幕末の土佐に生きた漢学者・教育者
 
東野先生之墓  
東野先生の墓の写真
東野先生の墓の地図 
竹村東野の墓は、高知市の北部、北秦泉寺天場山の峠にある。上の図の登り口からコンクリート舗装された幅1mほどの急勾配の小道を登りきると左手に墓の北西の面が現れる。

墓石の南正面には、家老桐間松雲(将監守卓)の書で「東野先生之墓」と刻字されている。西・北・東の各面には、その順に東野の学友であった岡本升(のぼる)・一方(いっぽう=号)の格調高い漢文による撰文が刻まれている。

この撰文「竹村東野碑陰記」は、難解な部分があるが、竹村東野紹介の基本史料として、多く使われている。年表と併せて読んでいただくと、より正確に理解していただける。

下記の訓読は、分かりにくいので、現代語訳を追加した。  現代語訳

 

 西  面  訓  読
   
吾友東野先生以慶應二年丙寅七月朔卒春秋六十有三 吾が友、東野先生、慶応二年丙寅(ヘイイン)七月(サク)を以て(シュッ)す。春秋六十(ユウ)三。
(オモ)うに其の壽筵(ジュエン)(還暦の宴)を開くに当たり、門生賓交の衆、賀する所の詩若しくは畫、蔚然(ウツゼン)として(タイ)()す。余之が為に序す。僅かに期年(キネン)(満一年)を越え、訃(タチマ)ち至る。於乎(アア)、昨日の余は其の冨貴壽耈(ジュコウ)(長寿)を(ショウ)(たたえること)し、(シコウ)して今(ニワ)かに(カク)の如し。覚えず涕泗(テイシ)(涙と鼻汁)(コモゴモ)流る。

先生、初め藩の大夫(タイフ)(家老の異称)桐間氏に筮仕(ゼイシ)(初めて仕える)す。(タマタマ)國黌(コクコウ)(藩校・致道館)の教官、員を()き、(アマネク)く藩士より選べども先生を()える者有る()し。(スナワ)ち助教に(ヌキ)んでらるるも亦異數(イスウ)(めったにないこと)()り。

先生、性、温藉(ウンシャ)(度量が広く、包容性のあること)楽易(ラクイ)(心が楽しく安らか)、人と畛域(シンイキ)(境)無く、清濁皆(ヨロ)しきを得たり。(モット)講經(コウケイ)に長じ、(ママ)、或いは詼諧(カイカイ)( 冗談)を(マジ)う。童稚と(イエド)も亦傾聴す。而して貯書に優(裕)にして、空手にして来る者有れば給せざる()(無)し。生徒の衆、(ホト)んど千人に至る。而して其の家塾に(グウ)(寄宿)する者、常に十数人を下らず。

一藩に名ある者、多くは其の門より出ず。艮斎(ゴンサイ)安積(アサカ)(カツ)て曰く、「土藩(土佐藩)の学生の吾が門に及ぶ者、(ケダ)(蓋)し東埜(トウヤ)子の槖籥(タクヤク)(ふいご・門下生の意)を出ず。亦た以って其の盛んなるを證すべし」と。(ムベ)なるかな、其の陪臣(バイシン)より(ヌキ)んでられ以って公(仕官したこと)に(ノボル)るなり。

                       
 
矣憶當其開壽莚門生賓交之衆所賀詩若畫蔚然成堆余
 
爲之序越厪期年訃忽至於乎昨日余頌其富貴壽耇而今 
 
遽如許不覚涕泗之交流也先生初筮仕于藩大夫桐間氏 
 
會國黌教官闕員遍選藩士而莫有逾先生者乃擢助教亦 
 
異數矣先生性温藉樂易與人無畛域清濁皆得宜尤長講 
 
經間或襍詼諧雖童稚亦傾聴而優乎貯書有空手而來者 
 
莫不給焉生徒之衆殆至千人而其寓家塾者常不下十數 
 
人名一藩者多出其門艮齋安積翁嘗曰土藩學生及吾門 
 
者盖出東埜子之橐籥焉亦可以證其盛宜乎其擢自陪臣 
 
 
 
 
 
 北  面  
   
以升於公也先生之未釋褐也游學江都入一齋佐藤翁門 先生の未だ釋褐(セキカツ)(初めて仕えること)ならざるや、江都に游学し一斎佐藤翁の門に入り、淹(留)(エンリュウ)すること三年にして帰る。而るに志益々鋭く、乃ち督学(トクガク)(学頭)日根埜(ヒネノ)氏(日根野鏡水)の塾に入り刻苦累年( 二年)遂に督学(日根野鏡水) の(スス)めを以って家老桐間大夫に(ツカ)う。

而るに自ら顧みて(アキタラ)ず。(ヒマ)を乞い()た東游し、旧師と諸名家とを尋ねて周旋(シュウセン)し、(カタガタ)兵を赤城清水氏に()ぶ。

先生已(既)に經義(ケイギ)(経書の説く道)に於いて(スイ)(奥深い)たれども、(オソ)くに兵学を兼ぬ。故に其の業(兵学)未だ精ならざるなり。後、大夫、藩公の東觀に()(従う)すること再びすれば、先生毎に(ココ)に従へば、則ち前の未だ熟さざるは彬彬(ヒンピン)然(兼ね備わる)たり。

後、桐間家の會計官に任ぜらる。其の素より算数に巧みなるを以ってなり。(シコウ)して大夫の家衆、翕然(キュウゼン)(集まるさま)として風に向かい經業(ケイギョウ)(日常決まっている仕事)の(オコ)るは則ち其の功(モト)よりなり。顧みるに儒生(ジュセイ)(儒者)を以ってして諸經済事業の間に施するを得るも亦(エイ)なり。

先生(イミナ)(生前の名)は(オサム)(アザナ)は静夫、節之進と称す。竹村氏。香美郡野市村の人なり。(コウ)(亡くなった父)(イミナ)正教。()(亡くなった母)近森氏。配(妻・テイ)は国吉氏。男女各一を生めども皆(ショウ)(夭折)す。弟正久(愛之 丞)の子、正則(元彦)を養い(継)()()し、以って資俸(財産・扶持)を()(継ぐ)がしむ。其の歿する()

                       
 
淹三年歸而志益鋭乃入督學日根埜氏塾刻苦累年遂以 
 
督學薦仕大夫而自顧慊焉乞假復東游尋舊師與諸名家 
 
周旋旁學兵赤城清水氏先生已邃於經義而晩兼兵學故 
 
其業未精也後大夫扈公之東覲者再先生毎従焉則前 
 
之未熟者彬彬然後任會計官以其素巧乎算數也而大夫
 
家衆翕然向風經業之興則其功固也顧以儒生而得施諸 
 
經濟事業間亦榮矣先生諱脩字静夫稱節進竹村氏香美 
 
郡野市村人考諱正教妣近森氏配國吉氏生男女各一皆 
 
殤養弟正久子正則爲嗣以襲資俸其歿也以先塋在東郡 
 
 
 
 
 
東  面   
   
新ト兆域于郭北秦泉村天馬山送葬者遠近麕至溢巷衢  先塋(センエイ)(祖先の墓)の東郡に在るを以って、新たに兆域(墓地)を郭北秦泉村天馬山に(ボク)(選び定める)す。葬を送る者遠近より麕至(クンシ)(群り至る)して巷衢(コウク)(ちまた)に(アフ)る。既に事を()して、門人相議(アイハカ)(オクリナ)して曰く、「温知院循誘不倦居士(オンチインジュンユウフケンコジ)」と。

於乎(アア)、先生の学や徳や中に()み、而して功や業や外に耀き、家に行ひて国に施すものなり。縦令(タトエ)徴する所なくとも、余すら尚お(マサ)に表して以って後に垂れんとす。(イワン)や、其の(オク)る所に(ソム)かざるをや。乃者(ダイシャ)(先に)、門人と令嗣(レイシ)と将に不朽を謀らんとす。是に於いて桐間大夫松雲君、其の石に大書して()れを 「東野先生之墓」と曰う。余、(スナワ)ち叙して之に銘す。銘に(イワ)

            
 
既襄事門人相議諡曰温知院循誘不倦居士於乎先生之 
 
學之徳之薀乎中而功之業之耀乎外行乎家而施乎國者 
 
縦令無所徴余尚將表以垂後况不負其所諡乎乃者門人 
 
與令嗣將謀不朽於是桐間大夫松雲君大書其石曰維東 
 
野先生之墓余乃叙而銘之銘曰 
 
 
毛羽始成 出谷而遷 珠翠爛燦 回翔鵷班 其従  毛羽(モウウ)始めて成るや、谷を出でて(ウツ)り、珠翠爛燦(シュスイランサン)として、鵷班(エンパン)(メグ)(カケ)る。
其の従うや雲の如く、徳音諼(トクインワス)れず。
天馬に骨を埋むとも、(キヨ)秦泉(ジンゼン)有り。
猗歟
(アア)
、豈()(タダ)一代に栄ゆるのみならん。()って裔孫(エイソン)(ノコ)す。
猗歟(アア)()(タダ)()の身を善くするのみならん。永く後昆(コウコン)(後世)に()る。
      
 
如雲 徳音不諼 天馬埋骨 有冽秦泉 猗歟豈特 
 
榮一代 用貽裔孫 猗歟豈特善厥躬 永垂後昆 
 
 
   
慶應四年戊辰清和月 辱友岡本升撰文并書其陰  慶応四年戊辰(ボシン)清和(セイワ)の月(陰暦四月朔日)、
辱友(ジョクユウ)、岡本(ノボル)文を撰び、(アワ)せて其の陰に書く。
 
 
 
   
 
 撰者、岡本一方(いっぽう)・升(のぼる)の経歴

岡本一方(1810~1876)通称、頼平(らいへい)のち昇、名は、頼(より)。家、城北江口中橋東に在り門前小江あり、水を隔て高知市街を望む。依って水一方また一方の号あり。

其の祖先、安田浦乗興寺に出で岡本寧浦等と同系の家なり。扈従格(こじゅうかく)百五十石。少にして奇頴(きえい=ずば抜けている)、学を好み初め箕浦氏に従学し、塩谷宕陰(しおのやとういん)の門に入り安井息軒、藤森弘庵等の教えを乞う。

官務は文武小目付教授館教授に任じ山内容堂に侍読し、その詩酒の席に列す。
明治9年3月4日没す。67歳。小石木(高知市)に葬る。

土佐偉人伝 寺石正路著より 
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