信州大学教育学部助教授(認知心理学)の菊池聡先生へのメールです。お忙しい中、私のつたないメールにわざわざご返事をいただき、大変ありがとうございます。なお、『ABO FAN』では、原則として敬称は「さん」で統一していますが、このページの性質上、一般メールと同じく「先生」を使わせていただきます。どうかご了承ください。>ALL
さて、私が読んだ資料は次のものです。
なかなか興味深い内容ですので、否定・肯定のどちらの方も読んでみるべきでしょう。私の意見と一致する部分は、FAQ番外編に長々と引用させていただきました。この場を借りて感謝申し上げます。
また、このシリーズは夏に単行本化されるとのことで、非常に期待しています。発売され次第、ぜひ読んでみたいと考えています。 -- H11.6.9
では、本題に移ります。
突然のメールをお送りする非礼をお許しください。血液型と性格に関するHP『ABO
FAN』の作者です。
菊池先生の月刊「百科」の記事(98年2月号「血液型信仰のナゾ」)を拝見いたしました。内容は非常に興味深かったのですが、その中で少々質問させていただきたいのです。
先生は、「血液型と性格に関係があるというデータをきちんと示してもらえば」(同記事31ページ中段6行目)とのことですが、これは心理学者によって既に(何回も)示されています。
例えば、1991年11月号の「科学朝日」の記事の要約を示しておきます。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/kagaku-asahi.htm
(ページの中ほどの坂元先生の図にご注目ください)
これは、延3万人の完全なランダムサンプリングのデータですから、信頼性には全く問題ないはずです。
いかが思われますか?
お忙しい中大変恐縮ですが、ご返事いただければ幸いです。
最後になりますが、乱筆・乱文ご容赦ください。
「単純に差がある−ないの二分法で考えれば松井さんの見解と坂元さんの見解では矛盾があります。データ解釈を巡るこうした矛盾はたまにあることです。これを機に、血液型性格相関説を唱える方々も、この矛盾を解決するような研究をバンバンやって欲しい」というコメントを得ました。なお、菊池先生の血液型性格判断についての見解は、夏に平凡社から発売される新書を見て欲しいとのことです。
あれ、これだけ?と思われた方も多いのではないでしょうか? 実は、議論はまだまだ続いているのですが、菊池先生の了解が得られないため非公開とさせていただきます。そして、私の2通目以降のメールについても、菊池先生からの引用部分があるため、同様に非公開とさせていただきます。なお、非公開の理由についても公開できません。どうかご了承ください>ALL
返事そのものが非公開という人が多い中で、一部にしても公開させていただき、本当にありがとうございます。また、松井さんと坂元さんのデータの矛盾について公開の許可をいただけたのは(既に10人以上はお願いしている中で)、実は菊池先生が初めてです! 本当にありがとうございます。m(._.)m
いずれにしても、多少の矛盾はある(?)とのコメントを得ました。私の見解がまるきり的はずれでないことがわかり、非常に安心しました(^^)。今後も、いろいろとデータの分析をしていくつもりですので、どうかご指導のほどよろしくお願いします。 -- H11.6.9
【菊池先生へのお詫び】
私の一方的な勘違いで感情的なメールをお送りし、大変不愉快な思いをされたようで、誠に申し訳ありませんでした。幸い、メールは非公開でよいとのことなので、ほっと胸をなで下ろしています。
筋違いとは思いますが、この場を借りてお詫びさせていただきます。大変申し訳ありませんでした。m(._)m
そこでというのもなんですが、先生の著書をここに紹介させていただきます。早速入手して読んでみるつもりです。
菊池先生、そして読者の皆さんに多大なご迷惑をかけたことを重ね重ねお詫びします。m(._.)m -- H11.6.10
【『超常現象の心理学』について−H12.1.9 追記】
最近、5冊目の著書、『超常現象の心理学』〜人はなぜオカルトにひかれるのか〜(平凡社新書 H11.12)を入手しました。全体としてはなかなか面白い本です。オカルト研究について興味がある方は読んでみてくださいね。(^^)
血液型関連は、第6章・第7章の「血液型性格判断という錯覚」ですが、他にも第3章の「超常現象研究の危うさ」にも面白い記述があります。この第3章は、有名な超常現象否定派である大槻教授への批判とも取れる内容です(60ページ)、
大槻教授が複数の雑誌上で血液型性格判断批判を繰り広げたことがある。血液型と性格に関連が認められないという結論に異論はないが、そこに至るその強引な論法は心理学関係者の間でかなり話題になった。
とのことですが、大槻教授の論法は確かに強引です(苦笑)。こんな論法を心理学者はどう思っている興味があったのですが、やはり不評だったようですね。例えば、性格検査については特定のものしか信用しないとか、アメリカでは話題になっていないとか…。どう見ても、心理学者に相談したという形跡はありませんでしたからねぇ(苦笑)。興味がある人は、ぜひ『通販生活』(1998年春・夏号)を読んでみてください。
さて、第6章・第7章「血液型性格判断という錯覚」の内容についてですが、第7章が月刊『百科』の記事をほぼそのまま使っているのに対して、第6章は大幅に加筆・訂正されています。夏の予定が冬になったということですから、単行本化するため全体にかなり手を入れたのでしょうか(もっとも、他の章はチェックしていないので、本当はどうなのかわかりません…)。はて??
ところで、単行本化で気になる変更がありました。というのは、単なる加筆・訂正ではなく、論旨そのものが違う(?)のではないかと思えたからです。そこで、一応の参考として、いくつか書いておくことにします。
変更部分(月刊『百科』) | 旧(月刊『百科』) | 新(『超常現象の心理学』) |
タイトル | 血液型信仰の謎 | 血液型性格判断という錯覚 |
2月号32ページ上段 | [能見さんのデータは]そんなデータは存在しないのか、と邪推もしたくなってしまう | (削除) |
バーナム効果について | (なし) | (「フリーサイズ効果」についての説明で追加…120ページ) |
3月号25ページ中段 | [血液型性格関連説は]妄説・迷信 | (削除) |
3月号26ページ中段 | [血液型性格関連説は]人権を著しく侵害するものなのである | [血液型性格関連説は]人権を著しく侵害する可能性がある |
更に、この第6章・第7章には疑問の部分があります。ちょっと書いておきましょう(これが全部ではありません、残念ながら…)。
疑問の部分 | 『超常現象の心理学』の内容 | 私の疑問 |
心理学者の態度について | 血液型性格判断は性格研究のプロ集団[心理学者]によって否定されている | 別に否定されてはいないのでは? キャッテル、アイゼンクらの論文があるのでは? |
性格テストの信頼性について | 信頼できる | 必ずしも信頼できず、行動は予測できないのでは? |
フリーサイズ効果について | 血液型性格判断は「フリーサイズ効果」のために当たるように見える[だから本当は当たっていない] | 血液型(80〜90%)よりYG性格検査(100%)の方が強く現れるのでは? |
何が正しいかは、皆さんの判断にお任せし、ここにはあえて書かないことにします…。
全部入手して、やっと読み終わることができました。なかなか面白いので、不思議現象を知りたい人は、ぜひ読んでみることをオススメします。しかし、残念なことに、これらの本にはいくつか単純ミスがあります。例えば、『超常現象をなぜ信じるのか』では、冒頭から間違った記述(?)があるようなのです。この本の冒頭には、新聞の投書の要約があるのですが(14ページ)、
いくら科学が進歩しても、私たちには捨てがたい風習があります。たとえば旅立ちや結婚など何か新しいことを始めるにあたっては、誰もが大安の一人選んで、今後の成功や健康を祈りたいと考えます。ところが、この日本人なら誰しももつこの自然な感情が(以下略)
その後の本文には、六曜は非科学的であるという説明が続きますが、この投書が間違っているという記述はありません。。しかし、この六曜は「非科学的」な江戸時代には(大安や仏滅は)全く信じられていなかったのです。大安や仏滅は、実は「科学的」なはずの近代になってから信じられるようになったので、となると「科学的」な近代人の方が迷信深いという妙な結論になってしまいます。
#もちろん、そんな「結論」は書いてありません。
同様に、丙午の出生数の減少率は、明治39年(12%)より60年後の昭和41年(27%)の方が大きくなっています。やはり、現代人の方が迷信深い場合もあるようです。
心理学的には非常に面白いテーマだと思うのですが、なぜ研究しないのでしょうか…。
#実は、この理由は簡単に説明できるのです。
いずれにせよ、冒頭から間違ったこと(?)が書いてあるのは残念ですね。(^^;;
なお、六曜について詳しく知りたい人は、こちらを読んでみてください。
もう一つは「通俗」心理テストについてなのですが、当然インチキで有害という結論になっています(『予言の心理学』
268ページ)。実験の結果、血液型と同じ(?)で「自己成就現象」(=ピグマリオン効果)があるから有害だということだそうです。
でも、本当にそうだとしたら、心理学の性格テストや学歴・職歴の方が「有害」なのかもしれません…。
というのは、「通俗」心理テストは毎回デタラメな結果が出るはず(?)ですから、「自己成就現象」は(毎回結果が違うので)起りにくくなるはずです。しかし、心理学の性格テストは(毎回結果が同じ場合が多いので)「自己成就現象」が起きやすくなる…のではないでしょうか?
残念ながら対比のデータがないので決定的なことは言えませんが…。
そして、血液型と同じく、「通俗」心理テストの追試、心理学の性格テストとの相関、あるいは心理学的な解釈はほとんどないようです。はて?
#不思議なことに、やはり血液型と同じパターンですね。
なぜなのでしょうか?
また、同じ『予言の心理学』の198ページには、「ABO式の血液型と人の性格や相性の間に関連性があるという証拠は見いだせていない」[太字は私]という記述があります。しかし、『不思議現象』の68ページには、
実は、心理学ではこの「相性」という問題はほとんど解明されていません。研究が始められたのも、ごくごく最近のことで、成果は限られています。したがって、心理学的につくられた、科学的に信頼できる相性診断法、などというものはまだありませんし、これからもできるかどうかわかりません。
と書いてあります。つまり、「血液型と人の相性の間に関連性があるという証拠は見いだせていない」のは当然のことです。つまり肯定することも否定することもできないようなのです…。あれ?
ところで、一番気になったのは、『不思議現象なぜ信じるのか』の228ページの記述です。中段の18行目には、「科学的見地からは否定されている『血液型占い』が…」と書いてあります。しかし、『血液型信仰のナゾ−前編』(不可思議現象心理学8 月刊『百科』 平凡社 平成10年2月号 33ページ 太字は私)
そんなわけで、血液型性格判断は調査によって実証されず、支持する証拠というのは間違いばかりだ。だから科学的結論として血液型性格判断は否定されるのである。もっとも、本稿の読者なら先刻ご承知の通り「完全に関係はない」ことを証明することは不可能である。未知の関連性が発見される可能性はある。だから、この場合「能見説をはじめとする現在の血液型性格相関説を正しいという根拠はない」くらいが妥当な表現だろうか。
どちらの表現が正しいのでしょうか?
最後に、誤解のないように書いておきます。以上はあくまでもマイナーなミスに過ぎません。全体的には非常に良い本です。不思議現象をもっと詳しく知りたい人は、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか?
ところで、『予言の心理学』の264ページには、非常に興味深い記述があります。
「予言や占いは遊びであって、はじめから割り切って接するならば、おかしな予言で人生を狂わされることはないだろう。それがわかっていれば、科学性など無縁な、いかにもお遊びだとわかるような予言は許容してもいいのではないか。たとえばスポーツ新聞に載ってるような占いとか、星占いの今日の運勢とか、血液型相性占いとか。誰も本気で信じるわけもないし、そんな遊びも許されないような世の中は、息苦しくてたまらない」
以上のような意見が、現在の日本社会で、予言や占いのもっとも妥当な位置づけであろうと思われる。
私の紹介した4冊には、いずれにもほとんど同じような記述があります。ところが、不思議なことに、裏付けのデータは私が探しても全然ありませんでした(失礼!)。単に読み方がまずかったのだけでしょうか?
いずれにせよ、心理学的にそうなのか、それとも菊池先生がそう思っているのか、あるいは本当にそうなのか、私には判断しようがありません。常識的に解釈すると、誰もがそう思っているからデータによる裏付が不要なのでしょう。あまりにも明らかなのでデータは一切不要だと…。これを裏付けるように、次の記述があります(同書264ページ)。
誰もがこのような冷静な考え方を持てるのであれば、ことさらこの許容論に対して異を唱えるものではない。
つまり、菊池先生もこの意見には全く同感だということです。しかし、私はデータがないと信用しないことにしていますから、これだけでは納得しません(失礼!)。
おっと、随分長い前置きになってしまいました。実は、これは日本の伝統思想そのものなのです!
この伝統は、少なくとも鎌倉時代の貞永式目に遡ります。そして、江戸中期には完全に定着し、徳川時代が終わってからさえも、明治から平成まで続いているのです。以下は、山本七平さんの『日本型リーダーの条件』からの引用です(110ページ 太字は私)。
[石田]梅岩はあらゆる宗教は本心のための薬であると言った…役に立てば何でも薬として取り上げていいが、一つに夢中になってはいけない。よく宗教や思想にかぶれる、というが、あれは薬害のような意味だろうと思う…ただ、薬は品数が多いほうがいい。そこですべてを容認する。現代の日本を、同じように諸宗教・諸思想揃えていて、ないものはない。どれでもみな薬だから、自由にお使いなさい。そうするのがいい、これは式目に萌芽があって、梅岩で完成した思想ともいえる。
石田梅岩の原文は次のようになっています(都鄙問答巻三)。
「仏老荘ノ教モ、イハゞ心ヲミガク磨種(ときくさ)ナレバ、舎(すつ)ベキニモ非ズ」
「名医ハ何ニテモ、病ノ可愈(いゆへぎ)モノヲ用ヒテ疾(やまい)ヲ愈(いや)シ、諸薬ヲ尽(ことごと)ク遣ヒ覚テ療治スルコソ善(よか)ルベケレ。古シヘヨリ薬種トシテ出シ置(おか)ルヽ物何ゾ棄(すつ)ルコトアランヤ。一モ舎(すつ)ズ一ニ泥(なずま)ズ、能用(よくもちゆ)ルハ名医ナルベシ」
この部分は、同じく山本七平さんの『勤勉の哲学』によりました。どうもありがとうございます。
他にも例はいくらでもあります。例えば、吉田松陰が幕府の禁に触れ、江戸に投獄されたときのことです。妹は、獄中の松陰に「法華経」を届けに来ます。意味は言うまでもないでしょう。しかし、松陰は、女や子供などの心が弱い者(失礼!)には「法華経」は必要だが、自分には不要だと言って返してしまいます。明治維新の中核を担った下級武士のエトスとは、実はこのようなものだったのです(少々感動的ですね)。別な例は…。おっと、『ABO
FAN』は日本の伝統思想のHPではありませんのでこのへんにしておきます。(^^;;
ところが、この日本の伝統思想には別な面もあります。同じく『日本型リーダーの条件』からの引用です(110ページ)。
この考え方の基本はすでに「貞永式目」にあり、宗教、宗派、全部を認めるが、しかしどの宗派にも特権は認めず、絶対に、自分が正統で他が異端だと言ってはならないし、他宗派批判もしてはならない。すれば「悪口の咎の事」を発動して罰する。
つまり、日本の伝統的思想では、他派批判は決してしてはいけないのです! もちろん、現在では幕府は存在しませんが、「悪口の咎の事」という社会的制裁が発動します。私は伝統的な日本人ですから、『ABO FAN』では「他派批判」は必要最小限とし(?)、やむを得ず批判する場合にはできるだけ根拠を明らかにしているつもりです。とは言っても、完全にそうしているという自信はありませんが…。f(^^;;
心理学的にはどうなのか、非常に気になるところです。 -- H11.6.24
『予言の心理学』を読んだときに、ちょっと引っかかった部分がありました。それは260〜261ページにかけての文章です。この文章の前には、心理学での「自己成就予言」についての説明があります。ここで、自己成就予言について簡単に説明しておくと、ある予言に元々は科学的な根拠がなくとも、その予言が人々に心理学的な影響を及ぼし、結果として予言が当たったように見える現象のことです。
こうした自己成就予言のメカニズムを考えれば、「言霊」という言葉の意味もよりよく理解できるのではないだろうか。
【言霊】 コトダマ 言葉に宿る霊の意。古代の日本人は言葉に宿る霊力が、言語表現の内容を現実に実現することがあると信じていた。言霊の信仰によって言葉を積極的に使って言霊をはたらかせようとする考えと、言葉の使用をつつしんだり避けたりする考えとの二つの面がある。日本では和歌において言霊の思想がうけつがれ、のちの時代にまで影響を与えた。(平凡社百科事典マイペディア97)
現代でも言霊信仰は生きている。たとえば結婚式のあいさつで「切れる」とか「別れる」とかいう縁起でもない言葉はタブーである。受験生に向かって「落ちる」とか「すべる」と言ってもいけない。不吉なことを言うと、不吉なことが起こるという言霊信仰が、私たちの中に習俗として根づいているのである。
作家の井沢元彦氏の歴史観では、この言霊信仰が、古代から現代までの日本人の意識に強い影響を与え、歴史を動かす原動力になったという。『逆説の日本史シリーズ』(小学館)をはじめとした氏の著作は、ベストセラーにもなったのでご存じの方も多いだろう。私もいつも楽しみに読んでいる。日本の歴史を宗教・呪術的側面に着目して「解釈」する知的面白さを存分に味わえる本だと思う。
井沢氏は、言霊は根拠のない迷信であるが、それを信じている人がいるのは事実だという立場をとる。その上で現代日本の政治家や知識人までが、言霊信仰にとらわれて論理性を見失っている様を斬って捨てる。たとえば、差別の実態を見ずに差別用語狩りに汲々とすることや、反戦平和を唱えていれば平和が来ると素朴に思いこむことに言霊の影響があるというのだ。
そうした井沢氏の主張は、個人的にはおおいに賛成できるものもあれば、にわかに首肯しかねるものもあるが、本題から外れるのでここでは多くは言及しない。ただ一点、井沢氏は言霊は迷信であって、「言葉と実体がシンクロする」ことは「幻想(幻覚)」にすぎない、と述べている(『言霊 なぜ日本には本当の自由がないのか』井沢元彦/祥伝社/1991年)。この点には、別の見方を呈示しておきたい。
言霊という霊的な実態が存在するわけではない。よって言霊は迷信だということは確かだとしても、口にしたことが実現するメカニズムは確実に存在しうる。古代の人はそれを言霊になぞらえ、現在の心理学はそれを自己成就予言と呼んでいるにすぎないのではないだろうか。
やっとこの疑問点を整理することができたので、ここに書いておくことにします。
まず、上の文章には、少々不思議な点があります。「言霊」の専門家は、たぶん宗教学者か民族学者でしょう。菊池さんは、言霊の起源を専門家に確認したのでしょうか? 明確には書いてないのでなんとも言えませんが、この文章から判断する限り、その可能性は低そうです。となると、菊池さん独自の説ということでしょうか? はて?
次に、「口にしたことが実現するメカニズム」についてです。言霊は「言葉に宿る霊」ですから、その存在を証明するためには、通常では起こるはずのない何らかの「超常現象」が起きることが必要です(もちろん、当時の人々がそう信じればいいわけで、現在の基準ではありません)。
例えば、皆さんのうちの誰かが「お〜い、お茶!」と言って奥さん(旦那さんでも子供でも部下でもいいですが…)がお茶を持ってきたにしても、それは言霊のせいではありません(笑)。そんなの当たり前ですね!
しかし、「お〜い、お茶!」と言ったとたん、目の前に忽然と○○園のペットボトル入り(缶入りでもいいですが…)のお茶が現れたら、それは明らかに言霊によるものなのです(笑)。ところが、そういう超常現象が起きるといった説明は(残念ながら菊池さんの本には)ありません。現代とは時代が違うことを考慮しても、これでは「言霊」の霊力(?)を証明するものとしてのインパクトが弱すぎるということはないのでしょうか?
別の疑問です。菊池さんが主張する「口にしたことが実現するメカニズム」は、あくまでも心理学的なものです。となると、「その予言情報が伝わることによって人々の行動が変化する」というプロセスが絶対に必要になります。しかし、言霊は言葉そのものに霊力があるわけですから、本来は「その予言情報が伝わることによって人々の行動が変化する」という心理学的なプロセスとは(本来は)無関係なはずです。例えば、呪文を唱える場合には、その呪文が相手に伝わったり聞こえたりすることがいつも必要ということはありません。伝わるとしても、せいぜい何らかの神か霊ということになるはずです。これは和歌でも同じはずで、和歌を詠んだだけで言霊が霊力を発揮するはずですが、言霊が霊力を発揮するためには、この和歌が人々に伝わることとは(本来は)無関係のはずです。
もう一つ。「マイペディア97」では「日本では和歌において言霊の思想がうけつがれ」と書いてあります。しかし、CD-ROMの容量の関係なのでしょう、これだけでは解説が不十分なようです。そこで、同じ日立デジタル平凡社の「世界大百科事典(第2版)」で調べてみることにしましょう(なお、マイペディアはこの内容を精選したものです)。
【言霊】 ことだま
日本における言霊の信仰の特色は,文学と関連をもつようになったことにある。和歌を尊重する考え(歌道)に,言霊の信仰の影響が認められる。《古今集》の仮名序に,歌は天地(あめつち)を動かし,鬼神をもあわれと思わせる,とのべているのも,藤原俊成が住吉神社に参籠して,〈和歌仏道二なし〉という神示を得たと伝えられるのも,いずれも和歌における言霊の信仰のあらわれである。無住は《沙石集》において,和歌の徳を陀羅尼としてのべている。そのような考えは,江戸時代の契沖にうけつがれている。さらに富士谷御杖(ふじたにみつえ)によって,《万葉集》の歌は,言霊の信仰にもとづいて作られている,と解釈され,思うことの反(うら)を表現する倒語の方法によって,ことばに言霊が宿る,と主張されたのである。
つまり、言霊によって天地を動かし、鬼神をも感動させることができるわけです。ちなみに、元寇の時に「神風」が吹いたのは、当時の朝廷の人々には、言霊によるものと信じられていました。本来この時期に来るはずのない台風が、朝廷の人々の読んだ和歌によってもたらされたものだと信じられていたからです。これこそが超常現象でしょう!
さて、井沢さんの本を読んでいる人なら分かるように、「言霊」は人間だけでなく物理現象に影響を与える場合があるのです(菊池さんは、261ページに「地震や天災などの人間行動と無関係の予言は自己成就しようがない」と書いているので、こういうケースは「言霊」になり得ないことになります)。そこで、井沢さんが言霊の代表例として取り上げているものを、彼の著書である『言霊』からいくつか抜粋しておきます。
といったところです。また、菊池さんが書いているように、
あるいは、言霊の影響があるものとしては、
というものがあります。
ところが、不思議なことに、このいずれにも菊池さんは反論していないのです。菊池さんが可能性があるとしているのは、「ノストラダムスの大予言」によって「1999年の7月の寸前に…神経症などの精神の変調、自暴自棄の犯罪、そして自殺の増加」が起こるということです。はたして、これらが「言霊」によって起こるとされる「超常現象」なのでしょうか? 超常現象の専門家には確認していませんが、(常識的に考えて)これらを「超常現象」と断定することは無理でしょう。なぜなら、「恐怖の大王が来る」と信じている人がいるために、「神経症などの精神の変調、自暴自棄の犯罪、そして自殺の増加」が起きるというのは常識的に予想できる結果ですから…。別に「超常現象」でも「不思議現象」でもなんでもありません。そんなことは誰だって信じるに決まっています!
結局、私には「自己成就予言」と「言霊」がどうシンクロするのかわかりせんでした。やはり言霊の信じ方が足りないのでしょうか? -- H11.6.26
実は別の問題(?)もあります。この本では、一貫して予言のような不思議現象や超常現象は否定しています。予言は、「当たっているように見える」だけで、本当に当たっているのではないと…。しかし、心理学的には「自己成就予言」というのがあり、そう思うとそうなるという事例は示されています。ピグマリオン効果ですね。 となると、ある種の予言が当たるのには「心理学的(科学的)な根拠」があることになってしまうのですが…。 当然の論理的帰結として、予言を信じるのは「当たるように見える」のではなく(ある種の予言は)「本当に当たる」からということになってしまいます。あれ?(@_@) |
最近の菊池氏は、自分の考えや否定の根拠をあまり明確にしなくなっているようです…。いろいろと事情があるに違いありません。例えば、『児童心理』平成15年12月号の「特別企画 子どもと不思議現象(2) 血液型占いや迷信を信じるこころ」(110ページ)では、
ABO血液型と特定の性格の間に関連があるという、現在の心理学からみれば誤った説が信じられる原因の一端も、こうした思考の錯誤にあると考えられている。たとえば×型の人は、△△な性格だという予期があれば、それに合致する例ばかりが印象に残り、また曖昧な行動は合致するように解釈され、それ以外はほとんど注目されない。その結果、血液型占いは、本当に当たるようにみえるのだ。
ここでは、「〜考えられている」とあり、「この矛盾」の指摘は(なぜか?)消滅してしたようですし、ましてや「解決するような研究をバンバンやって欲しい」という前向きな意見は見受けられません。『児童心理』を読めばわかりますが、(全部で6ページありますから)ページ数の都合でないはずです。つまり、この問題は(意図的に?)避けているという可能性が高いと思われます。
『 週刊文春』 平成17年2月10日号 「血液型占い」どこまで根拠があるの? でも、
「…物事は『ない』ことを論理的に証明することは無理で、『血液型と性格の間に関係がない』とは証明できません。だからといって、『血液型で人間関係や相性を判断できる』と結論づけるのは早計です」
と答えているようです。実は、この文章には、(意図的かどうかは知りませんが)トリック(?)があります。なぜなら、菊池さんは、以前にこう書いていたからです。
ただ、最近は血液型性格判断を撲滅しようという意識ばかりが先走って、適切でない批判をする人も散見される。…
また「A型なのに、ぜんぜん凡帳面じゃない人はいっぱいいる」というように、血液型性格学に対する反証例を挙げる批判法。これも「身の回りの人が当てはまるから信じる」というのと同じ誤った考え方である。血液型学に限らず、おおよそすべての性格理論は統計的なものであって、集団全体の傾向としてしかとらえられない。たとえば筋肉を使った運動能力は女性よりも男性の方が優れていることに誰も異論はな いと思うが、それでも特定の男性を取り上げれば、平均的な女性より力が弱い人はざらにいるだろう。必要なのは個々の事例ではなく、統計的な事実なのである。
いずれにせよ、血液型性格判断はなぜ虚偽なのか、これは提唱者が言うような性格の差が、現実に信頼できる統計データとして見あたらないという点につきる。血液型性格学への批判は確かに重要だが不適切な批判で満足しているとすれば、それは非論理性という点では相手と同じ穴のムジナになりかねないことに注意しなければなるまい。
いうまでもなく、「血液型で人間関係や相性を判断できる」のは、個々の事例です。菊池さん自身が書いているように、必要なのは個々の事例ではなく、統計的な事実なのです!
では、菊池さん自身は、「統計的に差がある(有意差がある)」と考えているのでしょうか? 記事には明確には書いてないようですが、「統計的に差がある」と判断していることはほぼ確実です。なぜなら、この記事のインタービューでは「統計的な差がない(有意差がない)」とは菊池さんは(彼だけでなく誰も)答えていないからです。もし、血液型と性格に関係がないのなら、初めから「統計的な差がない」と言うに違いありません。しかし、なぜか「『血液型で人間関係や相性を判断できる』と結論づけるのは早計です」と答えています。不思議ですね?
ここで注意しないといけないのは、「統計的に差がある」としても、必ずしも「血液型で人間関係や相性を判断できる」とは言えないことです。
従って、何らかの理由で「統計的に差がある」にしても「血液型と性格に関係がある」とは言わない、というのが最も可能性が高いようです。要するに、菊池さんの主張はこういうことです。
なぜ、1と2の主張を省いてしまったのかは謎です。(@_@)
ところが、平成16年12月4日付「ZAKZAK」では、統計的な点には単刀直入に答えているようです(太字は私)。
思い込みで予言が真実になる『自己成就予言』という現象で、最近10年でA型がより『きちょうめん』になったという研究報告もあります」と菊池助教授。
この研究は、言うまでもなく坂元さんの研究です。
以上のことから、菊池さんの態度はかなり揺らいでいるようです。しかし、少なくとも「自己成就現象」によって、統計的な差があることは認めていることはほぼ確実です。
皆さんはどう思いますか? -- H17.2.12
東京に行く用事があったので、○重洲ブックセンターに寄ったら、菊池聡さんの本が置いてあったので、思わず買ってしまいました。
なかなか楽しい本ですので、興味がある方はどうぞ!
「自分だまし」の心理学 祥伝社新書121 H20.8 819円(税込)
血液型の話題に戻ると、彼のことですから、相変わらず「血液型性格診断」は否定しています(当然!)。
ところが、この本では、事実上血液型と性格が関係あることを認めてしまったようです。
ビックリ! (@_@)
例えば…(太字は私)
これまでも、多くの心理学者が、比較的きちんとした性格テスト手法に基づいて、血液型によって人や適性や行動に、血液型性格論者が言うような診断力のある差異が見いだせるかどうかを研究しています。しかし、そこには、信頼性と再現性がある差異は見つかっていません。いわば、血液型で人を見分けることができるというのは、ただの「錯覚」だということなのです。(86ページ)
一読しただけでは、この文章は「血液型と性格」を否定していると感じられるのですが、実は違うのです!
#実は、私も最初はだまされました。(タイトルどおりですね・苦笑)
では、もう一度注意深く読んでみることにします。
「診断力のある差異」が見いだせないということは、「診断力のある差異」でなければ、あってもよいということです。
それを裏付けるように、「統計的な差(異)」がないとは一言も言っていません。いや、それどころか、統計の話は(血液型に限って?)全く出てこないのです! あれ?
つまり、「統計的な差はない」という以前の主張は完全に引っ込めたことになります。
結論として、明確には書いていませんが、小さい「統計的な差(異)」は絶対にある(信頼性と再現性があるデータがある!?)と考えていると判断するしかありません。
しつこいようですが、もともと何の(統計的な?)差異も認められないなら、わざわざ「診断力のある差異」と言う必要はないので、単なる「差異」や「統計的な差(異)」にしても問題はありませんし、以前は確かにそう言っていました。ところが、今回はわざわざ「診断力のある差異」と断っているのです。 不思議ですよね?
念のため、彼の以前の主張を抜粋しておきます(太字は私)。
ただ、最近は血液型性格判断を撲滅しようという意識ばかりが先走って、適切でない批判をする人も散見される。…血液型学に限らず、おおよそすべての性格理論は統計的なものであって、集団全体の傾向としてしかとらえられない。…必要なのは個々の事例ではなく、統計的な事実なのである。
(月刊『百科』 平成10年3月号 不可思議現象心理学9 血液型信仰のナゾ−後編 28〜29ページ)
ABO血液型と特定の性格の間に関連があるという、現在の心理学からみれば誤った説が信じられる原因の一端も…
(『児童心理』 平成15年12月号 「特別企画 子どもと不思議現象(2) 血液型占いや迷信を信じるこころ」 110ページ)物事は『ない』ことを論理的に証明することは無理で、『血液型と性格の間に関係がない』とは証明できません。だからといって、『血液型で人間関係や相性を判断できる』と結論づけるのは早計です
(『週刊文春』 平成17年2月10日号 「血液型占い」どこまで根拠があるの?)
なお、今回は単行本ですから、以前の『週刊文春』のような(自分で編集できない)インタビュー記事ではないし、『児童心理』のように分量を6ページ以内に収める必要はありませんから、ページ数の都合で統計の話を省略したとは考えられません。
ですので、今回から明確に主張が変わった、と考えていいと思います。
言い替えれば、菊池聡さんは、血液型と性格が「関係ある」という肯定論者に“転向”したことになります。
そういう意味では、画期的な本と言えるでしょう。
そのうち、2人目、3人目と続く人が出てくるのでしょうか?
ところで、この本にはマイナーなミスがあります。
それは、血液型は「日本独自のステレオタイプ」(83ページ)と書いていることです。
ABO
FANの読者の皆さんなら既にご存じのとおり、血液型は日本以上に韓国で流行っていますし(『B型の彼氏』という映画までできました!)、台湾や中国でもそれなりに流行っています。ですので、「日本独自のステレオタイプ」というのは明らかに間違いです。
当然のことながら、2007年に発表された、韓国・延世大学の孫栄宇教授の論文も無視されています。
編集者も気がつかなかったのでしょうか? ちょっと残念です。 -- H20.8.4
【H20.8.5追記】 やっと、菊池聡さんへの反論がまとまったので、祥伝社へメールを出そうと思ったら、どうも読者の感想を投稿するためのメールアドレスが公開されていないようです。これには参りました。(*_*) 出版関係の知人に聞いた話だと、書籍への反論は、直接本人宛ではなく、出版社経由で出した方がよく読んでもらえるから効果的だそうです。以前に反論を出した、岩波書店や徳間書店の場合は、メールアドレスなり投稿フォームなりが公開されているのですが、祥伝社はないのかなぁ? 正直、がっかりです。 皆さんも、きちんとした反論がある場合は、出版社経由で著者宛に出した方がいいと思います。私の経験では、しっかりとした出版社(例:日経BP、岩波書店、朝日新聞など)なら、必ず返事が来ます。 なお、老婆心ながら、反論は節度と品位を守って行いましょう。単なる誹謗中傷では逆効果になりますからね。 |
【H26.8.10追記】 錯覚の科学(’14)の訂正放送
ブログから
【H26.7.28】
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