花火散歩

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普段何気なく見ている花火にも、長い歴史を経て現在にいたっています。ちょっとしたウンチク話として知っていれば、花火を見る目も変ってくると思います。花火の歴史にまつわる話の中で、比較的ポピュラーなものをトピックス風ににまとめてみました。

<花火の起源〜火薬のはじめて〜>

花火の基になる火薬は、今から約2000年ほど前に、中国で発明されたといわれています。黒色火薬と言って、硝石、硫黄、木炭を配合したもので、現在の花火でも打上げ火薬や割り薬(花火を炸裂させて星を飛ばす)など、ベースとなる火薬です。不老長寿の薬を求める錬丹術や、黄金を作り出す錬金術などの過程で、さまざまな物質を混ぜ合わせるうちに、偶然にも火薬を発見したという具合です。鎌倉時代の蒙古襲来(元寇)の時にも、火薬を使った武器が使用されています。

日本には、種子島に鉄砲が伝来した時に、火薬が伝わりました。台風で漂着したポルトガル人から2挺の鉄砲を買い上げ、鉄砲や火薬の製法が伝えられたとのことです。その後、堺や紀州に伝わり日本中に広まったと言うことです。また、火薬は鉄砲のほかにも狼煙としても使用されました。有名な関が原の戦いでは、西軍の石田光成が、打上げ方式の狼煙(流星)を使って合図した事は有名な話です。

<花火と徳川家康>

日本人で最初に花火を見たのは徳川家康と言われています。1613年駿府城でイギリス人が献上し、中国製の噴出花火を披露したとされています。今でも豊橋などでは手筒花火が行われていますが、そのような花火だったと思われます。それ以前にも、伊達政宗が米沢城で中国人の献上した花火を見たのが最初とする説もあります。

<両国の花火>

日本でもっとも有名な隅田川花火大会の前身である両国花火は、8代将軍吉宗の時代、疫病による多数の死者の慰霊と、悪病退散祈願のため、水神祭が行われた時に、花火が上ったのが始まりです。その後、川開きにあわせて花火が行われ恒例になりました。川開きと言うのは旧暦5月28日から8月26日までの納涼期間の始まりのことで、この間は川岸には食べ物やが立ち並び、川には船を浮かべ、花火を上げるなどして、夜半まで賑わったそうです。戦争で一時中断もありましたが、昭和36年に環境悪化のため終了するまで続きました。昭和53年からは場所を上流に移し、隅田川花火大会として復活しています。

<カギヤとタマヤ>

花火の掛け声と言えば、「鍵屋〜、玉屋〜」がお馴染みです。鍵屋は初代の孫兵衛が1659年、大和国篠原村(今の奈良県吉野郡)から、江戸に出てきたのが始まりです。葦(ヨシ)の管から火の玉が飛び出す花火で身代を大きくし、4代目の元禄末期になると江戸幕府御用商に成長します。8代目のとき、清七という大変優秀な番頭があらわれ、のれん分けを許されて玉屋を名乗ります。以降、両国の川開きでは鍵屋と玉屋が競演して人気をはくします。しかし、これもつかの間、玉屋は失火によって江戸所払いとなり、わずか30年間で廃業することになります。一方鍵屋は、戦前まで続きました。

<大玉競争〜片貝VS長岡〜>

驚くべきことに、3尺玉発祥の地と言われる片貝では、100年以上も前の明治24年には3尺玉が上げられていました。長らく日本一の大玉として上げられていたと思われますが、昭和55年、テレビ番組の企画で3尺5分玉が上げられた事に、本家として対抗すべく3尺3寸玉を打上げることになりました。一方、お隣りの長岡でも日本一の3尺玉を上げており、日本一を取り戻すべく、3尺5寸玉を打上ることになります。こうしてついに片貝では、世界一の4尺玉を上げるまでに至ります。当局である通産省も、この大玉競争のエスカレートを放置できず、1ヶ所に置くことのできる火薬の量の規制を120キロから80キロに変更し、大玉競争はようやく終りを迎えることになりました。