過去のヒマラヤ登山の紹介
K2の遠征隊計画
夢のヒマラヤへ26歳で遠征し、それからの遠征登山は10回です。下記表をチェックください。
トレッキングと遠征現地解散後の小旅行を紹介します。
年 |
月 |
国名 |
山域 |
山名 |
標高 | 詳しくは下記をチェックください | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1975 |
7〜8 |
インド |
カシミール |
7135m | 約7000mまで | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2〜6 |
ネパール |
東ネパール |
8586m | カンチのページ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1983 |
7〜8 |
インド |
カシミール |
7135m | 41himaraya2.htm へのリンク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8〜9 |
中国 |
チベット |
7216m | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7〜8 |
インド |
ガンゴトリー |
7075m | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1999 |
4 |
中国 |
チベット |
チョモランマ峰偵察 |
C2=6200m | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2000 |
3 |
ネパール |
クンブ |
メラPK |
6500m | メラ・ピーク(MERA・PAEK)登山報告 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2000 |
4〜6 |
中国 |
チベット |
チョモランマ峰 |
8848m | チョモランマ2000登山隊ホームページ(東北地区海外登山研究会) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009 | 6 | パキスタン | テステ | スコロピーク | 5600m | テステ村〜順化行動 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009 | 6〜8 | パキスタン | バルトロ | K2 | 8611m (7300mまで) |
北日本K2登山隊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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北日本海外登山研究会K2登山隊
2009K2遠征報告
2009年K2登山隊のすべてここからお入りください
帰国K2報告
バルトロの花々
事務局のHP http://www10.plala.or.jp/furu310/k2_2009/
西川隊員ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/nishi634jp
2006年11月〜2009年8月の記録 K2計画
K2全景コンコルデイアより
バルトロ氷河を行く
ココをクリック下さい
ヒマラヤユキノシタ ランタン谷入口付近
寄稿チョモランマ登山 山に魅せられて
―― 今が一番若い ――
はじめに
「東北より初の8千米峰エベレストをやろうよ!」 6年前の東北地区海外登山研究会の懇親会での席での会話から始まった。
山屋のエンドレス飲み会で盛り上がった事は言うまでもない。
研究会は各県岳連代表と有志の会で参加自由である。1年1回の各県持ち回り研究会。
酒飲みの場での事、99%実現しないのが常識である。まして1年に1回の会の話であり、出席者も変化する会である。
県に帰って自分で説得、援助体制を構築し3ヶ月間休暇と取り参加は、夢のまた夢であり、自分の発言に責任を持つ人達の
集まりであるはずがない。
案の定、当事者達は去っていった。6年間出来事はドラマチックであり、空中分解必至の状況であった。隊長人事が八島隊長となり、
実行委員長、仙台の伊達篤郎さんにお願いする。卒寿の殿様伊達さんと二人三脚の事務局長は仙台市役所勤務の家老職大友幸一さん、
体制が出来上がった。首の皮1枚での体制が保持された。プロジェクト歩みだした。
外部資金は日本の経済状況が反映し、一喜一優。隊員の運命共同体的立場の構築に成功が半年前である。担当は登攀隊長役で
隊のデザインと実践。単独での1年前のBC偵察行より登頂請負人である。
チョモランマの魅力
古生代の地球は、超大陸パンゲアは1箇所集まっていた、それはユーラシアと北米が一緒のローラシアとアフリカ大陸と南米、
インド、マダガスカルが一緒のゴンドワナ大陸が繋がっていた。南に豊かなテーチス海が広がっていた。インド亜大陸が分離し
北上し浮島みたいに移動して衝突、海だった所が迫り上がりヒマラヤ山脈となった。これだけ聞いただけでもロマンを秘め、
充分な魅力を持っています。その証拠に山頂石も直下に横たわるイエローバンドも珊瑚と同じ石灰岩で出来ています。
ヒマラヤとはサンスグリット語で雪の住処の意味であり、その中の一番 king of Himalayaは、チョモランマである。
何処にあるのと聞かれたら中国とネパールの国境にあり、北がチべット自治区で北の人々は珠母瑯馬峰=チョモランマ峰
と呼んでいます。
ネパールではサガルマータと呼んでいます。
また西蔵(チベット)という言葉には、みちのくのイメージが重なって感じられる辺境の地であります。
玄奘三蔵の旅の途中の世界であり、時がゆっくり過ぎてゆきます。
日本人の心の故里があるような、輪廻転承を信じて生きる民がいる所であり、彼らの明るく屈託のない笑顔に会うと
理屈などいらない世界であります。チベット仏教はラマ(僧侶)と在野信者による大乗仏教でこの点でも日本とおなじ形態であり、
解り合える世界です。
中国近代化路線
豊かになれるところより豊かになろうよの中国では、お先に失礼組と昔のままの伝統的経済が存在します、遊牧の民は、
変れない組に入ります。
急激な変化は破滅を表わし、なぜならば開拓、灌漑により塩分集積、多収入を目指す事により多飼育となり、草原の草は、
根こそぎエサとなり、結果、表土流亡、砂漠化に拍車がかかり自滅を意味します。
今日のチベットは近代化の流れが速く、地熱発電、中央アジア最大の高地湖ヤムゾウユンツォの水をヤルツァンポー川
に落として発電に利用。また多くの鉱物資源があり、無尽蔵の可能性を秘めております。そこに住む人にとって乾燥地帯と高地が、
すべての基盤となります。そこに適した作物はチンコー麦であり、家畜はヤクであります。自給自足の伝統から貨幣経済
の流れについて行けない現状があります。村のお店屋さんの入り口には、枡と袋が設置され、
チンコー麦が貨幣と同様な価値を持ちます。
自治は拡大していますが、解放軍が駐留、漢族主導の世界では、残念ながら主役になれない側面も持っているのも事実です。
少数民族がもつ悩みを抱えつつ、そこにあるのがチベットです。
高山病で下山
高山病軽減のため水分補給は隊員の必須条件です。なぜならば血液の濃度を下げるのに水分補給が欠かせないからです。
お茶、紅茶、ミルク茶、コーヒー、いつでも手許にあります。1日2リッター位のむようにしています。
高山病は少ない酸素を多く取り込んで人体組織に送ろうとする生体反応であり、赤血球の増加と血圧の上昇によりこれを
達成しようとします。その結果細い血管を通過するときに負荷がかかり浮腫みとして現れ、脳細胞は毛細血管の多い所であり、
とくに思考低下障害、頭痛が二日酔い状態として現れます。肺水腫はいくらの卵状の肺胞より体液が沁み出し、
肺内に水がたまる病気であり、おぼれた状態で放置により肺胞内での酸素交換ができず死に至る病気です。
初期症状として呼気よりパチパチと音が出ます。ラッセル音と呼びます。
パルスオキシメーターという血液の酸素飽和度を測定する道具があり、高山病の目安となります。
平地では100%ですが、私の場合BC(ベースキャンプ)入山3日目に38%となり、
下の村でちょっと休んで来ようと降りたのが、自己診断でラッセル音が聞こえ、
そのまま標高最低の国境の町ザンムーまで降りて静養することになり、10日遅れの本隊復帰でした。
登山隊の食事
ネパールでの都市滞在以外のプレ登山行動とBC、C3ではシェルパの中のコックが食事を作り、
チャパティとカレ−が主でありますがリクエストで何でも作ります。キッチンボーイが給仕をします。
ここでは現地調達の食事ですが、C4以上では日本から持参の行動食とキャンプ食レトルト食品等を食べます。
低酸素状態ではあまり美味しくありませんが流し込む感じです。
行動中はコンデンスミルクのチューブ入りなど何処でも栄養補給ができ重宝です。
雪山での水は蒸留水と同じでイオンを含まないので積極的にポカリスエットのようなミネラルの入った水を飲みます。
わたしは現地調達の無調味の干し肉をかじっていました。不衛生であまり勧められませんが、
復活後のわたしには合っていたようです。
高所登山の現状
ヒマラヤの8000m峰をジャイアンツと呼びます。許可峰と未解禁峰があります。
中国での外国人登山隊にとっては、支払い義務のあるお客様であり、すべてが設定されております。窓口は、
北京の中国登山協会とラサのチベット登山協会であり、議定書を交わしての出発です。
チベット8千米峰、チョモランマ、シシャパンマ、チョオユーの3山は、世界各国の登山者に人気があります。
登山隊が国単位、個人、国家の垣根を取り払って、国際隊として入山しています。
インターネットで募集し、組織を持たない,個人が束縛されずに登れる道があります。
お金があれば、BCまではOKです。著名な登山家、旧ソビエトの登山家も世界にちらばりコーチ、ガイド、
インストラクターとして活動しています。
遠征隊の報告
行動の概要、
2000年3月2日、日本出発プレ登山、メラピーク6500mで順化行動を行い、
初期順化した体でベースキャンプに入り、極地法酸素利用で全員登頂を目指す。
■高所登山訓練
3月6日、カトマンズよりルクラへ(2,891m)
ナムチェバザール方面で初期順化トレーニングを行なう。
3月21日、メラ・ピーク(6,654m)第一次登頂(保坂,田中,児玉)
3月23日、第二次登頂(小林,三原,高橋,八嶋)
3月28日、カトマンズにて隊務終了後、休養に入る。
保坂、ネパールのランタン谷へ花撮影トレッキングに出る。
■チョモランマ登山
4月12日、チョモランマ登山隊 カトマンズ出発、バス1台、トラック1台にて中国国境へ中国国境の町
ザンムー泊まり中国登山協会の連絡官3名と合流する。
4月19日、ABC(アドバンスベースキャンプ 6,300m)建設。保坂肺水腫になり、ザンムーへ下山し、静養。
5月1日、保坂本隊合流、順化登山を終わる。ABCに下山。
5月17日、第一次アタックメンバーとシェルパ2名 1:00出発
11:00保坂,八島、児玉隊員 登頂。 15:30 C6帰着。
19日、第二次アタックメンバー 田中,山下、小林,今野隊員 登頂。
6月3日、成田到着 昼過ぎ仙台 到着
最後に
遠征隊を組織して出かけるのは、時代遅れの感もありますが、周りに感動と中高年登山者に多少のインパクトをあたえ、
関わった方々と同じ目的のために、時間を共有することは、短い人生の中での一期一会の登山です。
解り合える人の協力をバネにして遠征隊を構築していく方法は、長い道程ですが緊張感が
あり、個々人が目的遂行のために出来る範囲での努力が結実する、合理的な方法です。
今後もこのようなベクトルを大切にして行きたいと思います。
今回の山旅で私は52歳でした、「今が1番若い」をバネにこのプロジェクトに参画いたしました。
会員のみなさんも“今が1番若い”をバネにちょっとだけ“非日常の世界へ、
足を踏み出してみませんか !!” 益々の隆盛を祈念しております。事務局に感謝。
Qomoranma2000隊 登攀リーダー保坂昭憲
筆者略歴
1948年秋田生まれ。
1969年東北化学工業褐S山工場入社
1975年インドカシミール州 ヌン峰7135m遠征
1981年ネパール、カンチェンジュンガ8586m登頂
1983年インドカシミール州 ヌン峰7135m登頂
1986年チベットカルジャン峰7216m登頂
1990年インド、ガンガ最奥部サトパント峰7075m登頂
2000年チョモランマ8848m登頂