幕末の土佐に生きた漢学者・教育者
竹 村 東 野 年 表  (1841年〜1866年)
西暦 干支 年  号 年齢 事                   項
1841 辛丑 天保12 37 塾を閉じ江戸に再遊、6月5日出足、同26日冨士山頂に登り、同29日築地御屋敷参着、教授役の岡萬助先生宅へ寄宿し、御旗本佐藤一斎先生、同安積艮斎先生、若州小浜藩山口 菅山、濃州岩村藩若山壮吉、林家塾頭川田八之助、将又(はたまた)、兵学師家飯田町清水赤城等方へ罷り越し修行仕候
1842 壬寅 天保13 38 清水赤城先生所蔵の測量法義(利瑪竇口譯、徐光啓筆受)を築地藩邸に於いて筆写
3月13日江戸表を出立、4月14日帰着、家塾(成美塾)を再開し学科に兵学・測量を加える  冨士紀行1冊相認め上へ差上申候
1843 癸卯 天保14 39  
1844 甲辰 弘化 1 40   
1845 乙巳 弘化 2 41  
1846 丙午 弘化 3 42 3月9日、御参勤の折、桐間大夫の供にて江戸表へ罷り越し節も数軒の師家へ通い修行、就中、清水赤城に兵要録の稽古専ら仕候に付、兵要録22冊並びに握奇八陣集解4箇を口決に至るまで悉く皆詮義相済、終に許可の巻物譲り受申候 
1847 丁未 弘化 4 43 6月5日、実子先達の不幸に付、実弟、愛之亟の2男元彦を養子にす
1848 戊申 嘉永 1 44  
1849 己酉 嘉永 2 45 12月、兵要録22冊、碑誌略記1冊(写)を御文庫へ献上
1850 庚戌 嘉永 3 46 10月、俄かに桐間大夫より江戸表へ呼び寄せられ候節、矢張り以前の師家へ罷り越し修行仕候 尤も清水赤城先生先達て物故
1851 辛亥 嘉永 4 47  
1852 壬子 嘉永 5 48  
1853 癸丑 嘉永 6 49 (ペリー率いる4隻の米国黒船艦隊が浦賀に現われる)
1854 甲寅 安政 1 50 10月17日、文武館、教授館へ、桐間蔵人殿内、竹村節之進、諸人の為に親切に相導候を以って一同其の帰服候趣、御奉行中へ相達、之により俵子弐俵遣わされる 
1855 乙卯 安政 2 51 6月8日、扶持加増の上、騎馬格に進めらる
1856 丙辰 安政 3 52  
1857 丁巳 安政 4 53  
1858 戊午 安政 5 54 2月8日、間達を以って江戸表へ罷り越候砌も、用間を以って修行仕候
1859 己未 安政 6 55 1月9日、父久蔵正教歿す 享年87歳
1860 庚申 万延 1 56  
1861 辛酉 文久 1 57  
1862 壬戌 文久 2 58  
1863 癸亥 文久 3 59 3月21日、積年学問心懸厚く導方等親切に行届くを以って新知30石遣し騎馬に申付らる
1864 甲子 元治 1 60 文久4年正月11日、御乗馬(御馭初=おのりぞめ)の節、乗馬仰付られ、滞りなく相勤め候
1865 乙丑 慶応 1 61 8月6日、御用番左馬助殿宅に於、格式御留守居組4人扶持御切符7石下され置かれ、助講を仰付らるに依り、御役料1人扶持御切符13石仰付かる 即日より致道館へ出勤仕、講義相勤候
1866 丙寅 慶応 2 62 7月1日没す 高知市北秦泉寺天場山に葬る 門人達は「温知院循誘不倦居士」と諡(おくりな)した
1867 丁卯 慶応 3    
1868 戊辰 明治 1   慶応4年清和月(4月1日)学友岡本升(一方)東野墓碑の撰文を其の陰に書く
墓碑「東野先生之墓」は桐間松雲(将監守卓)の書
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