懐かしのほんこさん市

装飾

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明治35年から40年頃の報恩講(粕渕小学校百年史より)

※報恩講:開祖 親鸞聖人のご命日を中心に行われる仏事で、浄土真宗にとって最も重要な法要。粕渕浄土寺では毎年11月20日・21日に執り行っています。(「法座のご紹介」ページ参照)

「ほんこさん(正式には小原浄土寺報恩講)」は毎年の11月、大人も子供も老若男女揃って楽しみにしていた仏事です。とはいえ、楽しみに待っていたのは報恩講市(ほんこさん市)の方でした。特に子供たちには年に一度の大イベントだったのです。
粕渕小学校100年史に掲載された報恩講市の追憶記事から一部を紹介します。


「ほんこさん」までにゃ〈こなし〉をすめといて「ほんこさん」へ行ったら”ミイ”を買うて、  ”なた”も買い替えて、裏へ植える”きねり”を一本買うて・・・それでも余分のある年には、とっつあんはどこへやら姿をくらまして一杯ひっかけてくるし、かかさんは「ふぅふぅ」言うて焼きまんじゅうをほおばった後で、からつもん屋(瀬戸物屋)の前にしゃがんでケラケラ笑い、子供は正月に遊ぶイロハカルタを一枚買うて、残りの銭じゃ何を買おうかと、夕暮れのアセチレンの灯りがしだいにまばゆくなりかける店から店へと目を皿にして捜しまわる・・・
まずは、このとおりが実現したなら、仏様は拝まなくても、それが当時このあたりの平均的農家のしあわせというものだった。


農繁期も終わり、師走の慌ただしさを迎える前のホッと息を抜くひと時、アセチレンの灯りがはだか電球に変わっても、みんながうきうきと待っていた「ほんこさん」。
「ほんこさん」が終わったあと、店が跡形もなく消えた寺小路には、夜店の喧騒が幻のように浮かんでは消えたものです。
明治・大正・昭和と受け継がれてきた報恩講の市も、昭和の終わりと共にその役割を終えました。
どんなに時代が変わっても、浄土寺の報恩講は粛々と執り行われています。今までも、これからも。

◆上の図は現在の本殿が再建された明治33年から間もない頃の報恩講市の情景です。
◆【寺小路付近図】【ほんこさん追憶文章】は共に粕渕小学校(現邑智小学校)100年史より引用

下の図は明治35年から40年頃の粕渕村(粕渕小学校百年史より)

浄土寺は天文21年(1552年)、明暦元年(1655年)、明治33年(1900年)に兵火や洪水等により罹災し再建されています。下図は明治33年に本堂が再建された当時の粕渕の街の様子です。当時は粕渕村であり昭和・平成の町並みとは随分違ってるのが分かります。

大正時代にはこの図からさらに様子は違ってきていたと思われますが、昭和35年頃には山陰合同銀行は下町通り突き当りの日和酒店の前にあり、郵便局は寺小路入口の角にありました。上町通りも小学校まで一直線に伸びて来ていて、「学校場」は昭和時代の粕渕保育所でしょう。園庭にあった小屋には猿が飼われていました。
この当時本町にあった役場は後に浄土寺の山門前に移り、その後邑智中学校跡に移転。現在もほぼ同じ場所である邑智小学校横に新庁舎が建っています。小学校校庭の木々は今も昔を偲ばせる風情を保っています。山間の町ながら生活復興の気概と活気に満ちていた昭和も随分と遠くなりました。

延々と歴史を繋いできた美郷町。時代は令和に移り、これからどんな町になっていくのでしょう。子供たちのためにもお互いを認め、尊重する心豊かに過ごせる町になっていくことを願っています。

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