。

> 血液型データで心理学者がそれをやってないとすれば,意識的にしろ無意識的にしろ
> 「差を出したくない」という構えはあったのかもしれませんね(笑).でもABOFANさんこ
> の部分だけを取り出して心理学者批判を展開しないように(あらかじめ牽制).

 なんだ、わかっているじゃないですか(笑)。しつこいようですが、あらかじめ仮説を立ててから検定するなら問題はありません。独立変数のデータを取れるからです。しかし、実際にはそうできない場合も多いのです。計算するとわかると思いますが、こういう場合には独立変数の影響が分析できないので正しい分析ができません。そういう意味でランダムサンプリングはダメなのです。

#そんなの当然、最初からわかってた、なんてのはナシですよ(笑)。

 では、本文に戻ります。

> その大家に指摘してあげましょう.

 まず、私自身が匿名ですから、原則として名指しで批判することはしていません。フェアじゃないですからね。(^^;;

#ただ、相手が同意しているなら話は別です。

> ABOFANさんの大嫌いな「理論的・論理的な分析」

 データさえあれば大好きです(笑)。

 他はほとんど同感ですが、実は渡邊さんの文献で統計データを扱ってるのを見たことがないのです(苦笑)。大変失礼しました。m(._.)m

> それじゃあ「能見父子のお役に立ちたい」なんてのも難しいですね(かなり意地悪モード).

 渡邊さん以外の心理学者は黙ってしまいました。ただし、統計的検定はしていません(笑)。

> ランダムサンプリングの問題は「渡邊が正しい」という結論で完結できると思う

 渡邊さんは、最初からわかっていて議論していていたんでしょうね(笑)。確かに、理論的にはランダムサンプリングは必須です。しかし、現実はそれほど甘くはない、と私は感じています。理論的に渡邊さんが正しいのを認めるのはやぶさかではありません(笑)。

 ちょっと脱線して、ある心理学者の「分析」を引用しておきます(『超常現象の心理学』 114〜115ページ)。

 さて、血液型性格判断に「証拠がない」とばかり言うと、疑問に思われる方もいるだろう。血液型論者の著書にも、血液型と性格に関連があるという実証的な根拠らしきものが 明記されている場合があるのだ。ところが、これらは一見するともっともに見えるが、よく考えると、データ分析の間違い・誤解・曲解のオンパレードになっている。この論弁の代表的な例をいくつか示しておくので、こういう言い方に編されないようにしてほしい。
 たとえば「政治家にO型が多い」とか「プロ野球の本塁打十傑にはB型が多い」、これは統計学的にも認められている、というもの。このように、ある集団の中に特定の血液型の人が偏って含まれれば両者に関連ありと考える根拠にはなる。しかし、これだけではダメだ。統計のトリックを使えば、そうした偏った集団による証拠は簡単に作れてしまうからである。
 つまり、多様な人間全体から、いろいろな方法で集団を次々と切り取ってみれば、その中にはある血液型に偏りのある集団が偶然いくつかできて当たり前なのだ。そして、結果の出なかった集団を隠しておいて、偏りがある集団だけを紹介すれば、いかにももっともらしい実証例に見えてしまう。プロ野球ひとつをとってみても、打撃十傑とか新人王十人とか最優秀防御率十人とか、集団の切り取り方は数限りなくある。ベスト10差がなければ、ベスト5にしてみたりベスト8にしてみたり、好きな所で切ればいい。統計学的にみると、百通りの切り方をすれば、五つ程度の偏りのある集団が見つかってもおかしくない。
 たとえば能見氏は、衆議院議員の血液型分布を調べ、それがO型に著しく偏っていたことを根拠に、政治家タイプの主役はO型だと断言している。しかし、参議院議員ではそんな偏りは見られなかったし、知事でも逆にA型が多くなっている。能見氏はこれを、政治や行政で要求される才能の差であると解釈しているが、いかにも苦しい後付の解釈だ。能見氏は、他にも社会党議員とか自民党議員とか、人口20万以上の市長とか5万人以下の市長とか実に数多くの切り方をしている。冷静に考えれば、日本中の政治家をさまざまな集団に分けていけば、こうした偏りは偶然でいくつも見いだせるし、それに適当な理屈をつけることは可能であろう。そして決定的なのは、現在の衆議院議員でも参議院議員でも血液型の偏りは見られないという事実だ(能見氏のデータは70年代)。これらを総合的に考えれば、能見氏が見いだしたO型への偏りは、単なる偶然と結論づけるのが最も妥当であり、O型が政治家に向くという説は根拠がなくなるのである。

 どうやら、こういうのが典型的なパターンのようです…。

2.薬などで性格が変わる問題

 ちょっと失敗しました。このデータは手元にないのです。(*_*)

 ということで、議論にはならないと思いますが、少々揚げ足取りを…。

> ただ,一部の向精神薬のように「暗い気持ちを抑え,明るい気持ちを強める」
> などある程度変化の方向性を決められるものもあります

 つまり、程度の差はあれ、特定の方向に変わるなら「性格は変わる」といえないのでしょうか?

 以前に読んだ本によると、プロザックを飲むと付き合う友達が変わるらしいです。そのため、マスコミ関係者や芸能人では正常者でも愛用者が多い(本当かな?)、とか書いてありました。ウラを取っていないのでなんとも言えません(無責任モード)。

 いずれにせよ、「性格」の定義に依存する問題なのでしょうね…。

> もし性格が変わっても,それが肝臓移植の直接の影響なのか,移植までしな
> ければいけなくなったことによる環境の変化の影響なのか,区別できませんね.

 ランダムサンプリングをしても交互作用を分析してもダメなのですか?(意地悪モード)。

 なお、骨髄移植では脳の血液型物質の型は変わらないようです。だから、性格は変わらないことになります。ただし、骨髄が性格に影響するホルモンを分泌していれば変わるはずですが、それは血液型による変化ではありません。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その15)追記

 ランダムサンプリングについて、再度書いておきます。私は、渡邊さんが言っていることを決して否定しているのではありません。確かに、統計的検定では、ランダムサンプリングや正規分布を前提としているものが多いからです。だから、ランダムサンプリングをするべきだ、という渡邊さんの正論には反対するつもりはありません。教科書どおりですからね。

 しかし、血液型と性格に関する心理学の論文で、「ランダムサンプリング」が行われている(と称する)ものには、大いに問題があります。となると、心理学では「ランダムサンプリング」が違う意味で使われているのではないか、とも考えているのです。

 それに、完全なランダムサンプリングをしていなくとも、その仮説が様々なデータで成り立つことを実証すれば十分だと思います。もちろん、ランダムサンプリングのデータならいいに決まっていますが。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その15)追記2

 まとめが近くなってきたので、ちょっと脱線します。(^^;;

 性格が実在するのは「錯覚」であるということですよね。それなら、クレッチマー説ではないですが、「性格は実在しないのになぜ多くの人(心理学者も?)は実在すると思っているのか」という分析をした論文はないのでしょうか?

#原因がわかるなら対策も簡単なはずですが…。

 改めて考えるまでもなく、普通の人は(私も含めて)、日常の体験から「性格が実在する」と信じているわけです。本当に性格が実在するかどうか、なんてことは実は関係ないのです(苦笑)。ですから、そういう「錯覚」のメカニズムを崩すには、ちゃんとしたデータだけでなく、メカニズムそのものをきちんと分析する必要があるわけです。渡邊さんは、なぜそういうことをやらないのでしょうか?

 これだけではわかりにくいと思うので、実例を出しておきましょう。→詳しくはこちら

 かなり前のことですが、アメリカの高校生グループが日本にやってきて、夏休みに地元の高校生グループと親善交流をしたことがありました。なぜか私も参加し、たまたま1日だけ彼らと一緒にいたのです。キャンプを一緒にやったのですが、夜になって恒例の肝試し大会をすることになりました。一部男子グループが幽霊に扮して女子グループを驚かすというあれです(笑)。高校生にもなれば、男女共に幽霊を信じている人はほとんどいないはずです。しかし、当然というか、日本の女子高生グループはキャーキャー騒いで大変なことになっていました(笑)。一部の気の弱い子は泣き叫ばんばかり…。しかし、アメリカの高校生は男女とも全くなんともありません。私だって少しは怖かった(笑)のですから、アメリカの高校生もちょっとぐらいは騒ぐだろうと予想していました。しかし、私の予想は見事に外れ、全員がなんともなくニコニコしています。「幽霊」は業を煮やし、おどかしをエスカレートさせたのですが、アメリカ人グループはそれでも全く平気です。最後には、「幽霊」をからかうグループも出てくる始末…。日本人グループは困ったに違いありません。

 つまり、こういうことです。ほとんどのアメリカ人は、幽霊はいないと信じている。しかし、ほとんどの日本人は、幽霊はいないような気がしたにしても、本当はいると信じているのです。この国際交流キャンプは、日米の宗教観の違いあまりもに鮮やかに浮かび上がらせたのでした。

 山本七平さんの本にも同じような話があります。日本人とユダヤ人がある遺跡の発掘をしたそうです。しかし、そこは戦場だか墓場だったらしく、人骨がバラバラ出てきた。しょうがないので人骨も掘り出したのですが、ユダヤ人はなんともなかったのに対し、日本人は全員高熱を発して寝込んでしまったのだそうです。人骨は単なる物質ですから、超自然的存在である霊魂なんかが宿っているはずもありません。ですから、科学的に考えると、単なる人骨という物質から、人間が何らの影響を受けるはずがない、ということになります。しかし、実際に日本人は「霊魂」の影響(?)を受けて寝込んでしまいました。私も「霊魂」なんて信じていませんが、それでも人骨の発掘なんかまっぴらご免です。つまり、私も結果として「霊魂」は信じていることになるわけです…(笑)。

 私も「幽霊」や「霊魂」を信じているのですから、「性格」が実在することを信じていても何の不思議もありません(笑)。

 もちろん、幽霊や霊魂が実在するはずがありません! しかし、「実在する」ことと「実在すると信じている」ことは、やっぱり違うのです。渡邊さんは、夜中にトイレに行くのが怖くないのでしょうか(笑)。

 もう1つ例を出しましょう。少し前のことですが、JCOでの原子力臨界事故が発生しました。地元の人や関係者はさぞ大変なことだったでしょう。この場を借りてお見舞い申し上げます。

 さて、以前に書いた遺伝子組み替え食品とは違い、放射線が人体に与える影響については、ちゃんとしたデータがあります。しかも、地元の茨城県東海村近辺では、日本原子力研究所や旧・動燃(現・核燃料サイクル機構)がありますから、原子力関係者が多いのです。ということで、日本の他の地域よりは住民の原子力に関する知識が多いと期待することもできます。私の試算だと、事故現場にごく近い住民でも、中性子線を浴びるよりはタバコを吸った方が、はるかにガンになる確率が高くなります。ウソだと思ったら計算してみてください。では、現実はどうだったのでしょうか?

 結果は、渡邊さんも知っているとおり、ものすごい問題になりました。いや、それは今回の事故が大したことがなかったからで、もっとひどい事故が起きたらどうするんだ、という反論もあると思います。しかし、これまたちゃんとデータがあって、原子力発電による死者は石炭火力発電よりもはるかに少ないのです。ところが、死者が多いから石炭を使うのをやめろ、という人はいません(地球温暖化問題は別として…)。

 結局、科学的に「危険」ということと、多くの人が「危険と感じる」ことは違うのです。政府の対応を見ると、科学技術庁は前者、首相官邸は後者を中心に対処していることがわかります。どちらが適切な対応だったのかは言うまでもないでしょう…。その後、科学技術庁は長官自らが「不十分な対応」に対して公式に謝罪しましたから。(*_*)

 以上のケースは、社会心理学の格好の研究対象だと思うのですが、日本ではそういう論文はないのでしょうか?

 話を血液型に戻します。

 「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人は関係あると思っているのか」という心理学の論文をいくら読んでも、私が知る限りそういう視点は皆無です。ましてや、統計の扱いが怪しいとなれば、なにをかいわんやです。渡邊席子さんの論文によれば、多くの人は自分の:体験によって「血液型と性格は関係がある」と感じているようですから、「多くの人は関係あると思っている」のは当然すぎるほど当然と言うべきでしょう…。

 心理学者は、原子力が安全であることを積極的にPRするつもりなのでしょうか?

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その16) H12.2.14 12:33

ABOFANへの手紙(16)


私もそろそろまとめモードに入りますが.

まず短いやつ.

>> もし性格が変わっても,それが肝臓移植の直接の影響なのか,移植までしな
>> ければいけなくなったことによる環境の変化の影響なのか,区別できませんね.
>
>  ランダムサンプリングをしても交互作用を分析してもダメなのですか?(意地悪モー
> ド)。

ぜんぜん意地悪じゃないですね.性格の変化が反証可能な方法で測定されていて,肝臓移植は「した/しない」でいいとして,あと環境の変化が何らかの方法できちんと測定されていれば,

    独立変数   肝臓移植,環境変化
    従属変数   性格の変化

という二元配置モデルをたてることができます.このとき,独立変数「肝臓移植」の主効果が検出されるか,肝臓移植と環境変化に有意な交互作用があれば,肝臓移植が性格を変えた,と言えるでしょう.もちろん,ランダムサンプリングは必須です(笑).


1.ランダムサンプリング問題これで最後

この問題については基本的にはわかっていただけたようですが,まだ気になるところがあるので念のため.

> 独立変数のデータを取れるからです。しかし、実際にはそうできない場合も多いのです
> 。計算するとわかると思いますが、こういう場合には独立変数の影響が分析できないの
> で正しい分析ができません。そういう意味でランダムサンプリングはダメなのです。

独立変数がわからず,その影響が分析できないのなら,ランダムサンプリングしてもしなくても,やっぱり分析できないのじゃないですか? ランダムサンプリングしない方がいいという根拠がわかりません.

また,私は「発見的なデータ分析」ではランダムサンプリングしなくても良いとは言いましたが,ランダムサンプリングしない方がいい,とはいいませんでした.発見的なデータ分析でもランダムサンプリングしてある方が「未知の独立変数」を発見するためにはむしろ有利なはずです.

だって,ランダムサンプリングされている方がいろいろな独立変数の,いろいろな影響が母集団と近い形で含まれているのだから,いろんな指標を仮説的にたくさん採っておいて一個ずつ潰していけば,有力な独立変数が見つかる可能性が大きいでしょう.偏ったデータであれば確かに特定の独立変数は見つけやすいかも知れないけど,それとは別の独立変数については,むしろ見つけられない方向にデータが偏っている可能性がありますよね.

いずれにしても「ランダムサンプリングはダメ」と積極的にはいえない.

ABOFANさんの言いたいことは「ランダムサンプリングはダメ」ということではなくて,「ランダムサンプリングしたら余計になにかがわかるわけではない」「ランダムサンプリングしても仮説が間違っていたらしようがない」という意味で「ランダムサンプリングでもダメ」ということなんじゃないかなあ.そうなら全く同意できますけど.

後の方の「追記」で,

>  しかし、血液型と性格に関する心理学の論文で、「ランダムサンプリング」が行われ
> ている(と称する)ものには、大いに問題があります。となると、心理学では
> 「ランダムサンプリング」が違う意味で使われているのではないか、とも考えているの
> です。
>
>  それに、完全なランダムサンプリングをしていなくとも、その仮説が様々なデータで
> 成り立つことを実証すれば十分だと思います。もちろん、ランダムサンプリン
> グのデータならいいに決まっていますが。

と書かれていることでも,そういう感じがします.私の解釈で良いですか?

また,上の引用の後半部分のことについては,心理学者の大半はそう思っていることは確かでしょうし,私もそれにも一理あると思いますよ.まあ血液型のデータが「様々なデータで成り立つ」と実証されているかどうかは別の議論ですけどね.

あと,血液型と性格関連でランダムサンプリングしている研究ってどれですか? 教えてください(個人的メールでOKです).


2.「性格という錯覚」について

> 性格が実在するのは「錯覚」であるということですよね。それなら、クレッチマー説で
> はないですが、「性格は実在しないのになぜ多くの人(心理学者も?)は実在すると思
> っているのか」という分析をした論文はないのでしょうか?

正確に言えば「性格についてわれわれが認識している内容には,錯覚であったり,一定の状況的条件に基づいた事実を過度に一般化しているに過ぎないものがかなり多い」ということです.それについての研究はあるのか,という質問ですね.

社会心理学では「対人認知」とか「パーソナリティ認知」とかよばれる分野で,「性格の実在」ということを特に前提にしないで人の性格認知の成立や問題点を分析する,という研究が,それこそ社会心理学の誕生とほぼ同時に始まり,たくさんの研究成果が積み重ねられています.

性格がないところに性格を認知する,状況の影響で性格の認知がいくらでも変わる,性格の認知が様々な錯覚を含む,といった事実は,そうした研究の中で数え切れないほどの実例を伴って証明されています.

また,やはり社会心理学の「帰属研究」という分野では,人の行動を説明するときにその原因を性格に求める,という心理がどのように生成されるのかが詳細に研究されており,そこでもやはり,実際には性格が原因ではないのに性格に原因を求める錯覚(「基本的帰属錯誤」)などが明らかになっています.

こうした知見はごく一般的な社会心理学の教科書にも必ず載っているようなことですが,これと性格理論との関係を特に論じたものとしては,おなじみの,

 ミッシェル/詫摩監訳「パーソナリティの理論」誠信書房

の特に第3章,第5章がありますし,残念ながら英語ですが,

 Ross,L and Nisbett,R.E. The Person and the Situation - Perspectives of Social Psychology. Temple Univ.Press 1991

が非常に優れた内容です.また,私の書いたものでは

 菊池聡・木下孝司編「不思議現象〜子どものこころと教育」北大路書房

の第3章「性格にこだわる心」があります.

もうひとつ,ABOFANさんが「霊魂」や「原発の安全性」の例であげたような問題について考えましょう.このABOFANさんの指摘はとても的確で,これからの性格心理学のひとつの方向性とも結びついています.

科学的には実在が確認できないものの実在や,科学的には立証できない仮説をわれわれが信じているときに,それを錯覚だけで片づけることは不十分です.多くの場合,そうした信念は,それを信じていることがわれわれにもたらすなんらかの利益,つまり「信念の機能」によって維持されています.

たとえば「幽霊」などの迷信は,死人が出たような場所や,暗くて危険な場所に近づかないように人を制御することで,危険を防ぐ機能を持っているかも知れません.「妖怪」でも,風呂を汚くしておくと出る「あかなめ」とか,ものを大切にしないと出る「もったいないお化け」とか,社会生活に適応的なある種の教訓と結びついて信じられています.「テレビを近くで見ると目が悪くなる」という迷信も,テレビの前に子どもがいると邪魔で大人が困る,という現実的な要請と結びついていたようです.

性格に関しても,性格やその一貫性が実在するかどうかはともかく,それらを信じることがどのような機能を持つのか,性格という概念が日常生活でどのように役立っているのか,ということを調べる必要があります.

まずは,性格概念が一定の文脈条件のもとでは実際の行動説明や予測に役立つ,ということは重要です.そこで,日常生活のどのような場面で,どのような条件の下で実際の行動説明,行動予測にどのように役立っているのかということを明らかにしなければならないでしょう.

残念ながら,こうした研究はまだ構想段階で,実際の成果でここに示して皆さんの興味を引くようなものはないと思いますが,こうした考え方は最近流行の「社会構成主義」に基づく科学方法論と非常に一致しますので,その流れで今後進んでいくと思います.私も個人的にはこれからそういう研究をやりたいと思っています.

こうしたアプローチの参考書としては

 ジェフ・クルター/西坂仰訳「心の社会的構成」新曜社

が参考になりますし,それに基づく性格心理学の提案としては,少し古く,かつ英語ですが

 Hampson,S.E. The Construction of Personality: An Introduction. 2nd Ed. Routledge,1988

があります.


3.「科学」と「産業」

この議論もまとめに近いということで,今まで言わなかったことについてちょっとだけ触れておきます.

>> それじゃあ「能見父子のお役に立ちたい」なんてのも難しいですね(かなり意地悪モ
>> ード).
>
>  渡邊さん以外の心理学者は黙ってしまいました。ただし、統計的検定はしていません
> (笑)。

こんなことをABOFANさんに言うのは申し訳ないのですが,心理学者が黙った,ということは能見父子のお役に立っているでしょうか? 私はそうは思いません.なぜなら,能見正比古さんはとにかく,二代目の方はもともと心理学者の反論など気にしていないと思うからです.

それは,いまの血液型性格学が「科学」として動いているか,「産業」として動いているかの違いです.

もし血液型が「科学」であるなら,その基盤は「その仮説が正しいこと」にあり,反論があることは重大だし,それに再反論できないなら,その科学的仮説としての命脈は尽きます.しかし,血液型が「産業」であるなら,その基盤はそれによる収益と,拡大再生産にあります.

二代目が心理学者の反論をとくに気にしないのは,心理学者の反論が正しかろうがどうだろうが,そもそも血液型性格学が科学的に正しかろうか正しくなかろうが,それは血液型本の売り上げなどに全く影響しないことを知っているからです.心理学者に再反論しなくても,血液型本は飛ぶように売れるし,マスコミでも取り上げられ,二代目の仕事も減ることはありません.科学的にどうだろうが,産業としては健全に推移しているのです.

だから,私が前に提案した「500万で血液型と性格の関係を証明する研究をする」という案,もしABOFANさんが二代目のところに持っていっても,出資は即座に拒否されるでしょう.そんなことしなくても収益にはなんの影響もないのだから.

産業としての血液型性格学にとってはそれが正しいか正しくないかよりも,それが収益をきちんと生み出すかどうか,その収益が今後も維持拡大できるかどうかが問題なので,心理学者の批判がそれにとくに影響しないなら(影響しないでしょう),無視していればいいことです.

ABOFANさんはそうではなく,血液型を科学と考えて活動しているから,このような心理学者との議論なんていう面倒なことに巻き込まれるわけですが,その総本山の方は,べつに血液型を科学だと思ってはいないのではないかな.もちろんお父さんの本には「血液型は科学だ」と書いてあると思うけど,二代目の今のやりかたは,それとは一致しないと思いますよ.

同じことは心理学の中にもあります.性格検査に代表されるような「テスト開発」と「臨床心理学」がそれです.

性格検査に対しては私をはじめ多くの学者が批判の論陣を張っていますし,まあ今までのような用法が今後は許されないという結論はかなり明らかです.それでも「テスト屋」と呼ばれるような人たちは,それに全く反論しようともしませんし,だからといって自分たちのやり方を変えようともしません.性格心理学者と称する心理学者のほとんどはそうした「テスト屋」です.だから性格心理学者はこの議論を読まないのです.

反論しないのは,その必要がないからです.性格検査の原理が科学的に批判,否定されようがどうしようが,性格検査は一般には人気があり,売れています.企業や学校,官公庁などでのテストの需要は一向に減りませんし,新しいテストを作れば必ず儲かります.テスト会社は儲かり,それに連なるテスト屋心理学者も儲かります.

性格検査は産業としてうまくいっており,それが科学的に正しいかどうかはそこでは重視されない,だからいくら批判されても気にしない,というわけです.

臨床心理学も同じです.行動療法などごく一部の例外をのぞいて,臨床心理学の技法の多くは科学的な根拠を持っていないし,そもそも反証不可能なものがほとんどです.また,心理療法などが実際に効果があるのかどうかさえも,まだ全く検証されていないといって良いでしょう.科学としては全くいいかげんなものですし,少なくとも心理学の「主流」と言えるようなものではありません.

でも,それが大学ではどんどん幅を利かせるようになって,臨床心理士認定協会は自分たちが認定した臨床心理士が教員の中に一定数いない大学の卒業生には資格を与えないという形で大学の人事にまで介入しています.それにどうして誰も文句を言えないのか.それは,臨床心理学が産業として有望であり,それに大学という「産業」が呼応しているからです.

少子化時代になってどの大学も受験者確保に躍起になっています.じゃあどういう学科専攻が受験生を集められるかというと最近は福祉はもう頭打ちで,有望な市場は「臨床心理学」「カウンセリング」に移っています.大学が生き残るためには学生を集められる学科が必要,それで臨床心理学科を作る,資格を取れなくちゃ受験生が来ないから認定協会のいうことを聞いて臨床心理士を教員に雇う,それで科学的には主流でない臨床心理学が,大学の心理学科では主流になる,というわけです(注2).

産業として機能しているものに,科学が科学の方法論で刃向かっていっても,空しいだけです.それどころか,性格検査への科学的批判に対して,「営業妨害で訴える」と脅したテスト会社(就職情報なども手広くやっている大企業.ワイロ問題で話題になった)すらあります.多分それが裁判になったなら,心理学者は負けるでしょう.営業妨害という概念自体が産業のもので,科学の方法論はそれに立ち向かえないからです.

多くの心理学者が血液型性格学との論争に興味を持たない理由の中には「血液型は科学というより産業である」ということもあるのかも知れません.収益の上がる産業であるものに対して,おまえの言っていることは科学的に間違っていると言っても,相手は何ら興味を示さないでしょう.

以上は私の個人的感想であって,これについてABOFANさんに議論を求めているわけではありません.念のため.


(注2)臨床心理学科  学生がやりたいという学科をどんどん作ってなにが悪い,心理学の方こそ社会の要請に応えるべきだ,ごもっともです.しかし現実に「臨床心理学科」で社会の要請に見合った教育が行なわれているかというと,全然そうではありません.受験生向けのパンフではいろいろ期待をかき立てておきながら,教育内容は結局従来の心理学科とほとんど変わらない.学問としてきちんとしていない「臨床心理学」は所詮きちんと教育できないからです.それで,非常に多くの学生たちはそこでの教育に失望します.これは私は見逃すことの出来ない詐欺行為だと思います.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その16)

> 独立変数「肝臓移植」の主効果が検出されるか,肝臓移植と環境変化に有意な交互作
> 用があれば,肝臓移植が性格を変えた,と言えるでしょう.

 性格が実在しないことを実証するよりは時間がかかると思うんですが…。短くとも50年ぐらいは(笑)。

1.ランダムサンプリング問題これで最後

> 独立変数がわからず,その影響が分析できないのなら,ランダムサンプリングしてもしな
> くても,やっぱり分析できないのじゃないですか?

 もちろん、そのとおりです(笑)。

> ランダムサンプリングしない方がいいという根拠がわかりません.

 どうしようかなと思ったのですが、名指して批判しないという方針を変更してちょっと書いておきます。(^^;;

 私の返事(その14)追記に書きましたが、完全にランダムサンプリングを行っているのは、私が知る限りJNNデータバンクのデータしかありません。しかし、このデータはA型−B型の差は出るのですが、O型−AB型の差が出ていないのです。実は、性別の分析もあるのです(公開されていないので結果は書きません)。他のデータはA型−B型よりもO型−AB型の方が差が出ているので、ランダムサンプリングも差が出ない原因の1つと推測できます。

 現実にこういうデータがあるのですから、ランダムサンプリングは本当にいいのかなぁと思います。

#学生のデータはちゃんと差が出ています。もちろん、ランダムサンプリングではありません。

> ランダムサンプリングされている方がいろいろな独立変数の,いろいろな影響が母集団
> と近い形で含まれているのだから,いろんな指標を仮説的にたくさん採っておいて一個
> ずつ潰していけば,有力な独立変数が見つかる可能性が大きいでしょう.

 確かに、理屈としてはそのとおりです。しかし、実際にやるとランダムサンプリングばっかり手間と費用がかかって、肝心の分析がおざなりになるような気がします。私だったら、経費や時間、得られる結果のバランスを考えてから方法を決めると思いますけど…。

 いずれにせよ、何が何でもランダムサンプリングというのは、私の趣味ではありません。(^^;;

> 「ランダムサンプリングはダメ」ということではなくて,「ランダムサンプリングしたら余計
> になにかがわかるわけではない」「ランダムサンプリングしても仮説が間違っていたら
> しようがない」という意味

 ほぼそのとおりです。ランダムサンプリングさえすればOKという調子なので…(以下自粛)。

> 血液型と性格関連でランダムサンプリングしている研究ってどれですか?

 上に書いたので省略します。(^^;;

2.「性格という錯覚」について

 社会心理学にそういう研究があるとは知りませんでした。教えていだだいてありがとうございました。

> 菊池聡・木下孝司編「不思議現象〜子どものこころと教育」北大路書房 の第3章「性格にこだわる心」があります.

 この本は手元にあるので読んでみました。でも、データがないんですよ。(^^;;

> 科学的には実在が確認できないものの実在や,科学的には立証できない仮説をわれわ
> れが信じているときに,それを錯覚だけで片づけることは不十分です.多くの場合,そうし
> た信念は,それを信じていることがわれわれにもたらすなんらかの利益,つまり「信念の
> 機能」によって維持されています.

 そうでしょうか? 例えば、ある人がある宗教を信じているのは「利益」よりは「信念」のためでしょう。その人に、「あなたは自分自身の利益のために宗教を信じているのですか?」といったら、カンカンになって怒るに決まっています。日本人は、冷静になって考えれば必ず負ける戦争を行いました。それは、「利益」のためなのでしょうか? どっかの国は、日本にミサイルを打ち込むというウワサがありますか、それは自国の「利益」のためなのでしょうか?

 私はそうは思いません。人間は必ずしも合理的な行動をするわけではありません。例えば、経済学では「人間は必ず経済合理的な行動をする」という前提がありますが、経済合理性に反する行動(衝動買いとか)をする人はいくらでもいます(例えば私…笑)。

 「性格の実在」についても、あまりにも合理的すぎる説明はどんなものなのかな、と思います。社会学的、あるいは生物学的に合理的なものなら、まだ納得できるのですが…。

3.「科学」と「産業」

 「議論を求めているわけではありません」とのことですが、ちょっとだけ。

 渡邊さん、本当にこんなことを書いてもいいのかな、というのが私の率直な感想です。となると、心理学会が血液型を認めない本当の理由は…(以下自粛)。

 能見正比古さんと俊賢さんを比較していますが、心理学者を相手にしないというスタンスでは基本的に一致しています。私は二人に会ったことがないので、あくまで著書を読んでの感想ですが…。儲ける儲けないの話も、基本的に差がないと思いますし…。

 「産業」だろうが「科学」だろうが、儲けようが儲けまいが、どっちでもいいじゃないですか。その人が儲けたいなら一生懸命やればいいし、学問をやりたいなら一生懸命やればいい。私だって、別に儲けようとしてHPを開設しているわけじゃありませんが(実際に儲かっていませんけど…笑)、バナー広告のお誘いは何回も来ています。試算すると、何もしなくとも月数千円ぐらいは儲かる計算になりますが、数千円のためにスポンサーに気を使うのはバカバカしいのでやっていません。しかし、月に何百万円も儲かるのだったら気が変わるでしょう(そんなことは絶対ないですが…笑)。もちろん、儲かればやりたいことができるからです。血液型のアンケートもいくらでもできるだろうなぁ。

 いずれにせよ、問題は内容なのではないのでしょうか?

 閑話休題。

 まとも答えても面白くないでしょうから、私の趣味で論語からの引用で代えたいと思います。(^^;;

 子曰く、疏食(そし)を飯(くら)い水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす。楽しみまたその中にあり。不義にして富み且(か)つ貴きは、われに於(お)いては浮雲(ふうん)の如(ごと)し。(述而第七163)

 子曰く、博(ひろ)く学びて篤(あつ)く志し、切(せつ)に問いて近く思う。仁(じん)その中(うち)に在(あ)り。(子張第十九477)

 子曰く、古(いにしえ)の学者は己(おのれ)のためにし、今の学者は人のためにす。(憲問第十四358)

 それと、心理学についてですが、

伝統主義という言葉はしばしば伝統を絶対化し、その「訓詁(くんこ)」に専念して現実の社会を見ないという意味にとられる。もちろんすべての学問にはこの弊(へい)に陥る危険があり、「マルクス訓詁学」まで存在するという。さらに、OECDの日本の社会学への批判を読むと、社会の現実に目をやらない「社会学訓詁学」もまた、日本には存在するらしい。

 以上は、山本七平さんの『論語の読み方』からの引用です。解説は不要でしょう…。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その10) H12.2.15 1:32

いつもながら丁寧なコメントありがとうございます。

> 別の名前でいいじゃん

それが「ブラックボックス」ですか?
別に、新たな誤解を招き易いしかもヨコモジまんまの名前をつけるくらいなら「意識」の考え方・捉え方の改訂という方が分かり易いと思うのですが、あのー、

> 私はそういうことはきらいですね

「きらい」って・・・。まいったなあ(笑)。
「暗箱ですらない」と言い、(素人との議論はしたくない、ということなので前便では触れませんでしたが)更に、

> 実際には「精神」の存在自体も仮定する必要ないです

とまで言っておいて、それでも「生体側」のナニカの存在に拘る、というのは大変興味深いことです。
わたしは、『「"ハード"の性質」と「"ソフト"の性質」は無関係だと渡邊さんは主張している』と主張しているのではありませんよ。『無関係という「立場」があり「得る」と考え、そういう「立場」に立っているということですよね』、と申しあげたのです。ですから実を言うと、「そういう"立場"があり得る、のではなく、そういう"立場"が"正しい"と言っておるのだ」と、原稿用紙32枚の解説をされちゃうかなー、と期待して(ビビッて?笑)いたのです。「そういうことでは無い」と、ここまでもつれるとは全く予想外でした。
「はい、そういうことです」、と答えちゃうと、「それなら訊きますけど」と絡み返されるナニかイヤなこと(すごーくマズイこと)があるのかなあ、なんてね。

> 少なくとも性格心理学における「一貫性の仮定」は否定したことになります

そうか、「同じ(ような)入力においては同じ(ような)出力がある」というのは結局「首尾一貫性」止まり(ってのもヘンな言い方ですが)なんですね。

> 私たちの生活にそれほど「ほとんど同じような入力というものはない事態」があるでしょうか.それは私は疑問だなあ.

うぅむ。これは、その前文の「あらためて「予測」などと構える必要が無い「同じ(ような)入力」の繰り返し」とセットで扱っていただきたかったのですけどね。つまり、殆どマニュアル化しているかのような対応の繰り返しか、"そうでなければ"全く新しい事態、ということになってしまいますね、という、いわゆる「マニュアル文化」のもとでは、「行動の予測」という発想はあまり"有効"じゃ無いのではないか、というようなことを言いたかったのでしたが、失敗したようです(笑)。
しかし、渡邊さんはなかなか面白い話しに展開しており、ん?確信誤読か?(笑)

> 本当に新奇で,過去の経験からまったくなんの情報も引き出せない状況におかれると,・・・行動自体が停止します.

言い切ってますが、そうかなあ。
「行動自体が停止」してしまうのは、学習によって「構造化」した知識も知恵も役に立たないときであって、「本当に新奇」の状況に遭遇したときって、むしろ行動(えーっと、"意識"も含みます・笑)がより活性化されません?少なくともわたしはそうでし"た"(実績であることを強調・マジ)。
ま、それはそれとして。
以後の議論で、きっちり「新しいバラダイム」におけるディシプリンを語られてしまいましたね。そろそろ収束モードですのでいいでしょう(笑)。
と言いつつも。
スキナーの「カミカゼ特攻ハト」の話し、ビックリしました。
あ、想像した理由と違います(^^。たぶん。
何故「ハト」か、というあたりです。
以前、ひょんなことで、最近の行動分析学関連の論文のタイトルと一行解説の表を見る機会があったのですが、その中に「ハトの群行動の解析」みたいな論文があって(その寸評が「ハトと人とは違うかんね」的ニュアンスでこいつら◯◯でないのかと思ってしまったことはおいといて)、わたしは、ハトを選んだ理由は、てっきり「血の濃さ」による均質性を意識してのことだと思っていたのですが、それって、ひょっとすると単にスキナーの真似シンボってことだったのでしょうか。
レース鳩って、親子兄妹姉弟とぎちぎちの近親相姦を重ねて「レース性能」を追究するんです(ご存知でした?)。ですから、行動分析学の「サンプル」としてそれ"で"いいのか、それ"が"いいのか、ずいぶん奇異な印象をうけたのを憶えています。

わたしもそろそろ「まとめ」を意識(笑)して書くことにします。

1.人の「理解」について

"他者"理解とか"自己"理解とか、取り敢えず議論が"拡散"しないように、知ったような顔して言ってましたが、わたしとしてはその「理解」について拘りと言うか疑問があるのです。
わたしは、基本的に、人が人を「理解」する・できる、ことは無いと思っています。もう少し穏やかにいえば、理解できると思ってはいけない、理解する・される、し得る・され得ることを期待すべきではない、という立場です。
では、対人関係の基礎、信頼上の期待・目的、といったことはどのあたりに設定すべきか、と言いますと、「確認」だと(とりあえずは)考えています。(あくまで実生活上でのことですが)他人の行動の「予測」が"できる"ことになんの意味もありません。先の行動が問題なら、確かめれば良いのです(確認が困難な相手は予測のための知識を得ることは更に困難、な筈)。確認した筈なのに「裏切られ」たら、その「裏切り行為」を判断・評価して次の確認の「糧」にすれば良いだけのことです。
さて、例えば同居が長い相手とは、確認しなくても合意が見込め、実際に合意できてしまう事項が増えて行くわけですが、そうした確認不要事項が多いほど「理解が深い」と言えるか、というととてもそういうこととは思えません。近年噂に聞く、妻の側からの申し立てによる熟年離婚の原因は、そうした「誤解」が産むもののように思います。

仮に、本当に仮に、「行動の予測」ができたとしても、それをもって「理解」できたと考えるのは間違いだと思います。いわゆる血液型性格診断で、血液型が判ればその人を「理解」できる、というのと同じくらい危険な発想です。

これまで言わなかった(論点にしなかった)のは、どだい「行動の予測」なんかできるわけないじゃん、と思っていたからですが、単純にそういう意味だけではありません。
"開発"というスタンス込みでのモノ作りを生業としていますと、「自分ではできないという理由で、他人に、そんなこと不可能だと言ってはいけない」という"格言"が結構身に沁みるのです(笑)。上司・先輩に教えられ、そしてそういう立場になると特にそう思います。そういうわけで、わたしの、できるわけないじゃん、を理由に渡邊さん(達)の目標を否定したり、否定を論点としたくなかったのです。
ということで、「できるわけないじゃん」という思いと「達成に向かって頑張って下さい」というエールを、皮肉も矛盾もないレベルで受け取って頂けると期待します。

2."他者"理解と"自己"理解

渡邊さんの議論で、おおっ、それは受け取り方がずいぶん違うなあと思ったのは、「ABOFANへの手紙(4)」の2.「遺伝と環境の相互作用」について、で言及していたタモサとレトシの例についての結論です。
つまり、遺伝的・生得的に決まっている要素だけでは何もわからない、というヤツです。
しかし、「"自己"理解」を主眼とする立場では、カバであるわたしは、元をたどれば水辺に生をうけたタモサなのだということが判ったら、これはもうチョー嬉しいですけどねえ。草地で育った雌牛に同じタモサとして道ならぬ恋心を抱いてしまうに違いありません(割とマジ。笑とは入れない)。
渡邊さんの論調では、自分がタモサかレトシかに全く興味が無いように感じられましたが、案外そのへんのメンタティ(って言葉は行動分析学的には無しか・笑)は血液型性格関連説に対する姿勢と相関がありそうかなあ、なんてね。

3.収束への準備

つまみ食い的に「揚げ足取り」してるように思われると一方的に切られてしまうおそれもあります(実は、前便はそういう意味での危惧がありました・笑。失礼しました)ので、渡邊さん(達)の主張を、この程度には理解しました、と、excuse的に述べておきます。

渡邊さん(達)は、
(1)一個人の精神活動において何らかの一貫性が(は?)あるとしても、行動上の一貫性として認められるものはない。
(2)その根拠は、「一貫性」を前提とした、性格検査・質問紙によって得られる結果からは、それに基づく行動の予測が全くあてにならないことによる。
(3)これは、性格検査・質問紙の技術的不備ということではなく、行動上の一貫性という前提が間違っているのである。
(4)また、行動の予測という観点からは、行動上の一貫性を設定しなくても可能であり、そのことからも、行動上の一貫性という考えは間違っている。
(5)心理学の目的(の一つ?)が行動の予測ならば、行動上の一貫性のみならず、何らかの一貫性があると考えられている「精神(活動)」という概念も必要ない。

わたしの興味が中心なので、
(6)性格とは行動のパターンである
(7)行動の予測とは、環境という入力による出力としての意識や行動を予測するということである
といった"重要事項"が抜けていたりするのは"愛嬌"というものです。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その17) H12.2.15 12:03

ABOFANへの手紙(17)


ランダムサンプリング問題は終結ですね.あれをやたらしつこくやったのは,ABOFANさんにちゃんと理解してもらいたいというのももちろんですが,心理学者にもちゃんと理解してもらいたかったからです.心理学者はみんな統計を道具としては使うけど,その原理や条件には無頓着,というのは前にも言ったとおりで,その辺もきちんとしておきたかったからです.

心理学者でランダムサンプリング論議を「自分は知ってることだから」と飛ばし読みした方,もういちどきちんと読んでみてください.今まで考えたことなかったことが,きっと書いてあると思いますよ.

>  確かに、理屈としてはそのとおりです。しかし、実際にやるとランダムサンプリング
> ばっかり手間と費用がかかって、肝心の分析がおざなりになるような気がします。私だ
> ったら、経費や時間、得られる結果のバランスを考えてから方法を決めると思いますけ
> ど…。

まさに私は理屈の話だけをしたのですけど,ABOFANさんの意見ももっとも.ただ,科学では「原理」と「実際」はきちんと分けて論じないとダメですよね.

まあ,ランダムサンプリングやっても肝心の分析がおざなりにならないで済むくらいの時間と金を心理学者によこせ,ってことですけどね.


1.科学的に実証されないものを信じることの機能について

>  そうでしょうか? 例えば、ある人がある宗教を信じているのは「利益」よりは「信
> 念」のためでしょう。その人に、「あなたは自分自身の利益のために宗教を信じている
> のですか?」といったら、カンカンになって怒るに決まっています。日本人は、冷静に
> なって考えれば必ず負ける戦争を行いました。それは、「利益」のためなのでしょうか
> ? どっかの国は、日本にミサイルを打ち込むというウワサがありますか、それは自国
> の「利益」のためなのでしょうか?
>
> 私はそうは思いません。人間は必ずしも合理的な行動をするわけではありません。例え
> ば、経済学では「人間は必ず経済合理的な行動をする」という前提がありますが、経済
> 合理性に反する行動(衝動買いとか)をする人はいくらでもいます(例えば私…
> 笑)。

この問いはふたつの問題を含んでいるので,それぞれについて私の意見を述べます.

まず機能としての「利益」は本人が意識できるものであっても,意識できないものであってもよいこと.本人が利益を自覚できなくても,実際には利益が生じており,それが行動に影響していることはいくらでもあります(環境は意識を経由しないで行動に影響することもできる,ということ).

前にも言ったように私はクリスチャンですが,私が神を信じることの実際的メリットは意識できるものだけでもたくさん挙げることはできますし,意識していない部分でもたくさんあるでしょう(ただし具体的な内容については個人的なことなので述べない,笑).

もうひとつ「合理的」ということの意味ですが,たとえば衝動買いは個人的には「非合理的」ですが,売る側にとってはそうではありません.マーケティングでは「不要なものをいかに買わせるか」という目標でいろいろな施策を練っているわけで,「衝動買いを引き出す売り方」などがかなりきちんと理論化されてると思います.そこでは衝動買いも「経済合理的」な行動のひとつでしょう.

「太平洋戦争」などでも,「勝てる見込みでやったが負けた」場合は,見込みは不合理だったわけですが,その見込みに乗って戦争すること自体は合理的です.軍部にはそれによって経済封鎖を解くとか,そういう見込みもあったわけで「初戦勝利講和論」などは実に合理的でした.「某国のミサイル」問題でも,実際に撃つかどうかはともかく,撃つぞ,撃つぞ,といってることの利益はあるでしょう.

合理と不合理というのは,多くの場合混合していたり,表裏一体であったりするものだと思います.

もちろん,私だって世界の全てが合理的に説明できるなんて思ってません.でも,科学というものはもっぱら合理的に説明できるものに対して,あるいは合理的に説明できると期待されるものに対して適用される方法なんじゃないでしょうか.ここではあくまでも科学についての議論をしているわけで.


2.「科学と産業」問題

これについては議論はしないんだって(笑).

>  いずれにせよ、問題は内容なのではないのでしょうか?

いやいや,産業にとっては内容さえも問題じゃないわけですよ.

いずれにしても,産業であるものに対して「正しい,正しくない」の議論をすることは無意味です.血液型でも,もし血液型性格判断が産業であるなら,心理学者が科学の論理でそれにあれこれケチを付けることには,なんの意味もないと思います.

産業に対しては,それが売っているものよりもより魅力的な「商品」を提示して,売り上げを奪う以外の戦い方はありません.だから,心理学者も血液型にケチを付けるのじゃなくて,人の性格に関する,血液型よりもっと魅力的で役に立つ枠組みを提供して,その売り上げを伸ばしていくのが唯一の戦略だと思っています.

性格検査でも,臨床心理学でもそうね.批判するのではなくて,同じ目的を満たす,より優れた方法を提案して駆逐していくしかないのです.そういう点でわれわれはまだよい武器を持っていないのは確かですね.

私が血液型に関して「データの議論」に興味を持たないのは,そういう理由もあります.

>  子曰く、古(いにしえ)の学者は己(おのれ)のためにし、今の学者は人のためにす
> 。(憲問第十四358)

どひゃー,いじわる.でも論語時代からそうなんだから,かなり昔から学者はそうなわけですね(笑).

ただ本音を言うなら,今の学者だってほんとは己のためにやってるんですよ.ただ,それを他人や,時には自分に対しても「人のためにやってる」っていう言い訳をするのね.まあ,今の世の中「他人の役に立たなくてもいいんだ」と声高に主張するためにはかなり勇気がいりますから.

たとえば,私は個人的には大学というのは「今の世の中にはほとんど何の役にも立たないようなことをあえて国の金でやらせて,その中から万に一つでも出てくる新しいものに将来の国を託すためのシステム」と考えていますが,今の国立大学をめぐる情勢の中でそんなこと,誰も言えないでしょう.こんなことでは長期的には国は滅びると思いますが,いまは国も,もちろん大学も「産業」だから,そんなこと言ってられないわけです.

私みたいに将来のビジョンばかり述べるようなことも,今の大学ではかなり風当たり強いですよ.それこそ「データに基づいた実証的で,すぐに社会還元できる研究」をやれといわれる.性格検査でも作ってる方が大学でも評価されるということです.そのうち大変なことになるぞ!(恨みモード).


3.最大素数さんへ...「理解」の問題

まずは細かいことから.

> それが「ブラックボックス」ですか?別に、新たな誤解を招き易いしかもヨコモジまん
> まの名前をつけるくらいなら「意識」の考え方・捉え方の改訂という方が分かり易いと
> 思うのですが、あのー、

別に「ブラックボックス」という名称を提唱してる訳じゃありませんよ(笑).なんでもいいけど「意識」と呼ぶのは良くないといってるだけ.

私は「意識」という言葉を使うときには,われわれが「ディスプレイ上に見ている」ことを,あくまでも大事にしたいのですよ.そのことはあとでもうちょっと詳しく触れます.

それから,心理学者(および心理学者的な素人,笑)は「内的な何かを仮定する」というとすぐにそれと「意識」を結びつけようとするんだけど,たとえば私が「内的」と考えているのは「状況に対応して行動を決定するシステム」であって,意識とはまったく別なものです.私が行動の様態(スキナーは行動のトポロジーといった言葉を使います,カッコイイ)は環境の関数であると考えながら,内的なものの存在にはあくまでもこだわるのは,それを意識と混同して欲しくないからです.

さて,そこで本題ですが,これは引用しながら答える,ではない方式で言わせてください.

「理解」ということに関して.私は何らかの事象に対する「科学的な理解」とは,その事象を客観的に説明でき,予測でき,制御できることだと思います.その意味で,人間の行動を「科学的に理解」するときには,それをできる限り客観的で反証可能な指標をもとに説明し,行動を確率論的に予測し,制御できれば「人間行動を理解した」ということになると思っています.

そして,そうした意味での「人間理解」のための,最も優れたアプローチが行動主義/行動分析学だと思っています.なぜなら,メンタリズムの立場をとる他の心理学的アプローチは行動を客観的に説明も,予測も,制御もできないから.

しかし,だからといって心理学がすべて科学でなくてはならない,と考えているわけではありません.心理学が対象とする問題の中で,科学的な理解が不可能な問題,あるいは科学的な理解になじまない,科学的な理解があまり役に立たない問題については,科学以外の方法による理解を追究すべきだと思います.これ,驚いた?(笑).

意識の問題はその典型的なものだと思うのです.意識は,それ自体が他者によって経験されたり,経験を共有することが絶対に不可能なものですから,反証可能性のないものです(その点ではディスプレイの表示とは似て非なるものです).それは科学の対象になりません(注1).しかし,デカルトの言うように,われわれひとりひとりは絶対に確かな経験として意識を持っているわけです.意識は確実に実在しますが,科学では絶対直接捉えることができないものです.

そうした場合にわれわれが持っている方法は「了解的な理解」です.了解とは,ほんらい個人に絶対的に独自なもので,他者がともに体験することが不可能なことについて,人と人との共感的理解にもとづいて分析することです.精神分析学やカウンセリングは今でこそ科学ふうの外見をまといたがりますが,根本的にはこうした了解的な理解を基盤に持っており,それが「こころ」を理解する上での「有効性」につながっている.

意識の内容やその構造に関すること,それから最大素数さんも挙げられていた「自己理解」みたいなことは,そもそも了解的な方法によってしか他者からはアクセスできないものです.それを客観的に観察できるもの,最低でも客観的に観察できるものにきちんと置き換え(操作的定義)のできるもののための方法である「科学」で無理矢理分析しようとするのはナンセンスです(注2).

そういう意味で,心理学はこれからは「行動」と「環境」という客観的に観察可能なもの同士の関係を基礎に人間を「科学的に理解」しようとする行動主義/行動分析学と,科学的に分析できない「意識」や「こころ」を了解的に理解するもの(本来の心理学?)とにはっきり別れて行くべきではないかと思います.

もちろん,「意識」や「こころ」を質問紙みたいなもので乱暴にデータにして,それを手続きだけは科学的に扱って勝手なことをいろいろ言うような心理学,いわゆる「こころの科学」(笑)みたいなものは,その存在自体が論理矛盾ですから消えて行くべきです.認知心理学とか今流行っている心理学に私が批判的なのは,そういう理由.もっとはっきり言えば,性格検査とか質問紙とか実験的手法で「こころを分析する」とかいう「現代心理学の主流」そのものが,20世紀の負の遺産です.

どうです,すっきりしましたか?(笑).行動主義者はそこまでちゃんと考えているのです.


(注1)意識は観察不能  ただし「意識の言語報告」は客観的に観察可能な「行動」です.したがって「感情」そのものについては科学は分析できないけれど,「おれは怒っているぞ!」という発言については分析できます.ただし,意識の言語報告と意識との関係は検証不能です(注2も見よ).スキナーが「意識」ではなく「意識の言語報告」だけを研究対象にすると言ったのはそういう意味です.

(注2)意識の操作的定義  今の「科学的心理学」では,「意識やこころ」をそれと対応する「行動」(多くは意識の言語報告)に置き換えて測定し,それをもとに分析するという「操作的定義」を基盤にしています.質問紙もそうした方法の一つですが,そこでは「意識」と「行動」との対応,つまり測定法の妥当性が根本的に保証され得ません.つまり,行動から意識がわかるという保証がないし,どういう行動がどういう意識と結びついているかを証明する方法がないということ(注1も見よ,笑).

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の偉電子さんからのメール H12.2.15 17:47

【筆者注】このメールは、本人から渡邊さんを通じて掲載の依頼を受けたものです。

こんにちは。偉電子ともうします。外は珍しく吹雪いてます。

渡辺先生がお二人を相手に論争されている様子を拝見しておりました。いつか論争に関する話をメールできれば良いと思ってましたが、終息しそうとのことなのであわててメールします。登場人物のお三方に対してそれぞれ1つずつ、コメントさせてもらいました。簡単な事実に関することばかりですので、無視されても構いません。

>読者からのメール H12.1.26 1:09の中の「性格心理学に対する疑義を巡って」

>    それと、やはり、「クレッチマー説」についての決着(オトシマエ)はきちん
>とつけて欲しいですねえ。渡邊さんにとってはスカみたいなテーマで鬱陶しいだけで
>しょうからこれについての議論はのぞみません。否定的な傾向が強まっているようで
>すので、とりあえず、「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っ
>ているのか」を「体格と性格は関係ないのになぜ性格心理学の専門家が関係あると思
>っていたのか」に変更して「心理学会」で見解を確定させていただきたいという希望
>を述べておくことにします。

 この件については、渡辺先生が指摘されているように、基本的には精神医学の問題であると認識する必要があるでしょう。その精神医学には国家試験があり、厚生省による「出題基準」があります。藤井(1992)によれば、平成5年版の基準から「性格と体型」という項目が消えたということです。詳しくは文献を参照してほしいのですが、ドイツでは「性格と体型」に関する追試研究(1966)が行われ、その関係は否定されたそうです。問題はこのようなことを心理学者が承知しているかどうかでしょう。私自身としては、今の心理学のテキストに載っている「性格と体型」説は、性格に関する考え方の歴史という側面が強い(思考の考古学(アルケオロジー))と考えています。
 なお、このメールが指摘している「血液型だけ批判するな。クレッチマーの体型と性格理論も批判しろ」という論理は非常に興味深いものです。というのも、これと同じことを昭和期に血液型気質相関説を唱えた古川竹二先生もおっしゃっていたからです。今、資料をきっちり探す余裕がないのですが、たとえば、古川(1938)は、反論者に対し自説に対する論法を「クレチュメル氏の気質表や(略)、試みてみられたい」と気色ばんでみせています。

藤井薫  1992 教科書記載のある神話からの解放 精神医学
古川竹二 1938 血液型と気質の問題 日本医事新報 849、4279-4281。

>渡辺先生のメール(その6) H12.1.26 14:03
>血液型についても心理学業界では一応「昭和15年頃に決着済み」というのが公式見
>解なのですが,その時はきちんと心理学的な議論で決着を付けずに,血液学者や生理
>学者の応援や,東京帝国大学の権威などを利用してうやむやにしてしまった経緯があ
>ります.だからこうやって復活してきても効果的に戦えない.

については、年代に関する事実関係について僭越ながら指摘します。『通史 日本の心理学』はこの議論について「この学説の盛衰はきわめてオーソドックスな学問的論争の形態をとって」いると評価したうえで、1933(昭和8)年の日本法医学会第18次総会が「まさしく血液型気質相関説が公の場で審判を受ける機会であった」としています。さらに、この年には20本ほどの否定的な結果を載せた論文が公刊されていることも指摘します。つまり、このようないくつかの動きの中で血液型気質相関説は否定されたと見ることができるでしょう。「この説は全くダメ」のような形での否定というのは学問の世界ではそれほど行われるわけではなく、一連の動向によって多くの人々が同じ考えをもてば良いということになるのではないでしょうか。

>ABOFANさんの返事(その15)追記2

>性格が実在するのは「錯覚」であるということですよね。それなら、クレッチマー
>説ではないですが、「性格は実在しないのになぜ多くの人(心理学者も?)は実在す
>ると思っているのか」という分析をした論文はないのでしょうか?

これに対する答えのひとつは既に渡辺先生が出しているように「帰属の錯誤」などの対人認知メカニズムに求められるでしょう。もう1つ違う角度からの答えがあるとすれば、「人の個性について考えざるを得なくなるような社会になった」ということがあげられると思います。人間に個人差があることは、今も昔も変わらないはずです。実際、古代ギリシア時代にもテオフラストスの「人さまざま」などの著作があります(これは岩波文庫に入れられているのでどこかで読めるはず)。しかし、この時には、心理学という学問も発展しませんでしたし、性格検査もモチロン発展しませんでした。心理学という学問自体、19世紀半ばに成立した新しい学問です。では、なぜ、この時期なのでしょうか?佐藤(1997)は、近代というシステムが個人の進路選択の自由を確立した結果、個人の進路の指針、また、採用者側の指針として「性格」や「知能」といった概念装置を必要とした可能性を指摘しています(概念装置だけでなく、測定装置も)。

佐藤達哉 1997 なぜ性格を測るのか 朝日新聞社 「多重人格とは何か」 に所収。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その17)

> ランダムサンプリング問題は終結ですね.あれをやたらしつこくやったのは,ABOFA
> Nさんにちゃんと理解してもらいたいというのももちろんですが,心理学者にもちゃんと
> 理解してもらいたかったからです.

 私は、初めからちゃんと理解していますよ(笑)。

#ランダムサンプリング問題が心理学者向けのメッセージとは全く思っていませんでしたけど。

 実は、心理学者はランダムサンプリングをしていない、というのは元々は私の言葉ではありません(意図して書かなかったわけではありませんが)。元はと言えば、「血液型と性格」の論文で初めてランダムサンプリングをした人の言葉なのです。私は、ただそれを受け売りしていただけで…(苦笑)。

 しかし、この人の「ランダムサンプリング」の分析は明らかに論理的に矛盾しているし、その手法も多くの問題を含んでいます。だから、心理学的にランダムサンプリングをするというのは、そんなものかなぁと(私は)思っていたのですが…。そういう意味では、渡邊さんと私の意見はめでたく一致したわけです。(^^)

 となると、この人は意図的にそういう分析をした、としか考えようがありません。実に困ったものです!

1.科学的に実証されないものを信じることの機能について

 う〜ん、なんか言っている意味が違うと思います。

 まず、「科学的に実証されないものを信じる」だけでなく、「科学的に実証されたものを信じる」のにも合理的な説明はできないではないでしょうか? 「あなたはなぜ科学が正しいと信じるのですか」と質問されれば、普通の人は答えに窮するでしょう。それは、パラダイムの議論で渡邊さん自身が主張していたはずです。

 昔のことなので正確には覚えていませんが、「科学で説明できないことがある。それは科学への情熱である。」という言葉が妙に耳に残っています。

#もちろん、後付けで「合理的」な説明を付けることはいくらでもできます。
#しかし、それは本当の理由ではないでしょう…。

 また、「衝動買い」は買わせる方には合理的でも、買う方にとっては明らかに非合理的な行動です。自分で非合理的だと思って行動するなら(普通はそうですが)、どう考えても(いや、考えなくとも)非合理的な行動としか言いようがありません…。普通の人が衝動買いをするのは、ストレス解消のためか、あるいはその時に買い得だと思った場合でしょう。後者はともかく、前者は心理学でもないと説明できません(笑)。

> 「太平洋戦争」などでも,「勝てる見込みでやったが負けた」場合は,

 初めからどう計算しても負ける見込みだったのですから、不合理と言うしかありません。「負ける」という結果が出ると目的合理性がなくなるので、「勝てる」と無理に事実をねじ曲げたわけです。繰り返しますが、見込みが違ったのではありません。こういう場合も「合理的」と言うなら言葉の定義の問題でしょう。いや、社会心理学の問題と言うべきか…。

 おっと、血液型と話題がずれてしまったのでこのへんで…。

2.「科学と産業」問題

> これについては議論はしないんだって(笑).

 そうですね。ということで、これ以上は何も書きません(笑)。

3.偉電子さんからのメールについて

 メールをありがとうございます。心理学者からのメールも大歓迎です。(^^)

3.1 クレッチマーの問題

 1966年にドイツで否定された説が現在の日本で正しい(?)とされているのですから、1968年にミシェルによって否定された「性格の一貫性」が日本で正しい(?)とされていても別に不思議ではないのでしょうか?

3.2 古川説の問題

 事実関係の確認はしていませんが、もし日本法医学会で否定されたというのが本当なら、渡邊さん(松田薫さん、竹内久美子さん、能見さん…)の言うとおりということになるでしょう。というのは、亡くなった人を非難するのは申し訳ないのですが、当時の日本法医学会の中心は古畑種基さん(AB型)だからです。少々長いのですが、血液型と性格のタブーから抜粋しておきます。

なぜ古川説は消えたのか?

 血液型と性格に関係があるという説は、昭和初期の教育学者古川竹二さんによって提唱された説です。一時は軍部にまで研究される有力な説だったのですが、結局学会で支持を得られず消え去っていきます。この経過については、松田薫さんの『改訂第二版「血液型と性格」の社会史』に詳しく書かれています。非常に詳しく書いてありますので、興味がある方は読んでみるといいでしょう。

 では、なぜ古川説は敗北したのでしょうか? 竹内久美子(A型)さんは、その著書の『小さな悪魔の背中の窪み』の中で、心理学者の戦前の派閥争いが原因ではないか?と書いています。詳しい経緯はこれらの本を読んでもらうことにして、とにかく当時の血液型の権威であった東大医学部教授の故・古畑種基さんが反対したことが一番大きな原因であることは確かなようです。この古畑さんは、AB型の遺伝で世界的にも画期的な研究成果を上げています。

 しかし、亡くなった方を批判するのは大変心苦しいのですが、この人は毀誉褒貶の激しい人のようです。井沢元彦さん(B型)の『逆説の日本史1』の43ページにはこんな記述もあります。

 一つは、法医学の権威で、東大名誉教授をはじめとする数々の肩書きを持つ古畑種基博士(故人)のことである。
 私もこの人の本で法医学を勉強したのだが、最近になって、この古畑博士がかつて行った、弘前事件、松山事件、財田川事件などについて、この血痕鑑定が、すべて間違っていた、ということが明らかになったのである。
 これは事実だ。いずれも公式に再審鑑定が行われ、古畑鑑定はすべてをくつがえされている。ところが、これらのケースは素人の私が見ても、「どうしてこんな明白なミスが今までわからなかったのだろう」という気がするのである。
 この件についても、事情通は言う。
 「これも博士が生きているうちは言いにくかったのでしょう。医学界では先輩や恩師の説を批判することはできませんからね」

 血痕鑑定が間違った話は、松田薫さんの『改訂第二版「血液型と性格」の社会史』にも書かれています。ウラを取ってないので判断はできませんが、もし上の記述が正しいとすると、能見さんの最初の著書である『血液型と相性』が昭和46年に出版されたのは偶然ではありません。この時期は、古畑さんの影響はほとんどなくなった時期に一致するからです。

 能見さんの著書が発表されてから後の展開は皆さんご存じのとおりですね!

 古川説の当時はカイ自乗検定なんていう便利な統計手法はありませんでした。その他の学問水準も現在よりは低かったので、当時はちゃんとした差が出なかったのは無理もないのです(現在でも確定的な結論が出ていないのですから…)。

 当時のデータをもう一度カイ自乗検定で分析してみると、ちゃんと差があることが実証できます。つまり、古川説は必ずしも間違ってわけではなかかったのです。ただ、性格分類が単純すぎるというような種々の問題点があることは事実です。

 不思議なのは、反対論者が「古川説は戦前に否定されたから間違いだ」とよくいうことです。戦前は学問の水準が低かったのですから、そのときに検出されなかった性格の差が再分析の結果検出されても全然不思議ではありません。戦前の定説がひっくり帰るなんてことは、私が指摘するまでもなくどの学界にもゴロゴロしているでしょう。だから、古川説を否定するのだったら「現在の手法で分析しても否定されている」というべきでしょう。しかし、反対論者でこういっている人はほとんどいません。不思議なことに…。 -- H10.1.19

 また、普通は法医学では性格については扱わないでしょう。試しに、手元の法医学の専門書に当たってみましたが、「血液型と性格」については何の記述もありませんでした。となると、当時の心理学会では特に問題にならなかったということなのでしょうか? ますます不思議です。(@_@)

 ところで、現在の日本法医学会で「血液型と性格」についての論文はあるのでしょうか? 私は寡聞にして知りませんが…。

3.3 性格の実在について

 私が言っているのはそういう意味ではありません。まず、実際に性格が実在しないというデータが必要です。次に、なぜそういう錯覚が生じるのかというデータが必要です。どちらか一方でなく、この2つが一致しないと証明できたとは言えないと思います。ちなみに、これは多くの心理学者が「血液型と性格」について主張していることと同じです。

 う〜ん、なかなかまとめに入れませんね。(^^;;

 時間がなくなってしまったので、続きは明日ということで…。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その11) H12.2.16 3:58

1.渡邊さんへ

> なんでもいいけど「意識」と呼ぶのは良くないといってるだけ.

なんだ、「名前は、まだ無い」ってことなのですね。
「素人相手の説明はもう疲れたのでブラックボックスとだけ言って済ますつもりでいたけど、それを私達は◯◯と呼んでいます」とでもいった答えを期待しての絡みだったのですが肩すかしをくらってしまったようです(笑)。
ついでにお教えしておきますが「状況に対応して行動を決定するシステム」というと、わたしらの業界で「推論マシン」と既に"名付け"られているものと似たもののような気がしますので、名前が必要になったときはご注意下さい。あ、勿論「推論マシン」は「意識」とは全然別のモノです(笑)。

> どうです,すっきりしましたか?(笑).

これは、多分大変申し訳ないことをしてしまったのかもしれません。
「(「理解」について)拘りと言うか疑問がある」と言いましたが、「(早い内に)解決したい」という意図は全くないのです。その道のプロではないので、未解決の疑問のままでもなんらこまることはありませんし、なにより、そういう疑問を(いくつも抱えて)折にふれ、自分の中で転がすのが好きなだけです。
特に、配偶者として同居する他人が居るようになってからは、「予測」が当たるにつけ外れるにつけ「オレはこいつを"理解"しているのか、できていないのか」的に"迷う"のが結構気に入ってたりしてるわけです。

> 私は何らかの事象に対する「科学的な理解」とは,その事象を客観的に説明でき,予測でき,制御できることだと思います

具体的にモノを作る稼業に従事しておりますので「何らかの事象」が、「事象を実現している(させている)モノ」の場合は、理解とは「客観的に説明でき,予測でき,制御できること」でなんの不都合も疑問も無いことは充分に承知しています。わたしのこだわりは、そうした実感を踏まえて「人間は機械じゃねーかんなぁ」というあたりが発端なのです。別な言い方をすると、機械が「進化」したら「人間」になるのか、というあたりでしょうか。
ただし、人間を「機械」的に見るというコンセプトはアリだと思いますから、そういう意味も含めての「達成に向かって頑張って下さい、というエール」とご理解下さい。あくまでも勝手に「含めて」るだけで、渡邊さん(達)の仕事が、人間=機械論ではないことは理解していますよ(笑)。
さて、

> しかし,だからといって心理学がすべて科学でなくてはならない,・・・科学以外の方法による理解を追究すべきだと思います
> これ,驚いた?(笑).

ここまできての発言としては「驚いた」(笑)
「理解」とか「追究」という概念自体が科学の範疇だと「理解」しているので、非科学的な理解・追究、って形容矛盾だと思うのですが、そういう言い方をする人、結構居ますから、そう言う意味ではあんまり驚きはしませんが(笑)。

> 行動主義/行動分析学と,科学的に分析できない「意識」や「こころ」を了解的に理解するもの(本来の心理学?)とにはっきり別れて行くべきではないかと思います.

当初のパラダイム変換論から後退してません?(笑)
部外者しろーとの知ったことではありませんけど。

ともあれ、「そこまでちゃんと考えている」という「行動主義者」の見解は、先に述べたわたしのコロガシネタの一つとして大事にさせて頂きます。マジメな話しですよ。

そういうわけで(どういうわけだ?)、少なくともゴールを目指した議論をするつもりではないのですが、前便でのこの件に関しての種明かしを一つしておきます。

> 本当に新奇で,過去の経験からまったくなんの情報も引き出せない状況におかれると,・・・行動自体が停止します.

について、そんなことないです、と異議を唱えたのは、「行動の予測」なんつってて、いきなりダメじゃん、と、とりあえずささやかに(笑)言ってみたのでしたが無視、こっちの方がよっぽど「すっきり」しません(笑)。でも、既に「ま、それはそれとして。」として、こちらがうち切っていることでもありますから、これまでとします。

2.偉電子さんへ

読んで下さった上にコメントまでつけて頂いてありがとうございます。
偉電子さんが、ここで述べておられることに関しましては、「H12.1.29 23:22」付けのわたしのメールが、既に回答になっていると思います。
このページのトップの[最初から読む]から過去ログのページへ行けますので、興味がありましたらご参照下さい。
そして、そのコメントがいただけると、本当に、大変嬉しいです。

なにとぞ宜しくお願い致します。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その18) H12.2.16 12:14

ABOFANへの手紙(18)



皆さん議論をまだ終わりにしたくないようですね(笑).ただ,前にした話を蒸し返すようなことはあまり意味がないと思うので,必要な追加解説を加える程度にしておきたいと思います.


1.性格がないという証明,について

>  私が言っているのはそういう意味ではありません。まず、実際に性格が実在しないと
> いうデータが必要です。次に、なぜそういう錯覚が生じるのかというデータが
> 必要です。どちらか一方でなく、この2つが一致しないと証明できたとは言えないと思
> います。ちなみに、これは多くの心理学者が「血液型と性格」について主張し
> ていることと同じです。

この件については「立証責任」のところで詳しく論じました.たしかにあの時もABOFANさんは納得してなかったと思いますが,あれもランダムサンプリングの話と同じで,科学的仮説検証の「理屈」としては私が正しかったのです.

ただし,科学的仮説検証の手続きとして正しい,ということと「素人を納得させる手続き」として有効だ,ということは別です.ABOFANさんが引っかかっているのもそこじゃないかな.

前に述べたことですが,少なくとも科学的仮説検証の手続きにおいては「ある(実在する)」ことの検証手続きだけが規定されていて,それを満たさないときには「ない(実在しない)」ことになります.「ある」と言えなければ「ない」,「ない」と言うためには「あると言えない」ことだけを示せばよい,これは覚えてますよね.

かつ,立証責任は「ある(実在する)」と主張する側だけにあり,「ある」という側が明確な証拠を提出できない限りは,「ない」ということになります.だから「実在しない」というデータ,というのは不要で,「性格が実在すると言える証拠がない,あるいは不十分」というだけでOKです.

もっと簡単に言えば,科学的検証では「ない(実在しない)」という結論がデフォルト(通常の状態)で,「ある」といえる条件が整ったときだけ「ある」という「特殊な結論」が導かれるわけです.

性格の一貫性に関して言えば「一貫性があるという証拠がない」ということはミシェル(1968)によって論証されていますし,その後30年にわたる議論の中でも「性格の一貫性がある」という証拠(ABOFANさん風に言えばデータ)は提出されていません.だから「一貫性はない」わけです.

科学的検証ではこれだけでOKです.一貫性がないのにあるように見える錯覚はなぜ起きるのか,とかは全く別の問題ですし,「一貫性がない」と主張するために,その問題を論じる必要はありません.もちろんそれを論じることは「一貫性がない」という主張の傍証として有意義ではありますが,必須ではないのです.

科学的検証の手続としてはそういうことになります.ですから,科学的検証に関する意見としてはABOFANさんの説は間違っています.

ただ「素人の納得」という点では,そうはいかないでしょう.つまり,正しい正しくないではなく,素人の納得を問題にする場合は,もう少し違う方法を採らなくてはなりません.

素人は多くの場合,科学者とは逆に「実在しないといえる証拠がなければ実在する」という論理で考えがちです(注1).だからいろんな怪しいものを信じてしまう.それを納得させるためには,「ないという証拠」という,科学的検証の論理の中には存在しないものについても,それに近いものを見せてあげる必要があります.

おそらく,

 1.性格の一貫性があるという証拠はない

ということだけではなく

 2.素人が信じている「一貫性の錯覚」を生み出すシステムの説明

が必要になるでしょう.しかし,それは一貫性の錯覚の実例をいくつかあげたり,目の前にいる「素人」が実際に感じている一貫性を錯覚として解説してみせる,というパフォーマンス程度で十分で,それはすでに社会心理学の成果が実現しています.

それを「一貫性が実在しないと言うデータと一致させる」などということは必要ありません.だって「ないというデータ」なんて論理的に採りようがないんだもの.

それより,素人を納得させるためにもっと重要なのは

 3.一貫性を仮定しないあたらしい理論的立場が,一貫性を仮定する古い立場より現実的に優れている,という論拠や実例を示す.

でしょう.一貫性を仮定しない「性格理論」が実際に人間行動の説明,予測,制御において従来の理論より高い精度を実現している,ということをパフォーマンスとして示すことです.これは確かにまだ実現してないね.

しかし,この2と3は,あくまでも素人を納得させるための手続であって「一貫性の実在の証拠がない=一貫性は実在しない」という科学的検証の手続においては冗長です.

血液型でも同じ.「関係がない」と科学的にいうためには「関係の証拠がない,あるいは不十分」というだけで必要十分で,「なぜ関係あるように思うのか」などという説明は「素人を納得させる」ための付け足し,蛇足です.

科学的な結論の出しかたと,素人の納得のしかたはそもそも違った基盤に立っているわけで,それを混同するから議論が不毛になるのです.

そういう意味では,私がここでABOFANさんにしてきた議論は純粋に科学的なものとは言えず,かなり「素人納得させモード」に偏ったものといえるでしょうね.基本的にABOFANさんが心理学者に求めているのは「科学的な結論」ではなく「素人向けの納得」だったのかもしれません.

「科学的にはそうかもしれないけど,俺は納得できないんだよ」という問いに答える義務は,もともと科学者にはありません.ただ,納得するように説明してもいいかなあ,と考える科学者がときどきいるし,それが科学と一般社会との健全な関係を助けていることは事実です.

この話も,これで完結でよいと思いますけど.


(注1)素人と科学者  人間の素朴な認識は一般に「ナイという証拠がなければアル」と考えがちであるのに対して,「アルという証拠がなければナイ」という厳格な基準をうち立て,科学的言説の信頼性の基準を圧倒的に高めたことは,近代科学の偉大な成果だと思います.


2.信じるということ,について

> まず、「科学的に実証されないものを信じる」だけでなく、「科学的に実証されたもの
> を信じる」のにも合理的な説明はできないではないでしょうか? 「あなたはなぜ科学
> が正しいと信じるのですか」と質問されれば、普通の人は答えに窮するでしょう。それ
> は、パラダイムの議論で渡邊さん自身が主張していたはずです。

そりゃあ当たり前です.

前の話ともつながりますが,科学的に実証されたものを科学者が信じるのは,科学的実証の手続き(ディシプリン)をその学会内部の科学者が共有しているからです.しかし,そこでは少なくとも「正しさの基準」についての同意があり,科学者は「正しい」ことを基準になにかを信じます.

しかし,素人は正しいかどうかを基準になにかを信じるわけではありません.素人がなにかを信じる基準は「自分が納得できること」と「信じていると役に立つ(ように見える)こと」です.そういう意味では「科学的に実証されている」ことにはほとんど重要な意味はありません.素人の場合,科学的に実証されていることを信じるのも,実証されていないことを信じるのも,基本的には全く同じ仕組みです.

ABOFANさんもそうでしょうが,血液型の問題についてもし心理学者が科学的に証明された知見をもとにしてきちんと否定し,その論理に自分が反論できなくても,血液型を信じている人たちがその考えを変えることはないでしょう.それは「血液型と性格に関係がある」という信念が,もともと科学的に正しいか正しくないかという基準ではなく,「自分が納得できるか」という基準で信じられているからです.

そういう意味では,「血液型と性格には科学的にいって関係があるとはいえない」という事実と,「自分が血液型を信じている」という事実は,血液型を信じる人の中でなんの矛盾もなく並立可能であるとも言えます.もともと基準が違うんだもの.


> 昔のことなので正確には覚えていませんが、「科学で説明できないことがある。それは
> 科学への情熱である。」という言葉が妙に耳に残っています。

「科学への情熱」自体は意識の問題ですからたしかに科学では説明できないでしょう.しかし「情熱的に科学研究を行なう」ことについては,科学研究という行動を維持している環境からの刺激と行動との関係から科学的に分析できます.とくに「情熱的」な行動とか「やる気」とか「根気」みたいなものは,その行動に対する正の強化が部分強化のスケジュールによって賦与されることと密接に結びついていることがすでに解明されています.

そういう意味では,素人が科学的に実証されないことを信じるのも,科学者が「科学的に実証するという手続き」を信じるのも,その行動(信じること)がどのように環境からのフィードバックを受けるかで決まる,という点ではおなじでしょうね.

しかし,このことはここで議論している問題とは直接関係がないと思います.


3.最大素数さんのメールについて

論点は多いのですが,とくに次の問題に関してだけ.

>> 行動主義/行動分析学と,科学的に分析できない「意識」や「こころ」を了解的に理
>> 解するもの(本来の心理学?)とにはっきり別れて行くべきではないかと思います.
>
> 当初のパラダイム変換論から後退してません?(笑)
> 部外者しろーとの知ったことではありませんけど。

最大素数さんがそう思うのは,そうなったときの「本来の心理学」の影響力を私よりかなり大きく見積もっているからでしょうね.

私はそうは思いません.確かに,意識そのものを扱う分野は「非科学」の心理学になりますが,現在の心理学の多くの分野は「意識そのもの」を扱っているというよりも,環境と行動とを媒介するものとして「意識」を考えているだけです.

しかし,これまで意識の機能が媒介して初めて起きる行動だと思われていた行動が,実際には環境の構造だけから説明・予測・制御できてしまうという成果が,前にあげた「対人魅力」などの例をはじめ,数多く提出されています.また,これまで「無意識」という意識の変形の機能だと思われてきたさまざまな人間行動についてもこれは同様です.

つまり,これまで意識を扱っていたと称する心理学のほとんども,その目的は「環境と行動との関係の科学的分析」という枠組みで達成できてしまうわけです.そして,そうした目的の心理学が「科学」という形を今後も採ろうとするのであれば,それは必ず私が想定したような「パラダイム変換」を通過する必要があります.

まったく「後退」ではないと思うのですが.

私が言いたいことは,今の心理学は科学だといっているけど科学とは言えない部分がやたらにたくさんある,もしこれからも科学だと言い続けたいなら必ず「パラダイム変換」が必要だし,それができないならば「科学」だという看板を捨てるべきだ,ということです.

科学の看板を捨てた「意識の学問」は実質的にデカルトの時代に戻ります.やれることはほとんどすべて天才デカルトが200年も前に済ましてしまっているから.おそらくその意義はカウンセリングなどの臨床心理学の分野での「クライエント理解」など,ごく一部の分野に限られていくでしょうね.

いずれにしてもこんなことは確かに「部外者しろーとの知ったことではない」かもしれないですね(笑).


4.最大素数さんへの追伸...科学者としての自分と素人の自分

ちょっと前の話に戻りますが.

> 渡邊さんの論調では、自分がタモサかレトシかに全く興味が無いように感じられました
> が、案外そのへんのメンタリティ(って言葉は行動分析学的には無しか・笑)は血液型
> 性格関連説に対する姿勢と相関がありそうかなあ、なんてね。

そりゃあ私だって「自分の問題」としてはタモサなのかレトシなのか知りたいでしょうね.自分の前世とか,そういったこと私だって興味ありますし,クリスチャンとしては「死んだあとのこと」だって考えます.

しかし,そうした「個人としての自分のメンタリティ」と,「科学者としての自分のメンタリティ」とは,かなりはっきり区別されています.もちろん,科学者としての自分と個人としての自分が影響しあわない,というわけではありませんが,ある程度意識的に区別している部分があるのです.

つまり,科学者としては「科学のシステム」にもとづいて「合理的な真理を探究」する自分に喜びと誇りを感じている一方で,個人としては「不合理」なことの中に喜びや慰みを見いだしています.私だって,日常生活での自分の行動は自分の意識が決定していると信じて疑わないわけです.自分を科学的思考の対象として客体化することは少ないです(注2).そして,それはとくに矛盾と感じられることではありません.

つまり,上の方で話したことと関連づければ,私の中には「科学者」である渡邊芳之と「素人」である渡邊芳之が同居しているわけです.そして,わたしが科学者になるか素人になるかはその状況の文脈によって定められるわけで,ここでの議論では私は「科学者」として話をしています.

そこで私の「素人」的部分と対応するような問題を持ち出して「そういうメンタリティがない」みたいなことを言われると「おいおい,おーい」と言う感じになります.

あえてもっと正直に言ってしまえば,私は日常生活ではけっこう血液型を信じているところもあり,好きな女の子ができたらその血液型を必ず聞きますし,一般的にいって自分の血液型と相性の悪いものだったらがっかりします.また,わが家が家族全員A型であることと,わが家の生活パターンとを結びつけて考えて笑うこともあります.

また,占いなども信じる方です.新聞の「今日の運勢」をみて悪いことが書いてあると重い気分になりますし,「異性運が抜群」などとあれば喜びます.それはすべて私の個人的精神生活,素人としての生活であって,それをいちいち科学者的に分析したり,批判したりはしません.

同じようなことはスキナーも書いていました.

そういう意味では科学者の私が出した結論に素人の私が納得しない,とくに影響されないということはいくらでもあります.そして,そのどちらが優先されるかは,その状況,文脈で自分が科学者であるのか,素人であるかで決まります.

素人さんとの議論で一番難しい,というか面倒なのは,こっちは科学者なら科学者というはっきりしたスタンスで議論しているのに,相手は科学者っぽくなったり,素人ぽくなったり,変幻自在であるということです.まあ科学者の自分と素人の自分をはっきり区別して切り替える,みたいなこと自体が普通から見れば異常なわけだから仕方ないですけどね.


(注2)科学と個人  そういう意味では「科学的心理学」は「3人称(赤の他人)の心理学」です.自分についての心理学,深い関係のある他者についての心理学は科学で割り切れない部分がどんどん増えます.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その18)

 これで終わるつもりだったのですが、なかなか終わらないようですね(笑)。

1.性格がないという証明,について

 思わず「う〜ん」と唸ってしまいました(笑)。この部分は私向けじゃなくて心理学者向けの文章なのでしょうね、たぶん。そうじゃないと理解できない部分が多いので…。例えば、こんな論理についてどう思いますか?

性格検査と行動との関係

 多くの性格検査はそれぞれ人の性格のごく一部を測っているにすぎず、ある検査と行動とに関係がなくても、他の検査とは関係しているかもしれない。実際、性格検査の得点と行動との関連が、ごくわずかとはいえ統計的に有意なかたちで見出されたという報告もある。
 また、すべての性格検査について検討して行動と関係するものがひとつもなかったとしても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの検査でも測られていない非常に重要な要素が存在して、それが行動と関連している可能性が残る。

 実は、これは渡邊さん自身の文章の「血液型」を「行動」に変えただけです。そこで、次にオリジナルの文章を引用させてもらいます(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 189ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義』 渡辺芳之)。

性格検査と血液型との関係

 しかし、多くの性格検査はそれぞれ人の性格のごく一部を測っているにすぎず、ある検査と血液型とに関係がなくても、他の検査とは関係しているかもしれない。実際、性格検査の得点と血液型との関連が、ごくわずかとはいえ統計的に有意なかたちで見出されたという報告もある。
 また、すべての性格検査について検討して血液型と関係するものがひとつもなかったとしても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの検査でも測られていない非常に重要な要素が存在して、 それが血液型と関連している可能性が残る。

 血液型と行動で正反対になるのが心理学の「論理」なのですか?(ちょっと意地悪モード)

 ただ、やっとこれで渡邊さんの「性格は実在しない」という論理を理解することができました。心理学って、やはり普通の理系の論理とは違うようです。(@_@) そういう意味では、まとめの一部になっているようです(笑)。

2.信じるということ,について

> 前の話ともつながりますが,科学的に実証されたものを科学者が信じるのは,
> 科学的実証の手続き(ディシプリン)をその学会内部の科学者が共有している
> からです.

  それより、観測された事実と矛盾しないことだと思いますが…。そういう意味では、「素人」の方が正しくて「科学者」が間違っているケースはいくらでもあるわけです。正しいのは事実やデータであって、科学者なのか素人なのかは関係ないはずですが。

 渡邊さんの文章を拝借すると、

性格心理学の問題についてもし渡邊さんが科学的に証明された知見をもとにしてきちんと否定し,その論理に論できなくても,性格心理学を信じている人たちがその考えを変えることはないでしょう.それは「性格検査と性格に関係がある」という信念が,もともと科学的に正しいか正しくないかという基準ではなく,「自分が納得できるか」という基準で信じられているからです.

 ということになります。相対性理論についても同じことだった…はずです。

3.血液型と性格についてのまとめ(ちょっとだけ)

 いよいよ私の案を出しておきます。

  1. 統計と性格検査を中心とした従来の心理学のバラダイムからすると、血液型と性格(検査)には相関がある(から関係があることになる)。
  2. だから、多くの心理学者が「血液型と性格」の関係を認めないのは、決してそれが間違っているからではない。
  3. しかし、行動主義の論理では、内的な何か(性格、血液型…)が行動を規定するのではないから、血液型と行動は関係がないことになる。

 ごくごく大雑把にはこんなところでしょう(笑)。

 1については、私のHP上でいろいろと書いているので省略します。

 2については、

1966年にドイツで否定されたクレッチマー説が(現在の日本の)心理学会で正しい(?)とされているし、1968年にミシェルによって否定された「性格の一貫性」が正しい(?)とされていのだから、「血液型と性格」が(現在の日本の)心理学会で否定されていても、科学的に正しいかどうかとは関係ない。

「血液型と性格」の問題について科学的に証明された知見をもとにしてきちんと論証し、その論理に心理学者が反論できなくても,性格心理学を信じている人たちがその考えを変えることはないだろう。それは「血液型と性格は関係がない」という信念が、もともと科学的に正しいか正しくないかという基準ではなく,「自分が納得できない」という基準で信じられているからである。

 性格の一貫性については、メールその18を拝借すると、

一貫性があるという証拠がないことはミシェル(1968)によって論証されているし、その後30年にわたる議論の中でも「性格の一貫性がある」という証拠(データ)は提出されていない。だから一貫性は存在しない。

 違うところがあれば、添削をお願いします。

4.科学者としての自分と素人の自分

 ふ〜ん、心理学者はファンダメンタリストは少ないような気がしていましたが、やっぱりそのようですね。

 私の場合は全く逆です(笑)。

 社会で生きていく都合上、それなりに他人には合わせていますが、内心は全く別です。例えば、私は占いの類は全く信じていません(笑)。相手の星座なんか尋ねたりはしませんし、どの星座がどういう性格なのかも全く覚えていませんし…。もちろん、六曜もあまり気になりません。ただ、社会で生きていくためには、他人に合わせることも必要ですから、それなりに「信じているふり」はしています。(^^;;

#当然のことながら、血液型は「占い」ではありませんから信じています(笑)。

 それから、私は宝くじ、パチンコ、競馬とか、ギャンブルの類も全くやりません。理由は単純で、確率を計算すると絶対に儲からないからです(笑)。逆に、必ず儲かるというのなら飛びつくと思います(大笑)。実は、こう言うとあきれる人が多いのですが、私にとってはそれがあまりにも当然のことで、あきれる方がおかしいと思うのですが…。(^^;; JCOのケースだって、原子力の初歩的な知識があれば、あれほど騒ぐ必要はな…(以下自粛)。そういう意味では、ちゃんと科学は信じていることになります。

#同様に、タバコは金がかかって体に悪いので吸いませんし、酒もほとんど飲みません。
#意識して禁煙・禁酒しているのとは全く違います、念のため。

 ただ、お化けはちょっと怖いですし、初詣もしたり、苦しいときの神頼みもします。今のところ神頼みをする予定はありませんが、心細くなればまたやるでしょう(笑)。ただ、それは日本の文化的伝統ですから、不思議でもなんでもありません。理由をちゃんと説明することもできます。

 以前にも書きましたが、幽霊や霊魂が「実在する」ことと「実在すると信じている」ことは違います。私は自分自身が「実在すると信じている」いることは認めます。幽霊なんか絶対いない、なんてヒステリックに否定することはしません。幽霊が全く怖くないというのはウソですからね(笑)。じゃあ、なぜそう信じているのか研究しよう、というのが本当の科学的態度だと思います。だって、ほとんどの人が(意識的にはどうあれ)「実在すると信じている」のは、行動からすると事実なのですから…。そういう意味では、データを否定することはほとんどしません。血液型だって、絶対にデータなしで信じたりはしませんよ。

 おっと、随分と脱線したのでこのへんで。f(^^;;

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その19) H12.2.17 12:02

ABOFANへの手紙(19)

 

また風邪をひいてしまい,耳の調子が悪くてせっかく3万円もするスピーカーケーブルを新調したのに音が良くなったかどうかちゃんと確認できません.

たとえばこの「オーディオ」という問題については私はまったく科学的な態度をもっておらず,明らかに科学的に検証できないことをいろいろ信じています.安物のケーブルと高価なケーブルでは電気工学的にあきらかな違いというのは検出されないのだそうです.でも違って聞こえる.素人の私は良くなったんだからいいじゃないのと満足する.

そこで科学者の私は「その多くは錯覚である」とはっきり認識しています.オーディオにおける「音の良さ」が相当部分主観的なものであり,その主観は「金を使った」という事実や「装置の外観」などにも大いに左右されることを,科学者の私は知っています.しかし,そのことは素人の私には影響しません.錯覚であろうと何だろうと自分が「音が良くなった」と満足できることが重要だからです.

オーディオの「科学者」である電気工学や音響工学の専門家の多くはケーブルによる音の変化には否定的です.ケーブルの材質や形状と音質との関係が科学的に証明されていないからです.この問題には「音質」というのが最終的には「意識」の問題であり,検証不能なことも関係しているでしょう.でも私はオーディオについては科学者ではないので,そんなことは気にしないのです.

しかしそのぶん失敗も多いんだよね(笑).


1.仮説検証における科学者の論理と素人の論理

きのう私がかなりムカツキながら(わかりましたか?)説明したこと,落ち着いて考えてみると,この議論をまとめていく上でとても大事なことでした.もうちょっとその問題について話をさせてください.

仮説検証における科学者の論理と素人の論理の違いを簡単にまとめると以下のようになります.

デフォルト(標準の状態) 仮説を正しいと考える基準
科学者の論理 仮説は間違い(帰無仮説) 仮説を支持する十分な証拠がある
素人の論理 仮説は正しい(帰有仮説) 仮説を否定する十分な証拠がない

科学者および素人がそれぞれの論理を採るのには,それぞれの理由があります.

科学者はできるだけ高い確率でできるだけ多くの事象を「理解」できることを重視し,それが可能な仮説だけを「正しい」と考えます.ですから,さまざまな条件,状況を超えて「一般的に」適用可能な,ごく少数の仮説だけが採択され,はっきりいってほとんどの仮説は「部分的に正しい可能性があっても」棄却されていきます.これは,今の科学が持っている目的に照らせば仕方がないし,正しいことだといえます.

しかし素人はその仮説が「一般的な説明力を持つかどうか」より「自分にとって意義があるか」を重視します.それに一般性があるかどうか,それがどのくらいの確率で事象一般を説明するかどうかよりも,「それが自分に起こりうるか,起こったらどうなるか」を気にします.これは日常生活の上では当然なことです.

たとえば「飛行機は墜落する」という仮説は,推測統計学的にはおそらく有意な傾向を見いだせず,棄却されるでしょう.飛行機全体からランダムサンプリングし,その中で墜落するものの比率を計算した場合,非常に低い割合になるからです.したがって,科学的には「飛行機は墜落しない」ということになります.もちろん,飛行機のうちごく一部の割合は確かに墜落しますが,それは全体的な傾向からは外れた,誤差の範囲となり,全体的な結論には影響しません.

われわれの社会がさまざまな場面で飛行機を利用し,飛行機を社会システムの中に組み込んでいるのは,「一般的にいって飛行機は墜落しない」という科学的な結論に基づいた行動です.

もちろん,飛行機の墜落を科学者が無視するわけではなく,その原因の解明などを行いますが,それは「飛行機は一般的には墜落しない」と言う仮説を反証するためではなく,むしろ仮説の予測力を増分するための営みです(つまり「もっと墜落しなくするため」ということ).

しかし,素人はそうは考えません.一般的に言って飛行機は墜落せず,墜落するのは「誤差」だとしても,自分や家族,知人ががたまたまその「誤差」の飛行機に搭乗し墜落してしまうというなら,「やっぱり飛行機は落ちる」ということになります.そして,そうなる可能性がわずかでも(統計的には有意でなくても)あるなら「飛行機は危ない」と考え,飛行機に乗ることを控えたり,「あまり落ちない」といわれる航空会社を選んだり(これは私も気をつけています,笑),搭乗前に保険に入ったりします.このことは「万が一の場合への備え」であり,無意味ではありません.

科学者が「十分に正しい仮説」だけを採択して「正しいかもしれない」仮説を棄却するのは,科学者が「最大多数の事象の最高確率の予測」に価値をおき,「万が一私が」という個別事例には興味を持たないからです.一方素人は全体的な傾向や確率よりも,「それがもし自分自身に起こったら」とか「もしかしたら起こるかもしれないことへの備え」をまず考えますから,「正しいかもしれない」仮説も含めて採択するわけです.

そういう意味では,科学は「赤の他人についての学問」であり,自分のことを考えるときには科学的な論理は役に立たないことが多いのです.

「完全に正しくなければ間違い」という科学者の論理と,「完全に間違いでなければ正しい」という素人の論理は,このような「一般性追究」と「個別事例追究」という仮説検証そのものの目的の違いから来ているわけで,ある仮説について議論するときに科学者の論理と素人の論理が交錯してしまうと,議論は不毛になるのではないでしょうか.

しつこいようですが,科学者の論理では正しくないことを証明するためには「正しいという理由がない」だけで十分で,正しくない証拠はいらないです.「正しくない証拠を出せ」というのは,それ自体が素人の論理です.


>  実は、これは渡邊さん自身の文章の「血液型」を「行動」に変えただけです。そこで
> 、次にオリジナルの文章を引用させてもらいます(『現代のエスプリ〜血液型と性格』
>  189ページ 『性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか〜性格心理学から見
> た血液型と性格の関係への疑義』 渡辺芳之)。

>  血液型と行動で正反対になるのが心理学の「論理」なのですか?(ちょっと意地悪モ
> ード)

これは「ズル」です.エスプリでの私の文章は,性格心理学が血液型を否定する論理を批判するために,あえて血液型側の論理に立って書いたものです.そこでは「性格検査の妥当性」みたいな問題はあえて棚上げにして,心理学者の論理では血液型を否定したことにはならないよ,ということを言っているのです.わざわざそっち側についてあげたのに,それを揚げ足取りするのはちょっとひどいなあ(笑).それも,わざとやっているでしょう?

あえて真面目モードではっきりしておきたいのですが,私がいろいろなところでいろいろなことを書いているものには,それぞれの目的や文脈があります.上の例では,批判派中心の文脈の中であえて心理学の論理を問うという目的で,引用されたようなことを書いたわけです.それを文脈抜きで,それも部分的に引用してきて「矛盾してる」とかいうのはちょっと違うのではないでしょうか.

基本的には,ここでの議論はわたしがここで書いたことを基本にすすめて欲しいと思います.もちろん,ここでの議論に明らかに必要な範囲での引用とか批判は必要なわけで,どこからどこまでが良くて,どこからどこまではダメとはいえないのですが.

まあこれについては別に怒っているわけではありません(笑).


> 心理学って、やはり普通の理系の論理とは違うようです。(@_@) そういう意味では、
> まとめの一部になっているようです(笑)。

そうですか? 私は一般的な科学の論理に基づいて議論しているので,もしABOFANさんのおっしゃるとおりだとすれば,「普通の理系の論理」が科学の論理とズレているのではないかと思いますが(笑×12).

>  それより、観測された事実と矛盾しないことだと思いますが…。そういう意味では、
> 「素人」の方が正しくて「科学者」が間違っているケースはいくらでもあるわけです。
> 正しいのは事実やデータであって、科学者なのか素人なのかは関係ないはずですが。

あえて済んだ議論に戻れば,「観察された事実」自体がパラダイムに依存する,ということが大事なのです.たとえばABOFANさんは自分が問題にしている「質問紙データ」を「観察された事実」だと主張しているのだと思いますが,それが「事実であるのかどうか」,「事実であるならどういう事実なのか」ということ自体について,たとえば私とABOFANさんとで意見の相違があるという現実のもとで,「観測された事実と矛盾しない」とかなんとか言うことがナンセンスだということです.


2.この議論の2つのフェイズ

議論収束のためにはっきりさせておきますが,ABOFANさん対「心理学者渡邊芳之」の「対決」には2つのフェイズがあります.

 第1フェイズ 「性格心理学」パラダイム内での対決

具体的には... 質問紙データと血液型に関係があるか=性格と血液型に関係があるか.
論点は..... 血液型側が提出したデータの信頼性
心理学側の「否定」データの信頼性
ランダムサンプリングの問題
仮説検証の論理の問題

 第2フェイズ 「性格心理学」パラダイム外での対決

具体的には... 血液型と性格の関係はありうるか
論点は..... 「性格心理学」パラダイム再考
一貫性の問題
状況の影響と相互作用論の問題

前から言っているように,私は「第1フェイズ」の問題には基本的に興味がなく,「第2フェイズ」の議論だけをしたかったわけだし,それだけで「血液型と性格の関係を考えることはナンセンス」だと論証できると,今でも考えています.しかしこれは「対話」ですから,ABOFANさんが第1フェイズでの議論をあくまでも求めてくる範囲では,それに応えました.したがって,このあとの議論ではこれらすべてを前提としてまとめにかかります.


3.「ABOFANまとめ案」について

> 1.統計と性格検査を中心とした従来の心理学のバラダイムからすると、血液型と性格
> (検査)には相関がある(から関係があることになる)。
> 2.だから、多くの心理学者が「血液型と性格」の関係を認めないのは、決してそれが間
> 違っているからではない。
> 3.しかし、行動主義の論理では、内的な何か(性格、血液型…)が行動を規定するので
> はないから、血液型と行動は関係がないことになる。
>
> ごくごく大雑把にはこんなところでしょう(笑)。

あまりにおおざっぱですね(笑).これらは上で言った「第1フェイズ」と「第2フェイズ」をごっちゃにしているところが問題ですし,それに,個々の事実についての見方でも私の考えと異なるところがあります.また「行動主義」の問題は,最大素数さんとの議論の中で,私がここでの議論の基盤にしているものとしてあぶり出されはしましたが,「血液型と性格」の問題だけを考えるのであれば,あえて特別に取り出す必要はないと思います.

「血液型と性格の関係」について,私がABOFANさんとの議論を経てまとめてきた私の「主張」をまとめると(まとめ中敬称略),

 第1フェイズの問題  質問紙が性格を正しく測っている,という前提で

  1.原則論

血液型と性格の関係を支持するデータも,支持しないデータも,どちらもランダムサンプリングせずに統計的検定をおこない,それをもとに結論を出しているので正しくない.したがって血液型と性格の関係はあるとも,ないともいえない.ただし,科学的検証の論理では「あるといえない」時点で「ない」ことになるので,「血液型と性格の関係は科学的には確認されていない」というのが順当だろう.

  2.現実論

とはいっても心理学ではほとんどの場合ランダムサンプリングしていないデータから統計的検定を行い,そこから仮説の検証を行っている.それを認めるならば,血液型側のデータも認めざるを得ず,「いくつかのデータにおいて血液型と性格の関係が実証された」といわざるを得ない.
しかし,ここでの議論の中でABOFANも認めているように,ランダムサンプリングしていない結果の正しさは「いろいろなデータから同じ結果が得られる」という蓄積によって保証される部分がある.その点で,血液型と性格との関係についてはまだ「関係がある」というデータが十分蓄積されたとは言えないし,矛盾するデータも心理学者側から提出されている.したがって,「血液型と性格との関係はあるかもしれないが,まだ確かではない」とるのが順当だろう.

  3.結論

いずれにせよ,血液型と性格との関係は心理学者によって「否定」されたわけではない.しかし,心理学者(渡邊)を「納得」させるほどのレベルで「証明」されたわけでもない.

 第2フェイズの問題  質問紙が性格を正しく測っている,という前提抜きで

  1.性格の測定の問題

そもそも性格の問題を科学的な検証の対象とするためには,質問紙・性格検査を中心とする現在の「性格測定」のパラダイムは不十分.行動サンプリングなどより客観的で反証可能な方法で性格を把握できない限りは,それと血液型との関係はあるともないとも言えない.したがって「血液型と性格に関係がある」という仮説は反証不能な仮説なので,科学的には正しいと言えない(間違っている,と言ってもよい).

  2.性格と状況の関係の問題

ミシェル(1968)以後の一貫性論争では,状況を超えて一貫した性格傾向といったものの存在は実質的に否定され,人が行動に示す性格がその人を取りまく状況に大きく影響されることが明らかになった.また,われわれが自分や他者の性格に抱く「一貫性の印象」も,観察場面の限定や,各種の錯覚に基づいて「構成されるもの」である.したがって,血液型のような個人側の要因が状況を超えて性格の様態に一貫した影響を与えるという仮説自体が疑わしい.

  3.内的要因の影響力の問題

たしかに外的状況と相互作用して性格を決めるもの,としての内的要因が性格に大きな影響を与えていることは間違いない.しかし,内的要因はおもに性格の量的な側面に影響し,質的な側面(性格の様態)への影響は外的状況の方が圧倒的に大きいと考えられる(その根拠として行動主義的な研究の成果があげられる).したがって,血液型という内的要因の性格への影響は可能性としては残るものの,血液型性格学が主張するように血液型が性格の様態にまで一貫した影響を与えるということは考えにくい.

といったところです.議論しても私がまったく主張を変えていないことは明らかですね(笑).で,私の大結論としては,

 結論

血液型と性格との関係は,現在の段階ではさまざまな方法論的問題点のために科学的には確認できない.確認できないということは否定もできないということだが,科学者は確認できないものは「ないもの」と考える.また,性格に関する新しい研究の流れや,他分野の研究成果から考えると,血液型と性格の関係が科学的に確認できるようになった暁には,「血液型と性格には関係がない」という結論が出ることが予想される.

ということになります.で,以下の問題ですが,

> 2.だから、多くの心理学者が「血液型と性格」の関係を認めないのは、決してそれが間
> 違っているからではない。

これは乱暴です.少なくとも心理学者のひとりである私はきちんと検討した上で「血液型と性格はまちがっている」と推論しているわけですから.これは以下のように整理できると思います.


「血液型と性格の関係」に関する心理学者の態度としては,以下のようなパターンが存在する(ここで言う「データ」とは質問紙*血液型データのこと).

 1.最初からまったく興味を示さない
 2.よく調べないで「関係ある」と信じている
 3.よく調べないで「関係ないと証明された」と信じている
 4.人が調べたデータを見て「関係ないと証明された」と信じている
 5.自分が調べたデータで「関係ないと証明された」と信じている
 6.自分が調べたデータで「関係あると証明された」と信じている(がそれを隠している?)
 7.別のデータや理論的根拠から「関係ない」と信じている
 8.この議論には関わりたくないと思っている

したがって,「心理学者の中には血液型と性格の関係を認めないものが多いが,それらのうち明確な根拠によってそれを否定できているものは比較的少ないし,また,科学的な根拠以外の理由でそれを認めない者もいる」というのが順当である.

いちばん多いのは間違いなく「1」のタイプです.これまでの議論の中で面白く思ったのは,ABOFANさんも私もそれぞれが何らかの意味で「自分が少数派だ」と思っていることです.ABOFANさんは,どうも心理学者だけでなく社会全体でも血液型性格学は多数派ではなく,もっと理解を広げなければいけないと思っているふしが見られます.いっぽう私は,世の中全体が血液型を信じているし,心理学者の中でも血液型に「反論」しようとするものなどごく少数だし,その中でも自分のような立場はほとんど誤差程度しかいないという認識の中で戦っています.まあどっちが正しいとは言えませんし,両方間違っているのかもしれない.わからない.

あと,ABOFANさんは信じないかもしれませんが,私の実体験では「2」のタイプの心理学者も実はかなり多いです.笑うのは,そうした心理学者のほとんどが実験心理学,認知心理学系の,心理学の中では「理系アホ」的色彩の強い人たちであることです.どうも血液型性格学は理系的発想と親和性が高いようですね(笑).


4.今日の最後に

> #同様に、タバコは金がかかって体に悪いので吸いませんし、酒もほとんど飲みません
> 。意識して禁煙・禁酒しているのとは全く違います、念のため。

晩年のアイゼンクは「たばこが体に悪い」という仮説を反証する,という仕事を「日本たばこ」の支援を受けてやっていました.まあ結果だけを言うと,たばこと肺ガンなどの関係は,相関はあるけれども因果の保証はない,つまり,たばこを吸う人に肺ガンの人は多いが,たばこを吸うから肺ガンになるとはいえない,ということです.
生活と病気との関係を探る「疫学」という学問は,基本的に相関だけでものを語ります.アイゼンクはそこをついた訳ね.また,たばこを吸うことによる「精神的なプラスの効果」が健康に与える影響なども主張していました.

さあ,アイゼンクは「たばこを吸うから肺ガンになるとは言い切れない」と科学的に証明したわけですが,みなさんこれで安心してたばこを吸いますか? そうじゃないですよね.科学的には証明されなくても,たばこを吸うと肺ガンになる可能性が否定されたわけじゃないんだから,たばこはできるだけ減らそう,と考えるのが素人では普通.

科学的な結論は「科学的であるから正しく」,素人の結論は「科学的でないから正しくない」わけではないという良い実例です.べつに科学的であるかどうかは正しさの基準ではなくて,「科学という枠組みの中で議論するなら科学的でなければならない」「科学という枠組みの中で論じられている問題には,科学の枠組みにしたがって議論を投げかけなければいけない」というだけの話です.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その19)

 風邪は大丈夫でしょうか? どうかお大事にしてください。

 正直なところ、今回はどう返事を書くか非常に迷いました。しかし、渡邊さんも(たぷん?)本音で書いていると思うので、遠慮せずに本音で行きたいと思います(笑)。

 オーディオは、私も一時期かなり凝ったので、スピーカーケーブルの話はわかります。しかし、それは「専門家」が間違っているので、決して渡邊さんの耳が間違っているのではありません(笑)。頭脳明晰な専門家が間違っているケースは、以前に書いた「太平洋戦争」(ちなみに、これはアメリカの"The Pacific War"の直訳で、日本では「大東亜戦争」と読んでいました)や「ベトナム戦争」を初めとしていくらでもあります。:-p

 だいたい、音響工学や電気工学の専門家なんて、渡邊さんが言う「理系アホ」の典型じゃないですか。「理系アホ」の言うことよりは、私の言うことを信じた方がまだマシというものでしょう(笑)。

 話を戻します。

 さて、試算してみるとわかりますが、スピーカーケーブルを流れている電流では、オームの法則に従わないごく低レベルの電流も無視できないわけです。例えば、電磁波の影響、地磁気の影響、接点の状態、不純物の濃度、金属の結晶の大きさによる伝導の違い…。従って、大電流を流したときオームの法則に従うからといって、音楽信号の場合も同じだと言えるはずがありません。

 もっとも、スピーカーケーブルと音質の関係については、現時点では科学的に解明されているとは言えないようです。そこで、既に原因が解明済のCDプレーヤーと音質の関係について書いておきます。

 こう言うだけで、渡邊さんは既ににおわかりだと思いますが、オーディオファンでない読者のために、ちょっと解説しておきましょう。

 皆さんも知っているように、CDプレーヤーは0/1のデジタル信号を処理しています。だから、アナログプレーヤーの場合と違い、部品による音質の変化はない、とされていました。つまり、いくら値段が変わっても音は変わらないと…。もちろん、CDプレーヤーにもアナログ部分はあります。アナログ部分による音質の違いはともかく、デジタル部分による音質の変化はない、そうメーカーの技術者は主張していたのです。少なくとも、CDプレーヤーが発売されてまもなくは…。

 ところが、数々のオーディオファンが試聴した結果、どうやらデジタル部分によっても音質が変わることが知られるようになりました。しかし、メーカーの技術者は、そんなことは何の根拠もない「非科学的」な「俗説」と反論し、頭から否定していたのです。その後、いろいろと実験が繰り返され、どうもデジタル部分に使う水晶発振子によって大幅に音質が変わるらしいことがわかってきました。もちろん、水晶発振子はデジタル信号処理回路の一部品ですから、「科学的」に考えれば音質に影響を与えるはずがありません。が、自分が聞いてもかなり音が違うのですから、メーカーの技術者は頭を抱えしまいました…。

 多くの技術者が必死で研究した結果、やっとその原因がわかりました。CDの音楽は、音楽信号を毎秒44,100回測定し、その大きさを0〜65,535までの数字に変換して記録されています。これがデジタルによる記録方式です(DVやDVDは違います、念のため)。このデジタル信号を我々が聞けるアナログ信号にするには、全く逆の操作が必要になります。やはり毎秒44,100回のタイミングで、元の信号の大きさを忠実に再現しているのです。この復調されたアナログ信号を、アンプで増幅してスピーカーに伝えて、やっと我々は音楽を聴くことができます。めでたしめでたし。(^^)

 ところで、この毎秒44,100回のタイミングが微妙にずれるとどうなるでしょうか? 考えるまでもなく、原音と違う信号になるのですから、変な音になるに決まっています! 実は、水晶発振子は、このタイミングを決める役割をしているのです。安物を使えば、当然のことながら雑音が多いので、微妙にタイミングがずれてきます。だから音が違うのでした。つまり、水晶発振子によって音が変わるなんて「非科学的」だという技術者の方が間違っていたのです!

 まだまだ面白い話はあるのですが、オーディオの話が中心ではないので、とりあえずこんなところで…。

1.仮説検証における科学者の論理と素人の論理

> きのう私がかなりムカツキながら(わかりましたか?)説明した

 全くわかりませんでした(笑)。だいたい、むかついたってニコニコしてたって、科学的な結論は変わらないじゃないんですか…。

> たとえば「飛行機は墜落する」という仮説は,推測統計学的にはおそらく有意な傾向
> を見いだせず,棄却されるでしょう.

 こういう話のために、ちゃんと信頼性工学という分野があります。私の専門でもありませんし、渡邊さんもそうでしょうから、ここで議論をしてもしょうがないと思いますが…。

> エスプリでの私の文章は,性格心理学が血液型を否定する論理を批判するために,
> あえて血液型側の論理に立って書いたものです.そこでは「性格検査の妥当性」みた
> いな問題はあえて棚上げにして,心理学者の論理では血液型を否定したことにはな
> らないよ,ということを言っているのです.

 となると、この渡邊さんの論理自体が間違っているということですか? そしたら、やっぱり「心理学者側の論理に立って書いたもの」じゃないですか…。

> わざとやっているでしょう?

 AB型ですから当然です(笑)。

2.この議論の2つのフェイズ

 ここは、ほぼそのとおりですね。

> 科学者の論理では正しくないことを証明するためには「正しいという理由がない」だけ
> で十分で,正しくない証拠はいらないです.

 CDプレーヤーの一件はどう説明するのでしょうか?

3.「ABOFANまとめ案」について

 第1フェイズの問題については、「心理学者(渡邊)を『納得』させるほどのレベルで『証明』されたわけでもない.」という部分だけ同意します。というのは、どんなデータを出しても心理学者が「納得」するはずがないからです。(^^;; 「納得」するしないは、心理学者の意識の問題で、統計的なものではありません。それは、いままでの議論で証明されたと私は考えています。もっとも、そういう私の主張に「心理学者が『納得』するはずがない」でしょう(笑)。

 第2フェイズの問題については、「血液型と性格には関係がない」ことが、私を『納得』させるほどのレベルで『証明』されたわけでもない.」ということになります。私はデータがないものは認めるつもりはありませんから…。

> したがって,「心理学者の中には血液型と性格の関係を認めないものが多いが,それ
> らのうち明確な根拠によってそれを否定できているものは比較的少ないし,また,科学
> 的な根拠以外の理由でそれを認めない者もいる」というのが順当である.

 確かにそうでしょうね。

> ABOFANさんは,どうも心理学者だけでなく社会全体でも血液型性格学は多数派では
> なく,もっと理解を広げなければいけないと思っているふしが見られます.

 明確に統計的なものと理解している人は少ないでしょう。そういう意味では、血液型性格学は少数派です。ただ、体験的にですが正しく理解している人もいるようですし、わかる人はHPを読めばちゃんとわかってくれます。いずれにせよ、いかに理解者を広げるかということが課題ですね。

> ABOFANさんは信じないかもしれませんが,私の実体験では「2」のタイプの心理学者
> も実はかなり多いです.

 私はそういうデータがないものは信じません(笑)。本当にいるなら、ぜひ紹介してくださいよ!

4.今日の最後に

 ダバコの発がん性については、専門書から引用しておきます(今村孝さん 『人類遺伝学』 H10 143〜145ページ)。この本では、がんはDNAの病気として定義され、次のような記述があります。

 数多くの物質がDNAと反応し、変異をもたらすことが知られている。これら変異原物質を…
 発がん性物質のほとんどは変異原物質である。…
 1996年、WHOのInternational Agency for Research on Cancer (IARC)がヒトにがんを起こす危険度の高い発がん性物質を発表している。代表的なものを表5・1に示すが、上記の動物実験で同定された発がん性物質の多くがこのリストの中に含まれる。生活環境から体内に取り込まれる可能性のある物質で、とくに表5・1のグループ1に属する物質が危険ということになる。
 タバコの煙はグループ1に属する危険物質である。…

 なお、グループ1には、「ヒトにがんを起こす物質」との説明があり、その中に"Tobacco smoke"とあります。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その20) H12.2.18 13:08

ABOFANへの手紙(20)


1.ふたたび,科学の論理と素人の論理

議論はだいぶまとまってきました.血液型と性格の関係について,私とABOFANさんは基本的には「同じデータ」に基づいて,私は「関係があるという証拠不十分だから関係がない」と言っているのに対し,ABOFANさんは「関係がないという証拠不十分だから関係がある」と主張しているわけです.

これは議論以前の問題として,科学者としての仮説検証を行なうか,素人としての仮説検証を行なうかという「問題への態度」の違いで,この部分で2者が同意できることはないでしょう.

これは心理学者向けの議論ではありません.純粋にABOFANさんに対してだけ説明しています.

くどいようですが,科学者は仮説はまず間違っているという前提で,十分な証拠がそろったときだけ例外的に仮説を正しいと認めます.「正しいか間違っているかわからない仮説」は,すべて「間違い」となります.これが「科学の厳しさ」であり「科学の頑なさ」です.

もちろん「正しいか間違っているかわからない仮説」の本質には2種類あります.

  1.本当は正しいけれど,まだ証拠がそろわない仮説
  2.本当に間違っている仮説

ABOFANさんはオーディオの例など,結果として「1」であった実例をこれまでたくさんあげられています.これは,言外に「血液型と性格も1なのだ」という主張と思います.しかし公的に主張され,社会的にはかなり受け入れられていたにも関わらず科学的には実証されず,結果として「2」であった実例も,あげようと思えば無数にあげることができるでしょう.血液型がそれである可能性も,同様にあります.

科学的に正しいと認められない(帰無仮説が棄却できない)仮説が,結果として「1」であるか「2」であるかは,将来のデータの蓄積を見なければわかりません.オーディオの実例でも,最初は科学的に否定されていた仮説が,後のデータの蓄積によって採択されたわけです.

科学は現時点でとりあえず証拠不十分なものは「間違っている」と結論しておく性質のものです.それは,正しい仮説を棄却してしまうことが科学に与える損害と,間違った仮説を採択してしまうことが科学に与える損害とでは,一般的に後者の方が大きいからです(注1).

その意味で,たとえば「DAコンバータのジッター」の問題で,その証拠が発見できない時点で「CDのデジタル系では音が変わらない」とした科学的結論は「正しかった」し,その後の新たなデータによって結論が変更されることも,科学的には正しいことで,なんの矛盾もありません.ケーブルの問題でも,証拠不十分な現在の状況で「ケーブルで音は変わらない」と主張している電気工学者の立場は,科学者としてはなんの問題もなく正しいです.証拠が見つかったら,その時点で結論を変えるだけです.

証拠不十分な仮説が科学的に正しいとされるためには,十分な証拠を蓄積する以外の方法はありません.いまABOFANさんが示している「データ」は,少なくとも私から見て「十分なデータ」ではないので,私は「血液型と性格に関係がある」という仮説を棄却します.ではどのようなデータが示されれば十分なのかと言うことについては以前本当に詳しく論じました.

> 私はデータがないものは認めるつもりはありませんから…。

ABOFANさんが「データを示せ」と主張しているもののうち「血液型と性格に関係がないというデータを示せ」「一貫性が存在しないデータを示せ」という要求は,科学的検証の論理の中では無意味なものです.別にデータというものがすべて科学的なものではありませんし,「ないというデータがなければないと認めない」というのは一見科学的な態度のようですが,これは徹頭徹尾素人的な態度で,科学的ではありません.科学的であるのは「あるというデータがなければあるとは認めない」ということだけです.

その点で,私がABOFANさんにある程度つきあい,「関係がないという根拠」についての議論を行なったのは,前に述べたように「素人を納得させるための手続き」としてやったことで,科学的な議論としてはあまり意味がないわけです.

正確には科学には「ない」という言葉はなく,「あらない」というのが正しいのかもしれません.「科学的には血液型と性格には関係はあらない,だが別にないといっているわけではない」(笑).

>  第1フェイズの問題については、「心理学者(渡邊)を『納得』させるほどのレベル
> で『証明』されたわけでもない.」という部分だけ同意します。というのは、どんなデ
> ータを出しても心理学者が「納得」するはずがないからです。(^^;; 「納得」するしな
> いは、心理学者の意識の問題で、統計的なものではありません。それは、いままでの議
> 論で証明されたと私は考えています。もっとも、そういう私の主張に「心理学者が『納
> 得』するはずがない」でしょう(笑)。

これ,全然違います.ABOFANさんが言っている「心理学者」とは誰のことですか? 私は前にはっきりと「私があげた条件にかなったデータで血液型と性格に関係が見いだされたら,それを認める」と宣言しています.したがって私はあてはまりません.また,私よりもっと「ユルイ」レベルの科学性で満足するような心理学者でも,ABOFANさんが自分たちよりも「精度の高いデータ」で血液型と性格の関係が示されたら,大多数は信じます.私の提唱するようなデータならもちろんだし,きちんとランダムサンプリングしたり,従属変数側にすこしでも行動レベルのデータを持っ てくるだけで十分でしょう.

ABOFANさんがいま持っているデータが「ダメデータ」であることは何回も述べました.そういう意味ではそのダメデータと同じものが通用している性格心理学はダメ心理学で,性格心理学者はデータ以外の理由で血液型を否定するしか方法がない,だからデータでは納得しない,それは確かです.でも,そうした連中を納得させるには,性格心理学より良いデータ,ダメデータではないデータで血液型を実証する以外の方法はありません.それでも納得しないなら性格心理学者が科学者として間違っているわけで,そんな連中相手にする必要もないでしょう.

また,心理学者は性格心理学者だけではありません.そして,そうした人たちは昨日の分類で言えば「1.興味がない」にあたります.そうした心理学者は「血液型と性格の関係」が客観的で反証可能なデータによって証明されたなら,多少の時間がかかっても,かならずそれを信じるようになります.

血液型と性格に関係があるという「現在採択されていない仮説」を採択させるためには,その結論を変えさせるような「新しいデータ」が必要で,いまあるデータをなぜ認めないのだ,とか「認めない根拠になるデータを示せ」とかいうのは少なくとも科学的検証の枠組みの中では「難癖」でしかありません.

以上の理由で,私はこれまでABOFANさんが主張されたような心理学者の不誠実さとか,性格心理学者がデータ以外の理由で血液型を否定しているということを「真実」と認めますが,それを考慮した上でも,現在のところ「血液型と性格には関係がない」と結論することには,少なくとも科学的検証の論理としては全くなんの問題もないと考えます.そして,それをくつがえすために新しいデータを出す義務は100%血液型性格学の側にあります.

現在の状況で「血液型と性格に関係がない」と科学者が結論することには,科学内部の問題としては全く問題がありません.関係あるという証拠不十分なのだから.しかし,それと素人が「血液型と性格とに関係がない」と納得することとは全然別のことです.関係ないという証拠不十分なのだから.それは全く別々の世界のことです.

その意味で,科学者が素人に「血液型と性格には関係あるという証拠がないんだから,関係ないと納得しろ」と強要することも間違いだし(注2),素人が科学者に「関係ないという証拠がないんだから関係あると納得しろ」というのも間違い.

「血液型と性格の関係」に関するABOFANさんと私の議論はそういうもので,双方納得しないまま終わるのは当たり前のことです.しかし,ランダムサンプリングなどの問題と同じく,この問題に関しても少なくとも科学的検証の論理ということに限っていえば私は絶対正しく,意見を変えるつもりはありません.


(注1)検証の間違いと損害  「相対性理論」がしばらく認められなかったことによって科学の進歩は多少遅れたかもしれませんが,それはいずれ証明されていくもので時間の問題,たいした損害はありません.しかしあやまって科学的な支持を得た「優生学」はどれだけの人を殺したでしょうか.

(注2)科学者から素人  とはいえ,ここで私がやったように,なぜ科学の論理では関係ないと言うのかとか,関係ないと推測する理論的根拠などを科学者が素人に説明することは必要だし,有意義でしょう.


2.議論終結に向けての提案

ところで,ABOFANさんが前々回に提出されたまとめ案,

> 1.統計と性格検査を中心とした従来の心理学のバラダイムからすると、血液型と性格
> (検査)には相関がある(から関係があることになる)。
> 2.だから、多くの心理学者が「血液型と性格」の関係を認めないのは、決してそれが間
> 違っているからではない。
> 3.しかし、行動主義の論理では、内的な何か(性格、血液型…)が行動を規定するので
> はないから、血液型と行動は関係がないことになる。

は,どちらかというと「血液型と性格には関係がないとは言えない理由」あるいは「血液型と性格には関係があるのに心理学者(および渡邊芳之)がそれを認めない理由」に偏っているように思えます.議論をまとめる上で,「ABOFANさんが血液型と性格に関係があると考える理由」をはっきり,できれば簡潔な箇条書きなどで提出してくれないでしょうか.ここでは,それをきちんと聞いたことはなかったような気がします.

議論の結論としては,それと,私が手紙(19)で述べた「結論」を併記することが最も適当と思いますので.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その20)

1.ふたたび,科学の論理と素人の論理

> 血液型と性格の関係について,私とABOFANさんは基本的には「同じデータ」に基
> づいて,私は「関係があるという証拠不十分だから関係がない」と言っているのに対
> し,ABOFANさんは「関係がないという証拠不十分だから関係がある」と主張してい
> るわけです.

 これはちょっと違います。私の理解では、

  1. 関係あるなしの証拠が不十分→関係はあるともないと言えない
  2. 関係があるという証拠が不十分→関係はない
  3. 関係がないという証拠が不十分→関係はある

 ということになります。同じデータを根拠にしているにもかかわらず、渡邊さんの私の結論が正反対になるのは、どのデータや論理やパラダイムを選択するかの問題です。

 私は決して「関係がないという証拠不十分だから関係がある」とは主張していません。しつこいようですが、血液型と性格は「関係がない」という反論の大部分に再反論して相手は沈黙しました。ということは、たぷんて私が正しい(?)のだろうから、「関係がある」ことになると主張しているのです。心理学のやり方はどうなのか知りませんが、普通の科学理論は正しいことが証明されたから正しいのではなく、(現在までに)間違っていることが証明されていないから正しいのです。ニュートン力学しかり、相対性理論しかりです。

> もちろん「正しいか間違っているかわからない仮説」の本質には2種類あります.

> 1.本当は正しいけれど,まだ証拠がそろわない仮説
> 2.本当に間違っている仮説

 科学哲学的にはどうなのか知りませんが、「正しいか間違っているかわからない仮説」についてなら、この解釈はナンセンスです。なぜなら、科学的には「正しい仮説」存在しませんから。あくまで、現時点で正しいとされている、としか言えません。本質が云々というのは、科学ではなくて科学哲学の問題でしょう。

> オーディオの実例でも,最初は科学的に否定されていた仮説が,後のデータの蓄
> 積によって採択されたわけです.

 それは、「科学的に否定」されていたのではなく、「理論的に否定」されていたのでしょう。科学は、現実が説明できなければしょうがありませんから…。相対性理論の「光速度一定」は「科学的に否定」されていたのですか?

 オーディオでは、CD−Rはメディアによって音が違うとかというウワサもあり、なかなか面白いですね(笑)。確かに、誤り訂正回路のノイズやサーボ回路のノイズがアナログ系に影響すれば音は変わるはずですが、その差がキチンと測定できるかどうかはかなり疑問です。(^^;;

> 科学は現時点でとりあえず証拠不十分なものは「間違っている」と結論しておく性質のものです.

 これは違うと思います。理論的には否定されていても、現実の現象を説明できなければナンセンスです。

> 正しい仮説を棄却してしまうことが科学に与える損害と,間違った仮説を採択してしまうことが科学
> に与える損害とでは,一般的に後者の方が大きいからです(注1)

 科学自身は損害とは関係ないはずです…。損害そのものは価値判断の問題でしょう。価値判断を計算するのには科学的手法を使うにしても…。
 それに、この論理が正しいなら、環境ホルモンや遺伝子組み替え食品は危険性が証明されていないから安全ということになりませんか?

> 別にデータというものがすべて科学的なものではありませんし,

 ちょっと脱線しますが、ある笑い話を思い出しました。

 ある測量隊が登山し、三角測量をして山頂の位置を測定しました。で、その隊長はなんと言ったか?
 「諸君、我々がいる山は、あの山だ」
 と隣の山を指さしたというのです(笑)。科学的理論に基づいて測量した結果、そういうデータが得られたと…。

#登山するには麓から上りますから、山を間違えるはずがありません。
#ちなみに、渡邊さんの論理だと、隊長の言葉が正しいことになります。

> 「科学的には血液型と性格には関係はあらない,だが別にないといっているわけではない」(笑).

 それだったら全く同感です(笑)。

> ABOFANさんが言っている「心理学者」とは誰のことですか?

 一般的な心理学者です。

> 私は前にはっきりと「私があげた条件にかなったデータで血液型と性格に関係が
> 見いだされたら,それを認める」と宣言しています.

 一般論としてはそうなのですが、その判断を渡邊さん自身が行うのが問題です(失礼!)。何らかの客観的・具体的な基準が必要なはずですが…。抽象的な基準では意味がないのでは?

 例えば、危険率は5%以下ではなく0.1%以下とか、ランダムサンプリングは北海道だけでも構わないとか、被験者の年齢に0〜5歳は含まなくともよいとか、結果として血液型分布が偏っても構わないとか…(笑)。

 ところで、科学者だろうが素人だろうが、正しいかどうかには関係ないと思うんですが…。科学者がやっても素人がやっても、1+1=2(ただし、2進数では10)になりますし…。渡邊さんの論理だと、素人が1+1=2と言うのと、科学者が1+1=2と言うのは、同じ2でも違うのだというように聞こえます。となると、全く同じデータで統計的検定をして危険率が5%だったとしても、素人が言うと有意ではないが心理学者が言うと有意なのかもしれません。心理学者は「科学者」だから正しい、ということなのでしょうか?

 まあ、それが心理学で定義する「科学」と言うなら、これ以上何も言うつもりはありません(たぶんそうではないと思うのですが…)。いずれにせよ、心理学者の論理はよくわからない、ということがよくわかりました。(*_*) 厳密に科学的に論証するなら、なにもわざわざ「素人」である私のHP上でやることはないんだし、科学者のレフリーがいないところで科学が云々と言っても、現実的に意味がないのでは…。

 正しいかどうかは、読者自身が判断すればいいでしょう。ディベートならレフリーを付ければいいでしょう。今回のように2人だけで議論する場合は、そういう限界もあるようです。残念ながら…。

> 科学的検証の論理ということに限っていえば私は絶対正しく,意見を変えるつもりはありません.

 ところで、タバコの煙には発がん性があるのでしょうか? (?_?)

> あやまって科学的な支持を得た「優生学」はどれだけの人を殺したでしょうか.

 人的被害はともかく、科学に対する被害はどうなのでしょうか? 科学の何が後退したのですか?

2.議論終結に向けての提案

> 「ABOFANさんが血液型と性格に関係があると考える理由」をはっきり,できれば簡潔な箇条
> 書きなどで提出してくれないでしょうか.

 まともに答えてもいいのですが、読者を楽しませるために一ひねりしてみます(笑)。

 ・答その1

 心理学者から「心理学者が体型と性格に関係があると考える理由」を聞いてからにする(笑)。

 ・答その2

 渡邊さんに能見さんの本をよく読んでもらう。

 ・答その3

 渡邊さんにABOFANを全部読んでもらう(大笑)。

 楽しんでいただけましたか? では、まとも(?)な答を書いておきましょう。

 まず最初に、渡邊さんが言う「ダメデータ」でも血液型による性格の差を検証することは十分に可能と思います。もし、血液型にかかわず性格が同じなら、結果は血液型によって同じになるはずです。しかし、安定して差があるなら、背理法により「性格に差がある」ことが証明できます。とりあえずはこれで十分でしょう。分野別データ等の他のデータについても同様です。この場合は、ランダムサンプリングは必須でありません。

 渡邊さんの反応はだいたい予想できます。もちろん、これらはすべて「ダメデータ」というものです。しかし、以上により「差がある」こと自体は数学的に証明することが可能…なはずです。

 では、積極的に関係があることを証明するにはどうすればいいでしょうか? 実は、何を書いても渡邊さんが納得するはずがない(それは今までの議論で証明済みです…苦笑)ので省略します。どうしても知りたい人は、ぜひ能見さんの本を1冊買って読んでみましょう!

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その21) H12.2.19 14:33

ABOFANへの手紙(21)


話もまとまってきたなあ,という感慨と,「科学的手続」とか「科学的論理」について私が説明してきたことのほとんどはABOFANさんに理解してもらえなかった(あるいは,議論は理解してもらったがそれを血液型と性格という問題に結びつけて考えてもらえなかった)なあという虚脱感がごちゃ混ぜです.


1.最後の「科学の論理と素人の論理」

この話はこれで本当に終わりです.今日述べることも,すべて前に詳しく述べたことですが,ABOFANさんの理解は得られなかったようですね.

> 1.関係あるなしの証拠が不十分→関係はあるともないと言えない
> 2.関係があるという証拠が不十分→関係はない
> 3.関係がないという証拠が不十分→関係はある

1と2は科学者も同意することですが,3は素人の論理です.ほんとにくどいですが,「関係がないという証拠」というものは,論理的にも,実際的にも得ることができず,そういう意味では常に不十分だからです.

誤解を招かないようにきちんと説明しておきますが,「関係があるという証拠が不十分」な時に科学者だってもちろん「関係がないから無視する」訳ではありません.関係があるかもしれない,という立場をとってデータの蓄積を続ける人がいるから,新しい事実や理論が出てくるわけです.

科学は現在証拠のないものについては「現時点では関係がない」という結論をしますが,その関係について研究を続けることは別の問題です.しかし,その関係が「科学的に正しい」と結論されるためには,継続された研究が最終的に「関係あるという十分な証拠」を提出する必要があります.くどいようですが,もし多くの科学者がそういう研究を続けているとしても,証拠が見つかるまではその仮説はあくまでも「科学的には正しくない」のです.

> 心理学のやり方はどうなのか知りませんが、普通の科学理論は正しいことが証明された
> から正しいのではなく、(現在までに)間違っていることが証明されていないから正し
> いのです。ニュートン力学しかり、相対性理論しかりです。

ほんとに科学者のレフェリー導入したいですよ(笑).間違っていることが証明された科学理論など,古今東西どこにもありません.なぜなら,これまでも説明してきたように,科学的証明の論理自体が「間違っていることを証明する」仕組みを持っていないからです.間違っていることが証明されていない理論が正しいのなら,天動説も,錬金術も,霊魂説も,ABOFANさんの嫌いな占いも,すべて正しいことになるでしょう.

ではそれらの理論がなぜ「正しくない」とされたかというと,

  1.その理論がそれが主張する目的を達成できなくなった,またはその理論で経済的に説明できない事実が増えた
     → 「間違っているという証拠が増えた」のではなく,「正しい」という
       証拠の数は変わらないが,全体に占めるその比率が相対的に減少した,ということ.
  2.同じような現象をより経済的に説明できる新しい理論が出現した.
  3.科学業界での流行が他の理論に移った

つまり,いまニュートン力学や相対性理論が正しいとされているのは,それが現時点では十分な「正しい証拠」を持っていることと,それが対象とする現象・事実をもっと経済的に説明する理論が出現していないからで「間違っていることが証明されていない」からではありません.

たしかに「間違っていることが証明されること」と「正しいという証拠が十分でなくなること」は,実質的には同じことです(笑).素人がそれを区別する必要はないでしょう.しかし,科学の論理ではあくまでも後者であって,「間違っていることの証明が行われた」わけではありません.

>  それは、「科学的に否定」されていたのではなく、「理論的に否定」されていたので
> しょう。科学は、現実が説明できなければしょうがありませんから…。相対性理論の
> 「光速度一定」は「科学的に否定」されていたのですか?

まさにそうです.それを肯定する十分な証拠がなかったから「科学的に否定」されていたのです.

> 科学は、現実が説明できなければしょうがありませんから…。

> 理論的には否定されていても、現実の現象を説明できなければ
> ナンセンスです。

もちろんそうですが,問題は「現実の正しい説明」が得られるかどうかです.現実が説明できることは大切ですが,その説明が「正しい」こともまた重要です.

ある仮説が正しいか正しくないかわからないときに,素人は正しくない可能性のある理論でも,とりあえず現実をもっともらしく説明できれば,それを採択します.前の繰り返しになりますが,天動説が長く疑われなかったのはそれが「もっともらしく現実を説明」でき,役に立つからです.敢えていっておくなら,「性格の一貫性」もそうです.

しかし科学者は,正しいと証明されない仮説以外にその現実を説明する仮説がないときには,その現実を説明する(説明できると主張する)こと自体をやめるべきですし,正しいと証明されない仮説によって説明を行おうとすることを批判すべきです.ウイトゲンシュタインの「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」という原則はここにも適用されるでしょう.

理系的発想の最大の問題点は,科学と技術を混同し,技術としての功利性からしか科学を見ようとしないことだと思います.ABOFANさんが科学だとして論じておられることの多くは「技術」の問題ではないでしょうか.たしかに役に立たない技術には存在価値はありませんが,科学は,正しくないことを言わないためには時にはあえて役に立たないこと(現実を説明できないこと)を選ぶものです.

>  ところで、タバコの煙には発がん性があるのでしょうか? (?_?)

あるかないかはまだ研究者によって意見が異なり,データも矛盾するものがそれぞれ提出されている.したがって科学的には「わからない」.あるいは,科学者はこの問題についてははっきりした結論を出すことを留保する.

科学は役に立たないなあ,タバコすったらいいのかよ,すわなかったらいいのかよ,はっきりしろよ! 

素人から批判されても証拠が揃わないときには安易にはっきりさせないのが科学者の正しい態度です(笑).


あと,「間違った仮説を採択することが科学に与える害」について,

> 人の対する被害はともかく、科学に対する被害はどうなのでしょうか? 科学の何が後
> 退したのですか?

正しい仮説が誤って棄却されることは,他の理論の進歩をとくに阻害しないし,その仮説自体も未来に向けて温存されます.しかし,間違った仮説が誤って採択されることは,これと関連する「正しいかもしれない仮説群」の進歩を経済的にも政治的にも制限しますし,とくにそれと対立する「本当はそっちが正しいかもしれない仮説」の進歩には決定的な打撃を与えます.「ほっておかれた仮説」と「一度否定された仮説」,いざ復活となったらどちらが立ち直りやすいでしょうか.そして,一度誤って採択されてしまった仮説は,多くの場合不必要に長生きします(クレッチマーの例を見よ).

これらのことは旧ソ連における「ルイセンコ学説」(獲得形質の遺伝説)の興亡の過程を見れば,よくわかります(注1).


(注1)ルイセンコ学説  中村禎里「日本のルイセンコ論争」みすず書房を参照.


2.正しいという基準の問題

> 一般論としてはそうなのですが、その判断を渡邊さん自身が行うのが問題です(失礼!
> )。何らかの客観的・具体的な基準が必要なはずですが…。抽象的な基準では意味がな
> いのでは?

なんら抽象的ではないですよ.私が提唱した手続でデータが採られるなら,仮説検証の基準は心理学ディシプリンにおける一般的なもので十分です.ランダムサンプリングの範囲は北海道だけでもよいでしょう.まあ100万人程度の母集団から無作為抽出されればいいのではないでしょうか.統計的検定は,前にも言ったようにランダムサンプリングされていれば危険率の基準にはそれほどこだわる必要ないですから,まあ5%水準で有意な結果くらい出れば十分でしょう.血液型分布が偏ってもサンプル数が十分に多ければ(最も少ないAB型が50人程度確保できるサンプル数かな)検定の時の計算が多少複雑になるだけで,とくに問題ないでしょう..

>  ところで、科学者だろうが素人だろうが、正しいかどうかには関係ないと思うんです
> が…。科学者がやっても素人がやっても、1+1=2(ただし、2進数では10)にな
> りますし…。渡邊さんの論理だと、素人が1+1=2と言うのと、科学者が1+1=2
> と言うのは、同じ2でも違うのだというように聞こえます。となると、全く同じデータ
> で統計的検定をして危険率が5%だったとしても、素人が言うと有意ではないが心理学
> 者が言うと有意なのかもしれません。心理学者は「科学者」だから正しい、ということ
> なのでしょうか?

こういうすり替えはABOFANさんは一流ですね(笑).私が言っているのは,科学者と素人が同じ「1+1=2」ということを信じているとき,科学者と素人とでは「それを正しいと信じている根拠」が違うことがあり得る,ということです.もちろん,どっちが正しいという問題ではありません.それに,統計的検定をして,という手続はすでに科学の手続です.そんなことをしている時点で素人ではないので「素人が言うと有意ではない」という話は成り立ちません.同じことはつぎのことでも言えます.

> 厳密に科学的に論証するなら、なにもわざわざ「素人」である私のHP上でやることは
> ないんだし、科学者のレフリーがいないところで科学が云々と言っても、現実的に意味
> がないのでは…。

こういうのを「捨てぜりふ」といいます.前にも詳しく述べたように,私としてはABOFANさんが「血液型性格学」という仮説をひっさげて心理学者に道場破りを挑み,「血液型が科学的に正しいと認めろ」と要求している,という現状認識のもとで,この議論をはじめました.ではABOFANさんが求めているのは「血液型と性格の関係についての厳密な科学的論証」ではなかったのですか? それをいっちゃあ,おしめえよ(笑).

ABOFANさんがあくまで素人として,素人の論理の範囲で「血液型と性格に関係がある」と言えればいいのだったら,最初から心理学者のデータにケチを付けたり,心理学者と議論しようとしたりする必要など,なかったのです.

でもABOFANさんが敢えてそういうことをしたのは,血液型性格学が科学的にも正しいと言いたかったからでしょう? そうなら上みたいなことを言っちゃったらほんとにおしまいですよ.それに私が今までがんばってきたことも無意味になっちゃう.別にそれでもいいですけど(笑).

それに,科学者のレフリーがいる場所,っていうのはたとえば学会のわけですけど,ABOFANさんはそういうところには出ていかないのだ,ってはっきり宣言しているじゃないですか.科学者のレフェリーがいない場所では科学についての議論はせず,かつ学会に出ていくようなこともしない,というのなら,つまり科学的な議論はしない(血液型性格学を科学的に証明しなくても良い)という宣言だと考えてもいいのですか?

それならそれで最初からそういってくれれば良かったのです(笑&涙々).


3.血液型と性格との関係を信じる理由

>  ・答その1
>  心理学者から「心理学者が体型と性格に関係があると考える理由」を聞いてからにす
> る(笑)。
>
>  ・答その2
>  渡邊さんに能見さんの本をよく読んでもらう。
>
>  ・答その3
>  渡邊さんにABOFANを全部読んでもらう(大笑)。


これらは冗談かもしれないのですが,あえて真面目に答えることがおもしろさを醸し出すとも思うので...(笑)

答えその1ですけど,最近ABOFANさんは「血液型とクレッチマーは同じ,クレッチマーを信じるならなぜ血液型を信じない」という問いを通じて「心理学者の論理は科学的とは限らない」という「キャンペーン」をはっているのだと思います.それは確かに心理学者に関するひとつの事実を突いているとは思いますが,それをいうとクレッチマーも血液型も「根拠がない」という同じカテゴリに入っちゃう危険があると思うのですが.まあ聞いてみるのは面白いだろうけど,それと「血液型と性格」は関係ありませんよね.

2,3ですけど,私は能見さんの本は「血液型愛情学」と「血液型人生論」(どちらも角川文庫版)の2冊は熟読しましたし,他のものについてもかなり目を通しているつもりです.私の感想を一言でいえば「これは心理学そのものだなあ」(もちろん悪い意味,笑)ということでした.あと,ABOFANは全部読みましたよ.たしかにあまりにクドいところは飛ばし読みしましたし,読んでも意味がわからないところもありましたけど(笑).

私がここで論じていることは,最初からそれらを前提にしています.ABOFANさんは「能見さんの本を読めば信じるはず」と思うし,ABOFANさんをはじめ多くの素人は読めば信じる.でも私や何人かの心理学者はそうではなかった(注2).それがそもそもこの議論の始まりだったのではないでしょうか.

>  まず最初に、渡邊さんが言う「ダメデータ」でも血液型による性格の差を検証するこ
> とは十分に可能と思います。もし、血液型にかかわず性格が同じなら、結果は血液型に
> よって同じになるはずです。しかし、安定して差があるなら、背理法により「性格に差
> がある」ことが証明できます。とりあえずはこれで十分でしょう。分野別データ等の他
> のデータについても同様です。この場合は、ランダムサンプリングは必須でありません
> 。

これらの内容については議論の中で何度も出てきて,わたしがそれを「十分な証拠」と認めない理由は説明してきましたよね.だから繰り返しません.

でも,こんな「とりあえずはこれで十分」みたいなことで,ABOFANさんは血液型と性格の関係を信じているのですか? これはあくまでも「心理学者を説得できると思う理由」ですよね.ABOFANさんが血液型と性格の関係を「あると信じている」理由は,そんなことではないはずです.って私はわかっているのでこれに関して答えはいりませんが.


(注2)能見さんの本  たしかにほとんどの心理学者は議論に際して能見さんの本など読んでいません.でもそれはABOFANさんが私のあげた参考文献を読んでくれない(注の注1)のとあまり変わらない,ごく普通のことです.

(注の注1)せめて「科学革命の構造」(注の注の注1)だけでも読んでくれていたら,今日の前半みたいな議論はかなり節約できたと思うのですが.

(注の注の注1)トーマス・クーン「科学革命の構造」みすず書房

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その21)

 メールの交換もそろそろ終わりに近づいてきたようですね。そろそろ総括してもいいのですが、メール(その20)で新しい発見があったのでちょっと書いておきます。

 なお、今回はわざと趣向を変えてみました。対話はもう十分でしょうから最小限とし、私のまとめという形式を取ってみましたが、どんなものでしょうか?

1.最後の「科学の論理と素人の論理」 & 2.正しいという基準の問題

> 理系的発想の最大の問題点は,科学と技術を混同し,技術としての功利性からしか科
> 学を見ようとしないことだと思います.ABOFANさんが科学だとして論じておられること
> の多くは「技術」の問題ではないでしょうか.

 理学部の人が聞いたらカンカンに怒るでしょう(笑)。おっしゃるとおり私は工学系です。(^^;;

>> 厳密に科学的に論証するなら、なにもわざわざ「素人」である私のHP上でやることは
>> ないんだし、科学者のレフリーがいないところで科学が云々と言っても、現実的に意味
>> がないのでは…。
> こういうのを「捨てぜりふ」といいます.前にも詳しく述べたように,私としてはABOFAN
> さんが「血液型性格学」という仮説をひっさげて心理学者に道場破りを挑み,「血液型が
> 科学的に正しいと認めろ」と要求している,という現状認識のもとで,この議論をはじめ
> ました.ではABOFANさんが求めているのは「血液型と性格の関係についての厳密な
> 科学的論証」ではなかったのですか? それをいっちゃあ,おしめえよ(笑).

 こういう答えが返ってくる可能性は非常に低いと思っていたのですが…。大変残念です。(*_*)

 まず、私は「道場破り」はしているつもりはありません(笑)。ちなみに、「道場破り」を『マイクロソフトブックシェルフ』で調べると次のようになります。

  1. 他の流派の武芸の道場へ出かけていって試合を申し込み、相手方を全員打ち負かしてしまうこと。また、その人。 
  2. 武芸道場へおしかけて、試合を強要し、拒否すれば悪口をいい金銭をゆすり、勝てば物を奪ったりすること。また、その人。道場破り。

 1についてですが、原則として心理学者の中でメールやHP上で議論をお願いしているのは、それを歓迎している人だけです。ですから、「他の流派の武芸の道場へ出かけていって試合を申し込」んでいるつもりはありません。2についても同様です。

 私が実際にやっていることは返事(その9)に書いていますが、もう一度書いておきましょう。(^^;;

あくまで、心理学者が「関係ある3.については、心理学者に「どうして信じないのか」とは絶対に言っていません。あくまで、読者の皆さんに判断する材料を提供しているだけです。また、心理学者に対しては、心理学者自身が認めた「関係ある」という条件を満たしたデータを示しているだけです。もちろん、それでも「関係ない」と主張するならおかしい、とは書いてありますが…。

#もっとも、他の人の目にどう映っているのかは知りませんが…。

 いずれにせよ、そういう人聞きの悪いことは言わないよう、よろしくお願いします(笑)。

 次に、私の求めているのは、「血液型と性格の関係についての厳密な科学的論証」というのは「相関関係」に限定すればそのとおりです。これも、返事(その12)に書いたとおりですが…。

私は血液型と行動には「相関がある」と主張しているに過ぎません。因果関係は証明されていませんから…。渡邊さんも何度も述べているように、普通の心理学者は「相関がある」イコール「関係ある」ということですから、この場合は「関係ある」ということになります。
しかし、因果関係が証明されない限り「関係ある」とは言えないというなら、私は「関係ある」と主張するつもりはありません。以上のように、あくまで「相関がある」とだけ主張しているのです。この点は渡邊さんと全く同意見です。

 従って、「科学的論証」を「因果関係」と解釈するなら違うことになります。

 ここまで書けば、渡邊さんは私の書いた意味がわかると思いますが、読者の皆さんのためにもう一度キチンと説明しておきましょう。

 渡邊さんと私の「科学」のパラダイムは違います。パラダイムは違っても、お互いに論理を理解することは可能と思うのですが、そういう意味でどちらが正しいのか判定するのにレフリーが必要と思ったからそう書きました。私は恥ずかしながら理系ですが、理系のパラダイムではどう考えても渡邊さんのパラダイムや論理が理解できないのです(苦笑)。詳しくは追記で後述します。

3.血液型と性格との関係を信じる理由

 まあ、渡邊さんも私も読者にも予想できる反応でしょうから、コメントは省略させていただきます。私は、あくまで読者が楽しめればいいわけですから(笑)。

 それにしても、ABOFANを全部お読みいただき、本当にありがとうございます(笑)。全部読んだ人って私以外にいるのかな(大笑)。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その21)追記

 今回は、今までと趣向を変えて、心理学のディシプリンについて書こうと思います。総括のつもりはありませんが、結果としてはそうなるかもしれません(笑)。

 ちなみに、「手続き」のことを心理学ではそう言ういうとのことですが、私にはピンときません。しかし、プロシージャならピンきます。辞書を引くとデシプリンは「訓練」で、プロシージャは「手続き」です(笑)。正当な手続きはdue procedureだし…。やはり、心理学はよくわかりません(大笑)。

 では、本題です。

 私は、相手の論理の矛盾点を指摘することを基本的スタンスとしてといます。それは、返事(その21)に書いたので、読者の皆さんもよくおわかりでしょう。しかし、渡邊さんの論理は、いまだによく理解できません。(T_T)

 これでも、一応は自分の頭の中で渡邊さんの論理(と思われるもの)を組み立てて、私の理解が正しいかどうか疑問点をしつこく質問しているつもりです。しかし、毎回その論理は違うと言われているので、どうもさっぱりわかりません。心理学者との議論では、こんなことは本当に例外的なケースなのですが…。

#たぶん、渡邊さんも同じ気持ちなのでしょうね。(^^;

 もっとも、それは抽象的な議論が中心だったせいかもしれませんので、以下に具体的に私の理解した「渡邊さんの論理」を述べることにしましょう。おかしな点や違う点があったらぜひ指摘してください。>渡邊さん

#一般の性格心理学者やミシェルのCAPS理論の論理については省略します。

 まず、「性格の一貫性」についてです。私は、ミシェルが示した以外の「性格の一貫性」がないデータを教えてほしいと何回もお願いしてきました。しかし、それはいまだに示されてはいません。その理由は不明だったのですが、最近やっとわかってきました(笑)。渡邊さんは、「正しいと証明されない仮説によって説明を行おうとすることを批判すべきです.」と述べています。つまり、一貫性があるというデータがないからそもそも示す必要さえない、ということだったようです。

#違うのだったら指摘してください。

 この論理はいくら考えても私には理解できませんでした(苦笑)。というのは、現実のデータを説明できない(=説明する必要がない)からです。現実を説明できない理論なんて全くのナンセンス、という理系の「常識」は、どうやら心理学には通用しないようなのです。だから、返事(その20)に書いた背理法も無視できるようで、となると「論理」の基準が違うとしか言いようがありません。この部分を再度書いておきます。

もし、血液型にかかわず性格が同じなら、結果は血液型によって同じになるはずです。しかし、安定して差があるなら、背理法により「性格に差がある」ことが証明できます。

 読者の皆さんのために、一応背理法について説明しておきましょう。わかっている人は読み飛ばしてくださいね。

  1. もし、血液型と性格に全く関係がなかったら、性格検査の結果は血液型にかかわらず(すべての項目で)同じになるはずである
  2. しかし、現実には性格検査の結果(の一部)は血液型によって違う(しかも安定している)
  3. 従って、血液型と性格は(一部にしても)関係がある

 これは、血液型と性格検査の関係についてですが、血液型と行動でも同じことです。行動の例として、私は幕内力士のうっちゃられ回数や迷子の例を取り上げました。渡邊さんは、性格検査≠性格=行動という立場ですから、

  1. もし、血液型と行動に全く関係がなかったら、幕内力士のうっちゃられ回数は血液型にかかわらず同じになるはずである
  2. しかし、現実には幕内力士のうっちゃられ回数は血液型によって違う(圧倒的にB型が多く、統計的にも有意に差がある)
  3. 従って、血液型と行動は(一部にしても)関係がある

 論理的には、誰が考えてもこうなります! 従って、血液型と性格や行動に関係がないということなら、1か2の少なくとも一方を否定する必要があります。しかし、2は事実ですから、否定できるのは1しかありません。ところが、渡邊さんはメール(その10)でこれも肯定しています。そこで、メール(その11)を読むと、上記の「関係」は「相関関係」にすぎず、「因果関係」はないはずとのことです。また、仮に相関関係があったにしても、「疑似相関」かもしれないと…。

#この間に、渡邊さんの論理が何回か変わっているので、私にとっては非常にわかりにくいものでした。(*_*)

 私には、渡邊さんが予定している行動の観察や実験も、「疑似相関」や「因果関係」の可能性は否定できないように思えます(失礼!)。結局、どんな実験をやっても「関係」ないことにならないのでしょうか? それなら、初めから実験をしてデータを取るだけ無駄というものでしょう…。

#因果関係は、何らかの生化学的なメカニズムが解明されないとダメですから、初めから問題外です。

 消去法により、選択できるのは「疑似相関」しか残されていません。だから、「疑似相関」があればいいことになります。(渡邊さんが示した)具体例がないのでなんとも言えませんが、少なくとも血液型については「疑似相関」があるという証拠は何も書いていないようなので、「関係があるという証拠が不十分」と私は理解しました。つまり、血液型と行動や性格には「関係がある」ことになります。

 ところが、それでも「関係ない」と言うのだから私はさっぱりわからないのです…。(*_*)

 以上をまとめると、

  1. 性格検査では行動=性格は予測できない(ミシェルらによる指摘)
  2. だから、性格検査で性格は測定できない
  3. 従って、性格検査によって測定される性格は実在しない
  4. だから、性格は実在しない

 実は、この論理には問題があります。1〜3まではいいのですが、仮に1〜3が成り立つとしても4は成り立たない場合があるのです。返事(その18)を再び書いておくと、

性格検査と行動との関係

多くの性格検査はそれぞれ人の性格のごく一部を測っているにすぎず、ある検査と行動とに関係がなくても、他の検査とは関係しているかもしれない。実際、性格検査の得点と行動との関連が、ごくわずかとはいえ統計的に有意なかたちで見出されたという報告もある。
また、すべての性格検査について検討して行動と関係するものがひとつもなかったとしても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの検査でも測られていない非常に重要な要素が存在して、それが行動と関連している可能性が残る。

 論理的には必ずこうなります! しかし、渡邊さんのメール(その19)では、

> 上の例では,批判派中心の文脈の中であえて心理学の論理を問うという目的で,
> 引用されたようなことを書いたわけです.それを文脈抜きで,それも部分的に引
> 用してきて「矛盾してる」とかいうのはちょっと違うのではないでしょうか.

 これもよくわかりませんでした。上のケースでは、文脈抜きだろうが、部分的だろうが、「関係ないとは言えない」という論理が成り立つからです(それは渡邊さんもよくご存じでしょう…)。認知心理学者である菊池聡さんの『超常現象の心理学』(109ページ)によると、「範囲を限定せずに『存在しない』ことを証明するのは論理的に不可能である」ということです(当然ながら私も全く同意見)。そして、背理法によると…

  1. (現時点の)性格検査の結果と行動(=性格)は関係ない
  2. 従って、性格が実在しなければ(現時点の)性格検査と行動は関係ない
  3. 従って、性格が実在したとしても(現時点の)性格検査と行動は関係ない

 だから、性格検査の結果と行動に関係がないとしても、性格が実在するかどうかはわからないのです。(*_*)

#渡邊さんによると、性格と行動のデータについては、まだまだ検証が不十分のようですから…。

 「性格の認知」や「錯覚」に関しては、渡邊さんはメール(その16)で、

> 性格がないところに性格を認知する,状況の影響で性格の認知がいくらでも変わる,
> 性格の認知が様々な錯覚を含む,といった事実は,そうした研究の中で数え切れな
> いほどの実例を伴って証明されています.

 しかし、これまた同様に、

性格の認知と性格との関係

多くの性格の認知はそれぞれ人の性格のごく一部を認知しているにすぎず、ある性格の認知と性格とに関係がなくても、他の認知とは関係しているかもしれない。実際、性格の認知と性格との関連が、ごくわずかとはいえ統計的に有意なかたちで見出されたという報告もある。
また、すべての性格の認知について検討して性格と関係するものがひとつもなかったとしても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの性格の認知でも認知されていない非常に重要な要素が存在して、それが性格と関連している可能性が残る。

 ということで、完全に否定することはできないはずなのですが…。

 違う点がかなりあると思うので、具体的に指摘してもらえるとありがたいです。総括にもなりますし(笑)。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その21)追記2

 まとめはほぼ終わったと思うので、全体をチェック中なのですが、その中で疑問があったので書いておきます。なお、答えを強要するつもりはありません、念のため(笑)。

 メール(その20)では、

> 私は前にはっきりと「私があげた条件にかなったデータで血液型と性格に関係が
> 見いだされたら,それを認める」と宣言しています.

 しかし、メール(その2)では、

> 状況や関係性からまったく独立な「性格」が行動に現われるなどということは現実
> にはないし,性格がそうした状況や関係性とは別の何か(体格とか遺伝とか血液
> 型とか)から詳細に予想されたり,説明されたりすることはありえません(注5).そ
> のように見えるのは(従来の性格心理学も含めて)すべて錯覚です.そして,そう
> した錯覚のしくみはすでに心理学によって解明済です.だから私は血液型性格判
> 断を信じないのです.

 メール(その4)では、

> もし万が一血液型が性格に影響する遺伝要因と強く関係しているとしても,それに
> よって血液型が「血液型性格学」が主張するように具体的な性格のありさまを決め
> たり,それと強く関連するようなことは考えられません.

 メール(その20)が正しいと判断していいのでしょうか?

 また、いくつか答えをいただいていない質問があります。

 メール(その2)

> 進化論的に考えても,性格は遺伝的に決定されるよりも後天的に変異して環境に選択
> される方が適応に有利です.

 進化論の研究者がそう主張しているのでしょうか? 根拠となる論文は何なのでしょうか?

 メール(その6)

> 「渡邊席子論文の解釈の問題」はもう少しよく考えてからもう一度説明する必要があると
> 感じればまた書きます.今のところはその必要を感じていません.

 その必要を感じていない、と解釈していいでしょうか?

 メール(その9)

> ニュートンが自分の力学法則の適用範囲が有限だと言いましたか?

 ニュートンはそう言ったのでしょうか?

 メール(その10)

 「血液型の検定にχ2検定を使うのは間違いだ」というような人は、「理科的なアホ」以下の存在なのでしょうか? 学部レベルならともかく、「一流大学」の院生レベルでもそういうケースがないとは言えないようですが…。

 メール(その10)

> 「もし仮説が論理的に間違っているなら,それはいずれデータによって否定されるわけだから,
> われわれは渡邊さんのような難しいことを考えなくても,とにかくいろんな仮説についてデータ
> をとって,データに語らせればいいんじゃないでしょうか」.
> ABOFANさんはこの主張に心から同意するのではないですか? まあ比較的多くの心理学
> 者もそうでしょう.でも,私はそうではありません.

 私は同意しない、と納得していただけたでしょうか?

メール(その15)

> ただ,一部の向精神薬のように「暗い気持ちを抑え,明るい気持ちを強める」
> などある程度変化の方向性を決められるものもあります

 程度の差はあれ、特定の方向に変わるなら向精神薬で「性格は変わる」と言えないのでしょうか?

メール(その19)

> 科学は「赤の他人についての学問」であり,自分のことを考えるときには科学
> 的な論理は役に立たないことが多いのです.

 本当にそう思っているのですか?? (@_@)

> ABOFANさんは信じないかもしれませんが,私の実体験では「2」のタイプの
> [注:血液型と性格は関係ある]心理学者も実はかなり多いです.

 本当にいるなら、ぜひ紹介してください!

> 正しい仮説を棄却してしまうことが科学に与える損害と,間違った仮説を採択してしまうことが科学
> に与える損害とでは,一般的に後者の方が大きいからです(注1)

 環境ホルモンや遺伝子組み替え食品は危険性が証明されていないから安全ということになりませんか?

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その12) H12.2.19 22:48

もう旧聞レスになっちまったのかと懸念しつつ

> 正直なところ、今回はどう返事を書くか非常に迷いました(私の返事・その19 by owada)

わたしもものすごく迷いました(^^
いろいろ考えたのですが、まずはナゼ迷ったか、あたりから述べてみます。
その前に一言。

> 音響工学や電気工学の専門家なんて、渡邊さんが言う「理系アホ」の典型じゃないですか(私の返事・その19 by owada)

うーむ、こういうかたちで2対1になるとはおもわなかったぞ、キミ達(笑)。by 最大素数@電気工学屋

1.ABOFANへの手紙(18)にビックリ

> 論点は多いのですが,とくに次の問題に関してだけ

と断って「パラダイム変換論からの後退」についての議論は、どうしたどうしたっ?て印象でした。最初のコメント

> そう思うのは,そうなったときの「本来の心理学」の影響力を私よりかなり大きく見積もっているからでしょう

で必要十分、「論点」なんか無いじゃない。
だてに引用しているわけではないのですよ。

> 行動主義/行動分析学と,科学的に分析できない「意識」や「こころ」を了解的に理解するもの(本来の心理学?)とにはっきり別れて行くべきではないかと思います.

の中に、わたしが「影響力」を「大きく見積もっ」た原因があって、それは「はっきり」と分かれるという表現でした。つまり、行動主義/行動分析学とは"別"に「はっきり」と了解的理解心理学が存在していたら、パラダイム変換論としては後退じゃあないの、と思っただけです。「感じたほどの影響力は想定していません」でお終い、「論点」になんかなんないじゃない。

「だけ」と言っておいて

> 最大素数さんへの追伸...科学者としての自分と素人の自分

って、あのねえ、どんな書き方をしているのか知りませんが、こういうときは、初めに戻って、
「論点は多いのですが,今回は以下の2点について」とかなんとか書き直すもんだと思いますよ。

と、絡んでみたのは、この一連のメールの「構成」は基本的に思いつきの書き飛ばし的で、あんまり「科学」的(!)ではないなあ、と思っていたからなのでした。

> 素人さんとの議論で一番難しい,というか面倒なのは,こっちは科学者なら科学者というはっきり
> したスタンスで議論しているのに,相手は科学者っぽくなったり,素人ぽくなったり,変幻自在で
> あるということです.

ああ、わたしは、恐らく初めから勘違いしていたのです。

渡邊さんは最初のメールで、「専門家」として議論する、相手が「素人」と分かっていても「専門家」として扱う、というようなこと(要約文責・最大素数)を宣言し、それは勿論「心理学」の専門家と素人、という意味なのだと理解しました。
owadaさんはそういうスタンスを了承して議論に応じましたが、わたしは専門家ではないし、専門家足りうるナニカを備えているわけでもないし、更に、「論点の拡散」(つうか、混乱)を招かないためにも、参加は控えていました。それが、結局口を挟むことになった経過はわたしの最初のメール(H12.1.26)で述べました。更に、その内容は、明らかに「素人」のスタンスであって、というより、書き手の意図としては、「素人面で口出しちゃうけど、アリかなあ」といったあたりで、それはメールを読んでみれば明白です。
つまり、わたしは、はなっから「一貫」して「素人」でしたし、です。そして、それは「専門家」に対する「素人」であったし、あります。
「変幻自在」という表現は"泣き"がはいったのか、"怒っている"のかもう一つはっきりしませんでしたが、先のメール(その19)で分かりました(^^)。
渡邊さんにとっては、「心理学の専門家」とはすなわち「科学者」であって、わたしにしてみれば、いつの間にか「科学者」か「素人」かの選択を迫られていたのでした。

2.今更のように「科学者」と「素人」

はいはいはいはい。
これは、渡邊さんが仕掛けた議論ですから、そうした概念も渡邊さんに従いたいのですが、これはどうかなあ。そういう意味では、わたし、「軽業師」ではありません。
また、これも勿論「論点」にはなりません。
「私(渡邊)は科学者ですが、あなた(最大素数)は素人です」とでも言えばそれでお終いです。言いたければ。

「素人」に対応する言葉(概念)は「玄人」です。ただし、今は、「専門家」という言葉の方が通りが良いようです。
似たような言葉・概念に「アマ(チュア)」と「プロ(フェッショナルなんたら)」というのもあります。
わたしの理解では、まず、自分自身の要求に応えるべく行動するのが「アマ」で、自分や身内以外、第三者(他人)の要求に応えるのが「プロ」です。「専門家」は特定の分野が分野足りうる存立基盤を支えうる知識・能力を備えている存在です。「玄人」は専門家足りうる知識・能力が、より一般化された体系として内包されているイメージです。「プロ」に求められるのは何よりも市場の要求に応じられるナニカです。通常は、「専門家」としての知識・技術が問われますが、必ずしも「専門家」でなくても「プロ」としてやっていくことは可能です。顕著な例は、いわゆる「アイドル"歌手"」ですね。又一方、「アマ」であっても、自己に課した目標が高い場合は「専門家」として「プロ」を凌ぐこともあり得ます。特に、他人の要求として必須のコストの問題は「プロ」の悩み所でありまして(勿論その裏返しで、腕の見せ所でもありますが)、金に糸目をつけぬ「アマ」は、「プロ」の製品よりずっと高性能の作品を作ったりしてしまうこともあるわけです。
細かい相違はともかく、「素人」は自分の世界で完結しうるが、「玄人」「専門家」「プロ」は他人との関係が問題、ということです。

科学者に対応する(反対概念としての)存在は何でしょう。
モトネタ本が見つからないので誰の言葉か記せませんが「芸術は"私"、科学は"私達"だ」と言った人がいて、これはそれぞれ当たっていて、結構気に入っているので、ここでは(仮に、でもいいけど)、「芸術家」とします。
つまり、芸術家は、自分が納得すればいいが、科学は他人を納得させなければならない、というわけです。
芸術家は、作品として完結しなくても、そこで自分が納得できればそれでお終いにできるし、しかしまた一方、作品として仕上がっていても納得できなければ未完としてお蔵入りもアリなのです。

さて、芸術家には「アマ」も「プロ」も「素人」も「専門家」も「玄人」もいます。
科学者にも「アマ」も「プロ」も「素人」も「専門家」も(「玄人」って言うか?笑)いると思っています。

「アマ」の科学者というとアマチュア天文家というのがよく知られていますね。新星発見という自分の目的にのみ拘って、「プロ」以上の頑張りを見せてしまったりして、これはもう「アマ」の鏡ですねっ。
「プロ」の科学者の代表は、学校のセンセでしょう。教え方がうまい、とか、休講が多くて学生に人気、とか、必ずしも「専門家」でなくても評価されうる道がある(筈?笑)という意味で、これは「プロ」の鏡かっ。んなわけねーか。
「素人」科学者というと、どうしてもトンデモ系が思い起こされてしまいます。自説に対するこだわりは、メンタリティとしてはむしろ「芸術家」に分類すべきかっ。
「専門家」としての科学者は、一番科学者らしい科学者で、渡邊さんの科学者像はこれですねっ。
「玄人」の科学者?軽妙洒脱、やたら上手に科学ネタで随筆を仕上げたりして見せた寺田寅彦さんなんかはこう呼びたい気もします(笑)。

わたしは、電気技術屋として「科学者」の末席を汚す者ですが、心理学に関してはれっきとした「素人」です。
なんか矛盾してますか?「素人ではない科学者」と自称し、「素人か科学者かはっきりしないヤツと"非難"めいた発言をなさる」渡邊さん。

3.心理学素人の技術屋科学者として

渡邊さんにとっては「科学者」というのは、もうはっきりした概念があって「それしか無い」のでしょうが、現場屋には現場屋の科学者像・科学観があるのです。
ここでの議論に持ち込むと、本当に混乱しかねないし、持ち込むことが必ずしも有益とは思えなかったので黙っていたのですが、現場での(ここでの議論に沿った)科学的問題は、「関係があるに決まっているのに相関を捉えられない」ということが往々にしてあるということです。はっきり言えば、「相関が無い以上関係があるとは言えない」で済ませられる世界っていいなあ、と思ったりもします。(勿論、逆も裏もいえることは承知の上ですから、怒って論点にしないように・笑)
科学の現場は、原理・理論と現実のせめぎ合いです。全ての"現実"(わたしら電気屋の場合は電気・電子部品ということになります)は、その原理に基づく理想状態が決まっており、製品要求にどう反映させるか、が仕事になります。
理想的な"現実"(部品)は存在しませんから、全ての部品は、機能・性能に、不要な影響を与える性質を持っています。しかし、それが、最終的な性能に影響しなければいいわけで、そういう意味では「必ずある"関係"を"相関"として感知させないこと」が設計と言えます。なかなか上手くいくものではなく、特に先に述べたコストが絡むと、その"関係"と"相関"をぎりぎりまで詰めようとするわけで、ちょっとした過負荷で関係が見えてしまう(要するに不具合ですな)わけです。ところがこの不具合、必ず原因(なにかと関係)があるはずなのに、原因を特定できる相関を容易に見出せないのです!特にノイズ耐性は超難敵で、現象として散発的に観測できるだけで、なんらかの相関そのものが全く見えない場合がほとんどです。
一応ことわっておきますが、ここで使っている「相関」という言葉は統計でいう「相関(係数という考え方)」とは必ずしも一致しませんので「素人がよく犯す相関についての誤解は」などと「論点」にしないように。
さて、また、現場技術屋科学者は、「まず原理ありき」という場合もまったく自然に呑み込んでおります。その典型は「永久機関」です。その根拠である熱力学の法則は「絶対」です。
お、舌なめずりしてますね(笑)。
この「絶対」は、この世界がこの世界である限り、という注釈付きです。ん?それでは「絶対」ではない?
今次の議論を踏まえた言い方をすれば、科学の「パラダイム」という概念を超えている、という意味での「絶対」です。
他に、時間の非可逆性なんてのもありますね。

4.心理学素人・異聞

思いっきり好意的に解釈して、
素人のフリしてるだけで、「専門家」としての議論ができないわけではなさそうなんだから、「専門家」の土俵にあがらないのはズルイ、
というような意味があるのだとしたら、これは、もう過分な評価ありがとうございます、とでも言うほかありません(笑)。
んなこと言ってないって?ま、いいからいいから。

5.その後

のメール20、21では「科学者(専門家)」に対する「(科学)素人」というような意味で使っているようで、なかなか「変幻自在」なところを見せています。しかし、その意図はowadaさんを"挑発"することが主目的のようで、論点たりえているのか疑問です。

ひとつだけあげておけば

> 「正しいか間違っているかわからない仮説」は,すべて「間違い」

と何度か述べてますが、「正しいか間違っているかわからない仮説」は「わからない」というほかの結論はないと思いますよ。言ってる自分が、あまりに当たり前の突っ込みで、拍子抜けしてしまいます。

> 科学は現時点でとりあえず証拠不十分なものは「間違っている」と結論しておく性質のものです.

と繰り返して、「その意味で」ととりあげた「DAコンバータのジッター」の問題(!)は、巧妙なすり替えですね。
これは、その時点で下した結論が後に「間違っていた」と判明したっていうだけのことでしょう。不十分な証拠ながらとりあえず下した結論が後に「やっぱり正しかった」という話しと同じレベルです。

> ABOFANは全部読みましたよ

ということでしたら、わたしの血液型性格関連説に対するスタンスもご存知のことと思いますが、わたしは、"科学者"としては「どちらとも言えない」ですが"素人"(笑)としては「全然無いってことはないよなあ」というところです。
(但し、わたしは、普段から、そういう科学者/素人の使い分けは、言葉上も実践上もしていませんのでそこのところは宜しく)
「どちらとも言えない」の主な根拠は「性格」とはなにかがあまりに不透明なためです。とはいえ、精神活動が、それが依存しているハードの「質」となんの関係もない、とはそれこそ「信じられません」(笑)。しかし、それが、性格とか気質として観測できるかどうかは問題です。結局観測できなければ「関係無い」ということでいいのかもしれませんが、精神活動をこれまでとは違う「見方」で評価(という言葉はこの場合不適切ですが)すると、また別のことが言えるかもしれません。
証拠「不十分」は証拠が「無い」のではありません。

6.「科学者」ってねえ(薄笑)

昔、『日本沈没』の大ベストセラーをものした小松左京氏は、その中で、キー・パーソンである地震学者に、「科学者にとって一番必要、かつ大事なものは"カン"だ」と言わせていました。小松氏は文学部伊文学科(京大)卒のばりばりの"文系"ですが科学(哲学)にも造詣が深く、この"認識"はなかなか「鋭い」ものがあると思っています。このセリフ、字面だけの解釈では、まるっきり科学オンチのアホみたいなものですが、そうした「誤解」をさせない説明を小説内でしきった、という確信が感じられます。
ま、全面的に賛成、というわけでは勿論ありませんけど(笑)。

渡邊さんの、初めからの主張「血液型と性格に関係があるなんて"信じられない"」は、そういう"カン"の部類かなあ、と思ったり、「不十分」ながらもそれらしい「証拠」をみてもダメ・データは駄目と目を瞑ってしまう"カン"の悪さに、この人は最後まで「沈没」を認めない側なのかなあ、と思ったり・・・。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その21)追記3

 最大素数さんのメール(その12)について、ちょっと釈明しておきます(笑)。

>> 音響工学や電気工学の専門家なんて、渡邊さんが言う「理系アホ」の典型じゃないですか(私の返事・その19 by owada)

> うーむ、こういうかたちで2対1になるとはおもわなかったぞ、キミ達(笑)。by 最大素数@電気工学屋

 もうすこし長く引用しておくと、

> だいたい、音響工学や電気工学の専門家なんて、渡邊さんが言う「理系アホ」
> の典型じゃないですか。「理系アホ」の言うことよりは、私の言うことを信じた方
> がまだマシというものでしょう(笑)。

 私が音響工学や電気工学の専門家を「理系アホ」と言っている訳じゃありませんよ。渡邊さん自身は、「理系アホ」の音響工学や電気工学の専門家より「素人」の私を信用すべきだと言っているのです…。しかし、実際には「素人」より「理系アホ」の方を信用しているようで、私は非常に面白くありません(大笑)。

 ABOFAN管理人@言い訳モード(笑)

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その21)追記4

 「科学者」と「素人」の話題が続いているので、私もちょっと一言。

 私の感想は、繰り返しになりますが返事(その20)に書いてあります。

> ところで、科学者だろうが素人だろうが、正しいかどうかには関係ないと思うんです
> が…。科学者がやっても素人がやっても、1+1=2(ただし、2進数では10)にな
> りますし…。

 正直、なぜ渡邊さんがそこまでこだわるのか、私にはさっぱり理解できません。最大素数さんのメール(その12)を読むと「ケジメをつけるA型」だからかなぁ、とも思いますけど(笑)。「素人モード」の渡邊さんには、間違いなくそう説明した方がわかりが早いのでしょう。あ、「科学者モード」では、そうじゃありませんから説明するだけ無駄か…。(^^;;

#ちなみに、最大素数さんはB型ですから、「科学者/素人の使い分けは、言葉上も実践上もしていません」。

 私(AB型)の立場は、必要があればするし必要がなければしない、ということです。現在は、特に必要性を感じていませんので…。そう言えば、A型の心理学者は、妙に「学説」と「俗説」の違いにこだわる人が多いのですが、気のせいでしょうか?

 最後に、論語からです。

 「子曰く、これを知るものは、これを好むものに如(し)かず。これを好むものは、これを楽しむものに如かず。」(雍也第六138)

 ここは学会じゃありませんから、楽しければいいと思うんですが(笑)。それで、科学的に厳密性があればもっといいということで…(大笑)。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その22) H12.2.20 14:00

ABOFANへの手紙(22)


ABOFANさん久しぶりに長文の「返事」ですね.まだまだ終われないかな(笑).最大素数さんもひさしぶり(普通の感覚でいえばそうでもないか?)のメールありがとうございました.

最初に細かいこと(私も不満モード).

>  ちなみに、「手続き」のことを心理学ではそう言ういうとのことですが、私にはピン
> ときません。しかし、プロシージャならピンきます。辞書を引くとデシプリンは「訓練
> 」で、プロシージャは「手続き」です(笑)。正当な手続きはdue procedureだし…。
> やはり、心理学はよくわかりません(大笑)。

パラダイムとディシプリンという用語(対比)は心理学のものではなくて,科学哲学で一般に使われるものです.おっしゃるとおり「ディシプリン」という用語は「専門教育の訓練によって伝達されていく方法・技術」という意味で,ディシプリンの前提となり,またディシプリンの存在によって維持される全体的な知識構造を「パラダイム」というわけです.たとえば佐藤達哉はディシプリンに「学範」という訳を宛てていますが,これなどわかりやすいのではないでしょうか.

これだってせめて「科学革命の構造」を読んでくれていれば,こんなところで論じなくてもいいことです.私はABOFANさんに「ABOFANのここのところを読め」といわれれば読み,「血液型愛情学を確認しろ」といわれればそれを本棚から出して読み,それを前提に議論しているのですが,なぜABOFANさんは私が議論の前提にしている資料を読んでくれず,その前提まで私に説明させようとしたのでしょうか.それはとても無駄で労力のいることで,この議論を通じて私が最も不満に思ったことです.

>  まず、「性格の一貫性」についてです。私は、ミシェルが示した以外の「性格の一貫
> 性」がないデータを教えてほしいと何回もお願いしてきました。しかし、それはいまだ
> に示されてはいません。その理由は不明だったのですが、最近やっとわかってきました
> (笑)。渡邊さんは、「正しいと証明されない仮説によって説明を行おうとすることを
> 批判すべきです.」と述べています。つまり、一貫性があるというデータがないからそ
> もそも示す必要さえない、ということだったようです。

これも同じで,私はこの問題について何度もクラーエ/堀毛監訳「社会的行動とパーソナリティ」北大路書房,を参考文献として示しました.この本ではミシェル以後の心理学者たちが一貫性の存在を証明するためにあがき,そして失敗し,ほぼ全員が基本的には状況を考慮に入れた相互作用論的立場をとらざるを得なくなった経緯が詳しく,それも日本語で示されています.ほんとに,読んでもらえば済むことだったのです.ちゃんと文献を示しているのに「示さない」というばかりか,示さないことを前提に私の考えを解釈するのはズルいと思います.

ただし,上記引用文の後半の解釈は正しく(笑),一貫性があるというデータはないのだから示す「必要」はないでしょう.しかし私はABOFANさんからそれを示すことを求められたので,きちんと文献を示しました.それを無視して上記のようにいうのはあまり感心しません.議論において片方は「あれこれを読め」で済んで,片方は文献に書いてあることをすべて自分の口から説明しなければならないというのは,あまりに不公平だと思います.まあABOFANさんは私の「教え好き」をうまく利用しようとした,ということなのかな(笑).


1.議論はなぜズレ続けたのか〜私の責任

今回の「返事」の優れているところは,これまでの私とABOFANさんの議論のズレがかなり明確にまとめられているところです.読んで私は大変に反省しました.それは最大素数さんの指摘についても同じなのですが,私の「語り口」の問題です.

私がここで論じた主なテーマを,この前の「第1フェーズ,第2フェーズ」よりもっと細かく,いくつかのレベルに分けてみると,

 1.現存の「血液型データ」が「現在心理学」上で信じられない理由
 2.現存の「血液型データ」が「将来心理学」上で信じられない理由
 3.「現在心理学」が血液型と性格の関係を「否定」する理由
 4.「将来心理学」が血液型と性格の関係を「否定」する理由
 5.これらの議論の基礎となる,科学的仮説の証明の手続き

だったのですが,私の議論が常にこれらをきちんと区別した上で進められていたかというと,自信がありません.毎回の文章量でもわかるように,私はあまり深く推敲して文章を書くタイプではありません.自分の思考のフローにまかせてどんどん書いていきますので,実質的に私の文章上の議論は「対面式で口頭で行う議論」と同じと考えてもらってけっこうです.したがって論旨の矛盾や交錯はかなりあるのではと思います.それでも基本的な論旨は大丈夫だと思ってるんですが,最大素数さんによるとそうでもないのかな.

最も大きな問題だと反省しているのは,上の1〜5をそれぞれ論じるときに,同じ例を重複して使ってしまい,結果として同じ問題について複数の結論を提示してしまっていることです.「相関」の問題でも,「1」レベルで「関係」として認めたあとで,「2」レベルで認めなかったり,「3」レベルで認めたことを「4」レベルで切り捨てたりしています.これはもちろん私の中では矛盾していないのですが,読む方にとってはわかりにくいはずです.

たぶんABOFANさんは「1」レベルと「3」レベル,とくに「1」レベルの議論を望んでいたわけですよね.そのせいで私が「2」「4」レベルで論じたことがABOFANさんから「1」「3」レベルの問題ととられて議論が交錯する,あるいはその逆,というようなことが多かったようです.

たとえば質問紙と血液型との「関係」の問題についての私の考えを,上記のレベルごとにきちんとまとめてみます.

<1>
(1)質問紙と血液型で有意な相関や差があるという例は確かに実在すると認められる.
(2)ランダムサンプリングしていないことは心理学でも一般的なので問題はない.
(3)疑似相関などのおそれを無視することも心理学では一般的なので問題ない.
(4)また,心理学者が「関係がない」としたデータにも,分析方法によって関係が出てくるものもあるのは事実である.
(5)しかしランダムサンプリングしないときの「暗黙の前提」である「同じ結果の出たデータの蓄積」という点で,心理学者から提出されたデータの中には「関係がない」というデータもあるし,検出される相関のパターンにも研究によってばらつきがあるので,まだ「関係がある」という結論はまだ出しがたい.
(6)とはいってもこのレベルでは血液型側がかなり有利(笑).

以上のことについては論証した.

<2>
(1)ランダムサンプリングしないデータを統計的検定などで一般化するのは間違いなので,血液型側のデータも,心理学側のデータも採用できない.
(2)とくに相関係数を用いる場合「疑似相関」の可能性を除去できる理論的・実証的根拠がないと因果関係(ほんとうの関係)は特定できない.
(3)質問紙データ自体が「性格」を測定するものとしては非常に不十分なので,それと血液型に関係が見られたからといって,血液型と性格に関係があるとは言えない.
(4)血液型側はこれらの問題に明確な反駁は不能なので,このレベルでは「将来心理学」が有利.

以上のことについては論証した.

<3>
(1)<1>の(3)の理由で血液型と性格の関係は確認できていない.だから関係あるように主張することは否定できる.
(2)しかし,すべての心理学者がそのような明確な理由で否定しているわけではなく,なかには何のデータ的根拠もなく「関係がない」と盲信している心理学者がいることもまったく否定できない.
(3)また,とくに性格心理学において「現在心理学」が用いている方法やデータの性質と,血液型性格学のそれとに,明確な優劣はない.
(3)そのため,心理学者は血液型性格論者をうまく説得したり,納得させることがまったくできず,かっこわるく退却したりしているのは明らかな事実である.
(4)したがってこのレベルでは血液型側がかなり有利.

以上のことについては論証した.

<4>
(1)行動データから客観的に分析された「性格」が状況の影響を大きく受けることが明らかになる一方,血液型のような「個人の内的な要因」が性格の様態に広範囲に影響するという証拠は得られていない.したがって「血液型性格学」が主張しているような「現象」が実在することは考えにくい.
(2)血液型も含めた「性格理論」が前提にしている「性格の一貫性」は,実際には状況の限定によって構成される認識であったり,単なる錯覚であったりする可能性が高くなっている.
(3)とくに性格関連行動の予測,制御において従来の性格理論がほとんど役に立たず,状況を考慮に入れた相互作用論的予測や,状況の統制による制御が有効であることから,相互作用論が「より正確で経済的」な理論である可能性が高くなっている.
(4)相互作用の「人側」要因として「血液型」がなんらかの影響力を持つ可能性はあるが,それが血液型側が主張するように性格の様態全体への質的な影響力であるとは考えにくい.
(5)これらのほとんどは少なくとも血液型性格問題についてはこれから検証されるべき「仮説」であるので「科学的に正しい」とはいえない.しかし血液型性格学の基盤になっている「従来型性格観」にも明確な証拠はない.したがってこのレベルでは血液型と「将来心理学」は互角,今後の成果に期待(笑).

以上のことについては論証し,文献を示した.

<5>
(1)科学的証明は「正しい証拠が十分にある」ことによってだけ行われる.そして,ある理論の正しさは,その理論を提唱する側が提出したデータが,それが属する「学問」のパラダイムの中で正しいと認められることによって確立する.
(2)科学的証明のパラダイムの中には「間違っているという証明」は存在しない.したがって「間違っているという証拠がない」という理由である理論が「科学的に正しい」と認められることはない.
(3)ただし,人間の日常的な論理では理論の正誤はもっぱら「間違っているという証拠があるかどうか」によって判断されるので,素人を説得するためには「間違っている証拠(のようなもの)」を提示することの必要と意義が大きい.
(4)この問題については心理学と血液型との対立はありえない.

以上のことについては論証した.


以上のようになります.なんだ,全体としては血液型の方が有利じゃないですか(笑).まあそれはそれでいいです.


2.質問に答える

以上のまとめでABOFANさんの疑問はかなり解消されると思いたいのですが,細
かい点については順を追って答えましょう.

2.1 科学と技術(工学)

>  この論理はいくら考えても私には理解できませんでした(苦笑)。というのは、現実
> のデータを説明できない(=説明する必要がない)からです。現実を説明できない理論
> なんて全くのナンセンス、という理系の「常識」は、どうやら心理学には通用しないよ
> うなのです。

これこそ「技術」の発想です.以下の点を確認してください.

 1.正しい理論は,かならず現実のデータを説明できる.
 2.現実のデータを説明できる理論がすべて正しいとは言えない.
 3.正しくない理論が現実をとりあえず説明できることはよくある.

あえて単純な例を考えます.地震の前にナマズが騒ぐ,ということは古くから知られていて,ナマズが騒ぐと地震が起きる,という経験則はある程度現実のデータ(地震の発生)を予測できます.昔の人はこのことから「ナマズが騒いで地震を起こしている」という「理論」を立てました.このとき,「ナマズが騒ぐと地震が起きる」という事実(データ)をこの理論はきちんと説明していますし,この理論にもとづいてナマズの動きから地震を予測することも一定の確率で可能です.

今から見れば,この理論は間違っています.しかし,他に地震を予測できる理論が何もないときには,地震の予測という目的のもとでは,この間違った理論による「予測の営み」には意味がありました.間違った理論がすべて役に立たないわけではありません.正しいかどうかと,役に立つかどうかは必ずしも常に連動するわけではなく,その「役に立つ側面」を重視するか,「正しさ」を重視するかが,技術と科学の違いです.その意味で,科学者が「その説明は正しくない」といっても,技術者はそれを「役立てる」わけですから,世の中は丸く収まります.

ただし,より新しい目的とか,より正確な予測や制御が問題になってきた時点で,間違った理論は役に立たなくなり,より正しい新しい理論に移行します.このとき,もし科学者たちも間違った理論の「有用性」だけを重視して,その間違いをきちんと追究していなかったら,新しい理論は出てきません.社会の進歩自体も止まります.

性格の問題でも,たとえば性格検査が一定の条件の下で確かに人の行動を予測できることは否定できないでしょう.これをこれまでの心理学が「性格というものがあり,それが行動を通状況的に一貫して決定している,性格検査は性格を測っている,したがって性格検査は通状況的に行動を予測できる」と説明していたことは何度も述べました.

しかし,そうした理論的説明が間違っていることは,性格心理学の中でも徐々に合意されています.性格検査が行動を予測できるのは,性格検査がある一定の状況的限定のもとで行動についての言語報告を求めており,その状況的限定と,検査結果による行動予測の場面における状況的限定とが一致した範囲で,言語報告と実際の行動との間に相関が生じるからで,性格の一貫性の力ではありません.

そこで,性格検査の予測力を上げるためには,性格検査の項目をできるだけ現実の行動と直接対応するものに統一するとともに,検査場面と予測場面との状況的類似性を測定し,それを高める方略を導入することが効果的,ということになります.このとき「性格理論」と道具としての「性格検査」は完全に乖離するわけですが,「役に立つ」ということが目的なら,これでいいわけです.ABOFANにも何度か出てきた坂元章氏は,こうしたことを「性格検査の工学的洗練」と呼びました(注1).言い得て妙とはこのことです.


(注1)坂元章氏  坂元氏の書いたり言ったりするものには,それを彼が真面目に言っているのか,とてつもなく鋭い皮肉なのかよくわからないことが多く,われわれはよく困惑します.しかし経験的には,ほとんどの場合本人には皮肉を言っているつもりはないようです.この「工学的洗練」も,私はさいしょ皮肉だと思ったのですが,違うのだそうです.歪んでいるのはこっち,ということです.


2.2 科学における肯定と否定について〜最大素数さんへの答えも含む

> また、すべての性格の認知について検討して性格と関係するものがひとつもなかったと
> しても、人の性格というのは非常に複雑なものであるから、これまでどの性格の認知で
> も認知されていない非常に重要な要素が存在して、それが性格と関連している可能性が
> 残る。
>
> ということで、完全に否定することはできないはずなのですが…。

この議論,議論の趣旨自体はまだしも,上の引用+修正文が間違っています.「どの性格の認知でも認知されていない」というのは認知されていないわけですから,性格との関連を論じる以前の問題.すべての認知を検討して関係するものがなかったらなら,認知と性格が関連している可能性はないじゃないですか.

なんだ,この前の「ズル」自体,まじめに考える必要なか?たんだ.ああ損した(笑).なんであのときわからなかったんだろう.

たぶんABOFANさんが言いたいのはこういうことでしょう?

> また,心理学的に分析可能なすべての性格の認知について検討して性格と関連するもの
> がひとつもなかったとしても,人の性格認知というのはひじょうに複雑なものであるか
> ら,これまで心理学的に分析されていない非常に重要な要素が存在して,それが性格と
> 関連している可能性が残る.

そりゃあ当たり前です.ただ,それを言ってしまったら「仮説の検証」は不可知論になってしまい,科学自体が成立しなくなります.幽霊だっているかもしれないし,占いだって当たるかもしれないし,前世はあるのかもしれない.「まだ科学的に分析されていない要素があって,それが分析されれば実在が証明されるかもしれない」ということを「理論の正しさ」の基準にしてしまったら,すべての理論は正しいでしょう?

だから,科学は「正しいという証拠が明確にある」ものだけを正しいと言うことにして,そうでないものは「正しいという可能性があっても(実質的に,この世に存在するすべての仮説には正しいという可能性があります),正しいという証拠が明確でなければ正しくないと結論する」という扱いをすることに「決めている」のです.そういう意味では,私がエスプリに書いたことは血液型の肩を持った結果,非科学的な不可知論になってしまっていました.その批判については甘受します.

ですから,現状では正しくない理論が,将来的に正しくなる,ということはいくらでもあるし,何の矛盾もありません.最大素数さんが,

> これは、その時点で下した結論が後に「間違っていた」と判明したっていうだけのこと
> でしょう。不十分な証拠ながらとりあえず下した結論が後に「やっぱり正しかった」と
> いう話しと同じレベルです。

というのはまったくその通りですが,しかしそれになにか問題があるのでしょうか?
証拠がなくて「正しいか正しくないかわからない」時点で,科学者は「正しいとは言えない」という結論を出すし,素人は「間違っているとは言えない」という結論を出すことが多い,このふたつは別の世界の論理で,矛盾するものではない,といっているのですが,間違ってますか?

どうも私は「科学的仮説検証では正しい,正しくないをどう認定する仕組みになっているか」という手続論をし,その手続から言って科学者は「血液型と性格に関係があるとは言えない(現時点では否定)」と考える,という話をしているのに,ABOFANさんは「それでも正しいかもしれないから否定はできない」という別レベルの話をしている気がします.

もちろん,科学的に正しくないからといって,科学は何かを否定する論理は持っていないのですから「完全に否定する」ことなどできません.それは何度も述べました.それに,この世にある「正しいもの」のうち,科学が正しいと証明できることなど,それほど多くはないでしょう.だから,科学的に証明されないものを「正しい」と信じることにはこれといった問題はありません.

ましてや,それが科学的には間違っていても,役に立つことはいくらでもあるのだから.占いだって,われわれの日常生活では対人関係の不安低減とかうまく行かない人生の言い訳とか,いろいろと役に立っているでしょう? ただ,それが役に立っているのは必ずしも「占いが当たっているから」ではないというだけです(注2).

ただ,ABOFANさんが自分なりの「科学観」のなかで,血液型は科学的にも正しい,みたいな話をする(たとえば「心理学者も関係を認めざるを得ない」とかね)から,私は自分の「科学観」をきちんと説明した上でその議論をしようとしているわけです.あえて「頭の固い科学原則論者」になってね.


最大素数さんのメール.

> 渡邊さんの、初めからの主張「血液型と性格に関係があるなんて"信じられない"」は、
> そういう"カン"の部類かなあ、と思ったり、「不十分」ながらもそれらしい「証拠」を
> みてもダメ・データは駄目と目を瞑ってしまう"カン"の悪さに、この人は最後まで「沈
> 没」を認めない側なのかなあ、と思ったり・・・。

あのね,もちろんデータの議論以前に関係あるなんて信じられないですよ.それは最初の方でもはっきり言ったし,だからデータの議論なんかしたくないとも言ってるでしょう? 血液型みたいなもので性格は決まらないのは自分がこの10年以上やってきた「新しい性格観」研究からも明らかだし,まあデータがない部分はカンもありますね.

でもここでは「こういうデータが出てるんだから科学的に正しいと言えないのか」という議論をされているから「そんなこと言ってもあんたそりゃあダメデータだ」って話をしてるわけです.つまり相手方が「証拠だ」っていってるデータが自分から見て証拠に見えないから「ダメだ」と言ってるわけですよ.そういう意味じゃあんなデータを信じたり,見せられてアタフタしちゃう心理学者の方が明らかに「カン」に欠けてると思うなあ.

> 「不十分」ながらもそれらしい「証拠」

って,具体的にどれがそうですか? 私にはそんなものひとつも見つけられませんでしたし,見つけられないという理由も縷々述べましたよね.

どんなデータでもとりあえず認めちゃったり,証拠のないものでも全部認めちゃったりするのが「カン」だったら,私はそんなものいらないです.もちろん,証拠のないものを全部否定しちゃってたら進歩はないけど,そういう意味での「科学者のカン」っていうのは「証拠はないけどなんかイケそうだぞ」ってものを見つけるもので,血液型については「証拠もないし全然イケそうにも見えないぞ」っていうのもやっぱりカンでしょう?

私の「新しい性格観」だって「証拠はない」わけで,それは私が「カン」でこっちが正しいなあ,って思っているわけ.血液型を信じる人にはカンがあって,「新しい性格観」を信じるのはカンが鈍い? 私はそれこそまったく反対だと思うわけです.

で,そういう「カン」っていうのは神秘的なものでも偶然でもなく,それまでの学者としての蓄積から導出されるものだと思います.自分がそれを「カン」としてしか意識できないとしてもね.

あーあ,ちょっと熱くなってしまった.自己嫌悪.


(注2)占い  もちろん心理学者は「占いがあたっているという証拠はない」ということを調べた上で,「では正しくない占いが同様に役に立っているのか」ということを「科学的に」調べようとします.


2.3 その他の細かな質問について

>  メール(その20)では、
>
>> 私は前にはっきりと「私があげた条件にかなったデータで血液型と性格に関係が
>> 見いだされたら,それを認める」と宣言しています.
>
>  しかし、メール(その2)では、
>
>> 状況や関係性からまったく独立な「性格」が行動に現われるなどということは現実
>> にはないし,性格がそうした状況や関係性とは別の何か(体格とか遺伝とか血液
>> 型とか)から詳細に予想されたり,説明されたりすることはありえません(注5).
>> そ
>> のように見えるのは(従来の性格心理学も含めて)すべて錯覚です.そして,そう
>> した錯覚のしくみはすでに心理学によって解明済です.だから私は血液型性格判
>> 断を信じないのです.
>
>  メール(その4)では、
>
>> もし万が一血液型が性格に影響する遺伝要因と強く関係しているとしても,それに
>> よって血液型が「血液型性格学」が主張するように具体的な性格のありさまを決め
>> たり,それと強く関連するようなことは考えられません.
>
>  メール(その20)が正しいと判断していいのでしょうか?

これは2.1で説明したことでわかってもらえると思います.それぞれの説明は別レベルのもので,それぞれそのレベルでは正しい.まとめれば,(私が提唱したような)一定の条件が満たされれば血液型と性格との関係を認めるにやぶさかではないが,そんな関係がおそらく出ないであろうことは,私の知識や経験からかなり確実に予想できるので,まず自分が関係を認めなければならないような日は来ないであろう,ということですね.


>> 「渡邊席子論文の解釈の問題」はもう少しよく考えてからもう一度説明する必要があ
>> ると感じればまた書きます.今のところはその必要を感じていません.
>
>  その必要を感じていない、と解釈していいでしょうか?
>

感じてません.理由は前に述べたとおり.


>  「血液型の検定にχ2検定を使うのは間違いだ」というような人は、「理科的なアホ
> 」以下の存在なのでしょうか? 学部レベルならともかく、「一流大学」の院生レベル
>でもそういうケースがないとは言えないようですが…。

ああ,それはまったく同感です.「心理学はこころの働きを統計という科学によって分析するものです」なんて書いてある院生のHPも見ましたよ.バカかもね.


>> ただ,一部の向精神薬のように「暗い気持ちを抑え,明るい気持ちを強める」
>> などある程度変化の方向性を決められるものもあります
>
>  程度の差はあれ、特定の方向に変わるなら向精神薬で「性格は変わる」と言えないの
> でしょうか?

言えますね.でもそれが効いて,状況に関係なく明るくなったりすることは人間としては「異常」な状態です.ここでの議論は基本的に正常な状態での性格を問題にしています.

 
>> 科学は「赤の他人についての学問」であり,自分のことを考えるときには科学
>> 的な論理は役に立たないことが多いのです.
>
>  本当にそう思っているのですか?? (@_@)

そう思っています.このことは渡邊芳之・佐藤達哉「パーソナリティをめぐる視点と時間の問題」(心理学評論,1993)で詳しく論じています.


>> ABOFANさんは信じないかもしれませんが,私の実体験では「2」のタイプの
>> [注:血液型と性格は関係ある]心理学者も実はかなり多いです.
>
>  本当にいるなら、ぜひ紹介してください!

血液型関係の発表を学会とかでしてると,かならず「あー,血液型,関係ありますよねー,私も実はA型でー」みたいに話しかけてくる人がいました.また大学院時代にも,周囲に信じている人が何人もいて驚かされました.そういう人たちは私の知る限り全員「実験系」心理学者でした.そういえば最近そういう人を見ないなあ,「タブー」が浸透してるのかもしれないですね,そういう意味では私や佐藤達哉も「血液型信じているなんていうとうるさいぞー」というタブーを作っているのかもしれない(笑).


>> 正しい仮説を棄却してしまうことが科学に与える損害と,間違った仮説を採択してし
>> まうことが科学に与える損害とでは,一般的に後者の方が大きいからです(注1)
>
>  環境ホルモンや遺伝子組み替え食品は危険性が証明されていないから安全ということ
> になりませんか?

この問題で企業や厚生省側は「危険性が証明されないから安全」という主張をとっていますが,消費者団体側は「安全性が証明されないから危険」という立場をとり「安全性の立証責任」を企業に求めています.

「安全性」というのはおそらく「危険性がないこと」としか定義できないでしょうから,ないことの証明はできない,だから危険性があるとは言えない,ということになりますね.でも「危険性があるか」は証明できます.危険性があるという証拠が十分に蓄積されれば,その結論は可能です.ただ,現状ではそれらの証拠は十分ではないようですね.いずれにしても「危険性があるという証拠」が得られないとき,安全だと考えるのは「科学の論理」としては正しいでしょう.

実際,遺伝子組み替え食品がまったく安全である可能性も十分にあります.

ただ,この問題は「科学者対科学者」の問題ではなく,「製造者対消費者」の問題であることが重要です.このような問題では消費者は「素人の論理で納得できること」を求める権利があると考えられるのが普通です.

素人の論理では「危険性がないという証拠がなければ安全ではない」と考えるわけで,消費者としては「危険性がない証拠」を提示するか,それができないならば消費者が自分で判断できるように「遺伝子組み替えをしているかどうかの表示」を求めるわけで,現実にそれは実現する方向で進んでますね.

過去にこうした裁判などで素人の論理より「科学」が優先されたこともありますが,世の中の流れは,こうした問題では「素人の論理」を優先するようになってきています.それは,よいことだと思います.

私は科学的には遺伝子組み替え食品の危険性は証明されてないので,いまのところ安全なのだろうと思いますが,個人的には気味が悪いので食べません.そして,そうした素人としての論理による決定が可能であるように,食品会社はそうした材料を使っているかどうかを製品に明記する義務があると思います.


あと,最大素数さん.

おっしゃることはおよそごもっともです.私も,逆の立場で同じような主張をされたら,同じように感じるでしょう.しかし,私はここでは敢えてそれをやっているのです.もし議論が最初から最大素数さん相手であれば,今回最大素数さんが異議を唱えられたような主張のほとんどは,私もしなかっただろうと思います.

目的に応じた戦い方,敵の出方論です.そして,ここでは私は最大素数さんを主な「敵」として議論しているのではありませんし,私があえて「科学ドグマ主義者」を装うことでやっつけようとしている「論理」も,最大素数さんの述べられた論理ではありません.したがって,最大素数さんという「敵」との戦い方としてはあまりうまくない戦術を私がとってしまい,それが最大素数さんにある種不快な印象を与えたのではとも思います.その点では私は最大素数さんにかなり甘えていました,ごめんなさい.

いずれにしても,次回は本格的にまとめます.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その22)

> パラダイムとディシプリンという用語(対比)は心理学のものではなくて,科学哲学
> で一般に使われるものです.

 これは大変失礼しました。(^^;;

> これだってせめて「科学革命の構造」を読んでくれていれば,こんなところで論じなく
> てもいいことです.

 この文章はよくわかりません。なぜなら、ここは学会ではないからです(笑)。私のHPをざっと読めば、私が『科学革命の構造』を読んでなさそうなことはわかると思うのですが…(苦笑)。私はそういう意味では「素人」ですから、別に恥とは思っていません。資料が必要と思ったらなら入手できれば読むつもりですし、読んでなかったり理解できなかったりしたら、素直にそう書いているつもりです。

#現在のところ、幸いなことに議論が成立しているようなので、幸いなことに「科学革命の構造」を読むことが必要と思っていません…。

 一応私の基本的なスタンスを説明しておきましょう。HPを読めばわかるとおり、特に予備知識や資料は要求していません。それが、読者へのサービスだと思っているからです。

> 私はABOFANさんに「ABOFANのここのところを読め」といわれれば読み,「血液
> 型愛情学を確認しろ」といわれればそれを本棚から出して読み,

 ABOFANは読める環境にあるから読めるでしょう(笑)。「血液型愛情学」についても、確認してほしいとは言っていないつもりなのですが…。

#と書いたら、確かに返事(その3)で「どうかご確認ください」と書いていました。(^^;;

 で、ちょっと言い訳を書いておきます。(^^;;

 この「ご確認ください」は、読むことを強要しているつもりはありません。『血液型愛情学』に「行動上の性格と血液型との関連」するデータが存在するという事実を「ご確認ください」という意味で書いたつもりなのですが…。あくまでも事実関係の確認です。確認できなければ、その部分を引用するつもりではいました。

> なぜABOFANさんは私が議論の前提にしている資料を読んでくれず,その前提まで
> 私に説明させようとしたのでしょうか.それはとても無駄で労力のいることで,この議
> 論を通じて私が最も不満に思ったことです.

 不満に思ったのは申し訳ありませんでした。ただ、以上のような私の基本姿勢はご了承いただくようお願いします。

> 私はこの問題について何度もクラーエ/堀毛監訳「社会的行動とパーソナリティ」北
> 大路書房,を参考文献として示しました.

 幸いに、この本は手元にあるので全部読みました。(^^) ほとんどの渡邊さんの論文には参考文献として書いてあるので、それはもちろん私も承知しています。しかし、このHP上で紹介されたのは今回が初めてなはずですが…。

#紹介された他の文献は入手できないものですから。(^^;;

1.議論はなぜズレ続けたのか〜私の責任

 今回は非常によくわかりました(笑)。確かに、心理学者と議論するときは、こういうケースはよくあります。(^^;; そんなことは最初から予想していることで、別に不思議でもなんでもないのですが、今回のようにコンテンツが1MB以上(!)になってもわからないケースはありませんでした。

 いずれにせよ、私の論理を部分的にしても「正しい」と言っていただいた心理学者は初めてです。どうもありがとうございます。

 さて、疑問点をいくつか確認させてください。

> <2>
> (1)ランダムサンプリングしないデータを統計的検定などで一般化するのは間違い
> なので,血液型側のデータも,心理学側のデータも採用できない.

 返事(その21)に書いたように、これでは「幕内力士のうっちゃられ回数」や「遊園地の迷子」は説明できません。背理法の説明を再掲しておくと、

  1. もし、血液型と行動に全く関係がなかったら、幕内力士のうっちゃられ回数は血液型にかかわらず同じになるはずである
  2. しかし、現実には幕内力士のうっちゃられ回数は血液型によって違う(圧倒的にB型が多く、統計的にも有意に差がある)
  3. 従って、血液型と行動は(一部にしても)関係がある

 となると、どんな論理で否定できるのですか? いままでの渡邊さんの説明では、「ランダムサンプリングしてなかったら危険率自体に意味がない」という理由しかないようですが…。しかし、論理学・統計学的には、この場合は「ランダムサンプリングしてなくとも危険率に意味がある」はずです。

> <2>
> (2)とくに相関係数を用いる場合「疑似相関」の可能性を除去できる理論的・実証
> 的根拠がないと因果関係(ほんとうの関係)は特定できない.

 「相関がある」ことが証明されても「疑似相関がない」ことが否定できない限り「相関がない」ということだと理解してもいいのですか? そうなると、論理的に「疑似相関がない」ことを証明することは不可能ですから、すべて「相関がない」ことになってしまいますが…。「『疑似相関』の可能性を除去できる理論的・実証」とは具体的にどのようなものなのでしょうか?

> <4>
> (1)…血液型のような「個人の内的な要因」が性格の様態に広範囲に影響するという
> 証拠は得られていない.したがって「血液型性格学」が主張しているような「現象」が
> 実在することは考えにくい.

 広範囲でなくとも、一部には影響する(=相関がある)ことは確かです。それは、渡邊さん自身も認めていることだと思うのですが…。「広範囲」とは具体的にどの程度ならそう言えるのですか?

#だいたい、能見さんも「広範囲」とは言っていないはずですが…。

> (2)血液型も含めた「性格理論」が前提にしている「性格の一貫性」は,実際には状況
> の限定によって構成される認識であったり,単なる錯覚であったりする可能性が高く
> なっている.

 これも何回か説明があったのですがよくわかりません。(^^;; 確かに、CAPS理論では「状況」の定義がいいかげんである、というケチを付けることができます(笑)。しかし、血液型の場合は「状況」は血液型しかありませんから、ケチの付けようがないと思うんですが…。となると、私の理解では「ランダムサンプリング」しか問題になる点がありません。

 こういう理解でいいのですか?

 なお、能見さんは性格心理学で言う「性格の(通状況的)一貫性」については一貫して批判的でした。能見さんが主張しているのは、あくまでも「首尾一貫性」です。

> (5)…したがってこのレベルでは血液型と「将来心理学」は互角,今後の成果に期待(笑).

 少しは同感です(笑)。

> <5>
> (1)科学的証明は「正しい証拠が十分にある」ことによってだけ行われる.そして,
> ある理論の正しさは,その理論を提唱する側が提出したデータが,それが属する
> 「学問」のパラダイムの中で正しいと認められることによって確立する.
> (2)科学的証明のパラダイムの中には「間違っているという証明」は存在しない.し
> たがって「間違っているという証拠がない」という理由である理論が「科学的に正し
> い」と認められることはない.
> (3)ただし,人間の日常的な論理では理論の正誤はもっぱら「間違っているという証
> 拠があるかどうか」によって判断されるので,素人を説得するためには「間違ってい
> る証拠(のようなもの)」を提示することの必要と意義が大きい.

 これもよくわかりません。例えば、ニュートン力学は、「光速度一定」とか「光は粒子である」とか「水星の近日点移動」というような現象を説明できませんでした。これらは、「間違っているという証明」ではないのですか? もちろん、(物理学ではなく)統計学なら、「正しい証拠が十分にある」で十分でしょう(笑)。渡邊さんは、具体的にどういう科学理論を前提としているのでしょうか?

#言うまでもなく「将来の心理学」なのでしょうか?

2.質問に答える

2.1 科学と技術(工学)

> これこそ「技術」の発想です.以下の点を確認してください.
>
> 1.正しい理論は,かならず現実のデータを説明できる.
> 2.現実のデータを説明できる理論がすべて正しいとは言えない.
> 3.正しくない理論が現実をとりあえず説明できることはよくある.

 これもよくわかりません。科学には「正しい理論」は存在しないですから…。どんな科学理論にも「適用範囲」があり、その範囲でしか正しくありません。ある適用範囲において「現実のデータ」を説明できるのが「正しい理論」であり、それはアプリオリに正しいのではありません。渡邊さんが言っているのはたぶん違う意味だと思うのですが、メールを読む限り私にはこのようにしか理解できませんが…。

> そこで,性格検査の予測力を上げるためには,性格検査の項目を
> できるだけ現実の行動と直接対応するものに統一するとともに,検
> 査場面と予測場面との状況的類似性を測定し,それを高める方略
> を導入することが効果的,ということになります.

 この方略は実際に効果が上がったのですか? もしそうなら、「性格」は実在することになりませんか? 坂元さんの提案は私にはもっともだと思えますが…。

2.2 科学における肯定と否定について〜最大素数さんへの答えも含む

 ほぼ同感です(笑)。ただ、私が血液型と性格に「関係ある」と思っている理由は2.1に書いたとおりです。

2.3 その他の細かな質問について

 丁寧に答えていただいてありがとうございました。

 一つだけ疑問を提出しておきます。

> >> ただ,一部の向精神薬のように「暗い気持ちを抑え,明るい気持ちを強める」
>>> などある程度変化の方向性を決められるものもあります
> >
> >  程度の差はあれ、特定の方向に変わるなら向精神薬で「性格は変わる」と言えないの
> > でしょうか?
>>
> 言えますね.でもそれが効いて,状況に関係なく明るくなったりすることは人間とし
> ては「異常」な状態です.ここでの議論は基本的に正常な状態での性格を問題に
> しています.

 返事(その15)にも書きましたが、プロザックを飲むと付き合う友達が変わるらしいです。そのため、マスコミ関係者や芸能人では正常者でも愛用者が多い(本当かな?)、とか書いてありました。ウラを取っていないのでなんとも言えませんが、本当だとするとやはり「性格」は存在するのではないかと思いますが…。

> 「タブー」が浸透してるのかもしれないですね,そういう意味では私や佐藤達哉も「血
> 液型信じているなんていうとうるさいぞー」というタブーを作っているのかもしれない(笑).

 やっぱり(笑)。

 ところで、ちょっと訂正です。

 遺伝子「組み替え」食品ですが、豆腐のパッケージを見たら遺伝子「組換え」食品と書いてありました。(^^;; あわてて厚生省のHPを見たらやはり「組換え」の方が正しいようなので、ここに訂正しておきます。

 さて、同じような問題は、原子力を代表例としていくらでもあるのです。今回はたまたま遺伝子組換え食品ですが、ちょっと前はJCOの原子力臨界事故や環境ホルモンだし、かなり前は石油タンパク(若い読者は知らないだろうなぁ…)、といった具合です。

 閑話休題。

 「子曰く、民(たみ)は之(これ)に由(よ)らしむべし。之を知らしむべからず。」(泰伯(たいはく)第八194)

 この意味は、「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実をそのまま述べた言葉だそうです(山本七平さんの『論語の読み方』による)。私は、「民になにも知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と覚えていたのですが、山本さんによるとこれは「俗解」だそうで…。

 ここで、政治を科学に置き換えてみましょう。「大衆に科学に対する信頼をかちうることはできるが、科学の内容を知らせることはむずかしい」ということになります。孔子の時代の民衆と現代の大衆を比較するのは少々問題ですが、確かに事実には違いありません…。となると、メーカーや厚生省の対応が間違っているのは明らかです。彼らは、遺伝子組換え食品は「科学的に安全」だ、としか主張していません。そんなのはいくら言ってもムダなだけです。なぜなら、「科学の内容を知らせることはむずかしい」のですから。現に、渡邊さんだってそう感じているわけで、やはり「民は之に由よらしむべし。之を知らしむべからず。」は現代でも正しいようです…。

 JCOの原子力臨界事故だって、純粋に科学的見地からすれば言われているほどのことはない…はずです。が、「科学の内容を知らせることはむずかしい」のですから、現実的には「科学に対する信頼をかちうる」ような対応をすることが正しいのですし、そういう方向で動いているようですね。

 『論語』は現代社会にもしっかり生きているようです…。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その23) H12.2.21 13:40

ABOFANへの手紙(2


参考文献に関する話はそういうことならそうでもいいです.たしかに「科学の内容を知らせることはむずかしい」わけで,科学の内容を知らせるための基礎的な知識を一般人側に求めると今回のようなことになるし,かといってその基礎的な知識も説明するというと大変.その点では「素人には成果だけ知らせる」方がずっと楽ですよね.そんな話は最初の方でもしたかな.まあ「楽じゃない」ことは覚悟の上で始めた仕事なんだから,そんなことで泣き言をいう自分の方が悪いのかも,とも思います.

次回こそいよいよまとめます(笑).


1.ABOFANさんとの意見の相違について

今回は「質問」としてあげた「単刀直入な問い(笑)」に,できれば「返事」で答えていただけるとまとめがやりやすくなりますので,よろしくお願いします.

今回の「返事」を読むと,ABOFANさんは以下のように主張しているように読めます.

 あるという証拠は不十分でも,ないという証拠はないんだから,血液型と性格に関係ないとは言えないでしょう?

ということです.これは2つの解釈が可能です.

  1. 「科学はあるという証拠が十分になければ正しいと認めない」という原則は認めた上で,血液型と性格の関係は科学的には証明されないかもしれないが,だからといって「科学的に否定された」とは言えないだろう,という主張である.
  2. 科学に関する渡邊の主張が間違っていて,科学は「証拠は不十分でもいくつかあれば,間違っているとはっきり証明されない限りは正しいと考えても良い」と考えるものではないか,という主張である.

 質問1 最初のまとめや,2つの解釈は妥当ですか? 妥当であればABOFANさんの主張は2つの解釈のうちどっちなのでしょうか?


「1」であれば,その通りだと私も思います.私が言っているのは,現存する血液型と性格の関係に関する証拠は不十分なので関係が科学的に証明されたとはいえない,現在の科学の慣習ではそういう場合には「関係がない(あらない)」と結論する,ということで,「血液型と性格の関係ないことが証明された」ということではありません.

したがって「科学的に証明されない」からといって「関係ない」と決定したわけではありませんから,ABOFANさんが「否定されたわけではない」ということは自由です.そういう点で心理学者が「血液型と性格との関係は科学的に否定された」みたいなことを書くのは確かに間違いです(「科学的に証明されていない」なら正しい).

ただし否定されないからといって「血液型と性格との関係は科学的にも実証された」みたいなことや「科学的に否定されていないから科学的に正しい」みたいなことをABOFANさんが言うことはできません.「否定されないこと」と「実証された(科学的に正しい)」ことは全く別だからです.ABOFANさんが言ってもいいのは「血液型と性格の関係は(科学的に実証されていないが)否定されたわけではない」ということだけです.


ABOFANさんの主張がもし「2」であれば,科学についての考え方の根本的相違で,私の科学と,ABOFANさんの科学とが違うということになります.まあこれは思想の違いですから,議論しても仕方ないかもしれません.ただ,この問題については分野を問わずほとんどの科学者が私と同じか,私に近い立場をとるはずです.

なぜなら,「ABOFANさんの科学」というのは,実質的に科学として機能しないからです.

ABOFANさんの科学はどうやら「背理法」による科学であるようです.たとえば

> 1.もし、血液型と行動に全く関係がなかったら、幕内力士のうっちゃられ回数は血液型
> にかかわらず同じになるはずである
> 2.しかし、現実には幕内力士のうっちゃられ回数は血液型によって違う(圧倒的にB型
> が多く、統計的にも有意に差がある)
> 3.従って、血液型と行動は(一部にしても)関係がある

つまり,もしその仮説が正しくないならばそれを支持する証拠はないはずである,したがってひとつでも証拠があればその仮説は「(一部にしても)正しい」のである,ということですね.

 質問2 このまとめは正しいですか?

しかし,そういう論法をとると,この世の仮説のほぼすべては「(一部にしても)正しい」ということになります.そもそも,ふざけていない,まじめに提唱される仮説で,なんらかの証拠や事実(体験)を基盤としない仮説など,ふつうは考えられないからです.

 質問3 背理法で考えて「全く正しくない仮説」とはどんなものですか? そうしたものにはどのような実例があげられますか?

たとえば,以下のような主張も正しくなります.

  1. もし,占いが全く正しくないなら,占いが当たるということはないはずである.
  2. しかし,現実には占いが当たるという実例があるし(注1),占いは当たると主張する人がたくさんいる.
  3. したがって,占いは(一部にしても)正しい.

 質問4 この「背理法」とABOFANさんが血液型と性格の関係を論証する背理法との間に違いがありますか?
     もし違いがないなら,ABOFANさんが血液型は信じ,占いは信じないのはなぜですか?
     あるいは同じ「背理法」で幽霊の実在も証明できますが,ABOFANさんはそれで幽霊を信じますか?

誰かがなんらかの仮説を提唱するときには,必ずその時点で仮説の根拠になる「事実=証拠」があり,それを根拠に仮説が提唱されます.「背理法」ではひとつでも証拠があれば「仮説は(一部にしても)正しい」ということになりますから,すべての仮説は提唱された時点で「(一部にしても)正しい」ということになります.

すべての仮説が最初から正しいのでは,科学的検討などできない(あるいは必要ない)と思いますが,いかがでしょうか? 「いや,一部にしても正しい仮説の中からより正しいものを選んでいくことはできる」といえるかも知れませんが,そのとき「より正しいもの」を選ぶ基準はなんですか? 「正しいという証拠が十分ある」ということ以外ないのではないでしょうか.

 質問5 この結論には同意してもらえますか.同意できないなら,それはなぜですか?


(注1)占いが当たるという実例  私の高校時代の友人Hは占いで「水難の相がある,水や酒,飲み物に注意せよ」といわれましたが,その翌日に定食屋で豆腐に誤ってソースをかけ,店の人に水洗いしてもらった豆腐がビチョビチョで服を濡らし,その晩の宴会で酔いすぎて彼女にからんでフラれ,その翌日にはバンドの練習中に飲んでいた炭酸飲料水でひどくムセた時に(それと関係があるかどうかは不明だが)てんかんの発作を起こして病院に運ばれました.私はその一部始終を直接この目で目撃しましたが,「まさに水難の相だ」と感嘆したのを覚えています.



2.なぜかふたたびランダムサンプリングの問題

2つの「背理法」についてABOFANさんは,どちらも証拠は少ないが,血液型の証拠は「データに基づいた科学的なもの」で,占いの証拠は「科学的なものではない」から違う,というかも知れません.しかし,その反論は有効ではありません.これは本当は「背理法」の問題とは別の問題ですが,関係あるので述べておきます.

たとえば「占いが当たるのは単なる偶然であり,血液型とうっちゃられの関係は単なる偶然ではない」と言えるでしょうか.言えません.それは,どちらのデータもランダムサンプリングされていないので,単なる偶然という可能性は同じだからです.

前に詳しく詳しく述べたように,ランダムサンプリングされていないサンプルでは,そのサンプルから得られた関係や傾向が全く偶然である可能性が統制できません.

うっちゃりの例でいえば,たしかにABOFANさんがあげるサンプルでは血液型との関係があったかも知れませんが,それがランダムサンプリングによらない場合,そのサンプル以外のサンプル,そして母集団では差がない可能性が十分あります.

具体的にいえば,ABOFANさんのデータが採られた「場所」ではたしかに「うっちゃられ回数と血液型に関係があった」かも知れませんが,他のすべての「場所」ではまったく関係がないかも知れません.また,データを採る対象になった力士については関係があったかも知れませんが,対象となっていない力士では全く関係がないかも知れないのです.つまり,ABOFANさんの示す「証拠」は,そのデータが採られた時と場所に限って生じた「偶然」である可能性が十分にあります.

「いや,2つの場所でやってどちらも関係があった,だから偶然ではない」というかも知れませんが,場所が100場所あるとして,のこりの98場所では関係がない,偶然が重なって2場所続けてそういう結果が出た,という可能性は(上の場合よりは少し減りますが)十分にあります.

ランダムサンプリングしていれば,そのような問題はありません.ランダムサンプリングするかしないかは「危険率の計算ができるかできないか」などという些末な問題ではなく,そのデータが偶然でないと言えるか言えないか,という根本的なデータの価値とつながっています.

もちろん,ランダムサンプリングしないで関係が見られたときに,それが「偶然であるという証拠はない」ということを「背理法」でいうことはできます(笑).しかし,それなら「占いが当たったという事実」を偶然だということもできなくなります.それだって偶然であるという証拠はないのですから.

 質問6 占いが当たったという事実が偶然であり,血液型とうっちゃりは偶然でないといえる根拠が他にありますか?

しかし,ランダムサンプリングしていれば「それが偶然ではない」ということを「危険率」という形できちんと示すことができます.どちらが優れているかは一目瞭然でしょう.

「占いは当たると主張する人がたくさんいる」という根拠,それは単にそう信じているだけで事実ではない,錯覚だ,血液型のデータはそうではない,なんてまさか言いませんよね(笑).言ったらABOFANさん自身の足下を崩すことになるのは明白です.

やはり,「背理法」を用いて「正しさ」を論証すると,血液型が正しいと言えるなら占いも,幽霊も,雪男もみんな正しいことになってしまいます.もしABOFANさんがそれでいい,幽霊や占いと同じレベルで血液型も正しいと言うことで問題ない,というなら私はこれ以上なにも言いません.

でもそれより「正しいという証拠が十分なものを(そうでないものより)正しいとする」という論理の方がわかりやすく,仮説と仮説の差をきちんと付けやすいと思いませんか? 思わないかなあ....

(この議論は「背理法」において占いと血液型を区別できるか,という論旨で行なったもので,ランダムサンプリングに関する心理学の慣習はまた別の問題です.また,心理学的仮説検証は「背理法」を用いません.ランダムサンプリングと心理学の問題についての議論は十分行なったはずですので,そちらの方向へ議論を持っていくのはやめてくださると助かります.)


3.「議論を避けている」といわれないために

>> (2)とくに相関係数を用いる場合「疑似相関」の可能性を除去できる理論的・実証
>> 的根拠がないと因果関係(ほんとうの関係)は特定できない.
>
>  「相関がある」ことが証明されても「疑似相関がない」ことが否定できない限り「相
> 関がない」ということだと理解してもいいのですか? そうなると、論理的に
> 「疑似相関がない」ことを証明することは不可能ですから、すべて「相関がない」こと
> になってしまいますが…。「『疑似相関』の可能性を除去できる理論的・実
> 証」とは具体的にどのようなものなのでしょうか?

データを採る前にまともに理論的な検討をしていれば,疑似相関を生み出している可能性のある変数はだいたい想像はつきます.それらをきちんと変数としてデータを採っておき,統制して偏相関を計算して,それで相関が出ていればOKです.疑似相関がないという証明をするのではなくて,疑似相関が想定されるような変数についてはきちんと潰す必要がある,というだけのことです.

それをやるためにはデータを取り直さなくちゃいけない? 当然です.べつに私の提唱した「行動データ」を採れといっているのではなく,もう一度能見さんの本を良く読んで,偏相関を作り出す変数として読めるようなものはないか,せっかくだから「相互作用」を分析するための別の独立変数についての情報はないか,ちゃんと検討して,それをデータとしてとれるようなきちんとした質問紙を作ってデータを取り直すだけのことです.それもやらない,というのであれば最初からデータでちゃんと話をする気などないのだ,と結論せざるを得ません.


>> (1)…血液型のような「個人の内的な要因」が性格の様態に広範囲に影響するという
>> 証拠は得られていない.したがって「血液型性格学」が主張しているような「現象」
>> が実在することは考えにくい.
>
>  広範囲でなくとも、一部には影響する(=相関がある)ことは確かです。それは、渡
> 邊さん自身も認めていることだと思うのですが…。「広範囲」とは具体的にど
> の程度ならそう言えるのですか?
>

この「相関がある」というのは「質問紙と血液型」の相関のことですか? それならこれは<4>レベルの議論で,質問紙データやランダムサンプリングしないデータはダメデータと考えた上での議論ですから関係ありません.そうでないならなんのことですか? 私が認めているのはせいぜい「内的な要因が性格の量的な側面に影響を与えることはあるだろう」ということくらいです. 

>> #だいたい、能見さんも「広範囲」とは言っていないはずですが…。

能見さんのことばでいえば「マイペース」だというような,性格の質的な側面,性格の様態に影響する,という考え自体が「広範囲」だということです.


>> (2)血液型も含めた「性格理論」が前提にしている「性格の一貫性」は,実際には状況
>> の限定によって構成される認識であったり,単なる錯覚であったりする可能性が高く
>> なっている.
>
>  これも何回か説明があったのですがよくわかりません。(^^;; 確かに、CAPS理論
> では「状況」の定義がいいかげんである、というケチを付けることができます
> (笑)。しかし、血液型の場合は「状況」は血液型しかありませんから、ケチの付けよ
> うがないと思うんですが…。となると、私の理解では「ランダムサンプリン
> グ」しか問題になる点がありません。

この質問の意味が分かりません.ABOFANさんはなにか間違えておられると思います.血液型が「状況」というのはどういうことですか?

いずれにしても,一貫性があるという証拠はなく,状況が従来「性格」と考えられていたような行動パターンを左右するという証拠はある,ということ,それから一貫性の認識を作り出す認知的過程についてはすでにかなりわかっていること,で十分だと思います.

>  こういう理解でいいのですか?
>
>  なお、能見さんは性格心理学で言う「性格の(通状況的)一貫性」については一貫し
> て批判的でした。能見さんが主張しているのは、あくまでも「首尾一貫性」で
> す。

それはCAPSモデル的な折衷案と親和性が高いというだけのことであって,「内的要因によって基本的に決まる性格の実際の様態が状況に影響を受ける」という能見式の相互作用論は古典的性格心理学でも持っている.能見さんはなんと言おうと「ベタベタの性格心理学」そのものです.

現在の相互作用論における首尾一貫性の本来の意味は,内的要因と状況との「相互作用」が,状況と連動して首尾一貫する性格を作る,というもので,血液型性格学のように「内的要因が基本的な傾向を決める」という考え方ではありません.


>> (1)科学的証明は「正しい証拠が十分にある」ことによってだけ行われる.そして,
>> ある理論の正しさは,その理論を提唱する側が提出したデータが,それが属する
>> 「学問」のパラダイムの中で正しいと認められることによって確立する.
>> (2)科学的証明のパラダイムの中には「間違っているという証明」は存在しない.し
>> たがって「間違っているという証拠がない」という理由である理論が「科学的に正し
>> い」と認められることはない.
>> (3)ただし,人間の日常的な論理では理論の正誤はもっぱら「間違っているという証
>> 拠があるかどうか」によって判断されるので,素人を説得するためには「間違ってい
>> る証拠(のようなもの)」を提示することの必要と意義が大きい.
>
>  これもよくわかりません。例えば、ニュートン力学は、「光速度一定」とか「光は粒
> 子である」とか「水星の近日点移動」というような現象を説明できませんでし
> た。これらは、「間違っているという証明」ではないのですか? もちろん、(物理学
> ではなく)統計学なら、「正しい証拠が十分にある」で十分でしょう(笑)。
> 渡邊さんは、具体的にどういう科学理論を前提としているのでしょうか?
>
> #言うまでもなく「将来の心理学」なのでしょうか?

「間違っている証明」ではありません.説明できない現象が増えることは,観測可能な事象の中でその理論が説明できる事象の比率,つまり「十分な証拠」というときの「十分」の度合いを低下させるだけです.また,ニュートン力学の説明が限定されたものと考えられるようになったのは,説明できない現象があるから,ではなくて,ニュートン力学が説明できない現象を(ニュートン力学の限定性も含めて)説明できる新しい理論が現われたからです.

いずれにしても「間違っている証明」などというものは存在しないし,あくまでもそれを求め,間違っている証明がなければ正しい,と考えるのなら「すべての理論,すべての仮説は正しい」という結論にしか行き着きません.

これは「将来の心理学」とは全然関係ない,科学一般の論理構造の問題です.


>> これこそ「技術」の発想です.以下の点を確認してください.
>>
>>  1.正しい理論は,かならず現実のデータを説明できる.
>>  2.現実のデータを説明できる理論がすべて正しいとは言えない.
>>  3.正しくない理論が現実をとりあえず説明できることはよくある.
>
>  これもよくわかりません。科学には「正しい理論」は存在しないですから…。どんな
> 科学理論にも「適用範囲」があり、その範囲でしか正しくありません。ある適
> 用範囲において「現実のデータ」を説明できるのが「正しい理論」であり、それはアプ
> リオリに正しいのではありません。渡邊さんが言っているのはたぶん違う意味
> だと思うのですが、メールを読む限り私にはこのようにしか理解できませんが…。

これはもう笑うしかありません.そんなことは当たり前だけど,どうしてそれをこれまで言わなかったのですか? 私が「科学的理論の正しさの証明」について論じ始めたときに言うべきことではなかったですか.これでは血液型が「正しい理論」ではなくなったから,そもそも正しい理論などないといい始めたようにすら見えます(笑).

あえてまじめに論じれば,その「適用範囲」はなにが決めるのでしょうか.現実のデータを説明できることですか? では「ナマズが地震を起こす」という理論も,ある適用範囲においては確かに正しいです.それと同じレベルでいいのなら,ほとんどすべての理論は「ある適用範囲において」正しいことになります.

大切なのは,科学は「より適用範囲の広い理論」つまり「一般性のある説明が可能な理論」の方を求め,評価するということです.たしかに究極的に正しい理論など存在するわけもないですが(そんなの議論以前の問題です),科学は「他のものより適用範囲の広い理論」の方を「相対的に正しい」とするのではないですか?

それより,引用された部分で私が言おうとしているのは,「科学者が見ても正しいと実証できず,素人から見てももはや正しいとは信じられないような理論でも,現実を一定の範囲で説明することはいくらでもある,だから現実を説明できることと理論の正しさを混同してはいけない」ということです.


>> そこで,性格検査の予測力を上げるためには,性格検査の項目を
>> できるだけ現実の行動と直接対応するものに統一するとともに,検
>> 査場面と予測場面との状況的類似性を測定し,それを高める方略
>> を導入することが効果的,ということになります.
>
>  この方略は実際に効果が上がったのですか? もしそうなら、「性格」は実在するこ
> とになりませんか? 坂元さんの提案は私にはもっともだと思えますが…。

実在することになりません.この方法で「工学的に洗練」された「性格検査」は,一定の状況での行動をできるだけ客観的に測定できている結果,それと似た状況での似た行動を確率的に予測できるようになっているだけです.それでも名前だけは性格検査と付けておくことはできる,だから性格検査の行動予測力と性格の実在を結びつけるのはナンセンスかもよ,という坂元氏の皮肉だと思ったわけです.

ここでやっていることは,「あなたは昼食のあとでコーヒーを飲みますか」と尋ねて「ハイ」と答えた人は,現実に昼食のあとでコーヒーを飲む確率が大きい,というだけのことです.これがどうして性格が実在することになるのですか?

>>>> ただ,一部の向精神薬のように「暗い気持ちを抑え,明るい気持ちを強める」
>>>> などある程度変化の方向性を決められるものもあります
>>>
>>>  程度の差はあれ、特定の方向に変わるなら向精神薬で「性格は変わる」と言えない
>>> の
>>> でしょうか?
>>>
>> 言えますね.でもそれが効いて,状況に関係なく明るくなったりすることは人間とし
>> ては「異常」な状態です.ここでの議論は基本的に正常な状態での性格を問題に
>> しています.
>
>  返事(その15)にも書きましたが、プロザックを飲むと付き合う友達が変わるらし
> いです。そのため、マスコミ関係者や芸能人では正常者でも愛用者が多い(本
> 当かな?)、とか書いてありました。ウラを取っていないのでなんとも言えませんが、
> 本当だとするとやはり「性格」は存在するのではないかと思いますが…。

その「友達が変わる」という「事実」が信用できませんね(笑).

ただ,生理的要因の変化は状況と相互作用してどういう行動の変化につながるか全くわかりませんから,友達ちが変わる人だっているでしょうね.その可能性が「ないと言うことは証明できない」(笑).


4.今日の最後に

ここ数日の議論の中で,大学生の頃に父親としたケンカを思い出しました.私のオーディオ部品の元箱がなくなったので父に聞くと,父は「要らないと思ったから捨てた」と言いました.そのとき虫の居所が悪かった私は「箱はそもそも誰のものか」「人のものを黙って捨てることは正しいのか」ということを基本に,非常に「論理的」に父を責めました.しかし,父が最後に私に言ったのは「そんなふうに理詰めで親を責め立てておまえは楽しいのか」ということでした.私はなにも言えませんでした.

たしかに父の言ったことは「捨てぜりふ」なんだけれど,捨てぜりふを言わせた自分にも明らかに悪いところがあったわけです.

論理的になにかを考え,自分が正しいと考えることを強硬に主張することが適切である場と,そうでない場があるのだと思います.私は,ここはそれをやって良い場,やるべき場と思って議論していますが,必ずしもそうでないのかも知れないです.その証拠に,まったく一般の人がこの議論を読んだなら,理屈はともかく感情としてはABOFANさんに味方するのではないかな,と思うからです.

そういう意味ではなるべく早くこの議論を終えて,悪役モードから離れてゆっくりしたいと思っています.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その23)追伸 H12.2.21 13:40

ABOFANへの手紙(23)追伸


>  これもよくわかりません。例えば、ニュートン力学は、「光速度一定」とか「光は粒
> 子である」とか「水星の近日点移動」というような現象を説明できませんでし
> た。これらは、「間違っているという証明」ではないのですか? もちろん、(物理学
> ではなく)統計学なら、「正しい証拠が十分にある」で十分でしょう(笑)。
> 渡邊さんは、具体的にどういう科学理論を前提としているのでしょうか?

これ,ちょっと気になったのですが,「光速度一定」とか「光は粒子である」とか「水星の近日点移動」とかいった「現象」の存在は,

  1. 相対性理論とか粒子力学とかが出現する以前,ニュートン力学だけの時代から認識されていて,それをニュートン力学が説明できないという事態(「ニュートン力学が間違っているかも」という認識)が生じていて,それが新しい理論の出現をもたらしたのでしょうか.
  2. それとも,ニュートン力学だけの時代にはそうした問題自体提唱されず,相対性理論や粒子力学が出現してから「問題」とされるようになり,それをニュートン力学が説明できず,新しい理論では説明できる,という顛末になったのでしょうか.

私の知識では「光速度」と「粒子」は「2」で,「水星」だけが「1」ではないかと思うのですが.かなり自信がないので教えてください.ただし,それによって結論が変わるわけではないのですが,あくまでも興味です.

結論をあらかじめ言っておけば,「1」のように,その時代その科学で正しいとされている理論によって説明できない事実,というのが少数あるときに(注1),ただちにその理論が間違っている,とされることはまずありません.それは「謎」として残しておかれます.

そして,古い理論と同じ現象を説明できて,かつその「謎」も説明できる新しい理論が出現したときに,新しい理論は「正しいという証拠が古い理論より多い」つまり「より一般的な説明が可能」であるという理由で古い理論を駆逐します.つまり,新しい理論が古い理論に取って代わるのは,新しい理論が古い理論より「正しい証拠」が多いときであって,古い理論が間違っていると結論されたときではないのです.

それに,新しい理論が主流になったとしても,古い理論は依然として「ある適用範囲において現実のデータを説明できる(ABOFANさんはこれを正しさの基準としましたよね)」わけですから,ABOFANさん式の論理を用いても,やはり間違っているという証明がされたことにはなりません.

ましてや「2」であるような問題については新しい理論が出現して初めて問題になったわけですから,ニュートン力学が「間違っているという証明」がされたとは,ますます言えません.単に,ニュートン力学の「正誤」とは独立に新しい理論が出現し,それがニュートン力学の限界を示すような問題を「発見」し,新しい理論の方が「より一般的な説明が可能である」ことを示した,というだけのことになります.

これを「間違っているという証明がされた」と見るかどうかは,いっけん同じことのようですが,少なくとも私から見れば決定的に違います.


(注1)少数  説明できない事実が比率的に多数であるようなら,最初からその理論は採択されていないでしょう.しかし,どんなに「十分な証拠」によって採択されている理論でも,その理論によっては説明できない事実というのは必ずあるものです.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その23)

 私の意図をご理解いただきありがとうございます。

 蛇足ですが、「素人には成果だけ知らせる」だけではダメで、「民信なくば立たず」(顔淵第十二286)ですから、信用が一番大切ということになります。だから、これでも信用については非常に気を使っているつもりです…。

1.ABOFANさんとの意見の相違について & 2.なぜかふたたびランダムサンプリングの問題

> 質問1 最初のまとめや,2つの解釈は妥当ですか?
>      妥当であればABOFANさんの主張は2つの解釈のうちどっちなのでしょうか?

 1については、そのとおりです。否定側の人で、たまにこういう初歩的なミスを犯す人がいますが、渡邊さんはもちろんそうではありません(笑)。2については、ちょっと言っている意味が違うので再度説明しておきます。

 「科学は『証拠は不十分でもいくつかあれば,間違っているとはっきり証明されない限りは正しいと考えても良い』と考えるものではないか」とは全く思っていません。そうではなくて、私は「理系」の常識で、こういうケース(統計的検定など)なら「正しいと考えても良い」という基準で、血液型と性格は「関係ある」という主張をしているつもりです。しかし、渡邊さんはダメというのだから、パラダイムが違うのでしょう…。考え方や感じ方のギャップはいまだになくせません。(*_*)

 この点については後述します。

> 質問2 このまとめは正しいですか?

 やはり、ちょっと意味が違います。(^^;;

 問題は再現性があるかどうかです。物理学だったら何回も追試ができるし、測定誤差も割と少ないので再現性があるかどうかは一目瞭然です(相対性理論や量子力学なら別ですが…)。今回のケースのように、「幕内力士のうっちゃられ回数」や「遊園地の迷子」なら統計的検定を行えばいいはずです。危険率が5%以下で有意なら、偶然ではないから再現性があると判断していいはずですから…。だから、偶然ではない、と主張しているわけです。

> 質問3 背理法で考えて「全く正しくない仮説」とはどんなものですか?
>     そうしたものにはどのような実例があげられますか?

 「全く正しくない仮説」という意味がよくわかりません。(^^;; 背理法では、「全く正しくない仮説」を証明できるのかな? どうなんでしょうか?

> 質問4 この「背理法」とABOFANさんが血液型と性格の関係を論証する背理法との間に違いがありますか?
>     もし違いがないなら,ABOFANさんが血液型は信じ,占いは信じないのはなぜですか?
>     あるいは同じ「背理法」で幽霊の実在も証明できますが,ABOFANさんはそれで幽霊を信じますか?

 占いについては、統計的検定を行って危険率が5%以下(でいいのかどうか知りませんが…)なら、その占いは「当たる」と考えます。ただ、追試ができる場合は、毎回同じ傾向が現れないといけません。例えば、宜保愛子さんの透視能力のように、厳密なテストをしても当たっているとか…(志水一夫さんの資料による)。とは言っても、私も本当に当たっているかどうか半信半疑なのですが(笑)。

 実際には、手相でも星占い幽霊でも、統計的検定をして有意差が出たケース(例えばユング)はまれです。そういうケースについても、いろいろと批判的な意見はあるわけで、元のデータを見ていないので私にはなんとも言えません。しかし、血液型については、いくらでもデータはありますし、統計的検定を行うとちゃんと有意差が現れます。だから、私は血液型と性格は「関係ある」と判断しているわけです。

> 質問5 この結論には同意してもらえますか.同意できないなら,それはなぜですか?

 上に書いたとおりです。

 なお、注1についても、きちんと統計的検定をするなり、追試をして再現性があることがはっきりすれば信じます(笑)。しかし、メールの文章だけでは、1人しかやっていないのでなんとも言えません。統計的検定もできないでしょう…。この占い師が、次は「火難の相」(ってあるのかどうか知りません・笑)があると言って当たった、というようなデータがあれば再現性があるから「当たる」と言えます。

> 質問6 占いが当たったという事実が偶然であり,血液型とうっちゃりは偶然でないといえる根拠が他にありますか?

 上に書いたとおりです。

 これは、返事(その7)、そして(その13)に書いたとおりです。統計学の教科書どおりやっているのですから、私はなぜ渡邊さんが「ランダムサンプリング」でないとダメと言うのかわかりません。ですから、私には「統計学は間違っている」という意味にしか受け取れません(失礼!)。

> うっちゃりの例でいえば,たしかにABOFANさんがあげるサンプルでは血液型との
> 関係があったかも知れませんが,それがランダムサンプリングによらない場合,そ
> のサンプル以外のサンプル,そして母集団では差がない可能性が十分あります.

 まさにそのとおりです! だから、ランダムサンプリングはダメなのです。母集団全体では差がないが、ある条件なら安定的に差がある、というケースは無視されるのですから…。渡邊さんのメール(その8)の説明とは反対に、独立変数を無視していることになりませんか?

> データが採られた時と場所に限って生じた「偶然」である可能性が十分にあります.

 これもよくわかりません。だから統計的検定を行っているのです! 「遊園地の迷子」のケースでは、危険率は0.1%以下なので、当然のことながら「『偶然』である可能性」は0.1%以下です。いや、心理学では危険率は0.1%でも有意差があると認めない、ということなら私は何も言いません…。

 しつこいようですが、以上は統計学の教科書どおりの検定をし、教科書どおりの結論を導き出しているのです。違うということなら、論理なり参考文献なりを示していただけるとありがたいのですが…。そうでないと、私には全く理解できません。(*_*)

3.「議論を避けている」といわれないために

 そういう抽象的な書き方では、少なくとも私にはわかりません。(^^;;

  分野別データでは「疑似相関」はありえません。質問紙法なら具体例をお願いします。例えば、以前に書いた『血液型愛情学』では、具体的にどんな変数が「疑似相関が想定されるような変数」なのですか? 具体的にどのようにして「きちんとした質問紙を作ってデータを取り直」せばいいのですか?

>>> (1)…血液型のような「個人の内的な要因」が性格の様態に広範囲に影響するという
>>> 証拠は得られていない.したがって「血液型性格学」が主張しているような「現象」
>>> が実在することは考えにくい.
>>
>>  広範囲でなくとも、一部には影響する(=相関がある)ことは確かです。それは、渡
>> 邊さん自身も認めていることだと思うのですが…。「広範囲」とは具体的にど
>> の程度ならそう言えるのですか?
>
> この「相関がある」というのは「質問紙と血液型」の相関のことですか?

 質問紙でも行動でも構いません。行動なら、例えば「幕内力士のうっちゃられ回数」や「遊園地の迷子」などです。

> 私が認めているのはせいぜい「内的な要因が性格の量的な側面に影響を与えることは
> あるだろう」ということくらいです.

 となると、やはり血液型が「性格の量的な側面に影響を与えることはあるだろう」としか理解できませんが…。

> 血液型が「状況」というのはどういうことですか?

 CAPS理論の問題点は、「状況」の数値化がいいかげんということですよね? 血液型なら数値化は簡単です。そういう意味で、血液型を「状況」に見立てて統計的に分析することが可能ではないか、という意味です。

> いずれにしても,一貫性があるという証拠はなく,

 それは今までの性格検査が悪いからだと思いますが…。

> 状況が従来「性格」と考えられていたような行動パターンを左右するという証拠はある,

 これは日本人の私にとっては当然です(笑)。

> 一貫性の認識を作り出す認知的過程についてはすでにかなりわかっていること

 なるほど、そうですか…。

> 現在の相互作用論における首尾一貫性の本来の意味は,内的要因と状況との
> 「相互作用」が,状況と連動して首尾一貫する性格を作る,というもので,血液型
> 性格学のように「内的要因が基本的な傾向を決める」という考え方ではありません.

 しつこいようですが、下の図のような返事(その7)&返事(その13)のケースでは、「内的要因が基本的な傾向を決める」ことになるのですか?

sima1.gif (2644 バイト)

> 「間違っている証明」ではありません.説明できない現象が増えることは,観測可
> 能な事象の中でその理論が説明できる事象の比率,つまり「十分な証拠」という
> ときの「十分」の度合いを低下させるだけです.

 これも言葉の意味が違うようですね。私は、「間違っている証明」イコール「説明できない現象」と思っていました。物理法則ではそうなるはずですが…。真空中の物体の運動が説明できないのでは、ニュートン力学は間違っていることになりますから…。

> また,ニュートン力学の説明が限定されたものと考えられるようになったのは,
> 説明できない現象があるから,ではなくて,ニュートン力学が説明できない現象を
> (ニュートン力学の限定性も含めて)説明できる新しい理論が現われたからです.

 性格心理学の説明が限定されたものと考えられるようになったのは、 説明できない現象があるから、ではなくて、性格心理学が説明できない現象を(性格心理学の限定性も含めて)説明できる新しい理論が現われたからですか?

> これはもう笑うしかありません.そんなことは当たり前だけど,どうしてそれをこれま
> で言わなかったのですか?

 それは私のセリフです(笑)。「正しい理論」と書いてあれば言葉どおりにしか解釈できません。渡邊さんとの議論は、自分の「常識」が通用しないことがよくわかっているので、なるべく言葉どおり解釈するようにしていますから(大笑)。

> 「適用範囲」はなにが決めるのでしょうか.現実のデータを説明できることですか?

 そのとおりです。現実のデータや現象を説明できる理論が「正しい」ということになります。逆に、現実のデータや現象を説明できなければ「正しくない」ことになります。

#厳密に言うと、そのときの数学や技術のレベルにもよります。
#例は、DAコンバータのジッター、いや天動説の方が適切か…。

> 科学は「他のものより適用範囲の広い理論」の方を「相対的に正しい」とするのではないですか?

 これも、どういう意味なのかわかりません。(^^;;

 ニュートン力学と相対性理論(あるいは量子力学)では、後者が前者を一般化した場合(スーパーセット)ですからそう言えます。しかし、相対性理論と量子力学では、内容は相容れませんし、適用範囲も異なりますから違います(パラダイムが違うので)。どちらの意味なのでしょうか?

> 「科学者が見ても正しいと実証できず,素人から見てももはや正しいとは信じられな
> いような理論でも,現実を一定の範囲で説明することはいくらでもある,だから現実
> を説明できることと理論の正しさを混同してはいけない」ということです

 これもよくわかりません。具体例は「ナマズが地震を起こす」ということなのでしょうか? それなら、昔の人が科学的にそう思っていた(?)とするなら、「科学者が見ても素人が見ても正しい(?)」のですから当てはまりません。性格心理学は、「科学者が見ても正しいと実証できず、素人から見てももはや正しいとは信じられないような理論」ですから、確かに正しくありません(笑)。

 具体的にどういう理論を想定しているのですか?

> 「あなたは昼食のあとでコーヒーを飲みますか」と尋ねて「ハイ」と答えた人は,現実に
> 昼食のあとでコーヒーを飲む確率が大きい,というだけのことです.これがどうして性
> 格が実在することになるのですか?

 なるほど(大笑)。

4.今日の最後に

 ここもどう書こうか迷ったのですが、失礼を省みず正直に書くことにします。

> 論理的になにかを考え,自分が正しいと考えることを強硬に主張することが
> 適切である場と,そうでない場があるのだと思います.私は,ここはそれをや
> って良い場,やるべき場と思って議論していますが,

 そう思っていただいて結構です。私もそのつもりですから…。ただ、私や読者がわからない場合は、議論が成立するように解説が必要でしょう。少なくとも、私のHPで議論を展開する場合には、そうお願いしたいと思います。

> その証拠に,まったく一般の人がこの議論を読んだなら,理屈はともかく感情
> としてはABOFANさんに味方するのではないかな,と思うからです.

 そういう統計的検定もランダムサンプリングもしていないデータは信用しないことにしています(笑)。

 私は私なりに「論理的」に考えているつもりです。しかし、ランダムサンプリングの件のように、統計学の教科書どおりやってダメ、ということなら、私にはこれ以上は反論しようがありません。議論すればするほどわからなくなるだけです…。本当になぜなのでしょうか?

追伸について

 「光速度一定」「光は粒子である」「水星の近日点移動」などは、ニュートン力学では説明できない現象です。これを解決したのが相対性理論ですが、経過を読むと非常に面白いです。結論から言うと、1でも2でもありません。

 当時スイス特許局に勤務していたアインシュタインは、当時観測されていた「光速度一定」などの不可解な現象を前提とし、「テンソル」を使ってそれらと矛盾しない独自の理論的体系を構築しました。これが(特殊)相対性理論です。「素人」であるアインシュタインが提唱した相対性理論は、最初は物理学者の間では「奇説」「珍説」「俗説」だと思われていました。なぜなら、重力によって光が曲がるとか、高速で移動する物体は時間が遅く進むとか、質量がエネルギーを持つとか、おどろくべき結果を多数予言したからです。そんなことは、当時の理論では絶対にありえないことでした。当日の技術では測定不能であったことも災いして、彼は相対性理論でノーベル物理学賞を受賞することはできませんでした…。

#量子力学は全然違います。

 現在の科学少年はどうなのかわかりませんが、私と同年代の科学少年なら必ず知っている話です。(^^;; 

 トランジスタの発明の話も面白くて、私は図書館から何回も同じ本を借りて飽きるまで読みました。トランジスタは、偶然のいたずらで発見されたものですが、後に理論的な説明が与えられて現在使われているような形になったのです。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その23)追記

 返事(その23)では、占いについてまるっきり間違ったことを書いてしまったので、ここにお詫びし訂正しておきます。(^^;;

 まず、その占い師が「水難の相」(=科学的仮説)についての定義をしないといけません。そうでないと、当たったかどうか判定できない(=反証可能性がない)ので…。

 例えば、「定食屋で豆腐に誤ってソースをかけ,店の人に水洗いしてもらった豆腐がビチョビチョで服を濡らし,その晩の宴会で酔いすぎて彼女にからんでフラれ,その翌日にはバンドの練習中に飲んでいた炭酸飲料水でひどくムセた」のが、本当にその占い師が定義する「水難の相」かどうかは判断できません。「水難の相」というのはかくかくしかじかで、それは1日以内に1回以上起こる、という占いなら確かに科学的仮説と言えます(笑)。

 これに関係して、次に、占いが外れる場合の定義もないといけません。つまり、「水難の相」がないという場合はかくかくしかじかである、という定義が必要になります。

 次に、再現性がなければいけません。その占い師が1人だけ当たっただけはダメでしょう(笑)。複数人に安定して「当たっている」という結果が必要です。

 この2つの条件が満たされれば、当たったかどうかは統計的検定の対象になるので、偶然以上の確率で「当たっている」というなら、確かにその占い師は当たっていることになります。

 しかし、渡邊さんの注1の記述を読む限りでは、以上の条件を満たしていないので、統計的検定の対象にはなりません。従って、科学的には「当たっている」とも「当たっていない」とも言えないと思います。

 それと、書くかどうか大変迷ったのですが、「幕内力士のうっちゃられ回数」については、「場所が100場所あるとして,のこりの98場所では関係がない,偶然が重なって2場所続けてそういう結果が出た,という可能性」があっても統計的には意味がありません。なぜなら、χ検定を行って危険率5%以下で有意だからです。統計学の教科書どおりの検定をしているのですから…。もっとも、検定方法が問題だということなら批判は甘受します。(^^;; それなら、何が問題かを具体的にお示しください。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その13) H12.2.22 8:24

1.「感想」

お二人の議論、噛み合っているようないないような(笑)、結構楽しませて頂いています。
ちんけな横レスですがよろしく。

> ひさしぶり(普通の感覚でいえばそうでもないか?)のメール

先のわたしのメール(その12) H12.2.19 22:48をABO FAN宛に送信したときの件名が
「遅くなっ・・・たわけでもないと思うのですが(笑)」
で、やっぱり"張本人"から見てもそうなのか、と思わず笑ってしまいました。

2.「論旨」

> それでも基本的な論旨は大丈夫だと思ってるんですが,最大素数さんによるとそうでもないのかな

「基本的な論旨」は外していないと思いますよ。
ただ、あんなコト言っておいて、ここに来てンなこと言うかあ、という感があったりしまして、ま、そのこと自体はさしたる問題ではないのですが(指摘の仕方によっては単なる揚げ足取りになって議論の展開の妨げになりますね)、それが、相手の攻撃の論点になっていたりすると黙っていられなくなるわけです。
「科学者対素人」という設定はそういう意味で黙っていられなくなったわけです。
更に最近の議論で言えば、ABOFANへの手紙(17)で

> たとえば,私は個人的には大学というのは「今の世の中にはほとんど何の役にも立たないようなことをあえて国の金でやらせて,その中から万に一つでも出てくる新しいものに将来の国を託すためのシステム」と考えています

と、あまりにも「技術的」な観点で大学を論じていたご本人自身が、最近のABOFANへの手紙(22)で

> これこそ「技術」の発想です

などと"非難"めいた言辞を吐くのは笑止といわねばなりません。
さきの大学観を読んだとき、わたしは、なぜ「大学は真理の追究の場である」と言わなかったのか、大変残念に思い、かつ、大学人としての渡邊さんにちょっと失望してしまったのでした。

> こんなことでは長期的には国は滅びると思います(ABOFANへの手紙(17))

とはこっちのセリフだいっ、と思ってしまいましたよ。
それでは国の将来はどうするって?
まぬけなことを(笑)。
「真理の追究の場」の存在が「国の将来」に貢献しないならば、そのような国のあり方を否定すべきです。
渡邊さんの"言い訳"はただ一つ「"万に一つでも出てくる新しいもの"とは真理のことです」あたりでしょうが、それならなおさら「大学は真理の追究の場である」と言い切ってほしかったですねえ。

ま、どのみち本質的な問題ではありません。が、反論は受付けます。あれば。

3.「回答」

>> これは、その時点で下した結論が後に「間違っていた」と判明したっていうだけのこと
>> でしょう。不十分な証拠ながらとりあえず下した結論が後に「やっぱり正しかった」と
>> いう話しと同じレベルです。
>
> というのはまったくその通りですが,しかしそれになにか問題があるのでしょうか?

「渡邊さんの書いたり言ったりするものには,それを彼が真面目に言っているのか,とてつもなく鋭い皮肉なのかよくわからないことが多く,わたしはよく困惑します.しかし経験的には,ほとんどの場合本人には皮肉を言っているつもりはないようです.この"なにか問題が"も,わたしはさいしょ皮肉だと思ったのですが,違う」ようです。

>> 科学は現時点でとりあえず証拠不十分なものは「間違っている」と結論しておく性質のものです.
>  と繰り返して、「その意味で」ととりあげた「DAコンバータのジッター」の問題(!)は、巧妙なすり替え
>  ですね。

以上はこの直前の文です。「証拠不十分なものは「間違っている」と結論して」いる例になってないじゃんと言っているのです。更にその前に、わたしは「「正しいか間違っているかわからない仮説」は「わからない」というほかの結論はない」と主張しており、つまりは、「わからない」がいかに当たり前のことかの論証としての「これは、その時点で下した結論が・・・と同じレベルです」であります。

4.「証拠」

> あーあ,ちょっと熱くなってしまった

「自己嫌悪」というのは「これ(熱くなってしまったこと)は"科学者"としては失格かなあ」という意味でしょうか(笑)。
わたし自身は「カン」の"大事さ加減"は、、実はよく判りません。
少なくとも「現場屋」としては、問題解決にあたって「カン」としか表現できないナニカが効果的だったというのはあまり誉められたことではないのです。いやいや、結果がすべてのプロ(商売人)"稼業"ならば、結果に繋がる「カン」は誉められるべきなのですが、あくまで個人の"芸"止まり、コスト・パフォーマンスの根拠にはできなくて、誰にでもわかる「手段」の方が"大事"だったりするわけです。

>> 「不十分」ながらもそれらしい「証拠」
>
>  って,具体的にどれがそうですか?

まず「証拠」の考え方を述べておきます。
法学上の「証拠」は、或る事象・物件が「証拠」として検討に値するか(証拠能力)どうかを検証し、値すると判定されたものについて「なにを証明する証拠なのか」(証明力)を検討します。例えば、被疑者のアリバイに関しては族の証言は証拠として相手にされません。他人の証言は、利害関係が無いというだけの理由で検討してみる価値はありますが、全ての証言が検討した甲斐がある(何かを証明した)わけではありません。(もう一言言っておきますと、勿論、年少などの理由でやっぱり不適格ということはあるわけです)
さて、わたしの「不十分」は、証明力が疑問という考えなのですが、多分、渡邊さんにとっては証拠能力を認められないということなのだと思っています。

いわゆる「分野別データ」というもののいくつかです。
ここでとりあげられた「うっちゃられ力士」というのもそうです。

と、いつの間にか、というよりやっぱり先に進んでいる(笑)メール23とその返事で俎上にのせられていますね(笑)。って、笑っている場合ではありません。
あのう、これは多分お二人に対する「?」になると思うのですが、引用の際にも併記されているように、これは「昭和33年秋から14年間の幕内力士の」データなのですよ。2場所、30番の取り組みで、4番に3番(青ノ里の23回)はうっちゃられる大馬鹿者がいるわけないじゃあありませんかっ!!(渡邊さん、少なくとも"原データ"に関する「カン」は・・・笑)

つまり、わたし、この例は「全数調査」にあてはまるんじゃないかと考えているのですがいかがでしょうか。
あ、勿論昭和47年以降はありませんから、厳密には「全数」ではありませんが、戦後約50年間のうちの14年間って、サンプルとしては「でか過ぎ」るように思うのですがねえ・・・。
「全数調査」かどうかはともかく、原データとしては、「なんなんだろう」と思わせるに充分な内容だと思います。証拠として検討に値するものと思います。

とはいえ、B型力士がうっちゃられ易いことが、B型は不用心という「性格特徴」と関係あるのかどうかは証明が難しいでしょうね。
B型は身長比で足が長いので腰高になりがちのためうっちゃられ易い・・・(笑・いいからいいから)。
普段の稽古仲間である(同部屋)同門の伝統として押し相撲重視のため、うっちゃられる「機会」が多い傾向にあり、たまたまその一門にB型が多かったことによる・・・。
恐らくキリがありませんね。
それらを全てクリアしたとして、「B型はうっちゃられ易い」ということ以上のことが言えるかどうかは難しいですね。しかし、その場合、「うっちゃられ易いってのは、やっぱなんか性格的なモンがあるよなあ」とは思うし、あえて言えば、それで良いじゃん、と思わないでもない・・・。

ともあれ、客観的な説得力としての証明力は疑問、「不十分な証拠」というわけです。

5.「機嫌」

読み返してみますと今回も我ながらなにやら不機嫌っぽいです(笑)。
が、そんな悪感情を抱いているわけではありません。
渡邊さんにはいろいろな意味で感謝しています。
どうも、「現状心理学」が想像以上に"へたれ"っぽいあたりに対するがっかり感が原因のような・・・。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その24) H12.2.22 12:10

ABOFANへの手紙(24)


今回の「返事」にはさすがにけっこう驚き,あきれましたが,ここでうち切っては「他の心理学者」と同じだし,それよりこれまでの苦労が水の泡になってしまいますので,説明を続けます.しかし,私個人的には説明というより「説得」という感じになってきました(笑).私とABOFANさんとのズレを,がんばってあくまでも冷静に分析し続けようと思います.


1.結局この論争のエッセンスはランダムサンプリングにあるのだった!

ABOFANさんの返事を読んでいると,どうもABOFANさんは「データのばらつき」とか「サンプルの偏り」といったこと,つまり「自分の取ったデータが偏ったもので,その結果が単なる偶然かもしれない可能性がある」という,われわれ心理学者がとてもとても気にすること,気にするように教育されていることについて,ほとんど重視していないようであることがわかります.たしかに,これは理系と心理学の違いなのかもしれないなあ,と思います.

たしかに,理系のように比較的均質な試料や材料を扱うときにはランダムサンプリングしなくてもそれほど偏ったサンプルになることはないし,2〜3回の追試が可能であっただけでそれを全体的な傾向として扱って間違いである確率は小さいでしょう.もちろんこのような考え方は科学的厳密性という点では「不十分」なのですが,単に理系が扱う対象の「均質性」から,そういう考え方が「理系」の学問の中ではこれまでこれといって大きな間違いを生み出さなかった,ということに過ぎないと思います.

しかし,心理学的な対象,つまり人間は違います.人間は本来的に金属や電気部品よりも個体差の非常に大きいものです.また,金属や電気部品のふるまいがその場の状況や環境から受ける影響と,人間の行動がその場の状況や環境から受ける影響では,後者の方が相対的に大きいことはいうまでもないでしょう.金属や電機部品のふるまいと人間の行動では,人間の行動の方が本来的に「再現性」が低いのです.

ですから,人間についてあるサンプルを抽出し,ある関係や傾向が見いだされたときに,それがその人々限りの,あるいはその場限りの偶然やサンプルの偏りである可能性は,同じように抽出された金属や電気部品のサンプルよりも,必然的に大きくなります.

推測統計学は幸いにも,こうした個体差の大きい対象についてもきちんと適用できる構造を持っており,心理学などの人間科学では統計学の基準をより厳密に適用すること(つまりランダムサンプリングを行うこと)で,もともとばらつきの大きい母集団から偏りのないサンプル(つまり偶然でないサンプル)を抽出し,科学的証明を行うことを保証しています.

そういう意味では,理系における統計的検定の意味と,心理学における統計的検定の意味はかなり違うかもしれません.ABOFANさんがおっしゃるとおり,理系では多くの場合,ランダムサンプリングや統計的検定などしなくても,追試が成立すればその仮説が正しくない確率は著しく小さくなるでしょう.対象が比較的均質ですから.しかし,人間が相手の科学ではそうはいきません.ランダムサンプリングしない限り,そのサンプルが非常に偏っている可能性がもともと大きいし,何度か追試しても,そのすべてのサンプルがやはり偏っている(単なる偶然の繰り返しである)という可能性がかなりあるのです.

こんな例で考えてみるとわかりやすいでしょう(似たような例は前にもあげたけど).鉄とアルミについて各3個のサンプルで比較し,その性質に一定の差が見いだされたときに,それがまったくの偶然(その結果は抽出された特定のサンプル固有の性質であり,鉄とアルミの違いとして一般化はできないということ)である確率はどのくらいだと直感的に予想されますか.一方,男性と女性それぞれ3人ずつのサンプルで,行動に何らかの男女差が検出されたときに,それがまったくの偶然である確率はどのくらいだと直感されますか?

心理学者ならおそらく誰でも,鉄とアルミの差よりも男女差の方が圧倒的に偶然である確率が高い,と考えるでしょう.心理学というのはそう考える文化だし,われわれはそう考えるように教育されています.ABOFANさんはどうですか? もしかしたらこの2つの例の「差」が,われわれほど気にならないのではないでしょうか?

>  問題は再現性があるかどうかです。物理学だったら何回も追試ができるし、測定誤差
> も割と少ないので再現性があるかどうかは一目瞭然です(相対性理論や量子力学なら別
> ですが…)。今回のケースのように、「幕内力士のうっちゃられ回数」や「遊園地の迷
> 子」なら統計的検定を行えばいいはずです。危険率が5%以下で有意なら、偶然ではな
> いから再現性があると判断していいはずですから…。だから、偶然ではない、と主張し
> ているわけです。

ABOFANさんは上の文章で,意図しているかどうかはともかく,「物理学」における再現性と,人間のデータにおける再現性を区別しています.そして,人間のデータでは「再現性が一目瞭然ではないから」統計的検定を行うのだ,と述べています.これはとても正しい.また,人間のデータが「測定誤差が大きい」(つまり,あるサンプルで出た結果が偶然である可能性がますます大きい)ことまでちゃんと指摘されています.そこまでわかっているのだったら,どうして次のこともわかってくれないのでしょうか.

つまり,これまでも何度も言ったように(たぶん10回以上いったのではないでしょうか),統計的検定が一定の危険率で「再現性」を保証できるのはランダムサンプリングが行われている,という前提のもとだけに限られるのです.

統計学では,「ランダムサンプリングされたデータにおいて」データの分布と代表値の配置から算出される統計値(χ2とかtとかFのこと)が,一定の自由度(サンプル数や群の数から算出)において偶然に出現する確率(危険率)がすでに統計学者によって計算されています(つまり,この計算自体がランダムサンプリングを前提にしているということ).われわれは自分の採った「ランダムサンプリングされた」データにおける「統計値」と自由度の組み合わせから危険率を読み取り,それが十分に小さい場合に(たとえば5%以下),その「結果」は偶然ではない,と結論する,というのが統計的検定の手続です.

> しつこいようですが、以上は統計学の教科書どおりの検定をし、教科書どおりの結論を
> 導き出しているのです。違うということなら、論理なり参考文献なりを示していただけ
> るとありがたいのですが…。そうでないと、私には全く理解できません。(*_*)

計算がその通りでも,前提が合っていなければその処理は間違いです.統計的検定がランダムサンプリングを前提にしていることはどんな教科書にも必ず書いてある(あるいは,ランダムサンプリングについて解説した上でそれを前提として統計的検定の話をしている)はずです.

もし書いていない教科書があるとか,ランダムサンプリングしないで統計的検定をしても良いと書いてある教科書があるなら,それこそ興味深いので私に紹介してください.統計学の教科書をABOFANさんが持っていないということは考えられない(考えたくない)ので,それを確認してください,というのはここでもOKですよね?

> 私は私なりに「論理的」に考えているつもりです。しかし、ランダムサンプリングの件
> のように、統計学の教科書どおりやってダメ、ということなら、私にはこれ以上は反論
> しようがありません。議論すればするほどわからなくなるだけです…。本当になぜなの
> でしょうか?

だから,ABOFANさんは統計学の教科書通りになどやっていないのです.だから反論できないのは当然です.


2.「理系の常識」と「渡邊の常識」?

ABOFANさんは「科学的証明」に関する私の説明を「(あくまでABOFANさん個人の)理系の常識から理解できない」から特殊なものだと考えたいようですが,私に言わせればそうした「理系の常識」自体が,ABOFANさんの考えるような理系の学問(あえて科学とはいわない,注1)が扱っている対象のある種の特殊性(具体的には,サンプルの個体差が比較的小さく,測定誤差が比較的小さい)に基づいた,特殊なものであるように思えます.

しかし,これを(ABOFANさんが言う)「理系の論理」と「渡邊の論理」という別のもののように扱うのは間違いです.少なくとも「母集団から抽出した少数サンプル」を扱う手続きにおいては,むしろ「渡邊の論理」(サンプルの代表性をランダムサンプリングによって保証する)の方が包括的で,「理系の論理」はその特殊例だと考えられます.

その証拠に,「渡邊の論理」を理系の仮説検証に用いても,多少手続きが面倒になるだけで,仮説検証自体は問題なく可能です.しかし「理系の論理」は,均質な対象を測定誤差の小さい方法で扱うときにだけ適用可能で,そうでない対象や方法に適応すると「偶然の影響」を統制できなくなります.

ABOFANさんは,均質ではないことがかなりアプリオリにわかっている人間を対象にした議論に,むりやり理系的な(サンプルの均質性/小さな測定誤差を前提にした)基準をあてはめて考えようとしているように見えます.たしかに「背理法」は「均質なサンプル/誤差の少ない測定」の世界ではある程度は有用なのかもしれない(?)けれど,心理学のように「均質でないサンプル/誤差の多い測定」では前回説明したように「全て正しくなってしまう」無意味な論理です.

そもそも理系では,とくに物体の個体差を問題にするような場合(たとえば電気部品のバラツキとか「歩留まり」とか)を除いて,もともと統計的検定などはあまり使われないでしょう.統計的検定自体がもともと「個体差の多い対象や測定誤差の多いデータからいかにして科学的に意味のある結論を引き出すか」を目的にしているのですから,対象が均質であるとアプリオリに想定できれば,統計的検定などいらないのです.

ですから,同じ理系でも農学など比較的個体差の大きいサンプルを比較的測定誤差の大きい方法で扱う分野では,こうした問題をどう考えるかが重要です.幸い私は農学系の大学にいますので,何人かの教員,大学院生,学部生にこの議論(とくにランダムサンプリングの問題)における私の主張を検討してもらっていますが,いまのところ誰もこれといった問題点を指摘していません.理系でも,農学や獣医学などでは私のような考えでも正しい(間違っていない)ようです.

>  これもよくわかりません。だから統計的検定を行っているのです! 「遊園地の迷子
> 」のケースでは、危険率は0.1%以下なので、当然のことながら「『偶然』である可
> 能性」は0.1%以下です。いや、心理学では危険率は0.1%でも有意差があると認
> めない、ということなら私は何も言いません…。

明らかにくどいとは思いますが,このデータはランダムサンプリングされていないのだから,それをいくら計算だけきちんとして,危険率0.1%だといっても,その危険率と「偶然である可能性」とは何の関係もないのです.ランダムサンプリングされていないデータではたとえ検定の結果が「危険率0.000001%」でも偶然である可能性は変わりません.その時危険率は単に「そのサンプルで(たまたま)検出された差の大きさ」を示しているだけです.

また,

>> 質問4 この「背理法」とABOFANさんが血液型と性格の関係を論証する背理法
>> との間に違いがありますか?もし違いがないなら,ABOFANさんが血液型は信じ
>> ,占いは信じないのはなぜですか?あるいは同じ「背理法」で幽霊の実在も証明でき
>> ますが,ABOFANさんはそれで幽霊を信じますか?
>
>  占いについては、統計的検定を行って危険率が5%以下(でいいのかどうか知りませ
> んが…)なら、その占いは「当たる」と考えます。ただ、追試ができる場合は、毎回同
> じ傾向が現れないといけません。例えば、宜保愛子さんの透視能力のように、厳密なテ
> ストをしても当たっているとか…(志水一夫さんの資料による)。とは言っても、私も
> 本当に当たっているかどうか半信半疑なのですが(笑)。

ということは,ABOFANさんが血液型は正しく,占いは正しくないとする根拠は,血液型における「統計的検定」だけだということになりますが,ランダムサンプリングを行っていない統計的検定は方法的に間違いだから,血液型と占いそれぞれの証拠に違いはありません.

もっと正確に言えば,ランダムサンプリングしていないデータは母集団を代表しておらず,たとえれば「体験者の談話」と同じです.その点で血液型のデータと,前回あげた「水難の相」についての私の体験談とは,科学的証明における価値という点で大きな違いはありません.血液型はひとりでなく多数名のデータ? サンプルが偏っている場合は偏ったサンプルの数が増えるほど母集団の現実からむしろ離れます!

また,ランダムサンプリングしなくて良いのなら,「占いが当たる」という統計的に有意差のあるデータはちょっと工夫すれば容易に得られます.たとえば「占い教室」を開いて人を集め,そこで次の一週間の運勢などについてなんらかの「占い」をする.翌週また集まってきた人たちに「占い」が当たったかどうかを評定させ,そのデータを検定する.十中八九「占いが当たった」という人が有意に多いでしょう(なぜそうなるの?なんて聞かないで,笑).

ただし,

>  「全く正しくない仮説」という意味がよくわかりません。(^^;; 背理法では、「全く
> 正しくない仮説」を証明できるのかな? どうなんでしょうか?

証明できませんよ.答えをいえば,背理法では「正しい」という証拠がひとつもない仮説だけが「正しくない」と結論できます.しかし,ふつう仮説というものはなんらかの「証拠」に基づいて提唱されるものです.したがって背理法ではすべての仮説が正しい,という結論しか出てきませんので,「仮説が正しいかどうか」を問題にする科学的証明の論理の中ではまったく役に立ちません.

つまり背理法で論じている時点ですでに「血液型と占いが区別できない」ということは論理的に明らかなので,統計的に有意な差が出るかどうかなんてこと自体論じる必要もないわけです.


>> うっちゃりの例でいえば,たしかにABOFANさんがあげるサンプルでは血液型と
>> の関係があったかも知れませんが,それがランダムサンプリングによらない場合,そ
>> のサンプル以外のサンプル,そして母集団では差がない可能性が十分あります.
>
>  まさにそのとおりです! だから、ランダムサンプリングはダメなのです。母集団全
> 体では差がないが、ある条件なら安定的に差がある、というケースは無視されるのです
> から…。渡邊さんのメール(その8)の説明とは反対に、独立変数を無視していること
> になりませんか?

これも前にきちんと説明したことですが,わかっていただけないようなのでもう一度説明します.

統計的検定やランダムサンプリングは,あるサンプルで出た結果を母集団に一般化できるかどうかを調べるものです.つまり「私の採ったデータで血液型と性格に関係があった,だから,人間の血液型と人間の性格には関係がある」と結論するための方法なのです.

ある特定のごく限られた条件の下で起きる現象だけを知りたいのなら,たしかにランダムサンプリングしてはいけないし,する必要もありません.そういう条件で観測をして,そこで観察された事実だけを報告すればよい.統計的検定することにも意味はありません.

その点で,もしABOFANさんがそういうことをいっているのなら,相撲のデータで統計的検定をしていることはまったく余計,むしろ誤りです.また,そこで危険率がいくついくつであるなどということにはまったく何の意味もありません.

また,このデータはいっさい母集団に一般化できません.つまり,相撲のデータが血液型と関係があったとしても,それはその場所,その条件に限られたデータであって「だから(人間一般でも)血液型と性格には関係がある」とは言えません.

つまり,「相撲のある場所のある力士たちのいくつかの取り組みにおいて,組み手と血液型に関係があった,しかし他の場所の他の力士たちの取り組みでも関係があるかはまったく不明である」ということですが,こういわれたとき,一般的に私たちは「なるほど,組み手と血液型には関係があるんだなあ」と判断するでしょうか? 私はしませんよ.

> 渡邊さんのメール(その8)の説明とは反対に、独立変数を無視していること
> になりませんか?

まえに詳しく論じたように,ランダムサンプリングされたデータで隠された独立変数を分析する問題と,ランダムサンプリングするかしないかの問題とはまったく別です.このことだけはわかってもらえたと思っていたので残念です.


(注1)ABOFANさんの考えるような理系の学問  こうした限定を付けるのは,私にはABOFANさんの考えや意見が「理系」を代表しているともとくに思えないからです.理系でもABOFANさんの考えに同意できない人はたくさんいるでしょ
う.


3.心理学とランダムサンプリング

とはいいながら心理学があまりランダムサンプリングを行わないことは事実ですが,そのことにはわりとはっきりした理由(経緯?)があります.歴史的に早い時期から発展した心理学,たとえば知覚心理学などは,人間の行動のうち比較的個人差が小さく,測定誤差も小さいような「理系的」な部分をおもな研究対象にしていました.

たとえば「ものの大きさがどう見えるか」とか「光の運動がどう見えるか」といったことが,たとえば性格の問題よりも相対的に個人差が小さく,性格検査よりも相対的に測定誤差が少ないことは,詳しく説明しなくても直感してもらえると思います.

そのため,初期の心理学,および現在でも知覚心理学などでは統計的検定はあまり積極的には用いられません.統計的検定が本格的に用いられるようになったのは,おそらく教育評価が最初,それから社会心理学などが続いたと思います.これらの心理学は,ほとんどの場合小中高校の生徒,および大学の学生を被験者として研究を行ってきました.

学校の生徒は,たしかに年齢の幅は限定されていますが,さまざまな家庭で,さまざまな経済的,社会的環境で育ったこどもたちがかなり広範囲に集められていますし,大学生ではそれに加えて育った地域や「県民性」などもさまざまに分布します.心理学者たちはこれを「学生のサンプルはその学校に集まってきた時点でランダムサンプリングされている」と考えたわけです.

そうした考え方は,心理学では基本的に現在でも継承されていますし,そう教育されています.私も「心理測定法」などでそう習いました.つまり,主に自分が勤める大学の学生をサンプルとして研究する心理学者がわざわざランダムサンプリングを行わないのは「ランダムサンプリングしなくてよい」と考えているからではなく,「学生サンプルは最初からランダムサンプリングされている」と考えているからなのです.

もちろん,これはとても乱暴な考え方で,そう考える根拠は非常に弱いでしょう.ABOFANさんが前に「学生は均質」といったのを私は乱暴と言いましたが,心理学が「学生はランダム」と考えるのはそれと同等か,おそらくそれ以上に乱暴です.

私はもちろんこうしたやり方には反対で,とくに統計的検定を行うのであればきちんとランダムサンプリングすることは必須であると思います.また,知覚や学習などの分野でも結果の一般化を行うのであればサンプルの代表性は保証されるべきであるから,基本的にランダムサンプリングすべきだと思います.

ただし,現実には心理学のかなり多くの分野では「学生サンプルはランダム」(注2)という暗黙の前提がいまだに通用しており,性格心理学もその一つです.ただ,こうした「サンプリングと検定の方法」の問題は最近の学会では必ず定期的に取り上げられ,改善への機運はかなり高まってきています.

いずれにせよ,「学生サンプルはランダム」という前提が正しいかどうかは別問題としても,統計的検定を用いる心理学者はすべて「自分のデータはランダムサンプリングされている」という前提のもとに検定を行い,危険率を解釈しています.べつに性格心理学者がABOFANさんと同じように「ランダムサンプリングがダメ」とか「とくに必要ない」とか考えているわけではないと思います.

だから,ABOFANさんがここの議論で「私のデータは性格心理学者と同じ手続きをきちんと踏んだ科学的に信頼できるものである」と主張したいのなら,ランダムサンプリングを否定してしまっては元も子もなく,あくまでも自分のサンプルがランダムである,ということをどんな屁理屈でもいいから主張し続ける必要があるのです(笑).

私は性格心理学や心理学の一部の分野ではたしかにランダムサンプリングが正しく行われていない,だからABOFANさんがランダムサンプリングしないことについては「性格心理学と比較する場合に限ってはとくにABOFANさんの方だけに問題があるとは言えない」という意味で「ABOFAN側が有利」ということを言っただけで,ランダムサンプリングしなくても統計的検定に意味がある(と私も考えている),と認めたことは一度もないと思います.


(注2)学生サンプルはランダム  実際にはこうした考えは「講演会の参加者はランダム」「定期健康診断の受診者はランダム」「市民大学講座の参加者はランダム」などというように拡大解釈されて,実質的に「人のたくさん集まるところで採ったデータはみんなランダム」ということになっています.これはあまりにもご都合主義的だと私は思います.


4.今日の終わりに

さて,「1」のタイトルに書いたように,この論争のひとつのエッセンスはやはりランダムサンプリングであったようです.つまり,ABOFANさん,および血液型性格学側が提出するデータの再現性は心理学者から見て信じられるのか,ということです.結論としては「私は信じられない」ということです.このことはもちろん私の性格観,心理学観という「理論的側面」からも支持されますし,私としてはあくまでもそのレベルの議論で話をしようと最初は考えていました.

ところが,話の流れ上不本意ながらデータの話や,統計的検定の使い方などの議論をしているうちに,いつのまにかそんなことまで論じなくても,ABOFANさんの示すデータと,ランダムサンプリングの問題,および統計的検定の使い方について論ずるだけで「信じられないという説明」は十分になってしまいました.

わたし,および心理学者一般が考える「再現性」は,そのデータが母集団に一般化されることで保証されます.上の方でも述べたように,心理学的データではサンプルの個体差が大きく,測定誤差が大きいので,少数回の観察結果および「追試」による再現性の信頼性が低いため,ランダムサンプリングで最初から個体差と測定誤差をある程度統制して,その上で統計的検定という手続を用いて一般化したときの危険率から仮説を採択するかどうかの判断を行うわけです.

一方ABOFANさんは,ABOFANさんの意味での「理系の論理」で,少数回の観察結果の代表性をわれわれより大きく見積もり,また少数回の追試によって再現性が保証されると考えています.だからランダムサンプリングの意義を実感できないし,少数例でもあれば「差があるといってなぜ悪いのか」と考えるわけです.

ところが,ABOFANさんが実際に「血液型と性格に関係がある」ことの証明に使っている「性格心理学パラダイム」に則った方法は,それが実際にランダムサンプリングできているかは別として,あくまでもランダムサンプリングを前提にした統計的検定を基礎にしたものです.だって,扱っているのは鉄やアルミやコンピュータではなくて,人間だからです.

だから,ABOFANさんは「理系の論理」で「ランダムサンプリングがなぜ必要なのかわからない」といいながら「統計的に有意差が出た」という,そもそもランダムサンプリングの必要性を認めた上でしか意味をなさない事実でしか自分の主張の根拠を提出できない,というとても矛盾した状態になってしまっています.

ABOFANさんがとくにランダムサンプリングに関する私の説明を理解できないのは,もちろん私の説明の悪さもあるでしょうが,ランダムサンプリングに対する態度と統計的検定に対する態度との矛盾がABOFANさんの中にあるからではないでしょうか.

何度も言っているように,ABOFANさんがそれをどう理解しているかはともかく,血液型性格学と従来型性格心理学は基本的にまったく同じ論理体系で成り立っているもので,方法論的には何ら対立するものではありません.その意味で,もちろん能見正比古さんは性格心理学程度のレベルの「ランダムサンプリング」を自分も達成しているという前提で,統計を使って話をし,「血液型性格学は統計学に基づいた科学だ」と主張しているのではないでしょうか.能見さんがランダムサンプリング自体を問題視することはない(なかった)と思うなあ.

むしろ,血液型性格学と性格心理学は,とくに悪い部分がよく似ている双子のようなもので(注1),お互いに攻撃し合うのは一種の近親憎悪のようなものだと思います.同じ論理でやっているんだから,心理学側も血液型の方法を否定することはできないし,血液型側も性格心理学に対してとくに破壊力のある攻撃はできない,議論は最初から膠着と決まっているようなものです.そもそも,どちらも基本的に同じものなのだから,どちらかが間違っていれば,もう一方も基本的には同じ理由で間違っているのです.

そして,私の主張の最も重要な部分は,「性格心理学も,基本的にはそれと同じ論理構造の血液型性格学も,おそらくどちらも正しくない,正しいものはきっと他のところにある」ということです.


(注1)悪い部分がよく似ている  あてにならない人々の認知の,そのまたごく粗末な測定法でしかない性格検査や質問紙に頼っているので従属変数が反証不能である,測定状況や被験者がランダムサンプリングされていない,などなど.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その24)追伸 H12.2.22 13:29

ABOFANへの手紙(24) 追伸


あまり偉そうなことを言って間違っていると大変なので(笑),うちの大学の統計学
の先生(工学博士)のところへランダムサンプリングの問題について教えてもらいに
行ってきました.

統計学の先生の話をまとめると次のようになります.

  1. 統計的検定ではサンプルが母集団の分布をランダムに代表していることは,検定の方法を問わず当然の前提である.それは検定にかぎらず「母集団からの少数サンプル」で話をする場合には記述統計であっても,相関係数であっても基本的に同じことである.
  2. ただし,あまりに当たり前の前提であるので,教科書にはっきりそれと書いてあることはむしろ少ないかも知れない.
  3. 例外的に,ランダムサンプリングが不要であったり,ランダムサンプリングがうまく働かないような場合はあり,最近そうした事例がさかんに研究されているが,それは常識的な範囲の統計処理ではまず起こらないことである.

「統計の教科書通りやっている」というABOFANさんの主張をかなり派手に批判した手前,「2」はちょっと困っちゃうのですが,私も手元の統計の教科書を何冊かみましたが,全く書いてないというものはないにしても,それほど大切ではないように見えるような書き方がされているものは確かにありました.

もしABOFANさんが大学で習ったときに使った,あるいはいま使っている教科書がそういうものであったなら,それでABOFANさんを責めるのはちょっと酷です.もしそうなら,ごめんなさい.ただし,それは「その教科書が間違っている,あるいは良くない」と言ってかまわないのだそうです.

いずれにしても統計的検定にはランダムサンプリングが必須,という私の常識が統計学の専門家から見ても間違っていないことは確認されました.ああよかった(笑).

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その24)

 以前と同じ結果になってしまったようで…。(^^;;

#念のため、私には「説得」は意味がありません(笑)。

 以前と同じことを長々と書いてもしょうがないようなので、今回は手短かに行きます。

 その前に、

> 「自分の取ったデータが偏ったもので,その結果が単なる偶然かもしれない可能性が
> ある」という,われわれ心理学者がとてもとても気にすること,気にするように教育され
> ていることについて,ほとんど重視していないようであることがわかります.

 これは全く違います! 反論を書いてもしょうがないと思うので省略します。

> 理系のように比較的均質な試料や材料を

 この場合の「理系」は「工学系」ということなのでしょうが、土木は均質な材料を扱っているわけではないし、半導体も均質ではありません…。

 ま、揚げ足取りはこのぐらいにして…。(^^;;

 まず、「ランダムサンプリング」の定義が違うようなので、再度確認させてください。

> >  これもよくわかりません。だから統計的検定を行っているのです! 「遊園地の迷子
> > 」のケースでは、危険率は0.1%以下なので、当然のことながら「『偶然』である可
> > 能性」は0.1%以下です。いや、心理学では危険率は0.1%でも有意差があると認
> > めない、ということなら私は何も言いません…。

> このデータはランダムサンプリングされていないのだから,それをいくら計算だけきちん
> として,危険率0.1%だといっても,その危険率と「偶然である可能性」とは何の関係もな
> いのです.ランダムサンプリングされていないデータではたとえ検定の結果が「危険率0.
> 000001%」でも偶然である可能性は変わりません.その時危険率は単に「そのサンプル
> で(たまたま)検出された差の大きさ」を示しているだけです.

 なるほど、そういうことですか…。こうなると、パラダイムの違いとしか言いようがないですね。心理学ではそういう定義なんですか…。

 普通は、「(この日のこの)遊園地の迷子はB型が多い」という結論になると思うのですが、そうはならないと…。結局、何回同じ結果が出ようがダメということですか…。幕内力士のうっちゃられ回数は、「ランダムサンプリング」ではなくて「全数調査」ですが、「幕内力士」という限定条件が付くからダメだと…。

 質問 あらゆる状況で「性格の一貫性」の安定した差がないと、「血液型と性格は関係ある」とは言えないということなのでしょうか?

 これなら論理的には理解できます。渡邊さんの言わんとする意味はそういうことですか? こうなると定義の問題だと思います。

#この論理は実際的には意味がないと思うのですが…。

> ランダムサンプリングしていないデータは母集団を代表しておらず,たとえれば「体験者
> の談話」と同じです.

> サンプルが偏っている場合は偏ったサンプルの数が増えるほど母集団の現実からむし
> ろ離れます!

 全数調査の場合は当てはまりません。

 この後の部分については、今までの議論と同じで長くなるのであえて繰り返しません。(^^;; 私の主張は、統計学的の理論としての渡邊さんの主張は正しいが、実際のデータの解釈については少々違っている、というものです。具体例を次に書きます。

#つまり、渡邊さんのデータの解釈は、本来の意味での「ランダムサンプリング」とちょっとずれている、ということになります…。

追伸について

 私もこの統計学の先生の意見に全く同感です(笑)。ついでに書いておくと、統計の教科書で危険率の計算方法(分布、分布、χ分布…)のところを読んでみると、確かに「ランダムサンプリング」や「正規分布」が前提となっていることがわかります。別に難しくはありません。面倒な式の証明のところなんかは飛ばして(って、実は私もよくわかりません…苦笑)、分布関数のグラフなんかを見ていると直感的にわかるはずです。(^^)

 でも、なんでわざわざ「統計」の先生のところに聞きに行ったのでしょうか(ちょっと意地悪モード)。

 さて、せっかくの機会なので、その先生に次の文章を読んでいただいて、感想をアップしていただけないでしょうか?

 血液型と行動は関係ある、という仮説が正しいかどうか調べるために、次のようなデータを用意しました。

1.フジTV系列の「あるある大事典」(平成9年6月15日放映)から、ある日のある遊園地で迷子になった子供の血液型の数は…

O型

18人

A型

15人

B型

28人

AB型

12人

 χ2検定をしてみると、χ2値が19.80にもなるので、危険率は0.1%以下となる。つまり、入場者の血液型分布が日本人平均と同じだと仮定すると、偶然によりB型の迷子が多くなる確率は0.1%以下でしかない。

■渡邊さんの主張

 このデータはランダムサンプリングされていないのだから、それをいくら計算だけきちんとして、危険率0.1%だといっても、その危険率と「偶然である可能性」とは何の関係もない。ランダムサンプリングされていないデータでは、たとえ検定の結果が「危険率0.0000001%」でも偶然である可能性は変わらない。その時の危険率は、単に「そのサンプルで(たまたま)検出された差の大きさ」を示しているだけで、危険率の計算そのものが無意味である。
 従って、「(この日のこの)遊園地の迷子はB型が多い」とは言えないし、「(この)遊園地の迷子はB型が多い」とも(絶対に)言えない。そして、同じようなデータが何回も安定的に得られたとしても、やはり「(この)遊園地の迷子はB型が多い」とは(絶対に)言えない。ましてや、「(一般的に)遊園地の迷子はB型が多い」ということは絶対に言えないし、「B型は不用心である」に至っては論外である。

■私の主張

 このデータは(この日のこの遊園地の)全数調査であるから、統計的検定をすることができる。χ検定を行うと、危険率は0.1%以下であるから帰無仮説は棄却される。従って、「(この日のこの)遊園地の迷子はB型が多い」と言える。1日のデータだけで断定するのは少々無理があるが、危険率が0.1%であることも考慮すると、「(この)遊園地の迷子にB型が多い」とか「(一般的に)遊園地の迷子にB型が多い」と言える可能性もある。いずれにせよ、「B型は不用心」という有力なデータの1つであることは確かである。渡邊さんの言う「ランダムサンプリング」は、「遊園地の迷子」という独立変数を無視することになる。

2.下の表は『新・血液型人間学』のもので、昭和33年秋から14年間の幕内力士うっちゃられ回数ベスト10である。

順位 力士名 血液型 回数
青ノ里 23
開隆山 22
大 豪 21
柏 戸 18
福の花 16
義の花 16
明武谷 14
小城ノ花 14
北の富士 13
10 若秩父 12

 B型が10人中6人と圧倒的に多い。なお、この期間の幕内平均人数は、O型8人、A型が10人、B型7人、AB型3人、不明が6人とのことてある。血液型分布を日本人平均として計算してみると、χ値は9.20となり、危険率5%以下で有意となり、B型が多いことになる。

■渡邊さんの主張

 たしかにこのサンプルでは血液型との関係があったかも知れないが、ランダムサンプリングではないので、そのサンプル以外のサンプル、そして母集団では差がない可能性が十分ある。具体的にいえば、これ以外のデータが採られた「場所」ではたしかに「うっちゃられ回数と血液型に関係があった」かも知れないが、他のすべての「場所」ではまったく関係がないかも知れない。また、データを採る対象になった力士については関係があったかも知れないが、対象となっていない力士では全く関係がないかも知れない。つまり、このデータが採られた時と場所に限って生じた「偶然」である可能性が十分にある。
 「いや,2つの場所でやってどちらも関係があった、だから偶然ではない」というかも知れないが,場所が100場所あるとして、のこりの98場所では関係がない、偶然が重なって2場所続けてそういう結果が出た、という可能性は(上の場合よりは少し減りるが)十分にある。

■私の主張

 このデータは(昭和33年からの14年間に限れば)全数調査であるから、統計的検定をすることができる。χ検定を行うと、危険率は5%以下であるから帰無仮説は棄却される。従って、「(昭和33年からの14年間に限れば)幕内力士のうっちゃられ回数はB型が多い」と言える。全数調査や14年間という期間を考えると「(一般的に)幕内力士のうっちゃられ回数はB型が多い」と言える可能性も高い。だから、「B型は不用心」という有力なデータの1つと言える。渡邊さんの言う「ランダムサンプリング」は、「幕内力士のうっちゃられ回数」という独立変数を無視することになる。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その24)追伸の2 H12.2.23 12:17

ABOFANへの手紙(24) 追伸の2


あえて手紙(25)にするほどの問題ではないと思うし,(25)は「まとめ」にとっておきたいので追伸にします.

まず,

>  でも、なんでわざわざ「統計」の先生のところに聞きに行ったのでしょうか(ちょっ
> と意地悪モード)。

それはもちろん,この議論をまとめる上で統計についての私の常識が正しいか,ABOFANさんの常識が正しいかがとても大事なことだからです.私は私の常識にはもちろん自信がありましたが,前にABOFANさんが「科学者のレフェリーが必要」とおっしゃっていたことを思い出して,「工学系」の統計の先生に確認しとけばとくに私にだけ有利な結論にはならないだろうと思って聞きに行きました.それは私なりに「議論の公正」を確保しようと思ってやったことです.

まあ自分の常識に多少の漠然とした不安を抱いた,というのも正直なところですが,ちゃんと聞きに行くのは私自分でもなかなか偉いと思いました(笑).


1.「全数調査」の問題について.

わたし,これでもう統計の話はほんとにやめたいと思います.ABOFANさんの説に反論できないからではもちろんなくて,これ以上ABOFANさんをいじめるのは忍びないからです.

最大素数さんのメールにあった「全数調査」ということばに飛びついたABOFANさんの気持ちは,痛いほどわかります.しかし,ABOFANさんこれは致命的な失敗でしたよ.

>  このデータは(この日のこの遊園地の)全数調査であるから、統計的検定をすること
> ができる。χ2検定を行うと、危険率は0.1%以下であるから帰無仮説は棄却される
> 。従って、「(この日のこの)遊園地の迷子はB型が多い」と言える。
> 1日のデ ータだけで断定するのは少々無理があるが、危険率が0.1%であることも
> 考慮すると、「(この)遊園地の迷子にB型が多 い」とか「(一般的に)遊園地の迷
> 子にB型が多い」と言える可能性もある。

はあ? 全数調査なのですか? ほんとに?

全数調査(悉皆調査)というのはその調査目的が対象とする母集団全体(全員)についてのデータがとれる場合を言います.このとき,そのサンプルから「母集団を推定」する必要はありませんから(そのデータが母集団そのものなのだから当然です),記述統計でどんなに小さな差が出ても,「差がある」ということができます.

たとえば帯広畜産大学学生の意識を知るために「全数調査」を畜大学生の全員(一般的には大多数でOK)に実施して,「授業がつまらない」という人が51%,「おもしろい」という人が49%だったら,比率の検定などしなくても「帯広畜産大学では授業がつまらないという学生の方が多い」と結論して統計学的には全く問題ありません(注1).

したがって,全数調査のデータでは統計的検定をすること自体に意味がありません.また,全数調査においては検定や分散分析など母集団の推定が目的および前提である統計的検定については「計算すること自体が誤り」ですし,χ2検定なら計算すること自体は間違いではないですが,それを記述統計的な意味でなくABOFANさんのように推測統計的な意味で使うことは誤りです.

なぜなら,そのデータを「全数調査」と定義した時点で,その統計は「そのデータ」だけについてのものとなり,そこからそのデータ以外のこと(つまり他の母集団についてのこと)を推測したり,予想したりすることは「してはいけない」ことになるからです.全数調査に推測統計は適用されないし,される必要もありません.

「畜大の調査」で言えば,この調査はもともと「畜大生はどう考えているのかを知ること」だけを目的として,つまり「畜大生だけ」を母集団と想定して「全数調査」としたわけだから,この結果から「大学生では一般に授業がつまらないという人が多い(可能性がある)」とかいった推論を出す必要はないし,出すこともできない,ということです.

ABOFANさんがおっしゃる例でも,「全数調査である」と言った時点で,遊園地のデータは純粋に「この日,このときに遊園地に集まった人だけについて説明する」ためだけのものになり,

> 1日のデータだけで断定するのは少々無理があるが、危険率が0.1%であることも
> 考慮すると、「(この)遊園地の迷子にB型が多い」とか「(一般的に)遊園地の迷
> 子にB型が多い」と言える可能性もある。

ということは「言ってはいけない」し,「言える可能性」自体が,統計の論理によってはっきり否定されます.

いいですか,一般論として「ここでこういうこと(体験)があったんだから,ほかでも同じことがあるかも知れない,ないとは言い切れない」という論理自体が,その体験を「世界」のひとつのサンプルと考える,サンプリング的な論理なのです.全数調査ではそういう論理を目的にしていないし,そういう論理自体不可能です.

「畜大の調査」でいえば,もし「大学生では一般に授業がつまらないという人が多い(可能性がある)」という推論を求めるのであれば,最初から「大学生全体のサンプル」,つまり全数調査でなくサンプリング調査であるという前提で「大学生を代表するサンプル」として畜大生からデータを採っていなければならないし,そうであればいくら畜大生全員のデータを採ってもそれが母集団全体(大学生全体)からランダムサンプリングされていなければ(サンプル数の多寡に関わらず)データの信頼性が低いと言わざるを得ません.そして「サンプリングではなく畜大生だけを対象とした全数調査だ」というならそもそも結論の一般化はできない,というのは前に述べたとおりです.

ABOFANさんの遊園地の例でいえば,以前のように「ランダムサンプリングはしていないが,サンプル調査であり,有意差が出ている」という主張であれば,「ランダムサンプリングしてないからかなり怪しいにしても,この差が一般化できる可能性をまったく否定することはできない」と間違いなく言えましたが,「全数調査」と言ってしまった時点で,それさえも言えなくなります.

全数調査では検定以前にすべての差は「確かな差」すべての関係は「確かな関係」ですから,確かにこのデータでは「迷子と血液型に関係はある」のですが,そのかわり「このデータでは迷子と血液型に関係があったが,このデータはそれ以上の母集団を想定していないので,その結果が一般化できる(できる可能性がある)と主張することは不可能である」と自ら断定することになるのです.もったいないことをするものです.

それ以前に,「血液型と性格」の議論自体が「一般的に言って血液型と性格には関係があると考えられるのか」という話をしているのですから,この問題において「全数調査」といえるのは「人間全員」,せめて「日本人全員」のデータ(「国勢調査」という実例があります)を取れた場合だけだと思いますし,そんな面倒なことしなくてもランダムサンプリングしてサンプリング調査をすれば同じ目的を満たせるわけです.どうもABOFANさんは「どうしてサンプリングというものがあるのか」がわかっておられないようです.

最大素数さんが相撲のデータを「全数調査」といったのは,全数調査ならランダムサンプリングしてなくても検定できるんじゃない,ということじゃなくて,サンプリングのデータだと見ないで全数調査だと考えれば,このデータもなかなか興味深いでないの(注2),という意味だと思いますし,「そんなデータを集めた人がいる」ということ自体も含めて,私も本当にそう思います.

また,ついでに言っておくと

>  私もこの統計学の先生の意見に全く同感です(笑)。ついでに書いておくと、統計の
> 教科書で危険率の計算方法(t分布、F分布、χ2分布…)のところを読ん
> でみると、確かにランダムサンプリング」や「正規分布」が前提となっていることが
> わかります。別に難しくはありません。面倒な式の証明のところなんかは飛ば
> して(って、実は私もよくわかりません…苦笑)、分布関数のグラフなんかを見ている
> と直感的にわかるはずです。(^^)

正確にはランダムサンプリングの問題と正規分布の問題は関係はあるものの,別のことです.また,危険率の計算はともかくχ2検定そのものはランダムサンプリングやデータの正規分布をとくに前提にはしていません.推測統計的な使い方をするときには常識的にランダムサンプリングが求められるだけです.

「統計の教科書を確認してくれ」と言った以上,私はいつABOFANさんが「私が使っているχ2検定はランダムサンプリングを前提にはしていないはずだ」と言いだすかとビクビクし,そのときの説明を一生懸命用意していたのですが,それは杞憂に終わったようです(笑).


2.ぼやきと提案

この議論でわかったことは,ABOFANさんは私がこれまで論じていたような「ランダムサンプリングの意味やそれと統計的検定との関係」がわかっていないのではなくて,もっと基本的な「全数調査とサンプリング調査の違い」とか「記述統計と推測統計の違い」といったレベルで,統計の仕組みを理解していないようだ,ということです.

これらは,ホントに統計の初歩の初歩の話です.教科書なら,ABOFANさんが熱心に読んだであろう「第6章・統計的検定」のページまで進まない,「第1章・統計学とはなにか」とか「第2章・母集団と標本(サンプル)」とかいうページに間違いなく書いてありますし,大学の「統計学概論」の授業だったら遅くとも第3回目までには話されることです.これはABOFANさんの言うような「パラダイムの違い」ではなくて,純粋に統計に関する基礎知識があるかないかというだけの問題です.

私はあくまでも「ABOFANさんは統計をわかっている」という前提でここでの議論を続けてきました,だから,比較的高いレベルの理解力を想定してランダムサンプリングの話をしてきたわけです.しかし,これではランダムサンプリングの意味が理解できないのは当然です.

確かに,「科学哲学」とか「新しい性格観」とか,私がここで初めて持ち出した問題についてABOFANさんに知識がないことはしかたがないことで,私はそれを説明しながら議論を進める義務があったでしょう.

しかし統計はそもそもABOFANさんの方がこのHP全体で「自分のデータが正しいという論拠」として主張されているもので,こちらがABOFANさんが統計を理解している,少なくとも自分と同程度の知識を持っていると想定して議論を進めたことに,私の落ち度はないと思います.しかし,残念ながらその想定は間違っていたわけです.

だから,もう統計の話はやめましょう.もともと私は統計の話はしたくない,と何度も宣言してきたわけですし(笑).

また,

> さて、せっかくの機会なので、その先生に次の文章を読んでいただいて、感想をアップ
> していただけないでしょうか?

そんな恥ずかしいこと,とてもできません.勘弁してください.「こんな基礎的なことも自分で説明できないので自分のところへ持ってきたのか?」などと思われたら,私の研究者としての立場が危うくなります(笑).また,統計学の先生と私がふたりで「こんなことも知らないで統計を云々する人がいるんですよ」などと笑いあうなどというのも,ゾッとしませんね.だからABOFANさんのこの要請には応えることができません.ごめんなさい.

とにかく,統計の話はもうやめましょう.もしABOFANさんが私に「統計の基礎入門講座」とかをここでやってくれ,というなら考えないでもないですが,それはABOFANさんが「自分は統計をわかっていない」と認めることが前提だし,恐らくABOFANさんがそれを認めることはないだろうから(私には「説得」は意味がありません,とはっきり書いておられますし),やはり統計の話をやめるのがいちばん良いと思います.

この問題では私ははっきり結論が出ましたから,もしABOFANさんが「渡邊は統計の議論から逃げた」と主張されても,とくに気にしません(もちろん,ABOFANさんはそんなこと言わないとわかっていますが).

ということで次の手紙(25)では,いよいよ(笑)議論全体のまとめに入りたいと思います.最大素数さんのメールへの答えも,ちょっと待ってください.


追伸の注

(注1)授業がつまらない... もちろん,実際にデータを採ったら「つまらない」という回答をする人はもっともっと多い比率になるでしょう(笑).

(注2)全数調査と考えれば...  最大素数さんが言うように,全数調査だと考えればこのデータには明らかに血液型との関係があります(それを一般化することはできないにしても).ただ,これも最大素数さんが言うように,この関係がなぜ生じているのかや,それをどんな性格と結びつけるかには,もっといろいろな説明ができるでしょう.私より相撲に詳しい心理学者の友人(「偉電子」とは別人)が,以下のようなメールをくれました.なお,文中の「大先生」というのは私のあだ名です(笑).

>  「うっちゃられ」についてはさまざまなデータの問題点がありそう(とはいえ本当
> に力士の血液型を調べ,うっちゃられの回数を調べたとすれば,それはそれですごい
> ですよね?)ですが,そのへんは大先生にお任せ(当たり前か?)するとして,最大
> 素数氏も指摘していた「うっちゃられ→不用心」の問題について,(ひょっとして大
> 先生が相撲にそれほど詳しくないかもしれないと邪推して)僭越ながらご教示しま
> す。
>
>  素人判断では,うっちゃりで負ける→詰めが甘い→不用心となるのかもしれません
> がこれは大いに疑問です。不用心による決まり手は「うっちゃり」による負け(ここ
> でいう「うっちゃられ」)もあるかもしれませんが,それよりも,「はたき込み」に
> よる負け(「はたきこまれ」?)とか「勇み足」による負け(「???」:ただし
> めったにないので「検定できない!!?」)とかのほうが,しっくりきます。ちょっ
> とマニアックですが,「さかとったり」による負け(「さかとったられ」??)も不
> 用心といえなくもありませんし,それ以外の決まり手ももいろいろ考えてみれば不用
> 心と思えるものがでてきます。まげをつかんじゃうことによる負けも,それにあたる
> かもしれません。つまり,かりにあの表のデータが正確なものだとしても(統計やそ
> の解釈は論外として,血液型による何らかの差があったとしても),不用心な負け方
> について,そしてうっちゃりという決まり手についてもう少し専門的に(相撲ジャー
> ナリストなり,運動学なりの立場から)考える必要があるということです。私はそん
> なに詳しくありませんけど

>  たとえば,おそらくその当時「うっちゃり」を得意にしていた力士Xがいた(場合
> によれば複数)と思いますし,表の上位力士たちが,その力士Xと所属部屋が違って
> いたということがまず重要です。部屋が同じなら対戦しませんから。それに,力士X
> の得意な取り口(組み手も含む)と,表の上位力士たちの得意な取り口の組み合わせ
> (相性)も関係してくるかもしれません。

>  けがをして休場した力士(の少なくとも一部)は不用心なためということもできる
> でしょう(だから休場日数や休場場所数をカウントするなんてことも考えられる)
> し,番付上位力士が下位力士に負けるということは(特に三役以上の人が平幕の下の
> 方の人が負ける場合に限定してもいいかもしれません),ある意味で不用心といえる
> でしょう。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その24)追伸の3 H12.2.23 16:56

ABOFANへの手紙(24)追伸の3


おそらく質問が出ると思いますので,補足説明です.

「追伸の2」で私は,χ2検定では必ずしもランダムサンプリングが前提ではない,ということを書きました.その意味で全数調査でχ2検定が使われることはあります.では,それはどういうときで,ABOFANさんが「全数調査」で用いたやり方はどこが間違っているのでしょうか.

繰り返しになりますが,全数調査ではどんなに小さな差でも,差があればそれを「正しい差」と結論してかまいません.しかし,差が誰が見ても明らかなものであればともかく,微妙なものであるときにはそれを「差」と判断して意味があるかどうか悩むときがあります.

そういうときに,「このサンプルで偶然この差が出る確率」を基準にするときがあります.つまり,全数調査として畜大学生1500人のデータを採って,ある(微妙な)差が出てきたときに,1500人のデータでそういう差が偶然に出る確率が十分に低ければ,「差があると判断して意味がある」と結論するわけです.

たとえば,

データ1

  はい いいえ 合計
授業がつまらない 1000 500 1500

であればなにも悩みませんが,

データ2

  はい いいえ 合計
授業がつまらない 755 745 1500

だったら,全数調査だから差があるといっても間違いではないのだけれど,「授業がつまらないという人の方が多い」と結論することに実際的な意味はあるかな,と悩みます.

そのとき,χ2検定を行なってみると,データ1ではχ2=85.7(1), p<0.01で有意差がありますが,データ2ではχ2=0.1(1), N.S. で有意差がありません.このとき,データ2のような差は1500人のデータでは偶然にも起こり得ると言うことになって,それを差があると結論することにはあまり意味がないということになります.そういう意味ではこういう場合の方が「有意差」ということばの本来の意味に近いかも知れませんね.

ただし,それでも「差がある」と結論しても,統計学的には間違いではありません.全数調査の場合のχ2検定は,「差があるかないかの規準」ではなく,判断の目安としての記述統計の一種に過ぎないのです.そして,この検定はあくまでも「このデータの範囲内でそういう結論をすることの意味」を調べているに過ぎません.したがって,これを推測統計的な検定と混同してはいけません.

推測統計的な検定とは,そのデータを母集団から抽出されたサンプルと考え,そのサンプルに一定の差が出たときに,その差を母集団に一般化しても良いかどうかを判断するための検定です.その場合は,まず検定するサンプルがランダムサンプリングされている必要があります.

上のデータを,畜大生の全数調査ではなく全国の大学生からサンプリングされたデータだと考え,χ2検定します(検定の方法,および結果としての数値は同じです).

この場合にはデータ1に有意差があり,データ2に有意差がないということは,すなわちデータ1のような結果が出ればサンプルに見られた差を母集団に一般化(日本の大学生は一般に授業をつまらないと思っている,と考えること)しても良い,という指標となるし,データ2のような結果が出ればサンプルに見られた差を母集団に一般化することはできない,ということになります.

もちろん,こうした結論はこの1500人のサンプルが日本の大学生全体からランダムサンプリングされていることを前提とします.


相撲の例で,ABOFANさんの間違いを分析します.

>  このデータは(昭和33年からの14年間に限れば)全数調査であるから、統計的検
> 定をすることができる。χ2検定を行うと、危険率は5%以下であるから帰無仮説は棄
> 却される。従って、「(昭和33年からの14年間に限れば)幕内力士のうっちゃられ
> 回数はB型が多い」と言える。

ここまでは正しいです.もちろん,全数調査ですから検定などしなくても「(昭和33年からの14年間に限れば)幕内力士のうっちゃられ回数はB型が多い」と結論してかまわないのですが,「差があまり大きくなかったか,自分の判断に自信がなかったから」検定をして,有意差があるから血液型による違いがあると結論した,と読めば,なんの問題もありません.

しかし,ここで「全数調査である(=推測統計を適用するようなデータではない)」と宣言しておきながら,

> 全数調査や14年間という期間を考えると「(一般的に)幕内力士のうっちゃられ回数
> はB型が多い」と言える可能性も高い。だから、「B型は不用心」という有力なデータ
> の1つと言える。

というふうに検定の結果を推測統計的に解釈していることは全く間違いです.「可能性」も高くなければ,「有力なデータ」でもありません.全数調査である,という限りはそのデータ(=母集団)における結果を,その母集団の「外側」における傾向の推定には用いることができないからです.

こういうことを言いたいならこのデータは全数調査ではなく母集団を代表したサンプリングのデータでなくてはならず,もちろん「一般化の対象となる母集団」全体からランダムサンプリングされたものでなければなりません.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その24の2)

 今回の番号は24のはずだったのですが、渡邊さんのメールが24の追伸になっていたので、あえて24にはしませんでした。

 確かに返事(その24)はおマヌケでした。ということで、今回のメールでお詫びし訂正しておきます(汗々)。ご教授ありがとうございました。

 さて、渡邊さんの論理が私にとって理解不能なのはどうやら「ランダムサンプリング」の解釈や定義にあったようです。いやぁ、実に時間がかかったものです。ふぅ。

1.「全数調査」の問題について

 ご指摘どおり、「全数調査」という言葉は最大素数さんのメール(その13)からいただきました。無断ですみません>最大素数さん

 確かに、統計学的に「全数調査」と言った場合は、渡邊さんの言うとおりの意味になるはずです。そういう意味では私は間違っていましたので、この場でお詫びし訂正させていただきます。m(._.)m

 ちょっと言い訳をしておくと、私が書いた意味はそういう意味ではありません。ある条件に基づいた場合については「全数を調査した」という意味ですので…(苦笑)。そういう意味では、「全数調査」ではなく単なるサンプリングということですね。

#確かに間の抜けたことを書いたのは事実です。(^^;;

 さて、申し訳ありませんが、まだよく理解できない点について質問させてください。

> 以前のように「ランダムサンプリングはしていないが,サンプル調査であり,有意差が
> 出ている」という主張であれば,「ランダムサンプリングしてないからかなり怪しいにし
> ても,この差が一般化できる可能性をまったく否定することはできない」と間違いなく言
> えましたが

 ところで、メール(その24)では、

> 「相撲のある場所のある力士たちのいくつかの取り組みにおいて,組み手と血液型に
> 関係があった,しかし他の場所の他の力士たちの取り組みでも関係があるかはまった
> く不明である」ということですが,こういわれたとき,一般的に私たちは「なるほど,組み
> 手と血液型には関係があるんだなあ」と判断するでしょうか? 私はしませんよ.

 ニュアンスが違うようですが、どちらが渡邊さんの考えに近いのでしょうか? 「ランダムサンプリング」でなくとも「この差が一般化できる可能性をまったく否定することはできない」のですか?

 なお、「幕内力士のうっちゃられ回数」については、能見正比古さんのデータです。データの出所は時間がなくて確認できませんが、彼は熱烈な相撲ファンでした。著書も何冊かあります。だから、渡邊さんのお友達の指摘している問題点はクリアしているものと私は想像しますが、残念ながら確認はできません。

 さて、少々長いのですが、以前のおマヌケな説明を訂正して再度書いておきます。(^^;; 今度は間違ってないと思いますが…。今回は統計の先生に聞いてほしいとも要求しませんし、間違っていたら再度指摘してください(大笑)。

 血液型と行動は関係ある、という仮説が正しいかどうか調べるために、次のようなデータを用意しました。

1.フジTV系列の「あるある大事典」(平成9年6月15日放映)から、ある日のある遊園地で迷子になった子供の血液型の数は…

O型

18人

A型

15人

B型

28人

AB型

12人

 χ2検定をしてみると、χ2値が19.80にもなるので、危険率は0.1%以下となる。つまり、入場者の血液型分布が日本人平均と同じだと仮定すると、偶然によりB型の迷子が多くなる確率は0.1%以下でしかない。

■渡邊さんの主張

 このデータはランダムサンプリングされていないのだから、それをいくら計算だけきちんとして、危険率0.1%だといっても、その危険率と「偶然である可能性」とは何の関係もない。ランダムサンプリングされていないデータでは、たとえ検定の結果が「危険率0.0000001%」でも偶然である可能性は変わらない。その時の危険率は、単に「そのサンプルで(たまたま)検出された差の大きさ」を示しているだけで、危険率の計算そのものが無意味である。
 従って、「(この日のこの)遊園地の迷子はB型が多い」とは言えないし、「(この)遊園地の迷子はB型が多い」とも(絶対に)言えない。そして、同じようなデータが何回も安定的に得られたとしても、やはり「(この)遊園地の迷子はB型が多い」とは(絶対に)言えない。ましてや、「(一般的に)遊園地の迷子はB型が多い」ということは絶対に言えないし、「B型は不用心である」に至っては論外である。

■私の主張

 このデータは1日だけのデータではあるが、統計的検定をすることができる。χ検定を行うと、危険率は0.1%以下であるから帰無仮説は棄却される。1日のデータだけで断定するのは少々無理があるが、危険率が0.1%であることも考慮すると、「(この)遊園地の迷子にB型が多い」とか「(一般的に、あるいは最近の)遊園地の迷子にB型が多い」と言える可能性もある。いずれにせよ、「B型は不用心」という有力なデータの1つであることは確かである。渡邊さんの言う「ランダムサンプリング」は、「遊園地の迷子」という独立変数を無視することになる。

2.下の表は『新・血液型人間学』のもので、昭和33年秋から14年間の幕内力士うっちゃられ回数ベスト10である。

順位 力士名 血液型 回数
青ノ里 23
開隆山 22
大 豪 21
柏 戸 18
福の花 16
義の花 16
明武谷 14
小城ノ花 14
北の富士 13
10 若秩父 12

 B型が10人中6人と圧倒的に多い。なお、この期間の幕内平均人数は、O型8人、A型が10人、B型7人、AB型3人、不明が6人とのことてある。血液型分布を日本人平均として計算してみると、χ値は9.20となり、危険率5%以下で有意となり、B型が多いことになる。

■渡邊さんの主張

 たしかにこのサンプルでは血液型との関係があったかも知れないが、ランダムサンプリングではないので、そのサンプル以外のサンプル、そして母集団では差がない可能性が十分ある。具体的にいえば、これ以外のデータが採られた「場所」ではたしかに「うっちゃられ回数と血液型に関係があった」かも知れないが、他のすべての「場所」ではまったく関係がないかも知れない。また、データを採る対象になった力士については関係があったかも知れないが、対象となっていない力士では全く関係がないかも知れない。つまり、このデータが採られた時と場所に限って生じた「偶然」である可能性が十分にある。
 「いや,2つの場所でやってどちらも関係があった、だから偶然ではない」というかも知れないが,場所が100場所あるとして、のこりの98場所では関係がない、偶然が重なって2場所続けてそういう結果が出た、という可能性は(上の場合よりは少し減りるが)十分にある。

■私の主張

 このデータは(昭和33年からの14年間に限れば)全数を調査したので、かなり信頼性のある統計的検定をすることができる。χ検定を行うと、危険率は5%以下であるから帰無仮説は棄却される。従って、サンプル数や14年間という期間を考えると「(一般的に、あるいはこの前後の期間では)幕内力士のうっちゃられ回数はB型が多い」と言える可能性も高い。だから、「B型は不用心」という有力なデータの1つと言える。渡邊さんの言う「ランダムサンプリング」は、「幕内力士のうっちゃられ回数」という独立変数を無視することになる。

2.ぼやきと提案

 統計の話はもうしない、ということで非常に残念です。そこで、最後(?)ということで、ランダムサンプリングの話を1つだけ書いておきます。別に答えを強要するつもりはありませんので(笑)。

 渡邊さんの論理(?)を厳密に適用すると、すべての心理学のデータはムダになります。なぜなら、いくら厳密にランダムサンプリングを行っても、人類全体に適用することはできないからです。今日のデータは明日は通用しないし、(言語の問題を無視するにしても)世界中の人に同じ質問をすることは不可能だし…。結局、ありとあらゆるデータはムダですから、心理学という学問そのものが成立しないことになります。いくら厳密にランダムサンプリングをしようと努力しても絶対不可能なのです! 時間軸方向でのランダムサンプリングは理論的に不可能なはずですから…。

 現在の日本では「性格は実在しない」にしても、江戸時代には実在したかもしれません。いや、日本では縄文時代から実在しないとしても、中国では実在するかもしれません。いやいや、近くの某国では調査そのものが不可能なのですから、結局何の結論も得られません。無理に潜入して調査することが可能としても、今日のデータは明日は通用しません…。ホモ・サピエンスに「性格は実在しない」にしても、ネアンデルタール人には実在したのかもしれません。

 従って、「性格は実在する」とも「性格は実在しない」とも言えません。渡邊さんがいくら努力しても、予算が500万円どころか何百億円あろうが、タイムマシンを使おうが、何の結論も得られないのです(涙々)。ましてや、スコールがAB型だろうが、ピカチュウで攻撃しようが、エヴァに乗って出撃しようが、宇宙戦艦ヤマトで14万8千光年離れた大マゼラン星雲に向かおうが、全くムダな努力なのです。

 なんかヘンですが、こういう解釈でよいのですか? 違っていたら指摘してください。

返事(その23)について

 再確認のために、一部を再掲しておきます。

> また,ニュートン力学の説明が限定されたものと考えられるようになったのは,
> 説明できない現象があるから,ではなくて,ニュートン力学が説明できない現象を
> (ニュートン力学の限定性も含めて)説明できる新しい理論が現われたからです.

 性格心理学の説明が限定されたものと考えられるようになったのは、 説明できない現象があるから、ではなくて、性格心理学が説明できない現象を(性格心理学の限定性も含めて)説明できる新しい理論が現われたからですか?

 前回は本当に乱文でした(汗々)。今回は乱文にならないよう気をつけて書いたつもりです…。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その25) H12.2.24 0:30

ABOFANへの手紙(25)


手紙(25)でまとめにするつもりだったのですが(笑).

間違いを認めていただければ何の問題もありません.「追伸」では意地の悪い書き方をしたことはお詫びします.

統計の話はもうしないと言ったのですが,もしかしたらもう少し話せばABOFANさんに大事なことを理解してもらえるかもしれないという期待を少し持ったので,もう少しだけ話します.「前言を翻すのか」といわれれば,そうです.ですが,統計の話は本当にこれで終わりにします.私はここで必要なことを十分と思えるまで説明し尽くしますので,それが理解できないなら統計の教科書で勉強してください.以下のことについてはもう質問を受けたり,補足説明したりはしません.

>  さて、渡邊さんの論理が私にとって理解不能なのはどうやら「ランダムサンプリング
> 」の解釈や定義にあったようです。いやぁ、実に時間がかかったものです。ふぅ。

って,時間がかかった主な原因は私ではない,ということは「追伸」であきらかですよね(笑).また「ランダムサンプリングの解釈や定義」というのも,残念ながら正しくありません.「ランダムサンプリング」ということには解釈の問題も定義の問題もなく,ただ理解しているかしていないかだけで,私は理解しており,ABOFANさんは理解していないというだけのことです.

ABOFANさんのデータが全数調査ではなく「サンプル」であることは認めていただいたわけですね.そして,それがサンプルであって,そして統計的検定を行うなら,ランダムサンプリングが前提であることも,認めていただきましたね.そうであれば,ABOFANさんのデータにおいても本当はランダムサンプリングが必須であり,それをしていないことが「統計学的に不十分」であることも,認めていただいたと考えていいと思います.

たしかに,心理学のデータの多くも理想的なレベルのランダムサンプリングを行っているとは言えません.しかし,手紙(24)で書いたように心理学者は,それを「正しい」と認めるかどうかは別として,なんらかの理由で自分たちのサンプルを「ランダム」だと前提して統計的検定を行っています.そのことが,ABOFANさんのように「ランダムサンプリングを否定する」のとはまったく違うということは,説明の必要もないと思います.

残された問題は,統計的検定ではランダムサンプリングが前提だと認めた上で,「もしランダムサンプリングしていないデータで有意差が出ている場合,それをどう解釈すべきか」ということになると思います.

もちろん統計学の原理的には「そんな結果は無視」すればよいのですが,どうもこれを説明しないとABOFANさんは納得してくださらないようですので.


1.渡邊芳之の統計学初心者講座 〜 ランダムサンプリングの意味

以下のような「母集団」があるとします(データの内容はもちろんでたらめですし,母集団での分布が最初からわかっているということも実際にはありえませんが).

データ1 帯広市民(人口17万人)のいちばん好きな食べ物

豚丼 50000
ジンギスカン 50000
ラーメン 40000
マルセイバターサンド 20000
手作りソーセージ 10000
合計 170000

母集団がこうだとすると,全数調査をすればこれとほとんど同じ結果が出ます.そのときは全数調査における「最頻値」が豚丼とジンギスカンなので文句なく「帯広市民は豚丼とジンギスカンが一番好き」と結論できます.

さて,全数調査は手間がかかるので,サンプリング調査を行うことにしました.サンプルを帯広市民の0.1%の170人採るとして,それが市民全体からのランダムサンプリング(市民のさまざまな「層」から無作為に均等に抽出される)で採られるとすれば,結果は以下のようなものに限りなく近くなることが期待できます.

データ2 帯広市民のサンプル(ランダムサンプリングの170人)の一番好きな食べ物

豚丼 50
ジンギスカン 50
ラーメン 40
マルセイバターサンド 20
手作りソーセージ 10
合計 170

このとき,このサンプルがランダムサンプリングされていれば,このサンプルには母集団を代表する力がありますから「帯広市民の一番好きな食べ物は豚丼とジンギスカンらしい」と推測することができます.これを「母比率の推定」といいます.また,その推定の確からしさは,統計的検定によって検討することができます.

しかし,もしランダムサンプリングしないときには,そのサンプルがどう採られたかによって,そのサンプルが母集団をどう代表するか(代表しないか)は予測不能になります.たとえば同じ170人でも「帯広市内のあるソーセージ屋に集まった人たち」というサンプルでは,以下のようになるかもしれません.あ,念のために言っておけば帯広市内には「ソーセージ専門店」というのが何軒かあります(笑).

データ3 帯広市民のサンプル(あるソーセージ屋に集まった170人)の一番好きな食べ物

豚丼 30
ジンギスカン 20
ラーメン 10
マルセイバターサンド 10
手作りソーセージ 100
合計 170

このとき,このデータでは「手作りソーセージ」が最頻値となります.また,このデータを統計的検定しても,おそらくかなり有意に「手作りソーセージ」が多い,という結論になるでしょう.

この結果から「帯広市民は手作りソーセージが一番好き」と結論してよいでしょうか.よくないですね.

この例に限らず,「豚丼屋で採る」「六花亭(帯広名物マルセイバターサンドの製造販売元)で採る」「ラーメン屋で採る」というふうに,ランダムサンプリングしない場合はそのサンプルによってデータはまったく予測できないパターンでどうとでも変わり,それらはいずれも母集団を代表していません.また,ランダムサンプリングしない場合にサンプルが偶然に母集団をある程度うまく代表することも,一定の確率では考えられますが,そのサンプルがそれであるかどうかは,判断する方法がありません.

つまり,ランダムサンプリングした場合にはそのサンプルが「母集団を代表している」ことはかなり高い確率で予想されますが,ランダムサンプリングしない場合にはその確率はまったく保証されないのです.そのとき,そのサンプルで統計的検定を行い,そこにどれだけ大きな有意差が出たとしても,それには何の意味もない,ということは前にも説明しました.

さて,ではランダムサンプリングしていないデータにはどういう意味があるのでしょうか.データ3が示していることは,

 結論 「サンプルを採ったあるソーセージ屋に集まった人たち170人が一番好きなのは手作りソーセージである」

ということだけです.つまり「クイズ100人に聞きました!」です(注1).このデータから「帯広市民は手作りソーセージが一番好きだ」とか,本来の目的とは関係ありませんが「一般的にソーセージ屋に集まる人たちが一番好きなのはソーセージである」とかいう推測ができるかどうかは,「純粋に偶然の範囲」となります.検定で有意差があることは,上記の「結論」を支持するだけで,それを一般化できるかどうかの指標にはなりません.

このことは,サンプル数とは関係ありません.ソーセージ屋でのデータを170名ではなく,1700名,17000名と増やしたところで,それが母集団を代表していないことに何の変わりもありません(注2).サンプル数が増えれば統計的検定の有意差はどんどん大きくなりますが,そのことも一般化の可能性とは全然関係ないのです.

ランダムサンプリングしていないデータから出た結果は,たしかに「そのデータではそうである」ということができます.しかし,それを一般化したときに正しい確率はまったく予想がつきません.

そういう意味では,ランダムサンプリングしていないデータは,ほとんど「そのサンプルそのものを母集団とする全数調査」としての意味しか持たないことになります.全数調査では何ができて,何ができないかは「追伸」で説明しました.


(注1)クイズ100人に聞きました!  あの番組が面白かったのは,サンプルがランダムサンプリングされていない偏ったものなので,必ずしも「世間で共有されている常識」どおりのデータが出てこず,「常識」で答えようとする解答者がアタフタしていたからです.もしあれが「クイズ・ランダムサンプリングの100人に聞きました!」だったら,あんなに面白くなかったと思います.

(注2)サンプル数  まあ17000人とかのサンプルを集めるとなると,一軒のソーセージ屋だけでは難しいでしょうから,何件かの店で集めることになるでしょう.このとき「一般的にソーセージ屋に集まる人は...」という結論ができる可能性は高まります.しかし「一般的に帯広市民...」という結論ができないことには変わりがありません.


2.ABOFAN説を検証する

ABOFANさんの主張を私なりにまとめてみます.

  1. ランダムサンプリングしていないにしても,そのデータで差が出ていることは確かである.
  2. そのデータで差が出ている,ということは「差があるというひとつの証拠」である.
  3. 証拠がひとつでもあるのだから「一般的に差がない」とはいえない.

「1」は確かにそうです.ただし,それだけ言いたいのなら統計的検定をする必要はありません.χ2検定をしている時点で「母比率の推測」をしようとしていることになります.

また,「2」は,すでにそのデータの「サンプル」としての有効性を前提にしています.つまり「2」の主張は「このデータにおける差は,このデータより外側の世界に一般的にある差の,ひとつのサンプルである」という意味です.しかし,ランダムサンプリングされていない場合は,そういえるかどうかが「偶然の範囲で変移する」のです.ふつう「その結論の正しさは偶然の範囲で変移する」ような結論を正しいとして採択することはありません.

>  このデータは1日だけのデータではあるが、統計的検定をすることができる。χ2検
> 定を行うと、危険率は0.1%以下であるから帰無仮説は棄却される。1日のデータだ
> けで断定するのは少々無理があるが、危険率が0.1%であることも考慮する
> と、「(この)遊園地の迷子にB型が多い」とか「(一般的に、あるいは最近の)遊園
> 地の迷子にB型が多い」と言える可能性もある。いずれにせよ、「B型は不用心」とい
> う有力なデータの1つであることは確かである。渡邊さんの言う「ランダムサン
> プリング」は、「遊園地の迷子」という独立変数を無視することになる。

とABOFANさんはまた出してきました(やっぱりわかってない,これでも統計の先生のところに持っていったときの「恥ずかしさ」のレベルは,全然変わりません).今回の「箱」の中に入ってる説明も,やっぱり間違ってますよ.前回は「全数調査」と言う時点で他を検討する以前にスカでしたが,他にも間違っているところはたくさんあるのです.

ふつう「Aであり,Bであるから,したがってCである」というときにはABCの「推論レベル」は共通しているか,せめて前提から結論が無理なく導かれることが必要ですよね.でも,

> 1日のデータだ けで断定するのは少々無理があるが、危険率が0.1%であることも
> 考慮すると、「(この)遊園地の迷子にB型が多い」とか「(一般的に、あるいは最近
> の)遊園地の迷子にB型が多い」と言える可能性もある。いずれにせよ、「B型は不用
> 心」という有力なデータの1つであることは確かである。

実際にこのデータからこれらのことが言えるか考えてみると,

  1.「(この)遊園地の迷子にB型が多い」
   → これは,データの見方を変えて「この遊園地の客を母集団にしたサンプリ
     ング調査」と考えれば,言えないこともない.もちろん本当はこの遊園地
     の客すべてからランダムサンプリングするのが良いが,一日にわたって全
     員採ったのであれば,代表性はある程度あるだろう(相撲のデータでも同
     じこと).

  2.「(一般的に、あるいは最近の)遊園地の迷子にB型が多い」
   → これは,言えない.この傾向がこの遊園地だけである可能性が偶然のレベ
     ルでしか統制できないから.
  
  3.「B型は不用心」
   → 言えない.説明の必要もない.

「2」を言うためには,他の遊園地でもデータが採られていなければなりませんし,「3」を言うためには遊園地以外の場所でもデータが採られており,かつ「迷子になることと不用心さとの関係」が保証されていなければなりません.これらは「とか」という便利な接続詞で結びつけられていますが,実際には「とか」で結べるようなものではありません.

もちろん「可能性がゼロなのか」といわれれば,「2」でも「3」でも,あくまでもゼロではないでしょう.でも,可能性がゼロでないものは正しいという「ABOFAN背理法」が,少なくとも科学的な議論では無意味だということは,前にきちんと論証しました.


> 渡邊さんの言う「ランダムサンプリング」は、「遊園地の迷子」という独立変数を無視
> することになる。

> 渡邊さんの言う「ランダムサンプリング」は、「幕内力士のうっちゃられ回数」という
> 独立変数を無視することになる。

これらは,「独立変数」という用語と「独立変数とランダムサンプリングの関係」についてABOFANさんが理解されていないために出てきた「無意味な問い」です.「ランダムサンプリングは独立変数を無視する」と言うような言い方自体が成立しません.「ダンスホールはダンス靴を無視する」みたいなもので,まるでダダイズムの詩です.

どうしてそうなのかは手紙(14)の「ランダムサンプリングの問題」の中で詳しく説明しましたから,もう一度確認してください.

結論だけをいえば,もしそういう議論が可能であるとすれば,「遊園地の迷子という独立変数を無視しない」ということは「遊園地の迷子と,遊園地以外の迷子と,両方のデータを採って比較する」ということですし,「幕内力士のうっちゃられ回数という独立変数を無視しない」ということは「幕内力士とそうでない力士,うっちゃられ回数と他の組み手の回数,それぞれのデータを採って比較する」と言うことであり,「独立変数を無視」しているのはABOFANさんの方です.


>> 以前のように「ランダムサンプリングはしていないが,サンプル調査であり,有意差
>> が出ている」という主張であれば,「ランダムサンプリングしてないからかなり怪し
>> いしても,この差が一般化できる可能性をまったく否定することはできない」と間違
>> いなく言えましたが
>
>  ところで、メール(その24)では、
>
>> 「相撲のある場所のある力士たちのいくつかの取り組みにおいて,組み手と血液型に
>> 関係があった,しかし他の場所の他の力士たちの取り組みでも関係があるかはまった
>> く不明である」ということですが,こういわれたとき,一般的に私たちは「なるほど
>> ,組み手と血液型には関係があるんだなあ」と判断するでしょうか? 私はしません
>> よ.
>
>  ニュアンスが違うようですが、どちらが渡邊さんの考えに近いのでしょうか? 「ラ
> ンダムサンプリング」でなくとも「この差が一般化できる可能性をまったく否定するこ
> とはできない」のですか?

ニュアンス?(笑).どちらも同じことです.ランダムサンプリングされていないデータでも,それが偶然にランダムである,という可能性を考えれば「一般化の可能性をまったく否定することはできない」というのは正しいです.しかし,実際に仮説の検証をするときに「このデータはランダムサンプリングされていないが,それが偶然ランダムになっていて,母集団を代表している可能性がないとは言えない」から「このデータの結果は母集団に一般化できる」といわれて「なるほど,そうも言えるねえ」と納得する人がいるか?ということですよ.

もうほんとに数え切れないほど言っているように,「ないという証拠がない」ということは「ある」という証明にはならないし,「あるという可能性が否定できない」ということも「ある」という証明にはならないのです.「ある」という証明になるのは「あるという証拠がある」時だけです.

「でもないとは言えないわけでしょう?」といわれればそうですが,そうであれば「正しくないもの」など,なにもなくなりますし,前にも言ったように血液型の正しさと占いの正しさには違いがないことになります.それでいいなら,最初から私とABOFANさんが議論すること自体に意味がないのです.


> 渡邊さんの論理(?)を厳密に適用すると、すべての心理学のデータはムダになります
> 。なぜなら、いくら厳密にランダムサンプリングを行っても、人類全体に適用すること
> はできないからです。今日のデータは明日は通用しないし、(言語の問題を無視するに
> しても)世界中の人に同じ質問をすることは不可能だし…。結局、ありとあらゆるデー
> タはムダですから、心理学という学問そのものが成立しないことになります。いくら厳
> 密にランダムサンプリングをしようと努力しても絶対不可能なのです! 時間軸方向で
> のランダムサンプリングは理論的に不可能なはずですから…。

そんなことはあたりまえでしょう.でも私たちはふつうこう考えます.

  1. Aであることが正しい
  2. 現実にはすべての場面でAであることはできない
  3. しかし,一定の範囲でAであることはできる
  4. 一定の範囲でAであろうと努力する

また,確認できない世界のことはわからないのですから,私たちは確認できる範囲でものを言い,その確認できる範囲を比率的に少しでも大きくしようと努力するものです.

上の1〜4でいえば,「3」で一定の範囲でAであることが可能だということがわかっていて,その可能なことをするかしないかという議論をしているときに,「2」を持ち出して「できない」といったり,そこから「1」を否定しようとするのはナンセンスです.

ランダムサンプリングについて言えば,われわれができる範囲でできるだけ偏りのないサンプルを集めるにはどうしたらよいか,ということが古くから研究され,だいたいこの程度は可能だろう,だからこの程度のランダムサンプリングを行うことが望ましい,ということが研究者間で同意されているわけですよ(注3).

ここでの問題は,その同意されたレベルのことをやるかやらないかであって,「究極的に完全なランダムサンプリングというものが可能か」ということではありません.

こんな苦しまぎれの反論に真面目に答えている私もかなりおかしいですが(笑),そういう私だからこんなところでこんな議論をひと月もしてるわけです.

> 現在の日本では「性格は実在しない」にしても、江戸時代には実在したかもしれません
> 。いや、日本では縄文時代から実在しないとしても、中国では実在するかもしれません
> 。いやいや、近くの某国では調査そのものが不可能なのですから、結局何の結論も得ら
> れません。無理に潜入して調査することが可能としても、今日のデータは明日は通用し
> ません…。ホモ・サピエンスに「性格は実在しない」にしても、ネアンデルタール人に
> は実在したのかもしれません。

そりゃあそうです.そのとおりです.でも「完璧なランダムサンプリングなんかできない,だから私は(ランダムサンプリング可能な場合でも)ランダムサンプリングしなくて良い」というのは全然違うでしょう?

親に勉強しろと言われた子どもが「勉強なんかしても,世界の知識をすべて身につけることなどできない,だから勉強は無意味だ」と反論したら,親はなんと言うでしょうか.私だったら「屁理屈いうな」と殴りつけるでしょうし,まあ良心的な親なら「まあそれはそうだけど,世間一般程度の知識を身につけることは可能だし,必要だろう」と言うでしょう.

ABOFANさんも駄々っ子みたいなこと言わないでくださいよ(涙々).

この問題で私と戦うにあたってABOFANさんにとって「正しかった戦略」を教えましょう.それは屁理屈でも牽強付会でもなんでもいいから「血液型のデータはすべてランダムサンプリングされている」と主張することです.そして「心理学のデータでもこの程度でランダムサンプリングと言ってるじゃあないか,どうして同じようにやって血液型のデータはダメなんだ?」と問い続けることです.それなら,有意義な議論になったでしょう.

ABOFANさんの致命的な失敗は,「そもそもランダムサンプリングに問題がある」とか「ランダムサンプリングしなくても統計的検定ができる」と主張して,少なくとも統計学的には絶対勝ち目のない戦いを始めてしまったことです.

その結果,ABOFANさんが基本的なレベルで統計学を理解していないことが,明らかになってしまったわけです.統計をある程度わかっていれば,全数調査とサンプリング調査を間違えるなんて基本的なミス,絶対しませんよ.

でも,あえていえば,心理学者がみなABOFANさんより統計がわかっているわけではありません.あきらかに全数調査であるデータでt検定や分散分析をやるような例は学会誌でも見かけますし,どう柔軟に(都合良く?)考えてもランダムサンプリングとは思えないデータから推測統計を行なっている例も少なくありません.とくに性格心理学におけるデータの処理が,とくにABOFANさんよりまともなわけではないことは,何度も認めましたよね.

そういう意味では,ABOFANさんにとってランダムサンプリング問題は「不利な戦い」だったわけです.みんなやってることなのに,自分だけ間違っていることにされちゃったわけですから.

昔の日本と似てますね.欧米列強がみんな植民地を持っているから自分も同じことをやろうとしたら,いつの間にか時代が変わっていて「植民地主義」と批判されてしまう,とかね.そこで「植民地主義は是か非か」なんて議論をしたら負けるに決まっているわけで,「なんで日本だけ責められるのだ」というのがふつうですよ.

でも,ABOFANさんはなぜか「植民地主義は是か非か」という方向に議論を持っていってしまって,順当に「植民地主義は良くない」と主張した私が,順当に勝利してしまったわけです.これはとても後味が良くありません.だから統計の話は,本当にもうやめましょう.本当にこれでやめます.


(注3)ランダムサンプリングの「程度」  こういうことは統計学ではなく,社会調査のテキストなどを見ると,本当に詳しく書かれています.そういう意味では心理学者が「統計」と言うときには,社会調査法の知識も当然そこに含まれます.それを早くABOFANさんに言わなかったのはちょっとミスでした.ごめんなさい.


3.続々・議論を避けていると思われないために

>> また,ニュートン力学の説明が限定されたものと考えられるようになったのは,説明
>> できない現象があるから,ではなくて,ニュートン力学が説明できない現象を(ニュ
>> ートン力学の限定性も含めて)説明できる新しい理論が現われたからです.
>
>  性格心理学の説明が限定されたものと考えられるようになったのは、 説明できない
> 現象があるから、ではなくて、性格心理学が説明できない現象を(性格心理学の限定性
> も含めて)説明できる新しい理論が現われたからですか?

これはとても重要な点をついた質問だと思ったのですが,先に統計の方を済ましてしまおうと思っただけで,無視したわけではありません(汗々).

これはABOFANさんのおっしゃるとおりです.

 1.性格心理学の説明で理解できない事実が古くからあった(例:性格検査が行動
   を予測できない)
   → それは「謎」とされるか,もっと多くの場合は「測定誤差」とされていた.
     とくに「性格心理学の説明」(一貫性)が疑問視されることはなかった.
 2.性格の状況論や相互作用論が現れた
   → 性格心理学と同じ現象が説明でき(首尾一貫性),かつ,それまで「謎」
     や「測定誤差」とされていた現象も説明できるようになった.また,性格
     心理学が前提としていた「一貫性」が一定の条件に依存することも論証さ
     れた.
 3.従来の性格心理学的説明の限定性が明らかになった.

ということになります.もちろん「1」があったから「2」が生まれた,という側面が無視できないことは確かですが,Mischel(1968)は「1」を整理しただけでなく「2」の基礎になる考えも示したから名著なのです.

いずれにしても「従来型性格心理学の限定性」が明らかになったのは「1」の段階(間違っているという証拠?が見つかった時点)ではなく,「2」の段階(新しい理論が生まれた時点)であることは間違いありません.

まあ現実の状態でいうとまだ「3」だと思っている心理学者はごく少数で,かなりの人はまだ「1」を認識してすらおらず,「2」に興味を持つ人が徐々に増えているという程度です.そういう意味でいまはまだ「パラダイム変換前夜」であるといえるでしょう.

次回こそ,ほんとうにまとめます(笑).最大素数さんももうちょっと待ってください.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その25)

 「追伸」の文章は別に気にしていませんので大丈夫です。それより、議論を進めていただけると大変ありがたいのですが…(笑)。

 さて、渡邊さんの論理がやっとわかったので、わたしなりのまとめ方をしたいと思います。論理展開の都合上、メール(その25)の論理と文章をそっくりそのまま拝借しますので、どうかご了承ください。m(._.)m

 念のため、一応解説しておきます。以下の文章は、あくまでもジョークです(笑)。本気でそう考えているわけではありません。ただ、メール(その25)の論理と、ミシェル(1968)の本は欧米人のデータだけということから、これまた1つの論理的な帰結ではないかと…。正しくない理由は皆さん自身で考えてみてくださいね(笑)。

1.ABOFANの統計学初心者講座 〜 ランダムサンプリングの意味

以下のような「母集団」があるとします(データの内容はもちろんでたらめですし, 母集団での分布が最初からわかっているということも実際にはありえませんが).

データ1 全人類(人口約1千億人)の性格の一貫性

存在する 100,000,000
存在しない 99,900,000,000
合計 100,000,000,000

※人類の発祥から今までには1千億人程度が存在したと考えられています。

母集団がこうだとすると,全数調査をすればこれとほとんど同じ結果が出ます.そのときは全数調査における「最頻値」が「性格の一貫性は存在しない」なので、文句なく「全人類の大多数には性格の一貫性が存在しない」と結論できます.

さて,全数調査は手間がかかるので,サンプリング調査を行うことにしました.サンプルを全人類の0.00001%の1万人取るとして、これが人類全体からのランダムサンプリング(人類のさまざまな「層」から無作為に均等に抽出される)で採られるとすれば,結果は以下のようなものに限りなく近くなることが期待できます.

データ2 人類のサンプル(ランダムサンプリングの10,000人)の性格の一貫性

存在する 10
存在しない  9,990
合計 10,000

このとき,このサンプルがランダムサンプリングされていれば,このサンプルには母集団を代表する力がありますから「全人類の大多数には性格の一貫性が存在しない」と推測することができます.これを「母比率の推定」といいます.また,その推定の確からしさは,統計的検定によって検討することができます.

しかし,もしランダムサンプリングしないときには,そのサンプルがどう採られたかによって,そのサンプルが母集団をどう代表するか(代表しないか)は予測不能になります.たとえば同じ10,000人でも「性格の一貫性を否定するミシェル(1968)が調べた人たち」というサンプルでは,以下のようになるかもしれません.あ,念のために言っておけばミシェル("Personality and Assessment", 1968)の紹介したデータは16種類で、目の子勘定で1種類500人程度とすると、総サンプル数は10,000人程度になります。(笑).

データ3 人類のサンプル(ミシェル(1968)が調べた人たち約10,000人)の性格の一貫性

存在する 0
存在しない 10,000
合計 10,000

このとき,このデータでは「性格の一貫性は存在しない」が最頻値となります.また,このデータを統計的検定しても,おそらくかなり有意に「性格の一貫性は存在しない」が多い,そういう結論になるでしょう.

この結果から「性格の一貫性は存在しない」と結論してよいでしょうか.よくないですね.

この例に限らず,「性格心理学は正しい」「心理学者は血液型を否定している」というふうに,ランダムサンプリングしない場合はそのサンプルによってデータはまったく予測できないパターンでどうとでも変わり,それらはいずれも母集団を代表していません.また,ランダムサンプリングしない場合にサンプルが偶然に母集団をある程度うまく代表することも,一定の確率では考えられますが,そのサンプルがそれであるかどうかは,判断する方法がありません.

つまり,ランダムサンプリングした場合にはそのサンプルが「母集団を代表している」ことはかなり高い確率で予想されますが,ランダムサンプリングしない場合にはその確率はまったく保証されないのです.そのとき,そのサンプルで統計的検定を行い,そこにどれだけ大きな有意差が出たとしても,それには何の意味もない,ということは前にも説明しました.

さて,ではランダムサンプリングしていないデータにはどういう意味があるのでしょうか.データ3が示していることは,

 結論 「性格の一貫性を否定するミシェル(1968)が調べた人たちには性格の一貫性は存在しない」

ということだけです.つまり「クイズ100人に聞きました!」です(注1).このデータから「ミシェル(1968)が対象とした1955年から1965年の欧米人には性格の一貫性は存在しない」とか,本来の目的とは関係ありませんが「一般的に性格の一貫性は存在しない」とかいう推測ができるかどうかは,「純粋に偶然の範囲」となります.検定で有意差があることは,上記の「結論」を支持するだけで,それを一般化できるかどうかの指標にはなりません.

このことは,サンプル数とは関係ありません.ミシェルのデータを10,000名ではなく,100,000名,1,000,000名と増やしたところで,それが母集団を代表していないことに何の変わりもありません(注2).サンプル数が増えれば統計的検定の有意差はどんどん大きくなりますが,そのことも一般化の可能性とは全然関係ないのです.

ランダムサンプリングしていないデータから出た結果は,たしかに「そのデータではそうである」ということができます.しかし,それを一般化したときに正しい確率はまったく予想がつきません.

そういう意味では,ランダムサンプリングしていないデータは,ほとんど「そのサンプルそのものを母集団とする全数調査」としての意味しか持たないことになります.全数調査では何ができて,何ができないかは「追伸」で説明しました.


(注1)クイズ100人に聞きました!  あの番組が面白かったのは,サンプルがランダムサンプリングされていない偏ったものなので,必ずしも「世間で共有されている常識」どおりのデータが出てこず,「常識」で答えようとする解答者がアタフタしていたからです.もしあれが「クイズ・ランダムサンプリングの100人に聞きました!」だったら,あんなに面白くなかったと思います.

(注2)サンプル数  まあ1,000,000人とかのサンプルを集めるとなると,1人の心理学者だけでは難しいでしょうから,世界中の心理学者で集めることになるでしょう.このとき「一般的に心理学者のデータでは...」という結論ができる可能性は高まります.しかし「一般的に人類は...」という結論ができないことには変わりがありません.

2.ミシェル説を検証する

【筆者注:ここでは、一部のつながりが悪い文章をカットしてあります】

ミシェルの主張を私なりにまとめてみます.

  1. ランダムサンプリングしていないにしても,そのデータで性格の一貫性が出ていないことは確かである.
  2. そのデータで一貫性が出ていない,ということは「一貫性があるといえないひとつの証拠」である.
  3. 証拠がひとつでもあるのだから「一般的に一貫性がある」とはいえない.

【筆者注:この論理はちょっとおかしいのですが、文章の構成上そのままとします…】

「1」は確かにそうです.ただし,それだけ言いたいのなら統計的検定をする必要はありません.χ2検定をしている時点で「母比率の推測」をしようとしていることになります.

また,「2」は,すでにそのデータの「サンプル」としての有効性を前提にしています.つまり「2」の主張は「このデータにおける差は,このデータより外側の世界に一般的にある差の,ひとつのサンプルである」という意味です.しかし,ランダムサンプリングされていない場合は,そういえるかどうかが「偶然の範囲で変移する」のです.ふつう「その結論の正しさは偶然の範囲で変移する」ような結論を正しいとして採択することはありません.

ふつう「Aであり,Bであるから,したがってCである」というときにはABCの「推論レベル」は共通しているか,せめて前提から結論が無理なく導かれることが必要ですよね.でも,

実際にこのデータからこれらのことが言えるか考えてみると,

  1.「ミシェルのデータは(この)性格検査では性格の一貫性は存在しない」
   → これは,データの見方を変えて「この性格検査の被験者を母集団にしたサンプリ
     ング調査」と考えれば,言えないこともない.もちろん本当はこの性格検査の
     の被験者すべてからランダムサンプリングするのが良いが,16種類にわたって全
     員採ったのであれば,代表性はある程度あるだろう.

  2.「(一般的に、あるいは最近の)性格検査では性格の一貫性は存在しない」
   → これは,言えない.この傾向がこの性格検査だけである可能性が偶然のレベ
     ルでしか統制できないから.
  
  3.「性格の一貫性は存在しない」
   → 言えない.説明の必要もない.

「2」を言うためには,他の性格検査でもデータが採られていなければなりませんし,「3」を言うためには性格検査だけでなく行動でもデータが採られており,かつ「性格検査と行動との関係」が保証されていなければなりません.これらは「とか」という便利な接続詞で結びつけられていますが,実際には「とか」で結べるようなものではありません.

もちろん「可能性がゼロなのか」といわれれば,「2」でも「3」でも,あくまでもゼロではないでしょう.でも,可能性がゼロでないものは正しいという「ミシェル背理法」が,少なくとも科学的な議論では無意味だということは,前にきちんと論証しました.

ランダムサンプリングされていないデータでも,それが偶然にランダムである,という可能性を考えれば「一般化の可能性をまったく否定することはできない」というのは正しいです.しかし,実際に仮説の検証をするときに「このデータはランダムサンプリングされていないが,それが偶然ランダムになっていて,母集団を代表している可能性がないとは言えない」から「このデータの結果は母集団に一般化できる」といわれて「なるほど,そうも言えるねえ」と納得する人がいるか?ということですよ.

もうほんとに数え切れないほど言っているように,「あるという証拠がない」ということは「ない」という証明にはならないし,「ないという可能性が否定できない」ということも「ない」という証明にはならないのです.「ない」という証明になるのは「ないという証拠がある」時だけです.

「でもあるとは言えないわけでしょう?」といわれればそうですが,そうであれば「正しくないもの」など,なにもなくなりますし,前にも言ったように「性格の一貫性は存在しない」正しさと占いの正しさには違いがないことになります.それでいいなら,最初からミシェルのデータで議論すること自体に意味がないのです.

この問題で「正しかった戦略」を教えましょう.それは屁理屈でも牽強付会でもなんでもいいから「ミシェルのデータはすべてランダムサンプリングされている」と主張することです.そして「血液型のデータでもこの程度でランダムサンプリングと言ってるじゃあないか,どうして同じようにやってミシェルのデータはダメなんだ?」と問い続けることです.それなら,有意義な議論になったでしょう.

心理学者の致命的な失敗は,「そもそもランダムサンプリングさえすればよい」とか「ランダムサンプリングさえすれば正しい統計的検定ができる」と主張して,少なくとも統計学的には絶対勝ち目のない戦いを始めてしまったことです.

その結果,心理学者が基本的なレベルで統計学を理解していないことが,明らかになってしまったわけです.相関係数の導出法をある程度わかっていれば,AとBに相関があり,BとCに相関があっても,AとCは無相関なんて基本的なミス,絶対しませんよ.

でも,あえていえば,心理学者がみな統計がわかっているわけではありません.とくに性格心理学におけるデータの処理が,とくにまともなわけではないことは,何度も認めましたよね.

そういう意味では,心理学者にとってランダムサンプリング問題は「不利な戦い」だったわけです.みんなやってることなのに,自分だけ間違っていることにされちゃったわけですから.

昔の日本と似てますね.欧米列強がみんな植民地を持っているから自分も同じことをやろうとしたら,いつの間にか時代が変わっていて「植民地主義」と批判されてしまう,とかね.そこで「植民地主義は是か非か」なんて議論をしたら負けるに決まっているわけで,「なんで日本だけ責められるのだ」というのがふつうですよ.

でも,心理学者はなぜか「植民地主義は是か非か」という方向に議論を持っていってしまって,順当に「植民地主義は良くない」と主張した私が,順当に勝利してしまったわけです.これはとても後味が良くありません.だから統計の話は,本当にもうやめましょう.本当にこれでやめます.


(注3)ランダムサンプリングの「程度」  こういうことは統計学ではなく,社会調査のテキストなどを見ると,本当に詳しく書かれています.そういう意味では心理学者が「統計」と言うときには,社会調査法の知識も当然そこに含まれます.しかし心理学者の「血液型と性格」の関係を否定する論理はほとんど反映されていません。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その25)追伸

 渡邊さんの論理がやっとわかりました。いやぁ、実に長かった…。で、ちょっと正直(失礼?)な感想などを述べておきます。

 まさか、渡邊さんがこういう論理を選択するはずがない、と私は頭から思いじ込んでいたのです…。思い込みって実に恐ろしいものですね(苦笑)。「血液型と性格」では、そういうケースは多々あるのですが、渡邊さんのケースもそうだとは、ついさっきまで全くわかりませんでした(汗)。

 さて、渡邊さんの論理は、今までに何回も書いてあるように、「ランダムサンプリング・ファンダメンタリスト(=原理主義者)」のものです。しかし、心理学の対象となる(全)人類には「究極のランダムサンプリング」はありえません。これは、返事(その25)にも書きました。だから、適当なところで妥協するしかなくなります。私は、その妥協の程度をどのぐらいにするかが統計的分析の腕の見せどころと思っていたのですが、実は渡邊さんは「ランダムサンプリング・ファンダメンタリスト」だった訳です。これには参りました。(*_*)

#道理で議論がかみ合わなかった訳です…。

 しかし、メール(その25)では、「究極のランダムサンプリング」はありえないことを渡邊さんも認めたようです。ここで、渡邊さんのデータも血液型のデータも、完全なランダムサンプリングでない点については同じことになりました。程度の差はあるとしても、それは相対的なもので絶対的なものではありませんから…。

 例えば、渡邊さんが正しいとしているミシェルのデータは、1955年から65年の10年分しかありません。この本のデータの被験者はどの国の人なのかわかりませんが、常識的に判断すると日本人は1人もいないはずです。つまり、性格の一貫性は、日本人についてのなんのデータもないことになります。これでもランダムサンプリングと言えるのでしょうか? メール(その25)の論理をお借りすると、「屁理屈でも牽強付会でもなんでもいいから『ミシェルのデータはすべてランダムサンプリングされている』と主張することです.そして『性格心理学や血液型のデータでもこの程度でランダムサンプリングと言ってるじゃあないか,どうして同じようにやってミシェルのデータはダメなんだ?』と問い続けることです.それなら,有意義な議論になったでしょう.」

 10年分でいいのなら、相撲の14年間の「全数調査」(あえてこう言います…笑)なんかの方がずっと信頼性があるでしょう。少なくとも、日本人が1人もいないデータよりも信用できるとは言えないのでしょうか? ミシェルのデータをどうひいき目に見ても、信用できないのは相撲のデータと同レベルではないのでしょうか?

 それから、意図的なものかそうでないものかは不明ですが、何回も繰り返し出てくるのが、メール(その25)にもある「ABOFANさんの致命的な失敗は,『そもそもランダムサンプリングに問題がある』とか『ランダムサンプリングしなくても統計的検定ができる』と主張して,少なくとも統計学的には絶対勝ち目のない戦いを始めてしまったことです.」という文章です。私の主張する意図がそういうものでないことは、HPをちょっと読めばわかることです。:-<

#意地悪い人が読めば、渡邊さんにはこれ以外に反論する方法がないとも取られかねません。(^^;; 

 私の一貫した主張(って一貫性があるのかな…笑)は、心理学者のランダムサンプリングは理論的には正しいが、実際の論文を見ると分析がなっていない、ということです。このHPでは、実名を出して批判しないのが基本方針ですので、名指しは極力避けてきました。とは言っても、少しでも私HPを読めば、誰のどの分析がどう間違っているのか、それなりにわかるように書いているつもりです。ところが、渡邊さんの返事はというと、毎回ランダムサンプリングの理論的な説明でした。そんなのは統計学の教科書を読めばいい話で、基本的なところぐらいは私でもわかっています。

#少しぐらい怪しいところは渡邊さんに我慢してもらうにしても、返事(その10)を読めばそれはお互…(以下自粛)。

 いずれにせよ、ランダムサンプリングは、「5%水準で有意な結果くらい出れば十分」「範囲は北海道だけでもよい」血液型分布が偏ってもサンプル数が十分に多ければ(最も少ないAB型が50人程度確保できるサンプル数かな)…とくに問題ない」(手紙その21)とのことですが、今までの「究極のランダムサンプリング」とどう関係があるのかは、私にはよくわかりません。危険率を5%に取るなら、15〜64歳をランダムサンプリングすると仮定すると、そのデータは50年×0.05=2.5年程度しか有効ではありません。どう考えても、「性格が存在しない」ことを証明できるとは思えないのですが…。

 渡邊さんが、真面目な「ランダムサンプリング・ファンダメンタリスト」なら、30年以上前のミシェルの外国人中心のデータをそのまま日本人にあてはめようとはしないはずです。となると、本当はファンダメンタリストではないのでしょうか?

 私が真面目な「ランダムサンプリング・ファンダメンタリスト」なら、30年前の外国人のデータが現在の日本でも正しいと言うはずがありません。となると、渡邊さんは、外国人のデータでも30年前のデータでも現在の日本に当てはまる、と思っていると推測するしかないのですが…。つまり、心理学のデータは30年以上も変わらないぐらいだから、14年間の相撲のデータはその後も当てはまるし、遊園地の迷子も1日のデータはその前後はあてはまるとということになりるのだと…。それとも、能見さんやフジTVのデータは短期間でダメになるが、海外の心理学者のデータは30年以上も変わらないのでしょうか? いずれにせよ、私にはよくわかりません。(*_*)

 まあ、以上は私の勝手な推測ですので、本当は「ランダムサンプリング・ファンダメンタリスト」かどうかを含めてどうなのかはわかりません…。(^^;;

 ということで、次回のまとめに期待しています。

 乱文失礼します。では、どうぞよろしくお願いします。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その14) H12.2.26 22:52

渡邊さんにまとめられてしまう前に(笑)

わたし宛には別口でご返事いただけるようで楽しみなのですが、いろいろと議論が長引いておられるようで、その間、ちとわたしにも「感想」が湧いてきましたので、まとめられてしまう前に取り急ぎメール差し上げることといたしました。

1.不用心?・・・

「現状心理学が想像以上に"へたれ"っぽい」というのは、渡邊さん(達)も含めて、の話しであります。
前にも書きましたが、渡邊さんは最初のメールで、「専門家」として議論する、と宣言し、"心理学"の学識と対決するつもりでかかってきなさい(要約文責・最大素数)的姿勢を明らかにしたと理解しています。
わたしは、それに大いに期待しました。その「期待」の内実は、全てではありませんが、それなりに述べてきています。
そうした「期待」を踏まえて言及すれば、「不用心」というのは「現状心理学」では、"根拠"が認められる性格表現なのですか?
直接確認したわけではありませんが、ここABOFANを通して垣間見る心理学者の意見には、ある性格上の表現と見えるものがどういう性格因子と結びついているのかについての言及・考察・検証が必要、というような指摘が度々あって、わたしは「おまーらこそどーなんだ」的感想があったのですが、多分能見さんも同じ様な発想があって「不用心な性格(気質)」てなことを言ったと考えているのですが、現役のプロ心理学者が一緒になって「不用心という性格特徴」などと話しを合わせてしまうのはけっこう「へたれ」感が強いです。
元々のわたしのメールで
> B型は不用心という「性格特徴」
と「」付きで書いたのはダテではなかったのです。そもそもこれは「性格特徴」か、という意味を込めたつもりでしたが、その辺についてはあまり気にはなさっていないのですね(笑)。

「相撲に詳しい心理学者の友人」のメールは必ずしも公開希望・前提ではないようで、そういう意味では「専門家」同士の話しで「不用心」をごく自然に「性格特徴」として話題にしているように見えるところが、ナンダソレ的感想のモトになっているわけです。

2.ランダム・サンプリング?・・・

> データ3 帯広市民のサンプル(あるソーセージ屋に集まった170人)の一番好きな食べ物
>
> 豚丼                   30
> ジンギスカン           20
> ラーメン               10
> マルセイバターサンド   10
> 手作りソーセージ      100
> 合計                  170
>
> (中略)
>
> データ3が示していることは,
> 結論 「サンプルを採ったあるソーセージ屋に集まった人たち170人が一番好きなのは手作りソーセージである」
> ということだけです.

先のメールで「うっちゃられ力士」のデータを「なかなか興味深いでないの(渡邊さんの要約拝借)」と言い、「カン」について触れたのと同じ「発想」で言えば、この渡邊さんの「データ3」は「ソーセージ専門店("屋"ってそういうことですよね)にソーセージを買いに来る人の内、約四割もの人はソーセージが一番好き、というわけではない」という実に興味深い現象を示している、ということです。
そういうつもりの例じゃないんだってばっ、という悲鳴(怒声?笑)が聞こえそうですが、もう少し我慢して下さいませ。
つまり「ソーセージ専門店にソーセージを買いに来る帯広市在住者」の好みを問題にする場合、母集団は「帯広市在住者ではないんじゃないの」という見解は間違いではないと思うのですが。
この場合は「帯広のソーセージの専門店」からランダム・サンプリングする必要があるのでしょうが、さて、そうなるともうアナロジーとしては機能しませんね。(あ、こういう場合「穴路地に陥った」なんちゅう駄洒落をカマしてたっけ・笑)
ともあれ、owadaさんは、そういう意味の「発想」に拘り過ぎた(統計的検定を行ってしまった)ことがマズかったように思います。

さて、これは、マジメな(つもりの)質問なのですが、

> データ2 帯広市民のサンプル(ランダムサンプリングの170人)の一番好きな食べ物

は、渡邊さん自身の見解としても「一番好きな食べ物」が判ったことになるのですか?
「統計学初心者講座」の説明の便宜上の話しだとしてもちょっと"杜撰"かなあ、なんてね。
データ2は、調査した状況(時と場所)でずいぶん違う結果になる筈ですよねえ。
渡邊説から言えば、データ2は、その時その場所で「◯◯が一番好き"と答えた人"」の結果に過ぎず、「あるソーセージ専門店」と、少なくとも場所が特定できるデータ3のほうが、現実問題としては有用だと思うのですが・・・。
*読み返して見るとなんか「悪質な絡み」モードっぽいです(笑)。でも、元々は、わりと素朴な疑問っぽいので載せたままにしておきます。

3.うっちゃられるのは?・・・

渡邊さんは、ABOFANへの手紙(24)で

> 一般的に私たちは「なるほど,組み手と血液型には関係があるんだなあ」と判断する
> でしょうか? 私はしませんよ.

と仰いましたが、どの程度の「確信」をお持ちなのか、伺ってもよろしいですか?
例えば、今度の場所で、「誰が"うっちゃり"で負けるか」という賭け(一万円のフレンチ・ディナーあたりネ)をしたとすると、ここで話題のデータを知っているわたしは、力士の血液型を参考にしてしまいますが、渡邊さんは、全然知らなくても平気(というより知る必要を感じない)ということでしょうか。

ま、そんなに真剣にお答えいただかなくても結構ではあります。
渡邊さんは、「科学者モード」と「素人モード」をきっちり使い分けるとのことですから、
1.で言えば、ここでの素人相手の談義では「不用心という性格特徴」はアリだが、「プロの科学心理学者」として発言するときはそんなもの認めない、であり、
2.「プロの科学心理学者」としては、ランダム・サンプリングは絶対であるが、「専門店を訪れる"専門"を重視しない客(う、苦しい言い回しじゃ)」についての「素人」的好奇心はまた別、であり、
同様に
3.そりゃ具体的な賭けの話しになるならそりゃ別さ!
ということであっても全然不思議ではありませんから。

では、ご意見、楽しみにお待ち致します(^^;

Red_Arrow38.gif (101 バイト)メール(その25の2) H12.2.27 16:53

最大素数さんへの返事


手紙(26)の「まとめ」は少し時間がかかりそうです.また,最大素数さんがいわれた比較的大きな問題についてもそっちで扱わせてもらいたいと思っています.それで,最大素数さんの「新しいメール」についての返事だけ,とりあえず今書いておきます.


1.「不用心」について

> そうした「期待」を踏まえて言及すれば、「不用心」というのは「現状心理学」では
> 、"根拠"が認められる性格表現なのですか?

これは多数の(実は別個かも知れない)行動を適当にまとめてしまえる「メタ概念」であって,もちろん私たちはそういう概念の使用を批判しますが,「現状心理学」ではけっこう言いそうですね.

また「現状心理学」では性格概念を利用するときに特に「根拠」が求められることはない(つまり,思いついたらなんでもアリ)でしょうから,利用自体には問題ないでしょうね.

> 「相撲に詳しい心理学者の友人」のメールは必ずしも公開希望・前提ではないようで、
> そういう意味では「専門家」同士の話しで「不用心」をごく自然に「性格特徴」として
> 話題にしているように見えるところが、ナンダソレ的感想のモトになっているわけです
> 。

あれは,データに現れている「行動傾向」をABOFANさん流に「不用心」とメタ化できるのであれば,こんなことも,こんなことも不用心になっちゃうんじゃないの,とか,そういう論理で考えるならこういうことも考えなくちゃいけないんじゃないの,つまり,結局そういう論理自体なんでもありになっちゃうじゃないの,という話でしょう.

あのメール引用部分の前後にはもちろんそういう「ABOFAN批判」がついてたわけだけど,そこまで引用する必要もない,と思っただけです.


2.「ランダムサンプリング?・・・」について

こういうこというのもいよいよ最後になると思いますが,最大素数さんいいとこ突いてます(笑).実は,これがとても大切なのにABOFANさんが最後まで気づかなかった(知らなかった?)「有限母集団の推定」という問題です.統計の話はもうしないといいましたが,最大素数さんへの返事ならいいでしょう.

統計的推測では,サンプルのデータを採り,検定する前にまず第一に「母集団を推定」しなければなりません.つまり「自分がこれからとるデータは,具体的にどういう母集団を代表するのか,データによってどういう母集団における分散や比率を推定するのか」ということを決定する,ということです(注1).

これを決めなければ,どの範囲からサンプリングするのか,ということが決まりません.また,どの母集団を推定するかによって,とくに偏ったデータの「意味」がまったく変わってきます.

> つまり「ソーセージ専門店にソーセージを買いに来る帯広市在住者」の好みを問題にす
> る場合、母集団は「帯広市在住者ではないんじゃないの」という見解は間違いではない
> と思うのですが。この場合は「帯広のソーセージの専門店」からランダム・サンプリン
> グする必要があるのでしょうが、さて、そうなるともうアナロジーとしては機能しませ
> んね。(あ、こういう場合「穴路地に陥った」なんちゅう駄洒落をカマしてたっけ・笑
> )

たしかにそうです.このデータが「よろしくない」のは「すべての帯広市民」という母集団を推定した場合であって,「ソーセージ専門店にソーセージを買いに来る帯広市在住者」という母集団を推定するのなら「かなりよろしい」ものになります.もちろんランダムなサンプルならもっといいですが,店に勝手にやってくる人々に無作為にアンケート用紙を配ったなら,心理学では「かなりランダム」と認められるでしょう(私も認める).

しかし,このときに「ソーセージ専門店にソーセージを買いに来る帯広市在住者」が母集団である,と決めた瞬間に,そのデータによる推測をその母集団より外側に広げることは「禁止」されます.このデータから「帯広市民は一般に」という話は,可能性以前に原理的にできなくなります.

だから,統計的検定を行うデータは,収集以前にどんな母集団についての推測を行うのかが決まっていることが前提だし,前提にした母集団を超えた推測は「禁止」です.採ったデータに合わせて推測する母集団を変えるようなことは「邪道」です(注2).

さて,

> データ2 帯広市民のサンプル(ランダムサンプリングの170人)の一番好きな食べ物
> は、渡邊さん自身の見解としても「一番好きな食べ物」が判ったことになるのですか?
> 「統計学初心者講座」の説明の便宜上の話しだとしてもちょっと"杜撰"かなあ、なんて
> ね。

もちろん判ったことになります.全然杜撰ではないですよ.ランダムサンプリングしているのだから.

> データ2は、調査した状況(時と場所)でずいぶん違う結果になる筈ですよねえ。渡邊
> 説から言えば、データ2は、その時その場所で「◯◯が一番好き"と答えた人"」の結果
> に過ぎず、

その「時と場所」を乱数表などをもとに無作為に均質に抽出する(母集団の中から,いろいろな場所で,いろいろな時に,いろいろな人から採られたデータを合計してサンプルとする)のがランダムサンプリングですから,その結果とられたデータについては,そういうことは言えません.そういうことを言えなくするためにランダムサンプリングするのです.

ランダムサンプリングの具体的な手続きも説明しないとうまくイメージわかないのかな?(説明必要なら言ってください).

> 「あるソーセージ専門店」と、少なくとも場所が特定できるデータ3のほうが、現実問
> 題としては有用だと思うのですが・・・。

それはデータ以前の問題で,そもそも「帯広市民が一般的に好きな食べ物」を知ることに意義があるかどうかもわかりません.そういう意味で私が挙げたのはあくまでも「例題」ですし,なにが「有用」かはデータを採る人の目的によるでしょうね.


(注1)有限母集団  今すでに生きていない人も含めた人類全体とか,到達できない領域も含めた宇宙全体という「母集団」は,この時点で「限定できない」という理由で考慮の対象になりません.なぜなら,推測統計の第一原則である「偏りのないサンプルの抽出」が物理的にできないからです.

(注2)邪道  「邪道」というときには,必ずそれをやっている人間がいるわけですが,ご多分に漏れず,データを見てから母集団を決めるみたいな研究が心理学では時々見られますね.そういうのはダメ.


3.「うっちゃられるのは?・・・」の問題

これも,基本的に上のことと同じです.

ABOFANさんがあげられた相撲のデータは,最大素数さんが言われるように「かなりたいしたデータ」です.ただし,それが「たいしたデータ」として扱われるかどうかは,そのデータから推測を行う「母集団」を何にするか,によって変わります.

もし「人間一般」でなく「相撲の力士」が母集団であるとすれば,14年間,数百場所(でしたっけ)にわたって採られたデータは,ランダムサンプリングしていないとはいえ,母集団をかなり正確に代表している可能性があります.

したがって「力士が母集団」とはっきり決めれば,このデータには意味があるし,「力士では,うっちゃられに血液型で差がある」と結論して間違いである可能性は低いでしょう.したがって,

> 例えば、今度の場所で、「誰が"うっちゃり"で負けるか」という賭け(一万円のフレン
> チ・ディナーあたりネ)をしたとすると、ここで話題のデータを知っているわたしは、
> 力士の血液型を参考にしてしまいますが、渡邊さんは、全然知らなくても平気(という
> より知る必要を感じない)ということでしょうか。

この場合,私も血液型の情報で賭けるでしょうねえ(笑).つまりこの問題は,最大素数さんが言うような「科学者モードと素人モード」みたいなことではなくて,単純に「どの母集団を推定するか」という統計の手続上の問題です.

しかし「力士が母集団」と決めた時点で,そのデータから「人間一般」を語ることは,原理的にできなくなります.たしかに「力士では血液型に関係がある」が,そのことを一般的(力士以外)にその傾向があるという「推論」と結びつけることは「統計学的に間違い」ということになります.

「血液型による差」を一般化したいなら,力士以外のデータでも同じ差が見いだされることが必要ですが,一般人はふつう「うっちゃり」をしたり「うっちゃられたり」しないので,この「指標」は最初から一般化しにくかったですね(笑).

ABOFANさんとの議論の中で「力士では血液型に差があると言って良いのでしょう?」という問いを私がある意味「無視」し続けたのは,それを認めるとABOFANさんは必ず「力士に差があるというのは,一般に血液型で性格に差があることのひとつの証拠である」と言い出すに決まっていて,その時にこの「母集団の推定」の解説をしないといけなくなることが面倒だったからです(つまり手抜きモード).

結局しないといけなくなったのだから,早く説明しておけば良かったですね.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その25の2)

最大素数さんからのメール(その14)とメール(その25の2)に割り込みます。

> ABOFANさんとの議論の中で「力士では血液型に差があると言って良いの
> でしょう?」という問いを私がある意味「無視」し続けたのは,それを認めると
> ABOFANさんは必ず「力士に差があるというのは,一般に血液型で性格に
> 差があることのひとつの証拠である」と言い出すに決まっていて,その時にこ
> の「母集団の推定」の解説をしないといけなくなることが面倒だったからです

なるほど、そういうことだったのですか。それなら、もう少し早く言ってもらえば助かったのですが…。私はてっきり、渡邊さんが「力士では血液型に差があると言えない」と言っていると思ったので、返事(その25)の論理を展開したので…(^^;; 勘違いで恥をかいてしまいました(笑)。ま、ここらへんはあまり触れないでいただいて、次へ進めさせてもらえれば幸いです。

私は、「力士に差があるというのは,『一般に』血液型で性格に差があることのひとつの証拠である」というつもりはありません。そうではなく、「幕内力士のうっちゃられ回数」に血液型によって差があるなら、この差には血液型によるなんからの性格の差が反映されていると考えていいだろう、ということです。確かに、これだけで「不用心」と「一般化」するには問題がないとは言えないでしょう。(^^;;

この場合、私は血液型と性格は「関係ある」と定義します。私だけではなく、一般の性格心理学者でも同じです(例えば、大村さんの『血液型と性格』など、任意の文献でご確認ください)。しかし、渡邊さんは「関係ない」と定義します。こういう解釈でいいですか?

しつこいようですが、B型は「不用心」であるという意味ではなく、B型の行動には他の血液型に比べると「(内容は不明だが特定の条件では)差があるらしい」と言えるということです。しかし、渡邊さんはこれを一般化するわけにはいかない、つまり「関係ない」ということですね。

となると、人間全体に一般化できるかどうかはともかく、このデータについては血液型によって「差がある」あるいは「差がありそうだ」ということで合意したことになります。いやぁ、長かった(涙々)。

具体例を出しおきます。メール(その15)からですが、

>>> ある条件のもとで「差がある」なら,一般的には「差がある」ということになる,と
>>> いう主張はまったく理解できません.

>>  私の書き方が悪かったようで、補足しておきます。物質Aと物質Bがあったとします
>> 。例えば、この2つの物質の性質が同じかどうか調べるために、例えば、
>>
>> 密度
>> 色
>> 水に対する溶解度
>> 油に対する溶解度
>> 電気伝導率
>> 比熱

>> を調べたとします。この場合、1つでも違えば「差がある」ことになります。他の全部
>> の性質が同じでも、です(当然!)。

> もちろんです! ただし物質Aと物質Bのサンプルがきちんとランダムサンプリングされていればね(笑).

上のケースに当てはめると、私は「性質」イコール「幕内力士のうっちゃられ回数」と考えていますが、渡邊さんはそうではないと…。つまり、幕内力士のデータは人間全体という母集団ではランダムサンプリングされていない→血液型と性格には関係ない、ということになります。これでいいですか?

#たぶんいいのでしょうが…。

やっとこれで渡邊さんの論理が理解できました。一般の性格心理学者の論理とは全く違うので、理解するのにえらく時間がかかったものです…。(^^;; 申し訳ありませんでした。

なお、メール(その15)の中では「一般的」という言葉が、ここでの「一般的」とはちょっと違って使われています。メール(その15)の「一般的」は、「内容は不明だが特定の条件では」と言う意味です。つまり、血液型と性格は「(内容は不明だが特定の条件では)差があるらしい」ということになります。

今日は時間がなくなってしまったので、とりあえずこれで終わります。次回も、渡邊さんとの私の意見の再確認をさせてもらえればありがたいです。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その15) H12.2.28 23:16

今回のご返事には、いつもの「勢い」が不足しているように感じました。
で、ちょっとだけかさにかかって(笑)再レス申し上げます。

1.不用心・再び

> また「現状心理学」では性格概念を利用するときに特に「根拠」が求められることはない

ってことはなくて、「ここで言われている性格概念はどういう性格因子に基づいているのか不明、単なる思いつきの印象の羅列に過ぎない」というような批判は能見説否定の有力な材料の一つです。
でも、これまでの論調を踏まえると、渡邊さんにとってはどうでもよさそうですね(笑)。
「不用心」などという通状的一貫性を前提にした概念は認められないのでしょうし、どのみち血液型と関係があるとは信じられないし・・・。

> あのメール引用部分の前後にはもちろんそういう「ABOFAN批判」がついてたわけだけど,
> そこまで引用する必要もない,と思っただけです.

たははは。引用されていない部分を根拠にされてはお手上げです(笑)。

ただし、わたしが論点としたかったのはそういうことではありません、ということだけは言っておくことにします。ここでの、先のメール(H12.1.29)でいいましたが

> 「気質」とか「性格(傾向)」と言うとき、あれこれ言っても、その根拠、その検証や判定の、
> 基礎と言いますか、立脚点としての「知識体系」は心理学のものの筈だからです

ということなのです。
「うっちゃり負け」は「B型力士」に多いらしい、というとき、わたしが先にあげた考えられる原因、まるっきり冗談のつもりではなかったのです。
(1)B型は身長比で足が長いので腰高になりがちのためうっちゃられ易い
これは、実は後検証が可能な事項です。身長と座高は計測可能、というか、力士は定期的に身体測定が行われていますね。
(2)(同部屋)同門の伝統として押し相撲重視
これも、(1)よりは不確定要素が多いのですが、調べることはできます。
しかし、「不用心」という「性格特徴」は「根拠」があるのだろうか、ということです。

わたしは、能見さんの血液型人間学は、"現象や事物を、なにはともあれ集めまくって「どうよ!」って言ってしまう"博物学のようなものと思っています(H11.4.19 付けABOFAN宛メール)。
そうした原データとして「うっちゃり負け」は「B型力士」に多いらしいということがあって、では追試を、と思っても、では、「不用心」の度合いってどう調べればよいのか(ナニを従属変数とするか)、よくわからないわけです。これは、わたしが性格心理学素人だからわからないだけであって、実はそういう意味の検証は行われているのかもしれない、などと思っていた時期もありました、実は。ところが、どうもそんな話しはなさそうで、しかもその理由は、単に心理学者が興味を持たないからというようなことではなくて、そもそもそうした知見に対応できる「知識体系」を持っていないからではないのか、という疑念を抱いているわけです。
で、まあ、渡邊さん(達)が、わりと無造作に「不用心」と言ってしまっているのを見まして、ちょっといらついてしまったのでした。

2.ランダムサンプリング・再び

すみませんでした。統計の話しにふるつもりではなかったのです。

> このときに「ソーセージ専門店にソーセージを買いに来る帯広市在住者」が母集団である,
> と決めた瞬間に,そのデータによる推測をその母集団より外側に広げることは「禁止」されます

はい。その通りです。
ランダムサンプリングではなくても、「うっちゃられ力士」のデータ同様、なんか面白い現象だよね、と言う見方はアリでしょう、ということでした。
でも、渡邊さんの「母集団の推定」の解説、分かり易かったですよ。
どうも、こうした解説のお手を煩わせてしまったのは、わたしの

> データ2 帯広市民のサンプル(ランダムサンプリングの170人)の一番好きな食べ物
> は、渡邊さん自身の見解としても「一番好きな食べ物」が判ったことになるのですか?

を、ランダムサンプリングの問題に受け取られたからのようで、読み返して見るとこれは確かにそう取られても不思議ではない、というより、当たり前でした。ごめんなさい。

この文は、本当に「一番好きな食べ物が判ったことになる」のか、というところがポイントで、そういう意味では、「質問紙」の問題に属するものです。つまり、「好きと答えたこと」=「好きであること」としているけどいいのォ、というようなことです。
そういうつもりの例題ではないことは承知の上です。
「不用心」もそうなのですが、渡邊さんはこういうコト批判してた筈だよなあ、と感じることが何度かあって、「ちょっと"杜撰"かなあ」というのはそうしたことに対する感想です。

失礼いたしました。

3.うっちゃられ・再び

> つまりこの問題は,最大素数さんが言うような「科学者モードと素人モード」みたいな
> ことではなくて,単純に「どの母集団を推定するか」という統計の手続上の問題です.

うふふ。そうですか(^^

> 「相撲のある場所のある力士たちのいくつかの取り組みにおいて,組み手と血液型に
> 関係があった,しかし他の場所の他の力士たちの取り組みでも関係があるかはまった
> く不明である」ということですが,こういわれたとき,一般的に私たちは「なるほど ,
> 組み手と血液型には関係があるんだなあ」と判断するでしょうか? 私はしませんよ.
(メール・その24)

つまり、賭けに興じるという素人モードにおいては「(ランダムサンプリングによらない)ある特定の場所の力士」が母集団と考えられるデータを、「来る場所の力士」に当てはめて考えるということをするのでしょうか、と訊いたつもりだったのです。

それはそれとして。
渡邊さんの返事で気になったことを。

> 「血液型による差」を一般化したいなら,力士以外のデータでも同じ差が見い
> だされることが必要

これは、統計学的には全く正しいのですが、「意味・内容」的にはちょっとどうなんでしょう。
力士は「一般」人とは違うのかしらん。
「力士」の特徴は「人間」の特徴とは別モンでしょうか。
勿論ここで「うっちゃられ力士のデータは、そのまま一般化できる」というような主張をするわけではありません。

> 一般人はふつう「うっちゃり」をしたり「うっちゃられたり」しない

を結論とせずに「一般人にとって"うっちゃる・ちゃられる"とはナニか」という方向に発展させる発想が欲しいわけです。で、そのときに、"うっちゃられる"=不用心ってのはホントか、ト、今心理学ではどう考えているのか(「うっちゃられと血液型」のことではなく、「不用心」のことネ)、ト、結局そこに繋がって来るのでした。

素人考えでは、例えば「麻雀をするとその人が解る」というようなことを言ったりして(勿論「解る」の内容は相当に割り引いてくださいね・笑)、例えば「思い切りが良い/悪いヤツ」などと「一般化」してしまうのですが、やっぱりこれはバツでしょうかねえ。

メール(その26) H12.2.29 16:43

ABOFANへの手紙(26)


細かい議論はもうやめにするつもりでしたが,もうちょっとだけやりますか(笑).
これは大サービスです.

> 今回のご返事には、いつもの「勢い」が不足しているように感じました。
> で、ちょっとだけかさにかかって(笑)再レス申し上げます。

そりゃあそうですよ.もうやめるって宣言しているし,やめたかったんだもん.それに,いま大学は入試,試験,単位認定などでやたら忙しく,痛めつけられてるせいもありますね.

閑話休題.


1.「仮説の段階」と「検証の段階」

ABOFANさんの意見と最大素数さんの意見は,似ているようだけれどもさまざまな点でけっこう決定的な違いもあると言うことは十分承知の上で言うのですけども,わたし今頃になって,ABOFANさんと最大素数さんに共通する「感性」みたいなものと,それと私の議論とのズレをはっきり認識しました.

それは「科学少年」性みたいなものです.これは悪い意味でも,バカにしているわけでもありません.まあ先を読んでください.

血液型と性格の関係について,結局のところ現状ではあるともないとも言えないのだ,ということは少なくともわたしと最大素数さんとの間では,おそらくABOFANさんとの間でも共通の認識になっていると思います.そこで私は「科学はあるともないとも言えないものをあるとは言わない」という原則論をずっと述べてきました.

いっぽうABOFAN&最大素数連合の意見は,以下のように聞こえます.

「関係あるかどうか,確かなことは言えないにしても,とっても興味深いし,あったら面白いし,考えるとわくわくするじゃないの,そういう楽しさをなぜ一生懸命否定するのよ」

ということです.これはそうでしょう,ご両人? つまり「夢と希望とロマンの科学少年ワールド」です.本当にうらやましい,私も心理学をぜんぶそういうふうにやりたいです(これは皮肉ではありません).

臨床じゃない心理学者にはもともと理系的(正確には理学部的)な問題に子どもの頃から興味があって,その興味がたまたま人間に向いたので心理学者になった,みたいな人が多いです.私も「学研の科学と学習」では「科学」だけをとっていましたし,最初に買ってもらった高価なおもちゃは顕微鏡でした.ひどい場合「心理学で業績を挙げて大学の先生になったら,いよいよプランクトンの研究を始めるぞ」などといっていた人もいます(これは実在).

ですから「世界には謎がいっぱい,その謎を解明するぞー」という夢の世界は私も共有しているし,それがなければ科学は進歩しないと思います.

しかし,現実の「科学という社会的営み」はそれだけでは動いていません.

もちろん,問題の発見とかテーマの設定,仮説の構成という段階では「科学少年」的感性が絶対必要だし,それがなかったら仮説自体生まれません.「証拠はないけど,なにかあるかも知れない」という気持ちがなかったら,研究なんてしてもしょうがないのです.だから私も「この段階」で証拠のないことを仮説として主張することは許されるし,許されるどころか絶対必要だと思います.

「血液型と性格」だって,私がいろいろなところで述べているように少なくとも今の心理学の基準で考えれば「科学的に検証可能な仮説」だし,それを仮説として提唱することにはなんの問題もありません.もっとも私はその仮説にはあまり共鳴しませんが(笑).

しかし「科学という社会的営み」の中でなにかが「科学的事実」として認められるか,という話になると,それだけでは済まなくなります.仮説が正しく,それが「科学的事実」であると認められるためには,はっきりした証拠が必要です.仮説がなにかとなにかの関係に関するものであれば「その関係があるという十分な証拠」があることが,それが事実として認められる唯一無二の基準です.

そして,この段階では「ない証拠がないからないとはいえない」とか「一般化されない証拠でも証拠のひとつだ」とか言うことは言えません.あくまでも「ある証拠」が一般化できる形で得られることが必要です.もし推測統計を用いるならランダムサンプリングが必須です.それが今の科学の(心理学の,ではない)ディシプリンです.

私たち「職業科学者」が公的な場で「関係がある」と述べるのは,この後者,「検証の段階」がクリアされているものだけです.「仮説の段階」のものについては多くの場合は公的に述べることはありませんし,述べるときも「仮説の段階」であることをはっきりさせて語るでしょう.

私たち心理学者ももちろん「仮説の段階」ではドキドキワクワクの科学少年ワールドでやっています.われわれが大学院生の時などに内輪でやった「研究計画発表会」などは,そういう夢と希望のオンパレードでした.しかし,それを公的に発表するには「検証の段階」がクリアされなければなりませんし,どんなに面白い,興味深い仮説でも「検証の段階」をクリアできなければ消えていきます.

また,学会で発表されるのも「仮説」ではなく「仮説を検証した結果」です.学会発表で仮説だけを語り「この仮説を否定することはできないだろう」などと主張しても,誰も取り合ってはくれません.仮説を語るなら,ある程度それを検証し,正しいと言える根拠を持ってこなければ意味がないのです.

そこは「科学少年の夢」のレベルではない,ある意味無味乾燥で血も涙もない「検証の原理」が支配する世界です.科学を職業にすることは,そういう血も涙もない世界に関わることです.

心理学者としての私は「血液型と性格に関係があるか」という議論であれば,それは「検証の段階」の議論であって,関係があると主張する側が提出した「証拠」が十分なものであるか,ということだけを検討して,十分と思えなければ「関係がない」と結論すればよい,と考えるのが基本です.

そのとき,それが「仮説として意味があるか」というような議論をしているのではなくて,その仮説が「検証の段階をクリアしているか」だけの議論をしているのです.ランダムサンプリングの話も,そのひとつです.推測統計をやるのであれば少なくとも「ランダムサンプリングしている」と主張できないデータでは,検証の段階はクリアできないよ,という,とてもシンプルな話です,それに反論するような相手と科学的検証について議論するのは無駄でしょう.

ところが,ABOFANさんと最大素数さんは「血液型と性格に関係があるか」というテーマの議論で「血液型と性格に関係があるという仮説に意義があるか」という段階の議論をしてくる.たとえば最大素数さんの,

>> 一般人はふつう「うっちゃり」をしたり「うっちゃられたり」しない
>
> を結論とせずに「一般人にとって"うっちゃる・ちゃられる"とはナニか」という方向に
> 発展させる発想が欲しいわけです。で、そのときに、"うっちゃられる"=不用心っての
> はホントか、ト、今心理学ではどう考えているのか(「うっちゃられと血液型」のこと
> ではなく、「不用心」のことネ)、ト、結局そこに繋がって来るのでした。

これは仮説としては非常にもっともですが,あくまでも仮説のレベルのお話です.ABOFANさんのデータで,力士を母集団にしたときには力士のうっちゃりが血液型と関係があると結論して間違いではない,ということは確かで,これは「検証された事実」です.しかし,上の最大素数さんの考えのようなことは,その事実から派生する「別の仮説」で,それはまた個別に「検証の段階」を踏まなければなりません.

こういう仮説が立てられるから「一般人にも血液型で性格に差がある」と言っても良いんじゃないの,というのは「仮説の段階」と「検証の段階」を混同しています.

同様に,ABOFANさんの

> 血液型と性格は「(内容は不明だが特定の条件では)差があるらしい」ということにな
> ります。

これは正しい結論ですが,ここではその条件だけを母集団として統計的検定をし,そういう結論を導いたわけですから,そこから「他の条件でも差があるかも知れない」というのは「まったく別の仮説」ですし,個別の「検証の段階」を踏まなければなりません.

「こうも考えられる」「こう考えてもいいかも知れない」「こう考えてはいけない理由はない」というのは,「仮説の段階」の議論です.ある一個の仮説が「検証の段階」をクリアしたとしても,それから派生する「新しい仮説」が正しいかどうかは,また別の「検証の段階」を経なければわからないのです.

ABOFANさんと最大素数さんは,それぞれのやり方で「仮説の段階」と「検証の段階」を混同していて,おもに「検証の段階」の話をしようとしている私に対して,「仮説の段階」での可能性を認めない,可能性を否定している,というような批判をしているように思います.

ABOFANさんはこう書かれました.

> 私は、「力士に差があるというのは,『一般に』血液型で性格に差があることのひとつ
> の証拠である」というつもりはありません。そうではなく、「幕内力士のうっちゃられ
> 回数」に血液型によって差があるなら、この差には血液型によるなんからの性格の差が
> 反映されていると考えていいだろう、ということです。確かに、これだけで「不用心」
> と「一般化」するには問題がないとは言えないでしょう。(^^;;

たしかに「幕内力士のうっちゃられ回数に血液型によって差がある」までは確認された事実ですが,「なら、この差には血液型によるなんからの性格の差が反映されている」というのはまったく別の仮説で,「考えていいだろう」ということは「仮説の段階」ではたしかに「いい」でしょうが,「考えていい」ことと科学者として「反映されている」と言っていいこと(検証されていると考えること)はまったく別です.これ,わかりますか?

「不用心」と「一般化する」ことが悪いのではなくて,仮説と検証結果の区別ができていない,ということです.


2.じゃあどうだったらよいのか

じゃあどうだったら「仮説の段階」と「検証の段階」を混同していない議論だといえるのか.試しに私だったらこの「相撲と不用心」との関係をどういうふうに研究するか考えてみましょう.ただし,ここでは私はあくまで「現在心理学者」としてふるまうので「それを質問紙じゃダメでしょう」とか「相関が疑似相関かも」みたいなチャチャは入れないように(笑). 

大仮説 力士ではうっちゃられと血液型に関係があるように,一般人でも血液型と不用心さとに関係がある.これは「一般に性格と血液型に関係がある」という事実のひとつの反映である.

さて,これについて今「検証済」の「事実」は以下のことだけです.

 事実1 力士においては,うっちゃられに血液型によって差がある.

以下出てくることはすべて「仮説」ですからそれぞれ検証しないといけません.仮説のレベルが低い順に検証していきます.

 仮説1 力士においては,うっちゃられることは「不用心さ」のあらわれである.

これを検証するためにはうっちゃられと「不用心さ」の関係を明らかにしないとなりません.うっちゃられははっきり定義され,測定されているので問題はありませんが,「不用心さ」はどうか,調べましょう.

検証の準備1-1 心理学などで「不用心」をきちんと定義し,測定方法を考案している研究はあるか,あるならその定義内容や測定方法は妥当で信頼できるものか.

 そういう研究があり,妥当で信頼できる → 検証1へ進む

 研究がない,あるいは妥当でなく信頼できない場合,以下のことが必要

   → 不用心さの指標の完成 検証1へすすむ

これではじめて検証ができます.やってみましょう.

検証1 全数調査として可能な限り多くの力士の「うっちゃられ」を測定するとともに,彼らの「不用心」も前出の指標を用いて測定する.そのデータから「うっちゃられ」指標と「不用心」指標の相関関係を分析する.

 結果1-1 うっちゃられ指標と不用心指標との間に明確な相関が見られる
               → 仮説1が検証された
 
 結果1-2 うっちゃられ指標と不用心指標との間に明確な相関が見られない 
               → 仮説1が検証されなかった

これは全数調査ですからどんなに小さい相関でも相関はあるのですが,まあ私だったら0.3か0.4くらいあれば「相関がある」と考え,それより低ければ「相関がない」(あっても説明できる分散が小さすぎる)と考えるでしょう.「参考程度」に相関係数の有意性検定を記述的に用いる,というのもよいでしょう.

さて,結果1であれば,ここで初めて「うっちゃりと不用心の間に関係があり,うっちゃりが血液型と関係があるのだから,不用心と血液型との間に相関がある」といえます.

(実際にはこのデータでは血液型も聞いておくことで力士における「不用心」と血液型の関係が直接検証できるわけですが,仮説の性質上それはおいといて....)

しかし忘れないで,この結論にはまだ「力士においては」という限定がついています.したがって,ABOFANさんおよび最大素数さんの「アイデア」を検証するには,第2の仮説が必要です.


 仮説2 一般に血液型と不用心とには関係があり,それがうっちゃられと血液型の関係に「反映」している.


次はこれを検証しないといけませんね.

検証の準備2-1 関係の分析方法の決定
  これは,血液型の測定値と,前に出てきた「不用心」指標との関係をみればよい.
  血液型を聞く項目と不用心指標を同じ質問紙上に配置する,など.
検証の準備2-2 母集団の推定
  「一般に」という場合の「一般」の範囲を決める.私だったら「日本人」で十分と考える.
検証の準備2-3 サンプリング方法の決定
 日本人を全員調べる(全数調査)か少数サンプルで調べる(サンプリング調査)か決める.サンプリング調査ならランダムサンプリングが必要.私なら層化多段抽出法を用いる.まず47都道府県から無作為に10県程度を抽出し,各県の市町村から無作為に10市町村を抽出し,各市町村の住民台帳から無作為に5人を抽出する.サンプル数は計500人となる.その500人に対して(郵送などの方法で)質問紙調査を行なうか,直接行動を観察する.
検証2 抽出されたサンプルにおいて,血液型と不用心指標との間に統計的に有意な関係があるかどうかを調べる.
結果2-1 有意な関係があった
→ 血液型と不用心には一般化できる関係がある.また,力士におけるうっちゃりとの関係も,同じ指標で明らかだったのだから,「一般的な差が反映したもの」である可能性が高い,と結論できる.
結果2-2 有意な関係がなかった
→ うっちゃりと不用心の関係,それと血液型との関係は「力士」に限ったもので,一般に不用心と血液型に関係があるとは言えない.

ということになります.さて,仮説2が検証され,血液型と不用心とに関係があることがわかれば,確かに「不用心という性格の一側面と血液型に関係がある?ということになります.そうなると,

 仮説3 一般に血液型と性格には関係がある

という仮説が立てられます.しかしもちろん,これもまたひとつの新しい仮説ですから,その結論が結果2-1から直接導かれるようなことではなく,個別に検証しなければなりません.つまり,

 検証3 不用心以外の性格の諸側面と血液型にも関係があるか調べる

ということが必要になります.その方法は....(以下省略).

つまり,ある仮説が検証され,事実と認められたことと,それから派生する「仮説」が正しいかどうかはまったく個別の問題で,派生した仮説についてもいちいち検証することが必要になるのだ,ということです.

ある事実が確認されたときに,「ならばこうかも知れない」「こんなことも考えられるかも」「こうだったらすごいよね」と考えることは「仮説の段階」では自由ですが,それらが正しいかどうかは,それぞれ別の「検証の段階」に属する問題です.


3.議論がかみ合わない理由

ここまでの話はわかってもらえたでしょうか.

もちろん「仮説の段階」でなら何を言ってもいいことにはならないことは確かです.明らかに論理的におかしい仮説や,先行研究から言って検証以前に正しくない蓋然性の高い仮説は,検証以前に棄却されます.また,仮説のレベルで別の仮説と対立し,理論的な議論の中で敗退していく仮説もあります.

私がもともとやりたかったこと,この議論の最初の方でやったことは「血液型と性格に関係があるという仮説」自体に疑問を投げかけ,それと対立する仮説(一貫性の否定と相互作用論)を明確に提示する,という「仮説の段階」の議論でした.

しかしABOFANさんはそういうことは興味がない,「データで議論」がしたい,というので,私はイヤイヤ「検証の段階」の議論にも答えました.「検証の段階」の議論をするなら私は否応なく血も涙もない「検証の論理の人」になりますから,その基準をクリアできない仮説は原理原則論で切って捨てます.

科学的検証の論理やランダムサンプリングの話はそういう「検証の段階」の話です.その話の中で「こう考えてはいけないのか」とか「こういうカンも必要」「発展させる発想が欲しい」とかいう「仮説の段階」の疑問や反論が出てくるのはおかしいし,それでは議論はかみ合わないわけです.


4.質問に答えていない,といわれないために

今回のABOFANさんと最大素数さんの質問には上記のことですべて答えたことになると思いますが,理解されていないとそうなりませんので,念のため個別の質問にもいくつか答えておきます.

> 私は、「力士に差があるというのは,『一般に』血液型で性格に差があることのひとつ
> の証拠である」というつもりはありません。そうではなく、「幕内力士のうっちゃられ
> 回数」に血液型によって差があるなら、この差には血液型によるなんからの性格の差が
> 反映されていると考えていいだろう、ということです。確かに、これだけで「不用心」
> と「一般化」するには問題がないとは言えないでしょう。(^^;;
>
> この場合、私は血液型と性格は「関係ある」と定義します。私だけではなく、一般の性
> 格心理学者でも同じです(例えば、大村さんの『血液型と性格』など、任意の文献でご
> 確認ください)。しかし、渡邊さんは「関係ない」と定義します。こういう解釈でいい
> ですか?

こういうことを「定義する」というのはおかしなことばですね.結論する,ということですか?

> この場合、私は血液型と性格は「関係ある」と定義します。

これが間違いなのは上で詳しく論じたとおり.また,

> 上のケースに当てはめると、私は「性質」イコール「幕内力士のうっちゃられ回数」と
> 考えていますが、渡邊さんはそうではないと…。つまり、幕内力士のデータは人間全体
> という母集団ではランダムサンプリングされていない→血液型と性格には関係ない、と
> いうことになります。これでいいですか?

そういう話をしているわけではないことも上で詳しく論じたとおり.つまりこれらのデータで判断できるのは「幕内力士のうっちゃられ回数に血液型で差がある」ということだけで「血液型と性格に関係がある」とか「関係がない」とかいうのは,それとは別の検証過程を必要とする別の仮説だ,ということです.もちろん,ちゃんと代表性のあるデータだったら「一般化」にも転用できますけど.

(どうもABOFANさんは「全数調査とサンプリング調査」のところで説明したこともわかってくれていないようです.やれやれ.統計の基礎知識コーナーすら全滅ですね.)

> 私だけではなく、一般の性格心理学者でも同じです(例えば、大村さんの『血液型と性
> 格』など、任意の文献でご確認ください)。

それは明らかに違うな.大村先生は「血液型陣営が示す,個別の性質と血液型との関係のデータが信頼できないから,それを基礎にする血液型性格関連説を正しいとは言えない」と言っているだけで,「個別の性質に血液型との関係があることが血液型と性格の関係を証明することになる」というABOFANさんの論理とは全然違います.

これは「あるといえないからない」というのと「ないといえないからある」というのが根本的に違うのと同じことです.このふたつが区別できないなら,手紙(8)くらいまで戻ってもう一度私の書いた文章を読み直してください.

同じ理由で,

> やっとこれで渡邊さんの論理が理解できました。一般の性格心理学者の論理とは全く違
> うので、理解するのにえらく時間がかかったものです…。(^^;; 申し訳ありませんで
> した。

残念ながら,これも間違っています.心理学者は基本的にみんな私と同じ論理でやっていますし,どんなに頑迷な「現在心理学者」でも,論理の適用基準には多少の違いはあれ,まともな人はすべて私と同じ論理です.ただ,それをABOFANさんにもわかるように親切に説明してくれた人がいままでいなかった,というだけのことです.

ただ,すべての心理学者がそれをはっきり意識しているかは別です.ここでの議論に対する心理学者からの感想に「自分が研究としてやっていることの基本的な論理がよくわかった」というものがありました.心理学者の多くは教育や訓練の中でごく自然に科学的検証の論理を身につけ,それに基づいて研究しているけど,それを私のように他人にも説明できるほど詳細に意識しているとは限らない,また,それを著書や論文に明文として書くとは限らない,ということ.

いずれにしても,ABOFANさんの知っている心理学者の誰かがほんとうに私と違う論理でなにかをやっているとすれば,それは科学的論理の基本もわからないダメな心理学者であって,私はダメな心理学者のやることまで責任を負うつもりはありません.

まあ「ダメな心理学者」にされそうな人のために多少弁護するとすれば,ABOFANさんが「性格心理学者も同じ論理」だとおもう根拠になっているのは,ほとんど学術論文ではなくて一般書ではないですか? 私だって一般書に書く(素人向け)に書く時は,一般人の論理に寄り添って,その範囲でわかりやすいように書きます.

ABOFANさんがこれまで読んだ「心理学書」がここで私が述べたような論理になっていないとすれば,それはそれらが研究者ではなく一般人を対象にしたものだからかもしれない.もし一般書をはっきり「科学的検証の論理」に基づいて書かなければならないのだったら,その本の冒頭でつねにここで私がABOFANさんに説明してきたようなことを述べなければなりません.そんな面倒なこと,誰もしませんよ.

素人向けには素人がわかりやすい論理で,心理学が到達した成果や結論だけを面白おかしく伝える.そうした成果や結論が得られた過程や論理についてはとくに詳しくは述べない,というのが普通ではないでしょうか.

反対に学術論文だったら「科学的検証の論理」は著者も読者も当然共有しているわけですから,わざわざ書く必要もないわけです.というわけで,なんと,この世にある書かれた心理学文献のほとんどは私が説明したような論理を明文で書いてはいない,ということになりますね.

それはズルイ,といわれればたしかにズルイです.そうか,科学的検証の論理というのは「職業科学者」を目指す人たちだけに口伝で伝えられる「奥義」のようなものなのかもしれない! これは科学社会学的には面白い問題ですね(とあえて他人事のように言う...けどこのことがこの議論における私の最大の発見かも).

仏教でも「方便」といって,難しい仏教哲学をとっぱずして信者にわかりやすいことばで語る,ということがあるし,キリスト教でもイエスは「世界の真実はおまえたちが理解するには大きすぎるので私は常に比喩で語る」というようなことを言われています.でも仏教哲学の真髄も,世界の真実も,それ自体は一般人の理解を超えたところにそびえ立っているわけです.


5.ランダムサンプリングで質問?

さて,ABOFANさんは私への個人的メールのなかで,「次回はランダムサンプリングの件、といっても理論的な話ではなく心理学者のデータについてです」というようなことをおっしゃってますが,それについては事前に結論を言います(そんな議論はしたくない,ということ).

ABOFANさんがもし心理学者のデータがランダムサンプリングしてないとか,ランダムサンプリングのやり方がよくないとかいう問題で私になにか言わせようとするのなら,それはまったく無意味です.

私は前から,ランダムサンプリングの問題では血液型のデータも,心理学のデータもダメデータであるとはっきり言っています.

ただ,「ランダムサンプリングしなくてよい」というABOFANさんの議論は「統計の基礎レベルで明らかに間違っている」けれども,いちおう「ランダムサンプリングしている」と主張している心理学者のデータは「統計の基礎レベルで明らかに間違っている」わけではない,ということは言いました.まあABOFANさんよりは心理学者の方が統計の基礎はわかった上でやっている可能性は高い,ということだけです.

また,「ランダムサンプリングの程度」の問題を論じたいのなら,これまで私が書いたことをもう一度熟読して,その理解をもとにご自分で判断してください.私の書いたことが理解されていれば,それほど間違った答えは出ないでしょう.

はっきりさせておきたいのですが,血液型と性格の問題は,

  血液型のデータが正しいから,心理学のデータは間違っている

とか,

  心理学のデータが間違っているから,血液型のデータは正しい

というような構造にはなっていません.どちらも正しい,ということはないにしても,「どちらも間違っている」ということは十分にあり得るし,私はそれだと思っています.その意味で,ABOFANさんが心理学者のデータ収集方法とか,解析方法とかにいくら問題点を発見し,指摘しても,そのことは「ABOFANさんが正しい」という証明にはなりません.

ああ,確かに心理学者は間違っているね,でもABOFANも間違っているねえ.チャンチャン,で終わりです.まあ意地悪ついでに書き加えれば,それでも心理学者の方が統計の基礎くらいはわかった上でデータとってるからすこしはマシかなあ,ってことはあるかも(笑).

それに私だって他の心理学者の悪口は言いたくないですからね.まあ以上のような問題について質問されるつもりなら,ぜひやめてください.

また,「松井さんたちのデータはランダムサンプリングしている,だからそこで血液型と性格の関係が出ているということは血液型と性格に関係があるということではないか」と言う話題でしたら,それは今度はこの議論のもっともっと前へ戻ります.

ご希望でしょうから,私の結論を明確に述べておきます.

  1. ランダムサンプリングしたデータで質問紙への反応が血液型で差があるなら,「質問紙への反応と血液型に関係がある」と結論することができる.
  2. 質問紙への反応がその人の性格をきちんと反映しているのなら,この結果から「血液型と性格に関係がある」と言える.現在の性格心理学はそう認めざるを得ないだろう.認めないなら心理学者が間違っている.
  3. しかし,私は「質問紙が性格を反映する」という仮説に疑問を抱くし,質問紙反応に大きく影響する「自己認知」と血液型ステレオタイプなどとの関係から,実際に血液型と性格に関係がなくても,質問紙への反応と血液型に関係が生まれることは十分にあると考えるので,このデータから「血液型と性格に関係がある」とはいえないと考える.これはランダムサンプリングなどの「統計」の問題ではなく,もっと基本的な「概念とデータの関係」の問題である.

もともと私がしたかったのは「3」の話だけです.この問題はたとえば「手紙(10)」の「6.データは論理を超えるか?」で非常に詳しく論じています.

だけど「1」レベルのことの前提になる原理をABOFANさんがまったく理解していないことが判明したから,「初歩の手続き」から説明しているのに,それを「ファンダメンタリスト」だなんて言われるのは心外です.基礎的なことを初心者に教えるときには誰でもファンダメンタリストになるでしょう.初心者に基礎理論より前に特殊例とか例外だけ教えるのはナンセンスです.

いずれにしても,上記の問題についてももう述べましたので,質問するのはやめてください.

もし「そうじゃない,まったく違う問題だ」というなら,とりあえず書いてみてください.でも,それが私から見て「すでに論じた問題」だったら「前に戻って読め」と指示するだけにしたいと思います.

しかし,私は個人的メールでABOFANさんに「次の質問を書くまえに,最初まで戻って私の書いたことをきちんともう一度読んでくれ」とお願いしたはずですが,本当に読んでくださったうえでこれらの質問が提示されているのでしょうか.そうならますますこの議論を一刻も早く終えたい気持ちです(涙々).

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その26)

 大サービスありがとうございます(笑)。今後ともサービスしていただければ…って今回だけですよね。(^^)

 さて、ご希望のようですので短く行きます。

1.「仮説の段階」と「検証の段階」

 なるほど、渡邊さんの科学のイメージがよくわかりました。私は科学は、現場に近いもの、面白いもの、完成していないもの、自由なもの、結構いいかげんなもの、身近なもの、怪しいもの(笑)…といったイメージで捉えていました。渡邊さんは、完成したもの、完璧なもの…といったイメージなのですね。

 そういう「科学」は、私にとっては「上澄み」と思えます。渡邊さんは、氷山を見て水の上に出ているものだけを考える、私は水の下のものまで考える、と言った感じでしょうか…。

#あくまでも私の単なる感想です。
#この比喩が適切かどうかは知りませんし、どちらが正しいのか主張するつもりもありません…。

2.じゃあどうだったらよいのか

 ここはほぼ同感です。

3.議論がかみ合わない理由 & 4.質問に答えていない,といわれないために

> こういうことを「定義する」というのはおかしなことばですね.結論する,ということですか?

 そういうことです。背理法だと私にとって(何らかの)「差がある」という「結論」になります。しかし、渡邊さんはそうではないと主張するので、わざと「定義」という言葉にしています。論理学的には(何らかの)「差がある」と言っていいはずなのですが…。

 渡邊さんは「差があるとは言えない」ということですが、私にはその理由がわかりません。ま、これ以上議論しても何かが進展するとも思えないので、ここで切り上げます。(^^;;

5.ランダムサンプリングで質問?

 プライベートのメールを本人に無断で公開するのはいけません(笑)。これから書こうと思ったのに、すごく書きにくくなっちゃったじゃないですか(大笑)。

 さて、以下は回答を要求するつもりはありません。予めお断りしておきますので念のため。(^^)

> 3. しかし,私は「質問紙が性格を反映する」という仮説に疑問を抱くし,質問紙反応
> に大きく影響する「自己認知」と血液型ステレオタイプなどとの関係から,実際に血
> 液型と性格に関係がなくても,質問紙への反応と血液型に関係が生まれることは十
> 分にあると考えるので,このデータから「血液型と性格に関係がある」とはいえないと
> 考える.これはランダムサンプリングなどの「統計」の問題ではなく,もっと基本的な
> 「概念とデータの関係」の問題である.

> もともと私がしたかったのは「3」の話だけです.

 わかりました。「まったく違う問題」かどうかわかりませんが、ちょっと疑問が出てきたので書かせてください。(^^;;

 まず、「質問紙が性格を反映する」とは必ずしも言えないでしょう。私もそう思います。しかし、質問紙の回答が出てくるプロセスについては、ある程度の検討ができるはずです。元々の性格が同じでも結果が違うとすれば、「自己認知」の方法が違うのか、「血液型ステレオタイプ」によるのか、それとも別の要因によるものなのか、いろいろと分析することが(少なくとも原理的には)可能でしょう。

#「自己認知」が違うなら、何らかの「性格」と関係ありそうな気もするのですがここでは触れません…。

 念のため、今までのメールで渡邊さんが「血液型ステレオタイプ」について詳しく書いている部分を探しましたが、渡邊席子さんの論文について書いた部分だけのようです(その4・追伸の4)。

#たぶん間違いないはずですが…。(^^;;

 話を簡単にするために、質問紙に差が出るのは主に「血液型ステレオタイプ」によるものだ、と仮定します(違うのでしょうか?)。例えば、「不用心」ならB型に多く出るかもしれません(笑)。一般的に言われているのは、O型は「大らか」、A型は「神経質」、B型は「マイペース」、AB型は「二重人格」というものです(AB型は「二重人格」じゃないぞ…笑)。となると、質問紙には必ず「血液型ステレオタイプ」の方向に差が出るはずです。つまり、坂元さん以外の心理学者の論文は、全部「差がない」ということになっていますから、すべて間違いであるということになります…。

 違うのでしょうか?

#差が出ているのはすべて「血液型ステレオタイプ」によるもので、差が出ていないのは
#元々差がないからだ、というのはダメですよ(笑)。

 それとも、「自己認知」の差なのでしょうか?

#ついでに、「自己認知」も探してみましたが、血液型に関してはこのメール(26)だけのようです…。

 自己認知が違う場合は、どういう方向に差が出ると予想されるのでしょうか?

 さて、メール(その23)では、

> 「あなたは昼食のあとでコーヒーを飲みますか」と尋ねて「ハイ」と答えた人は,
> 現実に昼食のあとでコーヒーを飲む確率が大きい,というだけのことです.こ
> れがどうして性格が実在することになるのですか?

 とあります。ここで、松井さんのデータを見ると、A型が他の血液型より「物事にこだわる」と答えています。となると、「あなたは物事にこだわりますか」と尋ねて「ハイ」と答えた人(A型に多い)でも「現実には物事にこだわる確率は変わらない」ということになりますが…。結局、素直に解釈すると、この質問項目には何の信頼性もない(?)ということになります。(^^;; 非常に奇妙な感じがするのは私だけなのでしょうか…。(?_?)

 更に問題なのは、「自己認知」が行動にも影響するかもしれないことです。本当は、B型は一番用心深いのかもしれません(笑)。他の血液型の人は、自己認知も「不用心」、更に行動も「不用心」なので、逆に用心に用心を重ねて「幕内力士のうっちゃられ回数」が少ないでしょう、たぶん(半分は冗談です…笑)。いずれにせよ、「自己認知」や「血液型ステレオタイプ」が行動に影響しないとは(私には)考えられません。となると、行動だけ分析しても無意味なはずです。その行動は、「相互作用」や「首尾一貫性」のためではなく、単に「自己認知」や「血液型ステレオタイプ」によるものなのかもしれません…。

 もしそうだとすれば、どのような方法で分析すればいいのでょうか? それとも、私の考えが違うのでしょうか?

 あれ? また恥をさらしてしまったのかなぁ(笑)。まあ、そのときはまたまた笑ってやってください(大笑)。

ABOFANへの手紙(27)

もう「番号の節約」はあきらめました.30までやるかな,それでちょうど最初の予言通りだし.

さて,あまり「返事はいらない」と言われるとあまのじゃくな私は返事を書きたくなります.ずるいぞABOFAN(笑).


1.「氷山の一角」論について

>  なるほど、渡邊さんの科学のイメージがよくわかりました。私は科学は、現場に近い
> もの、面白いもの、完成していないもの、自由なもの、結構いいかげんなもの、
> 身近なもの、怪しいもの(笑)…といったイメージで捉えていました。渡邊さんは、完
> 成したもの、完璧なもの…といったイメージなのですね。
>
>  そういう「科学」は、私にとっては「上澄み」と思えます。渡邊さんは、氷山を見て
> 水の上に出ているものだけを考える、私は水の下のものまで考える、と言った感
> じでしょうか…。

これはうまい比喩ですね.つまり「検証の段階」が氷山の見える部分,「仮説の段階」が水面下の部分ね.

ただ,私が「氷山の一角」の話だけしてきたわけではないことも明らかです.

最初私がしようとした「相互作用論」など「血液型性格に関係があるという仮説自体を否定する」という話や,それに関連して出てきた「一貫性否定」とか「行動主義」とかって話,それから「そもそも質問紙データは当てになるのか」といった「データの性質」の話はまさに「仮説の段階」の話,氷山の水面下です.

ところが,そういう話に対してABOFANさんは「データのない議論には興味はない」と言いましたね.つまり私が「仮説の段階」の話をしようとしていたのに,「検証の段階」の話が要求されたわけです.そして,何度も言いますが私は「イヤイヤ」その土俵に乗ったわけです.

で,前回も書いたように「検証の段階」では私はいいかげんなものを許さない,原理原則論の立場をとりました.これは職業科学者としては当然の態度です.「いろいろ考えられるよねえ」というときの態度と「科学的に証明された確かなものはなにか」というときの態度は,違って当然でしょう.

そしたら今度はABOFANさんの方が「それは上澄みに過ぎない」というのですか.上澄みの議論を求めたのはもともとABOFANさんですよ(笑).

> 私は科学は、現場に近いもの、面白いもの、完成していないもの、自由なもの、結構い
> いかげんなもの、身近なもの、怪しいもの(笑)…といったイメージで捉えていました
> 。渡邊さんは、完成したもの、完璧なもの…といったイメージなのですね。

私はどちらも科学だと思います.ただし「現場に近いもの、面白いもの、完成していないもの、自由なもの、結構いいかげんなもの、身近なもの、怪しいもの」というのはおもに「仮説の段階」の話,「検証の段階」ではその時の科学のパラダイムに応じて「完成したもの、完璧なもの…」が求められます.たしかに「検証の段階」の科学は「自由なもの」ではありません.それはよくわかったでしょう?

ABOFANさんが一貫して言うように「データに基づいた議論をする」というのならそれは明らかに「検証の段階」の話.そんな無味乾燥な世界で素人と戦ってもなあ,というのが私が「データの話はしたくない」という最初からの主張の真意です.でもABOFANさんがあくまでもデータの話っていうんだもの(笑).

>  そういうことです。背理法だと私にとって(何らかの)「差がある」という「結論」
> になります。しかし、渡邊さんはそうではないと主張するので、わざと「定義」
> という言葉にしています。論理学的には(何らかの)「差がある」と言っていいはずな
> のですが…。

「ABOFAN背理法」だって「仮説の段階」ではいろんなアイデアや見通しを生み出すという点で意味があるでしょうが,「検証の段階」では科学的仮説検証には役立たないので無意味だって,あんなに説明したじゃないですか.つまり「データの話」で「背理法」で話すのはルール違反,ということです.「論理学的」にはって,こんどは論理学の基礎講座もやらないといけないの?(私できますよ〜,やらないけど.)

繰り返しますが,「血液型と性格に関係があるという仮説を主張することができる」ことと「血液型と性格に関係があると科学的に検証されること」とは,全然違うことだし,それぞれが認められるために必要な論理水準もまったく違うのです.それを混同しないように.


2.ランダムサンプリングで質問?

>  プライベートのメールを本人に無断で公開するのはいけません(笑)。これから書こ
> うと思ったのに、すごく書きにくくなっちゃったじゃないですか(大笑)。

いけないとはわかっていますが戦術上ね(笑).

さて,

>  まず、「質問紙が性格を反映する」とは必ずしも言えないでしょう。私もそう思いま
> す。しかし、質問紙の回答が出てくるプロセスについては、ある程度の検討がで
> きるはずです。元々の性格が同じでも結果が違うとすれば、「自己認知」の方法が違う
> のか、「血液型ステレオタイプ」によるのか、それとも別の要因によるものなの
> か、いろいろと分析することが(少なくとも原理的には)可能でしょう。

もちろんです.質問紙をこれからも使い続けたい人はこれらの問題について研究すべきでしょう.ただしそれは「元々の性格」というものが明確に定義&測定できた上での話ですから「将来心理学」のテーマですね.

>  更に問題なのは、「自己認知」が行動にも影響するかもしれないことです。本当は、
> B型は一番用心深いのかもしれません(笑)。他の血液型の人は、自己認知も
> 「不用心」、更に行動も「不用心」なので、逆に用心に用心を重ねて「幕内力士のうっ
> ちゃられ回数」が少ないでしょう、たぶん(半分は冗談です…笑)。いずれにせ
> よ、「自己認知」や「血液型ステレオタイプ」が行動に影響しないとは(私には)考え
> られません。となると、行動だけ分析しても無意味なはずです。その行動は、
> 「相互作用」や「首尾一貫性」のためではなく、単に「自己認知」や「血液型ステレオ
> タイプ」によるものなのかもしれません…。

もちろん自己認知もステレオタイプも行動に影響しますし,だから研究対象になるわけです.行動に影響のないようなことは心理学の興味対象ではありません.

だけど,

 1.血液型と性格(そして行動)に関係がある
 2.血液型ステレオタイプや,それに影響された自己認知と行動に関係がある

このふたつは全然違う問題だし,「2」が「1」の根拠になることでもありません.「インプリンティング効果」で大村先生が言っているのは,血液型ブームで「2」が進行した結果として「1」が生じる,ということで,このことは「血液型と性格に関係がある」という証明ではなく,むしろ「もともと関係がないのに,血液型という迷信が広がり,それに人の行動が実際に影響されている」という「由々しき事態」の存在証明にしかなりません.

血液型ステレオタイプの話が出たので,渡邊席子論文のこともはっきりさせておきましょう.渡邊論文は「血液型ステレオタイプの内容が個人ごとに異なる場合がある」ということを言っているだけで,「血液型ステレオタイプが存在しない」と言っているわけではありません.

渡邊論文が解明したのは,血液型を信じる人は「血液型性格学」の広範な知識を持っているわけではなく,自分の持っている断片的な「血液型知識」の中で自分の現実の「体験」に一致すると認知された部分(イグザンプラ)を中心にして個人のステレオタイプを形成していく,ということです.

だから,「血液型性格学」と「個人の性格認知」が一致しないからと言って「血液型ステレオタイプ」が存在しないとは言えない.また,個人のステレオタイプの根本にはあくまでも「血液型性格判断体験」がある.そういう意味ではむしろ「ステレオタイプは存在する」という論文だと思います.

最後に,

> もしそうだとすれば、どのような方法で分析すればいいのでょうか? 

そんなこと,知りませんよ(笑).分析したい人が自分で考えたらいいことでしょうね.心理学者なら分析方法はすぐに思いつくでしょう.

つぎはまとめるぞー(笑).

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その27)

 今回も短くいきます。

1.「氷山の一角」論について

 ここはあまり議論するつもりはありません。ただ、ちょっと誤解があるようですので、再度説明しておきます。

> ABOFANさんは「データのない議論には興味はない」と言いましたね.つまり私が「仮
> 説の段階」の話をしようとしていたのに,「検証の段階」の話が要求されたわけです.

 これはちょっと違います。私は、データがうまく説明できるように仮説を何回も立てて検証します。だから、「仮説の段階」と「検証の段階」を別にするのは、私にとってはあまり意味がありません。検証を厳密にするのは、もちろん当然のことです。

> そして,何度も言いますが私は「イヤイヤ」その土俵に乗ったわけです.

 ありがとうございます。

2.ランダムサンプリングで質問?

> 「インプリンティング効果」で大村先生が言っているのは,血液型ブームで「2」が進行し
> た結果として「1」が生じる,ということで,このことは「血液型と性格に関係がある」とい
> う証明ではなく,むしろ「もともと関係がないのに,血液型という迷信が広がり,それに
> 人の行動が実際に影響されている」という「由々しき事態」の存在証明にしかなりません.

 あまりはっきり書くのはなんなのですが、実は「インプリンティング効果」はウソに近いと言った方が正しいようです。(^^;;

> 渡邊[席子]論文は「血液型ステレオタイプの内容が個人ごとに異なる場合がある」ということ
> を言っているだけで,「血液型ステレオタイプが存在しない」と言っているわけではありません.

 もちろんです。

> 渡邊論文が解明したのは,血液型を信じる人は「血液型性格学」の広範な知識を持っている
> わけではなく,自分の持っている断片的な「血液型知識」の中で自分の現実の「体験」に一致
> すると認知された部分(イグザンプラ)を中心にして個人のステレオタイプを形成していく,とい
> うことです.

 これもそうです。

> だから,「血液型性格学」と「個人の性格認知」が一致しないからと言って「血液型ステレオタ
> イプ」が存在しないとは言えない.また,個人のステレオタイプの根本にはあくまでも「血液型
> 性格判断体験」がある.そういう意味ではむしろ「ステレオタイプは存在する」という論文だと
> 思います.

 だいたいはそうなのですが、全体的にはちょっと違います。

 彼女が述べている知見は、「血液型性格学」の正確な知識がある人ほど、自分の性格が「血液型性格学」に当てはまらない、と感じているということです。逆に、「血液型性格学」の正確な知識がない人ほど、「血液型性格学」は自分にあてはまる、と考えているのです(つまり、自分の持っている間違った知識が当たっている、と考えていることになります)。

 単純な「血液型ステレオタイプ」が存在するなら、全く逆の結果が得られるはずです。つまり、「血液型性格学」の正確な知識がある人ほど、自分の性格が「血液型性格学」に当てはまると思うはずです。これは事実と逆ですから、単純な「血液型ステレオタイプ」の存在自体が怪しくなってきます。(^^;;

>> もしそうだとすれば、どのような方法で分析すればいいのでょうか?

> そんなこと,知りませんよ(笑).分析したい人が自分で考えたらいいことでしょうね.心理学
> 者なら分析方法はすぐに思いつくでしょう.

 これはよくわかりせん。「『検証の段階』では私はいいかげんなものを許さない,原理原則論の立場をとりました.」とのことですが、これって「原理原則論」なのですか?(ちょっと意地悪モード)。

 それよりも問題なのは、私の返事(その26)の次の部分については回答がない(?)ことです。

> 質問紙には必ず「血液型ステレオタイプ」の方向に差が出るはずです。つまり、坂元さん以外
> の心理学者の論文は、全部「差がない」ということになっていますから、すべて間違いであると
> いうことになります…。

 ここで、「『検証の段階』では私はいいかげんなものを許さない」ということなら、「血液型ステレオタイプ」が存在するという仮説を立てた時点で、坂元さん以外のデータは全部間違っている、という検証が必要(?)になります。しかし、なぜか(私が一番大事だと思っている)この部分については回答がありませんでした。「坂元さん以外のデータは全部間違っている」という検証は済んでいるのでしょうか? あるいは、別の理由で検証は不要なのでしょうか?(これまた意地悪モード)

> つぎはまとめるぞー(笑).

メール(その28) H12.3.2 13:35

ABOFANへの手紙(28)

今日以降ちょっと忙しくなり,来週は集中講義などもあったりして,今までほど快速に書けなくなるかも知れませんがご容赦ください.今日も自由な時間が1時間ほどしかなかったので,これだけしか書けませんでした.

さて,まだまとめられないようですねえ.....

今回は最後の出血大サービス,できるだけ「ABOFANさんが本来望んでいたであろうスタイル」で討論してみましょう.とくに後半ね.


1.氷山の一角論の続き

>> ABOFANさんは「データのない議論には興味はない」と言いましたね.つまり私
>> が「仮説の段階」の話をしようとしていたのに,「検証の段階」の話が要求されたわ
>> けです.
>
>  これはちょっと違います。私は、データがうまく説明できるように仮説を何回も立て
> て検証します。だから、「仮説の段階」と「検証の段階」を別にするのは、私に
> とってはあまり意味がありません。検証を厳密にするのは、もちろん当然のことです。

ふむふむ,なるほど.

まず原則論から言えば,データというのはあくまでも仮説を検証するためにあるもの(仮説が先にないデータはありえないということ)で,データに合うように仮説を何回も立て直すというのは邪道ですね.

でもABOFANさんはそういうこと言ってるんじゃないでしょう.たとえばこういうことですよね.

ある小学校の先生が,「テレビゲームをやりすぎると勉強に差し支えるのではないか」と漠然と考えて,自分のクラスの児童にアンケートを採って調べたとする.その結果,

 1.(自分のクラスでは)テレビゲームで遊ぶ時間と成績とに負の相関(遊ぶほど勉強できないということ)が見られた.

そこで,心理学会会員でもある先生は,これを心理学的研究にしようと考えた.で「1」のデータをもとに仮説を立てた.

 2.(一般に)小学生はテレビゲームで遊ぶほど成績は悪くなる.

そして,仮説を検証した.

 3.ランダムサンプリングした小学生のデータでテレビゲームで遊ぶ時間と成績とに負の相関があるか推測統計を使って検証.

その結果,一般に小学生ではテレビゲームで遊ぶほど成績が悪くなることがわかった,とします(もちろんこれはウソデータ.現実にはこのふたつは関係ないか,むしろ正の相関といわれます).

このとき,「1」もデータ,「3」もデータ,「1」のデータから「2」の仮説が出て,それで「3」のデータが「2」の仮説を検証した.

これがABOFANさんの言う「データがうまく説明できるように仮説を(何回も)立てて検証」のイメージですよね.ただ,このときわれわれ「職業心理学者」はこれを「仮説と検証の繰り返し」と考えるかというと,ちょっと違うことが多いです.

端的に言って「1」は仮説を導くための「予備的データ」,われわれのことばでいう「予備調査」で,科学的検証の対象になるのは「2」から「3」への流れだけです.

「1」も確かにデータですが,たとえばわれわれが学会で「1」だけを発表したとしたら「なに予備調査(みたいな)データ発表してるんだ,バカじゃないの」といわれます(言われたことあります).学会で発表できるのは「2」にもとづいて「3」の話をするときだけです.

一般化できない「たまたま見つけた差」みたいなデータは,ふつう「仮説の段階」の議論に含まれ,それを「検証の段階」の「ちゃんとしたデータ」として扱うことは少ないです.だって「一般化できない」といわれれば,それで終わりだから.それが一般化できる仮説に結びついたときに初めて「検証の段階」が始まるのです.

つまり「ある(比較的狭い)条件である事実があった」というデータは「一般的に(より広い範囲で)そういう事実があるはずだ」という仮説を生み出すもとになる「予備的なデータ」であって,そういうものをひとつひとつ「科学的な証明」と考えることは少ないし,「一般化できる仮説」を「一般化できる方法で検証する」ことだけが厳密な「検証の段階」に値すると考えられるのが普通です.

そういう意味では「血液型と性格に関係がある」というデータの多くは「予備調査」程度のもので,「検証の段階」では「一般的に血液型と性格には関係がある」という仮説をランダムサンプリングしたデータで一般化できる形で検証したデータだけを重視すべきでしょうね.


2.血液型ステレオタイプの問題

>  あまりはっきり書くのはなんなのですが、実は「インプリンティング効果」はウソに
> 近いと言った方が正しいようです。(^^;;

ここでは大村論理とABOFAN論理が同じか違うかという話をしていたので,そのことは関係ありませんね.また,ここからリンクされている「FBI効果は実在するか」のページも,私には意味がよくわかりませんでした.

結局ABOFANさんがFBI効果が実在しないと言う根拠は

>  大村さんの言うことが事実だとすると、YG性格検査では100%「フリーサイズ効
> 果」が現れることになります。でも、YG性格検査がインチキだという心
> 理学者はいません。少なくとも私が知る限りは…。結局、「フリーサイズ効果」が現れ
> るかどうかと、性格に差があるかどうかは(ほとんど?)関係ないとしか言い
> ようがありません。

だということみたいですが,これは単にYGも血液型もインチキということではありませんか?それ以前に,FBI効果が実在するかどうかと,血液型と性格に関係があるかどうかも,ほんとは全然別の問題だと思います.

ましてや,この話のどこから「インプリンティング効果はウソに近い」などといえるのでしょうか.もうちょっとちゃんとやりましょうよ.「状況証拠しかない」なんて,批判にもなんにもなってませんよ(笑).


さて,本題ですが,

>  彼女が述べている知見は、「血液型性格学」の正確な知識がある人ほど、自分の性格
> が「血液型性格学」に当てはまらない、と感じているということです。逆に、
> 「血液型性格学」の正確な知識がない人ほど、「血液型性格学」は自分にあてはまる、
> と考えているのです(つまり、自分の持っている間違った知識が当たってい
> る、と考えていることになります)。
>
>  単純な「血液型ステレオタイプ」が存在するなら、全く逆の結果が得られるはずです
> 。つまり、「血液型性格学」の正確な知識がある人ほど、自分の性格が「血液
> 型性格学」に当てはまると思うはずです。これは事実と逆ですから、単純な「血液型ス
> テレオタイプ」の存在自体が怪しくなってきます。(^^;;

どうして? とくに後半のABOFANさんの理屈が全然わからない.「単純な血液型ステレオタイプ」と「単純じゃない血液型ステレオタイプ」って,どうちがうのかな.

まず重要なことは「血液型性格学の正確な知識を持った人」は非常に少ない,ということです.これはABOFANさんもどこかで?一般人が信じているのは血液型性格判断であって,血液型性格学ではない」と言ってましたよね.だから大多数の人には「血液型ステレオタイプ」はあるわけです.

それより,

>  彼女が述べている知見は、「血液型性格学」の正確な知識がある人ほど、自分の性格
> が「血液型性格学」に当てはまらない、と感じているということです。

これは私,「正確な血液型性格学ほど実際の性格と関係ない」ということだと思いますよ(笑).もし血液型で性格がわかるなら,正確な知識があるのに,どうしてそれと自分の性格に関係がないってことになっちゃうの?

席子ちゃんの結果にしたがって考えれば,「正確な知識のない人」は血液型と性格について断片的な知識だけを持っていて,そのごく一部がたまたま自分や身近な他者にあてはまるという「体験」をしたときに,その部分(イグザンプラ)だけを中心に「個人的血液型ステレオタイプ」を形成することになります.

もし「正確な血液型性格学」でいうA型の性格と,A型のその人の性格が実際にはかなり違っていても,知識のない人は自分の知ってる範囲で「たまたま当たった」部分だけを中心に,「たまたま当たっている」ことに基づいた血液型ステレオタイプを形成するわけです.もともと自分や仲間の性格と合っている血液型の知識だけで作ったステレオタイプだもの,自分たちの性格にあてはまると思って(あるいは実際にあてはまって)当然です.

その「ご都合主義的ステレオタイプ」を今度は自分たち以外の他者にあてはめて考えるわけですが,これが他者の実際の性格と一致しているかどうかは偶然の範囲になりますから,どちらかというと「偏見」に近い,妥当性のないものになります.

一方,「正確な知識」を持っている場合では,そういう「ご都合主義的ステレオタイプ」は形成されません.したがって(もともと関係などない)「血液型性格学で言うA型の性格」と「A型の自分の実際の性格」はいろんなところでズレるでしょうから,「自分の性格は血液型にあてはまらない」と考えるのは当然でしょう.

つまり,血液型の「いいかげんな知識」は性格と関係があるけれども,「正確な知識」は性格と関係がない,ということです.これは「実際には血液型で性格はわからない」という証拠だというふうに「考えることができると言っても間違いではないだろう」(笑).

上記はもちろん「ジョーク」で,これについて議論する気はないですが,おそらく論理的にも心理学的にも正しいだろうと思います.

前にも言いましたけど,席子ちゃんの研究はどう読んでも「血液型ステレオタイプがない」とは読めないし,またABOFANが主張しているように「血液型で性格が違う証拠」とも全然読めないし,上のように考えればむしろ「血液型性格学の正確な知識が全然正しくない証拠」とだって読めると思いますけどね(笑).

また

(血液型ステレオタイプが存在するなら)
> 質問紙には必ず「血液型ステレオタイプ」の方向に差が出るはずです。つまり、坂元さ
> ん以外の心理学者の論文は、全部「差がない」ということになっていますから、すべて
> 間違いであるということになります…。

今まで述べたように考えると,そうも言えません.血液型性格ステレオタイプはあるが,その内容は個人によって大きく異なる.だから性格一般についての評定について多数の被験者の評定を平均した場合,それぞれの評定がステレオタイプの影響を受けているとしても,一貫した傾向は見いだされにくい,ということになります.

では,なぜ差が出るときと出ないときがあるのか.血液型性格学の「性格記述」には「イグザンプラ」になりやすいものとそうでないものがある,と考えれば,それも説明できます.

たとえば性格記述には「フリーサイズ度」の高いものと低いものがあるでしょう.フリーサイズ度の高いものは,それがたまたま「断片的知識」として所有されていたときに「自分にあてはまる」「彼にあてはまる」と思われ,イグザンプラとなる確率が高まります.

その結果,フリーサイズ度の高い性格記述ほど多くの人に「イグザンプラ」として共有されており,こうしたものについては多数の被験者のデータを平均しても「血液型による差」に結びつく可能性があります.

また,血液型による性格記述のうち,正確か不正確かは別として多くの人に知られているものがあれば,それもイグザンプラになりやすくなります.人々が持っている「断片的な知識」では,やはり「一般的にそう思われている」ものが中心になるでしょうからね.

したがって,イグザンプラになりやすいような性格記述,性格特徴については多数データでも差が出る傾向があり,そうでないような性格特徴では多数データでは差が出ない,ということが生じると思われます.

前に,心理学者の項目では差が出ず,能見さんの項目では差が出るみたいな話がありましたが,これも,心理学者はイグザンプラになりやすい性格特徴を示す項目とそうでない項目を特に区別せずにごちゃ混ぜにしちゃうから差が出ないので,能見さんは意図的にか非意図的にかイグザンプラになりやすい項目だけを選んでデータを採っているから差が出る,みたいなこともありうると思いますね.

まあいずれにしても私にはどうでもよいことですが....

上記のことはあくまでも「仮説」で,データがあるわけではありません.ですから「そうである証拠がない」みたいな議論には答えませんのであしからず.

次回はいよいよまとめます(笑).

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その28)

 大サービスありがとうございます(笑)。

1.氷山の一角論の続き

> まず原則論から言えば,データというのはあくまでも仮説を検証するためにあ
> るもの(仮説が先にないデータはありえないということ)で,データに合うように
> 仮説を何回も立て直すというのは邪道ですね.

 なんで邪道なのかわかりません。そうなると、地動説や相対性理論は邪道なのでしょうか?

> でもABOFANさんはそういうこと言ってるんじゃないでしょう.たとえばこういうことですよね.
 ……
> これがABOFANさんの言う「データがうまく説明できるように仮説を(何回も)立てて検証」
> のイメージですよね.

 時間がないのでしょうがないのでしょうが、この言い方はかなり手抜きですよ(笑)。心理学ではどうなのか知りませんが、私はこんなやり方じゃ到底満足できません。だいたい、「(一般に)小学生はテレビゲームで遊ぶほど成績は悪くなる.」なんて検証しても、面白くもなんともないじゃないですか。疑似相関も多すぎるし、テレビゲームの定義もあいまいです。ましてや、ランダムサンプリングして相関を計算するなんて論外です(大笑)。

 私だったら例えばこんな仮説を立てます。

  1. ゲームの種類と成績の相関…アクションゲームとRPGでは差があるかなど
  2. 男子と女子とで差があるか…例えば、男子はアクションゲームが好きだが女子はRPGが好きなのかなど
  3. テレビゲームは本当に「癒し」の効果があるのか…香山リカさんの本を読むなど
  4. ゲームマシンと成績の相関…プレステとドリームキャストでは差があるかなど

 いろいろと面白いことが発見できると思います。

 それと、テレビゲームで成績が下がるなんて「俗説」じゃないですか(笑)。一昔前は、暴力マンガを読むとダメ、テレビはダメだとか、いろいろとありました。もう少し時代を遡ると、戦前なら新聞がダメ、明治は小説がダメ…。つい最近は、インターネットがダメとかありましたね(笑)。さすがに最近は誰も言わなくなりましたが…。

 おっと、キリがないのでこのぐらいにしておきます。

 心理学ではテレビゲームがダメなことになっているのかどうか知りませんが、この仮説が正しいかどうかは非常に疑問です。

2.血液型ステレオタイプの問題

> これは単にYGも血液型もインチキということではありませんか?

 「FBI効果」があるのがインチキの証拠ということならそうなります。そして、YG性格検査では100%「FBI効果」が現れますが、血液型は80〜90%しか現れません。だから、血液型の方がまだマシということになります(笑)。いや、「FBI効果」はインチキかどうかとは関係ない、と言うならYG性格検査も血液型もインチキではありません。いずれにせよ、大部分の心理学者の論理は破綻しているのです。

 渡邊さんは、「FBI効果」が現れるのがインチキの証拠というのですから、YG性格検査の100%と血液型の80〜90%の差について、ちゃんと理由を示さないといけません。それとも、この程度の差は無視できるということなのでしょうか?

 私は、この差が生じる理由は主に2つあると推測しています。

  1. YG性格検査の方が「科学的」なので結果を信じやすい(心理学の先生に言われるなら余計に…)
  2. YG性格検査の方が「フリーサイズ効果」が大きいので誰にでも当てはまる

#残念ながら私の手元には直接の証拠となるデータはありません。(^^;;

 次に、渡邊席子さんの論文の内容です。この論文については、渡邊さんの解釈は非常に手抜きです(笑)。もう一度読めば私と同じ結論になるはずですが…。

 まず、「血液型ステレオタイプ」の定義をしておきます。

  1. 血液型によって性格に差があるという「信念」
  2. △型は××の性格であるという「知識」

 心理学者の論文を読むと、この2つは明確に区別はされていないようです。「信念」はあっても「知識」が伴わない人もいるし、「知識」はあってもさほどの「信念」がない人がいるのは当然のことです。それは、科学はスゴイという「信念」と科学の「知識」が伴わないのと同じです。(^^;;

 では、「信念」についての実際のデータを出しておきます。

1.血液型と人の性格は関係ありそうだ(無作為抽出の首都圏15〜69歳の住民1,102名)

回    答

回答率

そう思う 75.0%
そう思わない 18.4%
どちらともいえない  5.9%
わからない・無回答  0.6%

出典:昭和61年NHK世論調査資料

2.あなたは、血液型と人の性格や相性と関係あると思いますか?(無作為抽出の全国20歳以上の男女2,320名)

回    答

回答率

関係あると思う 18%
多少関係あると思う 46%
関係ないと思う 21%
わからない 14%
無回答  1%

出典:昭和62年毎日新聞「こころの時代」全国世論調査

3.血液型と性格・相性の関係は?(500名)

回 答

回答率
ある 72%
ない 18%
わからない 10%

出典:関西テレビ『発掘!あるある大事典』(平成9年6月15日放送)

 いずれも、3分の2以上が「関係ある」「多少関係ある」と答えています。つまり、かなりの人が血液型によって性格に差があるという「信念」を持っていることになります。では、その「知識」はどうか?

 次のデータは佐藤達哉さんの論文、「プラットタイプ・ハラスメント」からです(『現代のエスプリ〜血液型と性格』 No.324 至文堂 H6 ただし、元データは上瀬さんのものからのようです)。
 表を見ればわかるとおり、A型の特徴についてはある程度当たっているもの、O型についてはかなりいいかげんで、B型についてはあてにならず、AB型については全く知られていないことが分かります。また、B型とAB型についてはややネガティブなイメージがあることがわかります。

表1 各血液型のイメージ(N=197)

回答\血液型

A O B AB 合計

几帳面

111 0 0 0 111
神経質 77 1 1 3 80
真面目 54 0 0 3 57
おおらか 0 90 1 0 91
大ざっぱ 0 25 4 0 29
おっとり 0 16 1 0 17
明るい 4 16 38 1 59
マイペース 0 8 33 1 42
個性的 0 2 23 6 31
いい加減 0 0 17 0 17
わがまま 0 2 12 1 15
自己中心的 1 3 11 0 15
楽天的 0 8 10 0 18
面白い 0 2 10 1 13
二重人格 0 1 0 77 78
二面性がある 0 2 18 64 84
変わり者 0 0 1 13 14

よく分からない

0 0 0 12 12

 つまり、対象となる血液型によって「知識」の正確さ(?)が違ってくることになります。

 別な論文も紹介しておきましょう。(松井豊・上瀬由美子 血液型ステレオタイプの構造と機能 聖心女子大学論叢 93ページ H6)。

坂元(※1)は、各血液型のイメージを性格に関する20の形容詞を用いて検討している。その結果に基づき坂元(※2)は、血液型ステレオタイプの構造を、内向−外向・協調性−非協調性の2軸から成るものとして考察している。すなわち各血液型の性格は、A型が「内向的で協調的」、B型が「外向的で非協調的」、O型が「外向的で協調的」、AB型が「内向的で非協調的」とイメージされていることを指摘している。ただし、坂元が用いた性格項目は、能見との記述が明確ではない。

※1 坂元章 対人認知様式のABO式血液型性格判断に関する信念 日本社会心理学会第29回大会発表論文集 52〜53ページ S63
※2 坂元章 血液型ステレオタイプの構造と知覚の歪み 日本社会心理学会第32回大会発表論文集 292〜295ページ H3

 もっとも、どちらの論文も持っていないので、完全な確認はしていません。せっかくの機会なので、渡邊さんの論文も紹介しておきます(笑)。同じく松井・上瀬論文からです(同93ページ)。

佐藤・渡辺(※)は、血液型ステレオタイプの内容は、もはや能見や古川のものとは離れ、それぞれの血液型について核になる特性が存在し、それを中心に全体の内容が形成されていると指摘している。ただし、彼らの指摘は回答者の自由記述を分類する形の分析結果に基づいているため、数量的・客観的検討が不充分と考えられる。

※ 佐藤達哉・渡辺芳之 心理学評論 第35巻 234〜268ページ H4

 残念ながら、この論文も持っていないので、完全な確認はしていません。(^^;;

 結局、現在のステレオタイプは、「もはや能見や古川のものとは離れ、それぞれの血液型について核になる特性が存在し、それを中心に全体の内容が形成されている」ことになり、それは『A型が「内向的で協調的」、B型が「外向的で非協調的」、O型が「外向的で協調的」、AB型が「内向的で非協調的」とイメージされている』ことになります。これは、佐藤さんのデータにもちゃんと合っていることがわかります。

 お次は、渡邊席子さんの論文のポイントです。

血液型と性格に関する知識と確信度の関係(表Cより)

区 分

知識問題の正答率
(最低:0 全問正解:1)
大きいほど知識がある

自分の血液型のものと
判断した性格特性の確信度
(正:あてはまる 負:あてはまらない)
→大きいほど自分にあてはまる
正確な知識がある

≧.75 (n=38)

.90 (SD=.96)

≧.72 (n=46)

1.05 (SD=.93)
正確な知識がない

<.75 (n=56)

1.32 (SD=.91)

<.72 (n=48)

1.34 (SD=.94)

<.65 (n=35)

1.48 (SD=.84)

 つまり、血液型と性格についての正確な知識がある人ほど、多くの性格特性があてはまると感じていることになります。ただ、確信度はさほど高くありません。逆に、正確な知識がない人ほど確信度は高くなるようです。

> つまり,血液型の「いいかげんな知識」は性格と関係があるけれども,「正確
> な知識」は性格と関係がない,ということです.これは「実際には血液型で性
> 格はわからない」という証拠だというふうに「考えることができると言っても間
> 違いではないだろう」(笑).

> 上記はもちろん「ジョーク」で,これについて議論する気はないですが,おそら
> く論理的にも心理学的にも正しいだろうと思います.

 もちろん「ジョーク」と信じています(笑)。理由は今までに説明したとおりです。

 読者のために再度説明しておきましょう。多くの人は、O型はおおらか、A型は神経質、B型はマイペース、AB型は二重人格という「知識」を持っています。そして、これは事実とは少し違っているので、「血液型性格判断」の本を読むと違和感が湧いてくるわけです(笑)。だから、ぜひ能見さんの本を読みましょう!

> 血液型性格ステレオタイプはあるが,その内容は個人によって大きく異なる.
> だから性格一般についての評定について多数の被験者の評定を平均した場
> 合,それぞれの評定がステレオタイプの影響を受けているとしても,一貫した
> 傾向は見いだされにくい,ということになります.

 以上の説明のとおり、ある程度の「一貫した傾向」が見出されることになります。それは、渡邊さん自身も自分の論文で言っていることです。つまり、坂元さん以外の心理学者の論文は間違っていることになります。

 さて、最初の仮説の検証に戻ります。こんな検証はまだまだほんの小手調べで、血液型のデータについては入手可能なもの(心理学者のものだけでも数十種類)については全部チェックしています。そして、私の仮説はその大多数にあてはまるように組み立てているのです(例外はゼロとは言えませんが…苦笑)。最終的な結論を得るために、ああでもない、こうでもない、と何回も仮説を組み立て直しました。これの何が問題なのでしょうか?

 私の仮説は、もう大幅には変わらないとは思いますが、必要があれば改訂は随時していくつもりです。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その28)追記

 まず、本文をちょっと訂正しておきます。(^^;;

 テレビゲームと成績の相関のところで、「ランダムサンプリングして相関を計算するなんて論外」と書きました(笑)。言葉どおりに解釈して誤解する人がいると困るので、ちゃんと書いておきます。(^^;;
 私は、別にランダムサンプリングそのものは否定していません。ランダムサンプリングをすればいいに決まっています! ただ、ランダムサンプリングさえすればOKとばかり、次のような要因を無視して結論を導くのはいけない、と思います。

  1. ゲームの種類と成績の相関…アクションゲームとRPGでは差があるかなど
  2. 男子と女子とで差があるか…例えば、男子はアクションゲームが好きだが女子はRPGが好きなのかなど
  3. テレビゲームは本当に「癒し」の効果があるのか…香山リカさんの本を読むなど
  4. ゲームマシンと成績の相関…

 それから、行動と認知の関係です。渡邊さんは、行動のデータを分析すれば血液型と性格に関係があるかどうか検証できるとのことでした。しかし、メール(その27)では、行動にも認知が関係しているかもしれないと…。つまり、行動にも「血液型ステレオタイプ」が影響を与えることになるはずです。ところが、その分析方法はというと、

>> もしそうだとすれば、どのような方法で分析すればいいのでょうか?

> そんなこと,知りませんよ(笑).分析したい人が自分で考えたらいいことでしょうね.心理学
> 者なら分析方法はすぐに思いつくでしょう.

 ということですから、少なくとも渡邊さんの方法では「血液型ステレオタイプ」の影響が避けられないことなります。これじゃあ、能見さんが500万円出さないのは当然じゃないですか(笑)。

メール(その29) H12.3.4 9:33

ABOFANへの手紙(29)


やっぱりサービスはやめて終わりにしておけば良かったですね(笑).かえって無駄な議論が長引いてしまった.今回の内容も基本的には「前に説明したことのまとめ」です.

30で終わりにしますので今回も「返事への返事のみ」にします.またABOFANさんは「よくわからない」と言うのでしょうが,これらについての説明は繰り返しません.


1.ちゃんと読んでください

>> まず原則論から言えば,データというのはあくまでも仮説を検証するためにあ
>> るもの(仮説が先にないデータはありえないということ)で,データに合うように
>> 仮説を何回も立て直すというのは邪道ですね.
>
>  なんで邪道なのかわかりません。そうなると、地動説や相対性理論は邪道なのでしょ
> うか?

流れは「データ→次の仮説→次の仮説を検証するデータ」であって,次の仮説が前のデータを説明することは「次の仮説の検証」にはならないよ,という意味です.データから立てられた「次の仮説」は,前にあったデータ「以上のこと」を説明できなければ正しいとはされません.立て直した仮説で前のデータを解釈して説明できれば検証終わりでよければ,「前のデータ」の選び方次第でどんな仮説だって正しくなってしまいます.

> 時間がないのでしょうがないのでしょうが、この言い方はかなり手抜きですよ(笑)。
> 心理学ではどうなのか知りませんが、私はこんなやり方じゃ到底満足できません。だい
> たい、「(一般に)小学生はテレビゲームで遊ぶほど成績は悪くなる.」なんて検証し
> ても、面白くもなんともないじゃないですか。疑似相関も多すぎるし、テレビゲームの
> 定義もあいまいです。ましてや、ランダムサンプリングして相関を計算するなんて論外
> です(大笑)。

>  心理学ではテレビゲームがダメなことになっているのかどうか知りませんが、この仮
> 説が正しいかどうかは非常に疑問です。

そういう「論点ずらし」はやめましょうよ.私はデータと仮説の関係を説明するための例をあげたので,テレビゲームと成績の関係を論じようとしてるわけじゃありません.

>  それと、テレビゲームで成績が下がるなんて「俗説」じゃないですか(笑)。一昔前
> は、暴力マンガを読むとダメ、テレビはダメだとか、いろいろとありました。もう少し
> 時代を遡ると、戦前なら新聞がダメ、明治は小説がダメ…。つい最近は、インターネッ
> トがダメとかありましたね(笑)。さすがに最近は誰も言わなくなりましたが…。

これではっきりわかりました.やっぱりABOFANさんは私の手紙をちゃんと読んでくれていないんだ.私はちゃんと下のように書いてますよ.

> その結果,一般に小学生ではテレビゲームで遊ぶほど成績が悪くなることがわかった,
> とします(もちろんこれはウソデータ.現実にはこのふたつは関係ないか,むしろ正の
> 相関といわれます).

私としては「手紙」を毎回きちんと読んでくれることが一番の望みでした.しかしABOFANさんは私のペースに対抗して早く返事を書くことにかなり重きを置かれたようです.しかし,今から考えれば毎回原稿用紙50枚を超える文章を1時間か2時間で読んで,その日のうちに返事が書かれている時点で,もとの手紙があまりきちんと読まれていないことを想定するべきでした.どうしても自分と同じ仕事ペースを相手に期待してしまっていたのが私のミスでしたね.


2.血液型ステレオタイプの問題

> 「FBI効果」があるのがインチキの証拠ということならそうなります。そして、YG
> 性格検査では100%「FBI効果」が現れますが、血液型は80〜90%しか現れま
> せん。だから、血液型の方がまだマシということになります(笑)。いや、「FBI効
> 果」はインチキかどうかとは関係ない、と言うならYG性格検査も血液型もインチキで
> はありません。いずれにせよ、大部分の心理学者の論理は破綻しているのです。

何度も言いますが,そういう「大部分の心理学者」には私は入りません.また「心理学者の論理」が破綻していることが「血液型と性格に関係があるという証明」にはなりません.

それに,血液型の80-90%がFBI効果だとして,あとの20%は「真実」だと考える根拠がないでしょう.あとの20%はFBI効果以外の錯覚,ということもあります.その意味ではYGの方が「錯覚の構造」がすべて解明されているだけマシと言うことになるかもね(笑).

で,ついでながらYGの方がFBI率高いのは,調べられている例ではYGの方が説明文が長く,読み方の「遊び」が大きいからだと思いますよ.多分ね.


ABOFANさんはさかんに「今回の渡邊さんの論理はいいかげん」と言いますが,これはABOFANさん式の議論をまねて「いいかげんに書いた」だけで,その根本になる考えがいいかげんだとは思っていません.

>   お次は、渡邊席子さんの論文のポイントです。
>
>       血液型と性格の正確な知識がある人ほど、血液型だけでは性格が決まら
>       ないと思っている
>
>       血液型と性格の正確な知識がない人ほど、血液型だけで性格が決まると
>       思っている
>
>       血液型と性格の正確な知識がない人ほど、自分の性格が自分の血液型の
>       性格だと思っている

ABOFANさんはたしかこの事実を「血液型の正確な知識がある人は血液型だけで性格が決まらない(環境の影響もある)と知っているから」と説明していたように思いますが,この事実から実際にわかるのは,

血液型の正確な知識がある人の方が「各血液型の性格」をよく知っているが,それで人の性格が決まると思っていないし,自分の性格がそれにあてはまるとも思っていない.

ということだけです.この事実の説明として,最もシンプルに考えられるのは

   いいかげんな知識より詳しい知識の方が実際には人の性格と一致していない

でしょう? 事実からいくつかの仮説が導かれるときには,よりシンプルなものから順番に検証していくのがふつうだと思うし,シンプルな仮説が検証されていないのに複雑な説明(それも自分に都合の良いもの)を先に主張するのはズルだと思うな.

血液型性格学の説明にはそういうパターンのものが多いように思います.それに「背理法」がくっつけば,結局なんでも正しくなってしまうでしょう.

>  読者のために再度説明しておきましょう。多くの人は、O型はおおらか、A型は神経
> 質、B型はマイペース、AB型は二重人格という「知識」を持っています。
>
>  以上の説明のとおり、ある程度の「一貫した傾向」が見出されることになります。そ
> れは、渡邊さん自身も自分の論文で言っていることです。つまり、坂元さん以外の心理
> 学者の論文は間違っていることになります。

はあはあ,そういうことね.

それはステレオタイプを直接測定する(ことを目的とする)か「性格」を測定する(ことを目的とする)かで違ってきます.「O型はおおらか、A型は神経質、B型はマイペース、AB型は二重人格」と思うかどうか,という質問紙を作って調査すれば,そのステレオタイプが共有されていることはすぐに明らかになるでしょう.佐藤データでもそれは明らか.

「心理学者の論文」はステレオタイプを測定するのではなく「性格を測定」してそれと血液型との関係を見たもので,そこで「一貫した傾向」がでるかどうかは,その質問紙が「ステレオタイプ的」な項目を含むかどうかで変わるでしょう.目的が違うのだから間違いもくそもありませんよ.

「差が出ない」のは,その質問紙がステレオタイプを測定し損ねたからですが,もしステレオタイプ以前に「血液型で性格に差がある」なら,ステレオタイプには関係なく差が出るはずです.「心理学者の論文」は「性格と血液型との関係」を検証しているわけですから,間違いではないし,「血液型と性格に関係がない」というひとつのデータです.


3.対立する仮説があるときは...

それより,ABOFANさんは普通の人が持っている「O型はおおらか」みたいなのは「ステレオタイプ」で,「正確な血液型性格学を信じている」ことは「事実に基づく正確な認識」だというのでしょうか.

でも,あくまでも仮説として,以下のようには考えられませんか.

この2つはどちらもステレオタイプである.「いいかげんな血液型知識」ステレオタイプは世間の多くの人に共有され,またそれらの人々はその知識から自分や他者の性格もわかると思っている.「正確な血液型知識」ステレオタイプはごく一部の人たちだけに共有され,かつそれらの人々はその知識から自分や他者の性格がわかるとは思っていない.

従来の性格心理学も血液型も「自分や他者の性格に関する認知はある程度正確である」という前提を持っていますよね.それを否定したら血液型のデータのほとんどは無駄になりますね(確認!).また,類型や特性など「一般的に受け入れられた性格認知の枠組み」は相対的な信頼性を持つと考えますよね.

だったら,一番シンプルな結論として「正確な血液型知識」の方があてにならない,といえます.だって「自分や他者の性格の認知」と一致していないし,多くの人に共有されてもいないから.いっぽう「いいかげんな知識」は多くの人に共有され,自分の性格の認知とも一致しているから.

私は自分のこの「仮説」が正しいとはいいませんが,同じデータからでも,このようにABOFANさんの説と対立する仮説がいくらでも出てきます.「データを説明できる仮説」がいくつも出てきたときには,たとえば「仮説Aでは予想され,Bでは予想されない現象が起きるかどうか」という新しいデータを採らなければ,どの仮説が正しいかわかりません.

> さて、最初の仮説の検証に戻ります。こんな検証はまだまだほんの小手調べで、血液型
> のデータについては入手可能なもの(心理学者のものだけでも数十種類)については全
> 部チェックしています。そして、私の仮説はその大多数にあてはまるように組み立てて
> いるのです(例外はゼロとは言えませんが…苦笑)。最終的な結論を得るために、ああ
> でもない、こうでもない、と何回も仮説を組み立て直しました。これの何が問題なので
> しょうか?

「既存のデータの大多数にあてはまる」仮説は,確かに他の仮説より「妥当性が高い可能性」はありますが,それが本当に正しいかは「既存のデータには含まれていない,その仮説だけが予測・説明できる新しいデータ」によってしか検証されません.

ましてや,上で「思考実験」したように,同じ既存データからそれと対立する仮説も立てられる場合には,どの仮説が妥当かを知るためには必ず「新しいデータ」が必要です.

ミシェル(1968)が「ずるい」と言われたのは,それが「既存のデータの再分析」を中心にしていたからです.だから,相互作用論的な考え方が心理学に受け入れられはじめるには,ミシェルの分析を前提にした仮説がたくさん立てられ,それらが「従来の性格概念では説明できない現象」をたくさん発見するようになるのを待たねばなりませんでした.

ABOFANさんのように対立する仮説をほとんど検討せず,その上「既存のデータの大多数を説明すること」,あえて意地悪く言えば「既存のデータのうちからその仮説が説明できるデータだけを(選択的に)説明すること」だけを基準に仮説を「正しい」としてしまうことは,そういう点で間違っています.どんな仮説だって,それを支持するような「既存データ」のいくつかくらい,必ず見つけられるでしょうし,だからこそ仮説が提唱されるのだから.

何度も言っているように既存のデータから新しい仮説を導くことは間違いではないし,ふつう仮説はそうやって導かれます.しかし「新しい仮説」が正しいかどうかは,それが既存のデータを説明できるかどうかではなく(できて当たり前でしょう?そのために仮説を立てているのだから),その仮説だけから予想されるような「新しい事実」に関するデータによってしか判断されません.

天動説だって,相対性理論だってそうだったのではありませんか?

だから,前から何度も言っているように「血液型と性格」の議論に決着をつけるには,「既存のデータがこう説明できる」みたいな話だけではなく,「血液型では説明できて,性格心理学では説明できない現象」をはっきり予測し,それを検証するという「新しいデータ」が必要だし,その新しいデータを示す「義務」は血液型性格学の側にあるのです.

心理学者のデータを使ってあーだこーだ言うだけというのはまったく姑息ですよ.これ,議論のずっと最初,「立証責任」のところで話しましたよね.

議論も振り出しに戻ったことですし,次回は本当にまとめます(笑,ではない).

メール(その30) H12.3.4 15:58

ABOFANへの手紙(30)

ついに「予言通り」の30通目になりました.私の手紙もこれで終わりです.議論を終えるにあたって,まとめとして書いておかなければいけないと思うことを書いておきます.


1.「血液型性格学」という「仮説」について

何度も書いているように,私は「血液型と性格に関係がある」あるいは「血液型で性格がわかる」という考えには反対ですし,この議論を終えてもその意見にはなんの変化もありません.また,私から見ればこの議論で明らかになったのは血液型側が「関係の証拠」と主張していることのいいかげんさ,不十分さだけでした.

しかし,ABOFANさんも繰り返し主張されるように,また科学的検証の論理から言っても「血液型と性格に関係がない」と言うことはできません.とはいえ血液型の「証拠」は科学的検証を経て「関係がある」というにはまったく不十分ですから,結論としては「関係があるともないともいえない」ということだし,そういう場合心理学者の「公式見解」として「はっきりとした関係はない」と表明することにはなんの問題もないと私は自信を持って言えます.

この議論を通じて明らかになった「血液型性格学」の問題点としては,

  1. 仮説と検証の区別がうまくできていない.とくに「仮説として有効」であることと「仮説が検証されること」を混同している.
  2. 仮説のもとになる「予備データ」と仮説を検証するデータを混同している.その結果検証の論理が循環論(注1)になっている.
  3. 「血液型と性格の関係」の検証の論理として「関係の証拠が十分ある」という科学的なものと,「証拠がひとつでもあれば関係ないとは言えない」という素人的なものが混在し,区別されていない.
  4. 統計を使いこなしているように見えるが,その用法は表面的で,技法の基本的な前提などはほとんど理解していない.

などがあります.まあ普通の心理学者が血液型を批判してる内容とそれほど違わないのですが,血液型性格学を主張する人とのこれだけの議論を経て,それを受けた上でこれを言っている,ということが重要です.それに,上記のことを言う論拠はすべてここまでの議論の中に明示されています.

「血液型と性格とは関係がある」という仮説自体は反証可能だし,十分に科学的な仮説だと思います.しかし,これまで血液型陣営が示してきたデータはごく部分的なもので,その仮説を提唱するための「予備データ」としては十分でしょうが,そこから「仮説が検証された」とはとうてい言えません.

「関係がある」とはっきり結論するためには,やはり一般化できるデータを伴ってそれが証明されることが必要です.またABOFANさんが何度か主張されたように,その関係がそれほど「一般的」でなく,「本来限定されたもの」であるとしても,その関係が生じる「条件」が明確に確定されて,関係の生起と不生起が予測できるようになることが,最小限必要であろうと思えます.

それらが現在の段階で検証されているとは,どうひいき目に見てもいえません.ですから,血液型性格学は現在のところあくまでも「仮説にすぎないもの」です.

今後心理学者が「血液型性格学」を批判していくときには,相手側のこうした弱点をきちんと指摘していくことが有効でしょう.大村先生のように「血液型側のデータを批判する」だけというようなスタンスでは,こうした根本的な問題があいまいになるし,表面的な「統計テクニック」で誤魔化されることもあるでしょう.

もちろん,そうした「弱点」のいくつかは性格心理学も共有しているものです.性格心理学があくまでも血液型を批判するのであれば,自分たちの中にある「非科学性」もきちんと精算して行かなくてはならない.私がむかし「科学朝日」のインタビューの中で述べた「血液型は心理学を映す鏡である」というのは,そういう意味です.


(注1)循環論  トートロジー.同じことを2回言っているに過ぎない説明のこと.ここでは,あるデータを説明できるように立てた仮説からそのデータを遡及的に説明し,それで仮説を検証したと言っていることを指す.


2.なぜ議論をはじめ,続けたのか

私がこの議論をはじめた頃,何人かの心理学者がメールなどで「あんな議論無駄だからやめておけ」と忠告してくれました.その内容はだいたい以下のようなものです.

  1. 科学的論理が根本的にわかっていない人と科学的な議論をすることは不可能である.おまえは科学的論理をABOFANに教えるつもりか?
  2. これまでの心理学者との議論を見ても,ABOFANは「ダブルスタンダード」(注2)であって建設的な議論にはなりっこない.
  3. ああいうやつをお前みたいな奴が「ちゃんと相手にしちゃう」からつけあがるので,無視しておくほうがいい.

まあある意味でどれも(3を除く)ある程度もっともな忠告だし,ほんとにそうだったかな,と思う部分もあります.しかし,私はやっぱりこれらの忠告のような考え方は心理学者としては間違っていると思います.

つまり,これらの考え方は基本的に「素人には言ってもわからないから議論してもしかたがない」「科学者は科学者同士で話をしている方が建設的だ」ということになります.

こうした考え方にも一面の真実があることは,ここでの議論の経緯を見ても明らかでしょう.私たちは具体的な議論以前の「基本的なものの考え方」でまったく一致できず,私は「議論の前提になる考え方」自体の説明に,実質的にここでの議論の大半を費やしました.これは私にとっても大変な労力であったし,また「職業科学者」でもないのにそうした論理の理解や習得を求められたABOFANさんにとっても苦痛であったでしょう.

しかし,もしそうした努力が無駄で,やらない方が良いものだ,というのであれば,「心理学の教育」はどういうことになるのでしょう.私はもちろん研究も好きですが,「心理学を教育する」ということにも日頃から強い興味と楽しみを覚えてきました.

心理学者の中には大学に勤めていても研究だけにしか興味がなく,講義や実習などの「教育」は「苦痛を伴う労働」としか見ていない人も多いと思いますが,私は全然そうではなく,講義や実習などを行なうのは楽しいし,どうやって学生さんに心理学の知識を伝えるか,などの問題を考えたり講義を工夫したりするのが大好きです.

一般的にいって大学でこれから心理学を学ぼうとする学生さんが心理学についてのきちんとした基礎知識を持っていることは稀ですし,また「科学的な論理」が身に付いていることもありません.少なくとも日本の高校までの教育では「科学技術の知識」は教えるけれど「科学的な思考と論理」は教えないからです.

私たちはそういう学生さんたちに心理学を教えるとともに,心理学の基礎になっている「科学的思考」を教えなければなりません.しかし,基礎知識や知的能力の点でも,もちろん熱意の点でも,大学で心理学を学ぶ学生が平均してABOFANさんより上であるとか,まともであるということは「まったく絶対に」考えられないでしょう.

そのとき,ABOFANさんに説明できない,ABOFANさんに教えることができないようなことで,どうして学生には「心理学の知識」と「科学的思考」を教えることができるのでしょうか.どう考えても,ABOFANさんに説明し,教える方が楽なはずです.

それが面倒だから,手間がかかるから自分はABOFANとは議論しない,無視するという心理学者は,学生にいったい何を教えているのでしょうか,また,教えることができているのでしょうか.ABOFANさんに説明できないことは学生にもぜったい教育できません.

単に学生はわからなくても先生の話を黙って聞いている,あるいは納得できなくても「大学の先生」の権威で「そういうものなんだろう」と表面的に納得しているだけ,単位さえ取れればいいから納得できないことでも内容は暗記しているだけです.心理学者は実際にはそういう学生に「何も教えていない」のです.

でも学生は何も言わないから多くの心理学者はそれに気づかない.「自分たちだけが納得している科学的論理」に基づいてただ漫然と講義をし,それで学生は「基本的な論理」もとうぜん理解していると思っているわけです.しかし学生たちは一番大切な「科学的論理」については何も学ばないまま卒業していく(これは理系学部でも同じだということもわかりました).

ところがABOFANさんは「わからないことはわからない」とはっきり言う.それで心理学者たちは(もちろん私もふくめて)「なんでABOFANはこんな基本的な論理がわからないのだ」と驚く,そして多くの人は「こんな基本的な論理もない奴とは議論できない」といって議論をうち切って行くわけです.

しかし,私はそうしなかった.それは,ここでABOFANさんときちんと議論すること,きちんと説明することが,同じことを学生さんに教育するために必ず役に立つと思ったからです.現実に,

については,私はこれまで大学で教えたことは統計に関するごく一部を除いてありませんでしたし,自分の持っている「常識」を人に教えられるほどきちんと論理的に整理したこともありませんでした.

でも,今回の議論のおかげでそれらはきれいに整理され,そのうえ「それを学ぶものがどこを誤解しやすいか,どこが理解しにくいか」まで,かなり詳しくわかりました.

これからの心理学教育は「心理学の知識や技術を教える」ことよりも「心理学的なものの考え方を教える」ことが重要になると思います(注3).その点でここでのABOFANさんとの議論は「心理学教育を考える」上でとても役に立ちましたし,私は実際の教育にもすぐに役立つ枠組みや説明技法を学ぶこともできました.

それは,ABOFANさんが「わからないものはわからない」と言いながらも,基本的には私の説明に根気よくつき合ってくれたことによる成果です.この点は私はほんとうにABOFANさんに感謝しています.

さて,

 3. ああいうやつをお前みたいな奴が「ちゃんと相手にしちゃう」からつけあがるので,無視しておくほうがいい.

という「忠告」についてですが,私はその通りならなおさら無視してはいけないと思います.ABOFANさんみたいな人に「どんどんつけあがってもらった」方が,心理学やわれわれ心理学者のためには圧倒的に勉強になるからです.

まあそういった点で,私は「議論をうち切った心理学者」とは違うし,そのおかげで私だけがいろいろ有意義なことを手に入れることができた,ということです.


(注2)ダブルスタンダード  議論の決着についての基準を複数持ち出すこと.ある問題についてある切り口から議論しているときに自分に勝ち目がなくなると,勝手に切り口を変えたり前提を変えてしまったりして,議論のテーマをずらしてしまうようなことが典型的な例.

(注3)これからの心理学教育  その点でも心理学教育を「職業的技術の教育」だけに貶めてしまう「臨床心理士養成への特化」には私は大反対です.今までよりもっと「アホなカウンセラー」が増えるだけです.


3.「素人」と「専門家」について

以下のことは最大素数さんの非常に重要な問いと関係しています.心理学者の友人からの又聞きですが,社会学者の上野千鶴子さんは,

 「学者が素人と論争するということ自体がひとつの差別である」

という意味のことを言っているそうです.つまり,


学者が論争しようと思うような問題については学者の方が最初から圧倒的に多くの知識を持っているに決まっているし,また追加的に必要な知識へのアクセスにおいても学者の方が圧倒的に有利である.だから最初から不公平だ.

そのうえ,そもそも学者は「自分の方が勝てる」と思うようなテーマでしか素人と論争しないであろう.その結果,こうした論争は多くの場合素人が打ちのめされて終わるし,そのことは学者の権威を不要に高めるだけで,その学問についての一般的理解の育成にも何ら役立たない.つまり,学者しか得をしない.

だから,素人とはむやみに論争しない方がむしろ誠実である.


ということだと思います.確かにそうかもしれません.血液型と性格という問題は最大素数さんもいうように「現状心理学が想像以上に"へたれ"っぽい」(笑)ということもあって「偶然」心理学者がやたらに有利にはならない場面が多いというだけで,科学的論理や検証の問題とか,とくに「統計的推測やランダムサンプリング」などのわりとハードな問題ではやっぱりABOFANさんは(あるいは最大素数さんも)まったく腰砕けになっちゃうわけです.

統計的検定の話を私が早く切り上げたがったのは,その直前に上野さんのことばについて教えてもらっていたからです.

今回の議論でもっとも後味が悪いのも,この部分です.私の書いたものを読んでみると,最大素数さんのおっしゃるとおり私は「学者」を宣言してみたり,「対等な議論」を宣言してみたりで,まったく一貫していません.

ただ,言い訳をさせてもらえば,たとえば私が最初の「学者」スタンスをあくまで崩さなかったら,それは「専門家が素人に本当のことを教えてやる」という形にしかなりようがなかったのではないでしょうか.それではABOFANさんとの議論は,根本的なところで成り立ちません.

手紙(5)くらいで私の意見表明が終わって(笑),ABOFANさんが本格的に「わからない」と言い出したときに,私としては「基本的な検証の論理は一方的に教えざるを得ないけれど,それを教えて理解してもらったら,その土俵の上では対等に議論する」というちょっと変則的な進め方をしようとしました.

まあそれがうまくいったか失敗だったかはわかりませんが,議論がここまで続いた(続けることができた)のはその方法のおかげだと思っています.したがって私が「学者モード」になったり「対等モード」になったりしたことも無意味ではなかったとご容赦ください.

なんてことも,結局「こっちは全部わかって戦略的にやっていたのだ」と言っているようにとられるかも知れませんし,たとえば私が他の心理学者にはそのように言って「強がる」ことも可能でしょう.しかし,私はそれほど冷静に議論していたわけではありません.

とくに論理や統計の基本的なことに対するABOFANさんの「問い」は,どれも私にとっては「衝撃的に意外」でした.自分の常識を否定されるような問いに,どうしてこんなことがわからないの,どうしてこういう問いがありうるの,とビックリし,どう説明して,どう納得してもらったらいいかと毎回毎回悩み苦悶しながら手紙を書いていました.

だから,ある意味(お互いに相手の出方は読めなかったという意味)では対等だったわけで,私がそんなに有利だったり,最初から勝ちを見越していたとか言うわけでもありません.

「勝ち負け」という点で言えば,心理学者はみんな私が勝ったと思っているらしくて,お祝いメールみたいのがあちこちからくるのですが,普通の目から見たらどうだかわからないし,ABOFANさんはまさか自分が負けたとは思っていないでしょう?

まあ心理学者が読むことを想定して書いていたことも確かですが,心理学者から誉められたところでうれしくはありません.だって,もともと同じ前提で話をしている仲間ですから.

その「前提」がどのくらいABOFANさんに伝わったか,あるいは普通の読者が「科学的検証」とか「統計的推測」とかいう「考え方」をどのくらい理解してくれたかといえば,あまり役には立たなかったかな,とも思います.せいぜい「これまであまり考えたことのない心理学者」に自分のやっていることの仕組みを理解させた程度のことかもしれません.

それでも,この議論でどっちが得をしたかといえば圧倒的に私で,それもなんか後味が悪い理由です.前にも書いたように私はこの議論から「教育者」としてたくさんのノウハウを手に入れてしまったし,これを読んだ心理学者からは誉められる.

そのうえこれが本や論文にでもなれば私は学者としての「業績」を手に入れる.まあせっかくこんなに書いたのですからこのままにしとくのはもったいないのでなんとかまとめて出版しようとは思っていますが,それがなにかABOFANさんのためになるとも思えません.

結局自分だけが得をしてしまった,という感じが強いのです.だからこれ以上不公平にならないうちに早くやめたいという気持ちと,もうすこしABOFANさんの疑問に答えた方が良心的かという気持ちが入り交じって,ここ数回のはっきりしない展開になってしまいました.でも,それももうおしまいです.

そういうことを考えると,今後また同じようなことがあったときに,自分がまた「素人」との議論に進んで参加していくか,というと,かなり疑問です.どうも最近どこかのネットの有名フォーラムで「人間の発達には環境より遺伝を重視すべき」とか「環境を見てもしょうがない」とかいう議論が盛り上がってるらしく,そんなアホな話許せないのですが,でも,今度はほっておこうかな,と考えてしまう.

ただ疲れているだけかも知れないけどね(笑).


4.お礼とお別れのことば

いずれにしても,これまでずっと議論につき合ってくれたばかりでなく,お仕事忙しい中ほぼ毎日HPを更新し続けてくださったABOFANさんに心から感謝します.本当にありがとうございました.個人的なメールでのやりとりも楽しかったです.今後のご健康とご発展をお祈りします.

最大素数さんもありがとうございました.議論が平行線になってるときに最大素数さんのメールが突破口になるときがあって助かりました.どうかお元気で.

また,討論を読んでくださった心理学者以外の方々,どのくらいおられるかわかりませんが,本当にご苦労さまでした.私の文章がわかりにくかったり,長すぎたりしたせいでご迷惑をおかけしました.この議論に興味を持たれたようでしたら,血液型関係に限らず,ここにあげた参考文献や心理学のいろいろな本などにもぜひ目を通してみてください.実際の心理学はここでの議論ほど深刻なものではないし,面白おかしい部分もたくさんありますので.

さて,心理学者の皆様.「渡邊が勝ったからこの話はこれで終わり」ではありません.結論は何も出ていないのです.ここに私が書いてきたようなことを心理学者全員がきちんと考えて,意識していかなければ21世紀も心理学は「へたれっぽい」ままだし,本当の意味での「心理学教育」だってできません.本当はいちばん深刻に考えなくてはいけないのは血液型陣営じゃあなくて,心理学そのものであり,心理学者なんですよ.

それではみなさまお元気で.さようなら.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(とりあえず…)

 本当にどうもありがとうございました。正式な返事はこれから書きますのでお待ちください。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その16) H12.3.6 22:42

1.最後のレス

> それは「科学少年」性みたいなものです(ABOFANへの手紙(26))

だからあ、少なくともわたしは、初めっからずーっと「(心理学)素人」なんですってばっ(笑)。

> 「関係あるかどうか,確かなことは言えないにしても,とっても興味深いし,あったら面白いし,考えるとわくわくするじゃないの,そういう楽しさをなぜ一生懸命否定するのよ」(ABOFANへの手紙(26))

こういう「まとめ」には「悪い意味でも,バカにしているわけでもありません」という断り書きとは裏腹の若干の「悪意」を感じます。
これでは単に「あるか無いか解らない以上あるかもしれない」と"駄々"をこねているみたいです。
何の根拠も手がかりもなく「あるか無いか解らない」と言っているのではなく、「不十分な証拠」や「仮説」を起こし得る"原データ"があるじゃないの、ということです(少なくともわたしは)。
何の兆候も認められないけれど「原理」的にあり得る以上"有る"、ということでもありません。「原理」的にあり得る以上、そうした「不十分な証拠」は、兆候かも知れないじゃないの、ということでもあります。
後段では

> 「血液型と性格」だって,・・・,それを仮説として提唱することにはなんの問題もありません.

と、それなりに解ったようなモノ言いをしていますので、余計に"若干の「悪意」"を感じてしまうわけです。
「なぜ一生懸命否定するのよ」と受け取られたなら、わたしがそう問うているのは、「可能性」のこととご理解頂きたく思います。

なんてね、一応言うだけは言っとかないとね。
あのね、それは少年の夢とかいうような次元の問題では無いと思いますよ(笑)。

> 私も心理学をぜんぶそういうふうにやりたいです(これは皮肉ではありません)

やりなさいよぉ、どうしてできないのぉ、わたしらの仕事ってそんな風ですよぉ。
"厳しさ"それ自体に"楽しみ"を見つけられないで、研究とか開発とかって出来ないんじゃあないのぉ?ノリ出してほっておくと、とことん"追究"してしまうので、商売ショーバイと歯止めをかけて、客先仕様に収まったところで切り上げるのが「プロ」の手腕&泣き所なわけです。
つまり、そういうことは個人の「資質」の問題なんじゃないでしょうか。体質か環境のせいかはさておいて(笑)。

2.あくまで「素人」として

2.1.「素人」として一言

> しかし「科学という社会的営み」の中でなにかが「科学的事実」として認められるか,という話になると

心理学って、「科学という社会的営み」の中で「科学的事実」として「認められ」た「なにか」があるのですか?
で、もう一度。
勿論そんなことは、部外者しろーとの知ったことではありませんけど。

2.2.「素人」の思惑

正直に言えば(ま、ミエミエだったと思いますが・笑)、この議論は初めっから相当にやりにくかったです(笑)。

その殆ど唯一の理由は、渡邊さんが"反"性格心理学(及び心理学の「パラダイム」変換)の立場を表明していたことです。わたし、これまでの「ABO FAN」へのメールでも度々性格心理学をこき下ろしてきているように、そういう方向では"盛り上がって"しまいそうでしたが、そこで、渡邊さんの主張である「"同様"に血液型もダメ」と区別して議論できるほどの根拠は持っていなかったからです。このポイントは「通状況的一貫性」の問題なわけですが、「首尾一貫性」との関係・違いなど、実は今でもよく解りません(笑)。
また一方、わたしは「専門家」にはまず「訊きたい」こと、「確かめたい」ことがあって機会を窺っていたのですが、渡邊さんは最初に「専門家が素人に講義する、というようなことはしない(要約文責・最大素数)」と宣言されていたので、これは出番は無いかなあ、と思っていたのです。ま、結局こうしてやり取りしてしまっていますが(笑)その経過については先に述べました。

しかし、そうした「宣言」にも拘わらず、渡邊さんにはいろいろと教えていただきまして、これは本当に感謝しています。

ご教示其の一:クレッチマー説(理論)について、日本の心理学会(界)はなんの検証もしていない。
ご教示其の二:「質問紙」については相当の研究があり、学部では「心理測定学」としての講座がある。
ご教示其の三:人間の精神活動を、項目の得点として数量化することで、統計処理による評価が可能である、というアイデアについての言及はない。

「其の一」「其の三」については、ああやっぱり、という感じでしたが「其の二」については意外でした。YG性格検査の質問項目の"イイ加減さ"から、そんな研究が行われているとは思っていませんでした。
「基礎」研究は盛んだが、実践への応用等はまだまだこれから、ということにしておいてあげましょう(笑)。

2.3.「素人」の感想

「性格心理学も血液型もダメ」という渡邊さんのスタンスを踏まえると、「ABOFANへの手紙(26)の2.じゃあどうだったらよいのか」の「検証の段階」論議もなかなか興味深いものがあります。
この議論に対しては、どうしたって「そこまでお判りならなんでそれでクレッチマー説を"検証"してないの!?」と言わざるを得ませんものねえ。(「現在心理学者としての検証」と断っての上でですからなおさらです)
特に「仮説1」から「検証1」へ進むための「不用心さの指標の完成」という作業、これ、例えば「のんきさの指標」といったことでそれなりに"実績"があるんでしょうねえ。ですから、こうして得られた指標は多分YGなみの信頼性を持つことでしょう。
手順としてはなるほど確かに「専門家」の仕事だなあ、と感心してしまいました。特に、わたしら「モノ(誤解を恐れずにいえばソフトウェアも)」相手の場合は、「確認」は「(何らかの)確定」に繋がらなければ意味が無いことが殆どで、検証の段階が「(関係の)推定」の確認にならざるをえない場合の検証の進め方は大変興味深いものがありました。
で、まあ、余計思うわけです、性格心理学って・・・と。

これに関しては又別に思うところが有りまして、結局「現在心理学者としての検証」だけかい、ということです。
読み返して頂ければ確認できますが、わたしは実は「うっちゃられ」と「不用心」をそれほど肯定的に取り上げて来てはおりません。本当は「うっちゃられ」という「行動」は行動学的にはどういうことなのか、という辺りの話しを聴きたかったのです(させたかった?笑)。ストレートに訊いては「講義するつもりは無い」と一蹴されて終わりそうだったので、ま、いろいろ絡んでみたのですが失敗しました。「うっちゃられと不用心」についてあんな丁寧な解説を頂けるのだったら質問してしまえば案外説明してくれたのかなあ(笑)、とか、あれは"流れ"でああなっただけで直截的な質問ではやっぱりダメだったかも知んない(笑)などなど、ちょっと未練。
「うっちゃられる」という"意に添わない"「行動(出力)」は入力としての「環境」からどのように説明されるのか、そして更に「うっちゃられる」という「行動の予測」ってあり得ないと思うのですが、その辺どうなのかなあ、なんてね、ま、いろいろあったのですが残念でした。

「うっちゃられ」と「不用心」の件と同様、わたしは言ってないのに言ったことになってしまっている件がありまして、それは、わたし自身はクレッチマー説を否定したりはしていなかったということです。わたしが否定的に取り上げたときは常に「精神医学会・界なり心理学会・界は否定する傾向に有るようだがそれならば」という限定での話しです。わたしはクレッチマー説も血液型同様、「仮説の段階」ではないかと考えています。議論とは関係ないんでほっておきましたが、最後ですので一言申し述べておくことにしました。
しかし、なんで性格心理学は「検証」しないんでしょうねえ、ホントに。「病前性格」って発想はかなり面白いとおもうんだがなあ(「科学少年」の夢?笑、「素人」考えなんだってばっ・笑)。

3.血液型と性格

最後にこういう話しもなんなのですが、わたし自身のまとめ、ということでわたしの考えを述べておきます(基本的には、これまでこのサイト宛のメールで書いていたことと同じです)。
わたしは原理的に関係ある筈、と考えています。
一応わたしの「専門」に拘って(笑)、電子部品の話しをしようと思うのですが、「モノ」を例にあげるのは実はかなり危ういところがあります。「モノ」の性質を言うと、殆どの場合その良し悪しという評価がついてきてしまうのですが、人間の性質の場合、それは差別になってしまいます。そういうことで、あまり踏み込んだアナロジーに展開するつもりはなく、イメージ程度で勘弁していただきます。
コンデンサーという部品は「蓄電器(素子)」などと訳されたりしてた時期もあったように、もともとは電荷を溜めることができる、という性質が注目されていました。これが、回路理論の発達とともに「回路部品」として、交流のみ伝達する素子、直流をカットする素子としても性質を考慮されるようになってきました。同時に、"電荷の溜め方"としていろいろな材料が試され、それぞれの需要に応じた性質のコンデンサーが実用に供する"商品"として流通するようになってきたわけです。かなり大雑把に分ければ五種類程度、それなりにわけたら十数種類(あ、この辺の感覚は"同業者"から異論が出そう・笑)程度になります。
さて、そうした一般的な性質の他に、過負荷状態での"破滅"の様態も、その材料によって違います。華々しく"爆発"するもの、炎を上げて燃えるもの、ピチッと鋭角的な音をたてて割れるもの、異臭を放って死に至るもの、などなど。しかし、こうした性質は、確かにコンデンサーの性質なのですが、回路部品の性質とは関係無いので、通常の設計・部品選択では殆ど考慮されません(そういう意味では破壊後回路的にショート状態になるかオープン状態になるかは重要な場合があります)。また、製品の性質・機能検査など、外部からの観測でも判りません。

わたしの血液型と性格の関係のイメージはそういう感じです。
つまり、血液型がそれなりに意味を持つ、その影響が現れる場面は限られているかもしれない、と。しかし、例えば力士の「うっちゃられ」場面(ホントに不用心?笑)程度にはあり得るのではないか、と。そういうことです。
通常の生活で、血液型による違いが観測できるかどうかについては懐疑的です。
特に、相性については、渡邊さんは、ABOFANへの手紙(18)で

> あえてもっと正直に言ってしまえば,私は日常生活ではけっこう血液型を
> 信じているところもあり,好きな女の子ができたらその血液型を必ず聞き
> ますし,一般的にいって自分の血液型と相性の悪いものだったらがっかり
> します.

と仰っており、これには本当にビックリしたのですが、わたしは殆ど信じていません。渡邊さんとは逆に、日常生活では、「○型と□型は相性が良い・悪い」などという話題に出くわすと、「血液型で相性の良し悪しはわからないよ」と、たしなめてしまう方です。相手がそれなりに話しが解りそうな場合は「血液型と性格に関係があるとすれば、後付で、うまくいった理由、いかなかった理由を説明出来るかもしれないけどね」程度の補足をすることもあります。
最近は、否定するにしても肯定するにしても、A型氏は極端に走るような気がしてまして(あくまでも印象でっす・笑。そういう意味では仮説としては認めるというA型は渡邊さんが初めてです)、相手がA型と判ると「信じないように」と言うことにしています。闇雲に肯定されてなんでも血液型で判るように思ったり言いふらされたりするよりは、関係なんか有るはずないっ、という方向で頑なになったほうが、本人のためにも"公共の福祉"という観点からも有益の筈、という理由からです。・・・気がついたかも知れませんが、これって結構「差別」的ですけどね(笑)、ま、言ってるほどのことはしてません、ということで。

ともあれ、日常生活に影響なかったら意味ないじゃん、という立場はあると思いますが、わたしは意味有るモン、という立場なのです。

4.「科学」

初めにちょっとした違和感を覚えたのが「ブラックボックス」が話題になったときでした。
その次が「科学者対素人」という対比で語り出したときです。
で、その"違和感"が何だったのか、漸く「言葉」になったのが、この2.3.でも話題にした「ABOFANへの手紙(26)」での「うっちゃられと不用心の検証の手続き」を読んだときでした。
つまり、わたしにとっての「科学」は、ごく当たり前に「自然科学」なのでしたが、渡邊さんにとってのそれは(言ってみれば)「人文科学」なのですね。どちらがどう、というわけではなく、どだい、そんなに違いがあると思っているわけでもなく、イメージとして、ということです。
殊更に「素人」と拘ってきたのは、勿論「心理学素人」が"本線"ですが、そういう"違和感"に対する拘りもあったからなのです(正直にいえば、あとイヤミも少々・笑)。『最初の違和感は大事に』という教え(メール(その5)追伸)もありましたしね(笑)。

5.まとめ

> この議論でどっちが得をしたかといえば圧倒的に私(ABOFANへの手紙(30))

それはよかったじゃありませんか。
わたし、実は"損得"に対する感受性に欠けるようで、こうした議論の総括の尺度として"損得"は全然想起しませんでした。わたしにとっては面白いかどうかが殆ど全てで、今次の議論も大変面白く、次が楽しみでした(ちと仕事がたて込んでいてリアルタイムでは読み次ぐのに手一杯だったのがちと心残りでしたが)ので、改めて考えれば「楽しんだ」分は「得」をしたってことなのかなあ、と思いました。
にしても、「損得」発想といい「大学の目的」論、「科学少年」発言といい、渡邊さん、メンタリティは案外"研究者"っぽくなくて、ガッコのセンセなんかやらせておくのは勿体ない・・・、って、これはかなり失礼な物言いですか?

さて、では、今後のご活躍を祈念して
渡邊さんが「仮説の段階」と「検証の段階」といい出したときから感じていたのですが、どうも単なる「憎まれ口」ととられそうでもっとヤワラカイ言い回しを考えていたのですが、もう最後なんで、まいっかー的に言ってしまうことにしました。

     心理学自体が「仮説の段階」なのではありませんか。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その29)

1.ちゃんと読んでください

>>> まず原則論から言えば,データというのはあくまでも仮説を検証するためにあ
>>> るもの(仮説が先にないデータはありえないということ)で,データに合うように
>>> 仮説を何回も立て直すというのは邪道ですね.

>>  なんで邪道なのかわかりません。そうなると、地動説や相対性理論は邪道なのでしょ
>> うか?

> 流れは「データ→次の仮説→次の仮説を検証するデータ」であって,次の仮説が前のデータ
> を説明することは「次の仮説の検証」にはならないよ,という意味です.データから立てら
> れた「次の仮説」は,前にあったデータ「以上のこと」を説明できなければ正しいとはされ
> ません.立て直した仮説で前のデータを解釈して説明できれば検証終わりでよければ,「前
> のデータ」の選び方次第でどんな仮説だって正しくなってしまいます.

 ちゃんと読んでください(笑)。私が言っているのは「前のデータ」ではなく、ほとんどすべてのデータという意味です。

#全部と言わないのは、例外もあるからです。

>> 時間がないのでしょうがないのでしょうが、この言い方はかなり手抜きですよ(笑)。
>> 心理学ではどうなのか知りませんが、私はこんなやり方じゃ到底満足できません。だい
>> たい、「(一般に)小学生はテレビゲームで遊ぶほど成績は悪くなる.」なんて検証し
>> ても、面白くもなんともないじゃないですか。疑似相関も多すぎるし、テレビゲームの
>> 定義もあいまいです。ましてや、ランダムサンプリングして相関を計算するなんて論外
>> です(大笑)。

>>  心理学ではテレビゲームがダメなことになっているのかどうか知りませんが、この仮
>> 説が正しいかどうかは非常に疑問です。

> そういう「論点ずらし」はやめましょうよ.私はデータと仮説の関係を説明するための
> 例をあげたので,テレビゲームと成績の関係を論じようとしてるわけじゃありません.

 今までは大人気ないので黙っていたのですが、そういうことならちゃんと書いておきましょう。渡邊さんのメール(その22)では、ナマズと地震の関係についても同じようなことを書いています。私が「論点ずらし」が必要となるような例をわざわざ出すことはないと思います(笑)。

2.血液型ステレオタイプの問題

> また「心理学者の論理」が破綻していることが「血液型と性格に関係があるという証明」
> にはなりません.

 もちろんそのとおりです。

> それに,血液型の80-90%がFBI効果だとして,あとの20%は「真実」だと考える根拠がな
> いでしょう.あとの20%はFBI効果以外の錯覚,ということもあります.

渡邊さん自身の論理によると、「錯覚」があることは証明されていないので、「錯覚」はないということになります。
 もちろん、「真実」であるということもできません。だから、20%はなんだかわからないということですね(笑)。

> 血液型の正確な知識がある人の方が「各血液型の性格」をよく知っているが,それで人の
> 性格が決まると思っていないし,自分の性格がそれにあてはまるとも思っていない.
> いいかげんな知識より詳しい知識の方が実際には人の性格と一致していない

 ちゃんと読んでください(笑)。

 「血液型の正確な知識がある人の方が『各血液型の性格』をよく知っている」って何でしょう。これではトートロジーです。確信度の数値が正なら、多かれ少なかれ「あてはまる」と思っているのですが…。だから、決して「あてはまらない」とは思っていないのです。

> 「心理学者の論文」はステレオタイプを測定するのではなく「性格を測定」してそれと
> 血液型との関係を見たもので,そこで「一貫した傾向」がでるかどうかは,その質問紙
> が「ステレオタイプ的」な項目を含むかどうかで変わるでしょう.目的が違うのだから
> 間違いもくそもありませんよ.

 ちゃんと読んでください(笑)。

 ほとんどの心理学者の論文は「血液型ステレオタイプ」を測定するようにできています…。

3.対立する仮説があるときは...

> 従来の性格心理学も血液型も「自分や他者の性格に関する認知はある程度正確である」
> という前提を持っていますよね.それを否定したら血液型のデータのほとんどは無駄に
> なりますね(確認!).

 従来の心理学はたぶんそうでしょう。しかし、血液型は分野別データもあるのですが…。

> 一番シンプルな結論として「正確な血液型知識」の方があてにならない,といえます.
> だって「自分や他者の性格の認知」と一致していないし,多くの人に共有されてもい
> ないから.いっぽう「いいかげんな知識」は多くの人に共有され,自分の性格の認知
> とも一致しているから

 こうなると、もはやなんと言っていいのかわかりません。心理学者の論文は読んでいないのでしょうか?

> しかし「新しい仮説」が正しいかどうかは,それが既存のデータを説明できるかどうか
> ではなく(できて当たり前でしょう?そのために仮説を立てているのだから),その仮
> 説だけから予想されるような「新しい事実」に関するデータによってしか判断されません.
> 天動説だって,相対性理論だってそうだったのではありませんか?

 天動説は違います。相対性理論は(基本的には)そうです。これは、私の返事(その10)に書きました。

> 「血液型と性格」の議論に決着をつけるには,「既存のデータがこう説明できる」みた
> いな話だけではなく,「血液型では説明できて,性格心理学では説明できない現象」
> をはっきり予測し,それを検証するという「新しいデータ」が必要だし,その新しいデー
> タを示す「義務」は血液型性格学の側にあるのです.

 これもどうもわかりません。確かに、渡邊さんに対してはそうでしょう。しかし、大部分の心理学者に対しては、この方法は有効ではありません。それは、渡邊さんも認めているはずですが…。

> 心理学者のデータを使ってあーだこーだ言うだけというのはまったく姑息ですよ.

 これって、大部分の心理学者が姑息(?)ということでしょうか?

 おっと、今回はちょっと口が悪かったようです(毎回ではありません…笑)。ご容赦ください。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その30)

1.「血液型性格学」という「仮説」について

 やはり、これパラダイムの違いなのでしょうか…。最大素数さんが直前のメールで書いているように、「自然科学」と「人文科学」の違いなのかもしれません。「社会科学」はどうなのでしょうか?

2.なぜ議論をはじめ,続けたのか

  1. 科学的論理が根本的にわかっていない人と科学的な議論をすることは不可能である.おまえは科学的論理をABOFANに教えるつもりか?
  2. これまでの心理学者との議論を見ても,ABOFANは「ダブルスタンダード」(注2)であって建設的な議論にはなりっこない.
  3. ああいうやつをお前みたいな奴が「ちゃんと相手にしちゃう」からつけあがるので,無視しておくほうがいい.

 この部分は、心理学者の本音が聞けて非常にありがたいです。ちょっとコメントしておきます。

 1.については、心理学で言う「科学的論理」ならそのとおりです。(^^;;

 2.については、発言者がほぼ特定できてしまいます。(^^;; このままでは、「ダブルスタンダード」の意味がわかりにくいと思うので、読者のためにちょっと解説しておきます。

 この人は、私と議論をしたのですが、結果的に黙って(?)しまいました。本当の原因は不明ですが、どうやら私の統計的解釈の方が正しかった(?)ということのようです。HPにも、それらしいような意味が行間から読み取れます(あくまでも私の推測です、根拠はありませんので念のため)。しかし、統計的には私が正しい(?)にしても、能見さんの言うような性格特性は証明されたとは言えないだろうということです。確かに、全部証明したのか、と言われると困ります(笑)。メインの部分は証明したつもりですが…。

 3.については、明らかに間違っています(笑)。私がつけあがる(?)のは次のような理由です(返事その1)。

1.心理学者が反論しない理由

 これについては、私の書き方が悪かったと思うので、お詫びしてここに訂正させていただきます。

 私のホームページには、確かに一部に「心理学者が反論しない」というような意味の文章があるのは事実です。(^^;; ただ、それは、後日必ず返事をするという内容のメールをいただいたにもかかわらず、何ヶ月しても返事が来なかった、といった例が何回かあるので書いているだけです(しかも、そういう方は私以外の人には何回かメールを出しているようです)。さすがに少々不愉快だったので(決して感情的な書き方をしていないとは言いませんが)、他意はありませんのでどうかご了承ください。もちろん、頻繁にそういうケースがあるということではありません。また、丁寧に返事をいただいた多くの方には大変感謝しています。

 誤解のないように書いておきます。私からのメールは、原則として(反論の)メールを歓迎している人にしか送っていません。この点についてだけは自信を持って断言できます。しかし、そのほとんどは相互に納得した「関係ある」という条件を満たすというデータが見つかったとたんにピタッと返事が来なくなりました。どうしても結論を知りたかったので、しつこく何回も送ったのですが…。こういうケースが何回も(というかほとんどですが)続くと、ついそういう文章も書きたくなるのは人情というものではないでしょうか?

 その一部はこちらにあります。ただ、証明するとなるとそのメールを公開しなければなりません。そんなことをするのはネチケットに反するので、今後ともするつもりはありません。ですから、私の言うことが信じられなくとも当然ですし、信じるべきだというつもりもありませんので…。

 大変失礼しました。m(._.)m

3.「素人」と「専門家」について

 試しに、メール(その8)〜返事(その10)などをご覧ください。(^^;;

 閑話休題。

 私は相手が間違っている(正しい)とは言います。しかし、私が勝った(負けた)とは言いません。それは読者自身が判断すべきことで、自分で書くのには非常に抵抗があるからです…。

4.お礼とお別れのことば

 どうもありがとうございました。

 今回は公開メールなので、戦略を考えて本音が出にくかったこともあるかもしれません。非公開だったら、もっと有意義な話ができたかもしれませんね(笑)。しかし、それでもあえて公開することには大きなメリットがあると思います。

 失礼な点が多々あったかと思いますが、これに懲りずによろしくお願いします。

 今までの議論が、読者、心理学者、そして渡邊さんに何かのお役に立てば非常にうれしいです。

 では、長い間本当にどうもありがとうございました。m(._.)m


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最終更新日:平成12年3月8日