幕末の土佐に生きた漢学者・教育者
   
竹村東野の紹介    
 

竹村東野(とうや)は文化2年(1805)9月23日土佐(高知県)香美郡野市村(香南市野市町)に生まれる。
名は修。字は静夫(せいふ)。通称を節之進といい、東野(とうや)は号である。

若年の時より儒学に志し、文化13年(1816)、12歳の時、近隣の赤岡村郷士、田宮宇内の弟子となる。
文政9年(1826)萩野春丈の弟子となり、同年、修行のため江戸へ出て、儒者岡萬助へ入門、一旦、土佐に帰国後、文政12年(1829)再び江戸へ赴き、佐藤一斎に入門し、3年間修行した。

天保3年(1832)夏帰国後、土佐藩、藩校学頭日根野鏡水の塾へ入り寄宿して、更に勉学に励んでいたところ、天保5年(1834)2月、鏡水先生の推挙で 、家老・桐間蔵人の学問相手役近習として召抱えられた。
同年、江ノ口村百軒町(高知市寿町、注)に家塾を開き「成美塾(せいびじゅく)」と名づけ、子弟の教育にもあたった。

天保12年(1841)6月、塾を閉じ、修行のため江戸へ赴いたが途中、富士山頂に登る。江戸では岡萬助先生宅に寄宿し、佐藤一斎、安積艮斎、山口菅山、清水赤城ら諸名家に学び修行した。兵学師清水赤城には兵学・測量を学び翌年帰国後、塾を再開しその2科を加えた。この2科を教える塾は土佐ではほとんどなく評判になったという。
記録によるとその後も3回江戸へ赴く機会があり、その都度、師家を訪れ修行している。

東野は包容力があり、人と境なく接し、清濁併せ呑む度量を持っていた。もっとも講義にも長けており、時々滑稽なことを言って教えたので児童に至るまで皆、傾聴したといわれている。

東野の門弟千余人といわれ、中岡慎太郎、大石圓、土方久元、岩村通俊、安岡覚之助、安岡嘉助、宮地宜蔵、森新太郎、池知退蔵、本山只一郎、北村鶴堂などの著名人もいた。

慶応元年(1865)、御留守居組、致道館助講に抜擢された。

慶応2年(1866)7月1日没。62歳。墓は高知市秦泉寺天場山。昭和3年、正五位を追贈される。

著書には、「東野遺稿」「登岳紀行」等がある。
なお、「登岳紀行」は、平成18年11月高知市民図書館、安芸文庫で、写本が見付かった。

注:戦前、「成美塾跡」の石碑が現在の高知市寿町3−6中教院の東側に建っていたが今はない。なお、中教院の場所は戦前から変わっていないそうである。

 
 掛け軸の写真
東野竹村修の漢詩
 漢詩解説
高知城の写真
成美塾は、高知城の北東
600mの寿町にあった。
 夏の富士山の写真
天保12(1841)年夏、
富士山頂に登る。
 致道館跡石碑の写真
致道館並陶冶学校跡の石碑は、
高知城のすぐ北西、武道館の
入り口にある。
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