中岡慎太郎ら多くの著名人もこの塾で学んだ       
 
 成 美 塾
塾の名称
塾の名称は、論語巻第6、顔淵第12に出てくる「子曰、君子成人之美、不成人之悪、小人反是」=「子の曰わく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人(しようじん)は是(こ)れに反す。」から成美塾(せいびじゅく)と名付けたのではないかと思う。
[参考口語訳]先生がいわれた、「君子は他人の美点を〔あらわしすすめて〕成しとげさせ、他人の悪い点は成り立たぬようにするが、小人(しようじん)はその反対だ。」(岩波文庫版『論語』金谷治訳注より) 

塾の内容

塾の内容は、下表のとおり。『高知県の教育史』山本大・千葉昌弘共著、思文閣出版より抜粋 
 私塾取調べの表

[注]束脩=束修(そくしゅう)入門の時、弟子入りのしるしとして先生に差し上げる礼物。
   謝儀=謝礼、月謝のこと

授業の内容等

講義は、素読練熟の後、四五行または一章宛て、之を授け而して生徒の学力の相均しき者をして之が伍(グループ)を定め、一月中八九回、かつて聴講せし所を論講し討論研究せしむ。

作文は詩文とし学業の進歩したる者をして、一月中六回、兼題(予め出した題)及び即席に之を作らしめ、点削(添削)を施しその優劣を闘わしむ。

授業は一番鶏鳴より始め一朝を読書とし、一朝を講義とす。日出を限とし喫飯のため退散せしめ再び出席し、午前八時より仝(同)十時まで習字を学ばしめ、仝時より正午まで読書講義及び習字本等を授け、仝刻喫飯、仝三十分より再び習字を学ばしめ午後二時全く退散せしむ。

休業は一月中、一日、十五日、廿五日とし節序祝日亦同じ、中元大休みは七月一日より仝十七日迄とし歳杪(歳末)は十二月十五日より翌年一月十五日迄とす。

開業は天保六年頃にして明治五年を以って全く廃業す。

教員は別に雇入せず生徒中学力ある者をして補助せしむ。
明治十七年四月十五日調  調査者氏名 西村 佃 (高知県編纂 高知藩教育沿革取調より抜粋)

塾の所在地

幕末から明治期に活躍した多くの偉人を輩出した竹村東野の「成美塾」が現在のどこにあったのか正確には確認できていない。場所を特定する史料としては、下記のものがある。

天保5年江ノ口楽水寺(こうすいじ)出口に住居という東野自身の記載がある。(塾は西隣別棟)

・高知県下土佐国旧高知藩領地内私塾取調表によると所在地は、江ノ口村百軒町となっている。

・東野のひ孫、中内菅子さん(1913年〜2015年、高知市に居住)によると、木村病院(寿町8−8) の南隣に昔、住んでいたことがあり、当時すでに成美塾の建物はなかったが南へ2軒目がその跡だと、聞いていたそうである。
・戦前、「成美塾跡」の石碑が現在の高知市寿町3−6中教院の東側に建っていた。

以上のことから地図上の位置にあったのではないかと推測した。

左下の地図は、「明治11年(1878年)高知市街図」(河田小龍制作の複製)高知市立市民図書館所蔵より抜粋したものに、「高知郭中図(幕末)」を対比し記入した(成美塾を除く)。
楽水寺出口・カウスイジデグチは「通り名」ではないかと思う。また、地図上の百軒町は、もっと北・東へも広がっていたのではないかと思われる。「成美塾跡」に関する情報をお寄せくだされば幸いです。

 
  幕   末  現   在
 幕末の地図  現在の地図
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