12月13日隊荷到着しました。16個到着、   

詳細後日。 反省会 (報告書作成会議) 

2009年北日本海外登山研究会K2登山隊           報 告

                   保坂昭憲                                      

はじめに
 今夏の北日本海外登山研究会(旧東北海登研)
K2遠征隊の報告をさせていただきます。隊長の私は73年頃HAAJEXP研究会で『遠征とは何んぞや』を学させて頂きました。また75年ヌン峰、81年のカンチ峰、86年のカルジャン峰、91年のサトパント峰と2000年チョモランマ8848m遠征し登頂させて頂きました。この度のK2では東北各地の方々のご支援いただき、夢のカラコルムへ登山隊を出す事が出来ました。登れませんでしたが楽しい登山をさせていただきました。
 この場を借りてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。

 隊員は社会復帰、隊荷未到着、体調不良等で報告が遅くなってしまいました。
3年間の計画〜実践までの顛末を報告させて頂きます。BCでのK2登山の昨今を紹介し、以て帰国の挨拶とさせていただきます。

隊の成立ち
20年続いた東北海外登山研究会の名称が北日本海登研に変更したのが6年前山形左沢での会議でした。個人加盟で東北持ち回りの会議であり、日山協やHAJから後援を頂いての誰でも参加できる研究会である。
2006年北日本海登研の席上で2000年のチョモランマ登山のメンバーより『K2行きたいね』との声が上がり、その場で隊長が決まり2009年実施計画が動き出した。眉につばをつけながら、酒を飲み続け、各地で12回のK2会が持たれた。ゼロからの出発でゼロに戻る遠征ではあるが、公募の責任と隊員の命を守る事は至上命題であり、家族会で理解を頂きこれに終始した。東北と新潟の7県が対象で各県岳連に働きかけ募集を行ったが若い人は集まらなかった。来るものは拒まずの体制で臨んだ計画でした。10名の応募隊員は秋田3、新潟3、福島2、岩手1、山形1、で構成し、宮城に事務局をお願いした。
50歳以上が8名の高齢者の登山隊であり、登頂者記録では51歳がレコードである。

登山隊の安全性について テロ対策と交通事情
出発の3ヶ月前にパキスタン大使がお会いして激励したいとの連絡が入り、大使館へ8名の隊員が訪問する。大使は熱烈歓迎の意で迎えてくれた。「困った事があれば、何でも言ってくれ」と社交辞令でも嬉しい言葉をいただき。『越の寒梅』を新潟の小林隊員が、秋田の児玉隊員が『こまち麺』を土産として贈った。即ビザがおりた。
外務省のHPではパキスタンは要注意、と地域別に色分けされています。
イスラマバードではブラブラ外出はあまりせぬ様アドバイスを頂いた。ピンポイントをタクシー移動で仕事をこなした。気温42度の首都を3日であとにする。危険箇所の夜間の移動は危ないとの事にて早朝よりの移動となった。カラコルム街道チラスの手前のチェックポストでポリスが乗り込み護衛をして頂く。
ノーザンエリアは安全で軍施設以外では銃はほとんど見られない。スカルド、ギルギット、フンザとも又この地域は税金も無く、学校もただとの事、車のナンバーも無し、但し
ここの車は首都圏には入れないとの事で、中央政府は穏やかな地域は刺激しない政策のようだ。スワート等のオペレーション地域を抱えているので。

黒く髭のある異邦人である私は宗教を聞かれる事があった。 庶民の宗派対立の根があるのか? 何より怖いのは崖崩れである。順化登山を終えてジープを手配し上がってきた直後、落石がありこれをスタッフ、隊員で退けて脱出。
人間削岩機と人間ブルトーザーである。無事帰途に着いた。バスがインダス河に転落のニュースも入ってきた。フンザ行でも大量の落石あり、中国の海外援助隊のブルトーザーがフル回転でも4時間待たされた。
中国国境クンジュラブ峠からカラコルムハイウエーを道路整備しているが漢族の南下政策を感ずるところである。

登山概要

6月1日 成田を出発 
 本隊6名はパキスタン航空にて会津の宮森さんパーテイ17名と機上の人となる。

イスラマバードではカトマンズより順化を終えた、小林、西川、大友、井筒隊員と合流し、日パトラベルの宿泊所へ、ミーテングを行い、翌日より作業開始。

42℃と暑い中梱包開梱。BC行きと順化登山用に分ける。食料買出し、装備点検、    LO(連絡将校)と面談。登山のためのブリーフィング、ヘリコプターの要請の為の手続き。6月5日の早朝、宿の主人督永さん、大住さんの手製のおにぎりを頂、コーチに乗り込み出発。

6月6日 登山基地の町スカルドへ 
 2日間のドライブにて到着、コンコルデアモーテルに投宿。大量に運ばれたインダス川の砂礫が緩流帯に入り堆積して広川原となっている。ここはグンマスカルド(上のスカルド)河岸段丘的な崖の上にある町である。時折この砂塵が舞う、町にはナツメの花が咲き町中この香りでいっぱいである。高度2000mあり観光避暑地にも成っている穏やかな町である。
現地装備の入手の可否は 
 4店ほどの登山用品店があった。因みにギルギットに2店あり。過去の登山隊の物と中国の物が多かった。トレッキングくらいはOKであった。
靴の強度は信用できない? 酸素は前もってナジール事務所にメールでオーダーしており、24本スカルドで受け取った。またネットカフェでメール可能であるがウイルス対策が必要のようだ2台が感染してしまった。

6月8日 順化登山ではスコロピーク5600mへ
 アスコーレの対岸にテステ村2996mがあります。地図記載はステステとなっています。この上流部が対象の山群があります古くは夏のエスケープ街道『峠越え』スコロラはシガールへの近道として利用された所のようです。カルカ(夏村)があり、左岸に道があり最奥部の左岸のサイドモレーン上にBC 3900mを建設し、順化登山を行なう。情報では易しい山との紹介であったが春早くの入山で雪が残っており、登攀装備がK2BC行きで個人装備も不足した。ネパールでの高度順化している西川隊員がトップに立ち、保坂、遠藤、児玉隊員5500mラインで順化を図った。BC付近で小野寺、大友、井筒隊員がHPと順化行動を行う。
 本隊メンバーはこれでK2BCへの入山が楽になった。若い小谷部隊員がBCで高度障害にかかり小林隊員エスコートでスカルドへ下山。田中隊員不調にてホテルで休養し、回復後は近くで順化を図る。

615日 テステ村をあとにし、
一旦スカルドで疲れと汚れを流して、体調を整える。

6月18日 いよいよキャラバン開始  
最後の村アスコーレからスタートである。
1日2ステージ(2人区)のジョラ泊
トイレ、シャワー室、完備のキャンプ場だ。

2日目2ステージでパイユ=塩の意味がある、高木もここが最後である。ここで一日休養。コーラも売っているが1本がポーターの日当である。
これからは氷河上を行く事になる。世界最長のバルトログレシャーである。
4日目ウルドカス=岩の割れた所の意味、高山植物も見られる。幕地は土の上である。
5日目氷河上のゴレ2
6日目夢のコンコルデア氷河の合流点でフランスの広場に因んで命名。巨人達のコロシアム
7日目K2BC K2氷河(ゴドウイーンオースチン氷河)を行く左岸にブロードピークBCである。 登山隊が5隊ほどBCを張っている。

6月24日BC入り 入山各隊に挨拶して情報収集する。登路の1つ南南東リブルートは数隊取り付いており、選択の余地無し。キャラバンが一緒だった韓国隊の金さんがシェルパ3名と南東稜との事。会議の末、わが隊は南東稜ルートに決定する。取り付き点まで遠いのでBC移動が必要となるがゴードウインオースチン氷河の右岸の基部にABCを設置。これをデポキャンプとし登攀装備類の倉庫となった。
事故で下山して行く隊よりメステント一張求め不足を補った。
3名のローカルポーターを5日雇用し荷上げに専念させる。ABCに隊荷を集結。
氷河のセラック帯ルートは日々クレバスが開いて危険極まりなかった。補修と移動しながらルートを確保した。ABCより上部は5名の登攀隊員と2名のHPの世界となった。

C1へのルート工作はフェックスロープを補強して行なった、
C2へは、残置ロープと垂直の難所ハウスのチムニーは残置のラダーを利用する。
C3へは残置ラダーが1箇所あった氷と岩の世界となり最後は雪の斜面となった。ピッケルとアイゼンがよく利いた、登路に平地は無かった。ハイポーターには荷上げをしてもらい。隊員は登頂のための体調をベストにするための行動に終始した。

725日 C3建設後
 アタック体制が出来上がり、隊員BCにて休養し、村から上げた山羊1頭が胃袋に納まった頃、国際隊よりBC全体が一致協力してボトルネックを攻略しようとの会議が持たれた。異存は無かったが荷がC4分不足していた。荷上げしながらのアタックを余儀無くされた。1日遅れのタクテックスが組まれた。
 わが隊は出発に際し、気象予報をメテオテックラボの猪熊氏と契約しており、1ヶ月間BCに予報を送信して頂く。衛星携帯スラーヤにてパソコンで受信。このメールが8月4日の晴天を予測した。他の隊のロンドン予報、オーストリア予報と一致した。
アタック隊 遠藤登攀リーダー、児玉隊員、西川隊員、小谷部隊員の4名である。

8月1
BCをスタートし
4日目にC4入りを果たす。途中、児玉隊員がC1で体調不良で下山。ハイポーターのファズルアリもC3より高山病で下山。
 4日の夕刻 アタック隊3名とHPのアリムサがアタック出発の予定であったが、5日の朝8時頃にジェットストリーム南下到来の情報が入り。
BCより急遽C3退避を指示する。異議異論はあったが、アタック隊員には苦渋の涙を呑んでもらった。4日当日はすべての登山隊のアタック日であったがボトルネック上部で胸までのラッセルで退却せざるを得なかった。今季登山は終わった。翌日より山頂付近は大荒れとなった。

8月5日下山の手配をするが最短で810日のポーター手配となった。
 他の隊は『また来るぞ』と笑顔で挨拶を交わし早めに降りて行った。エベレスト9回登頂者とかK2登山5回目のカザフ隊など懲りない面々ばかりのようだ。

BCでは
アメリカ撮影隊、カナダ人、国際隊
2隊は、アメリカ人主導の隊(ドイツのガリンダ夫妻も来ていた)。南南東リブルート4隊。他にスペイン人主導の隊があり、エクアドル2名と韓国1名、アメリカスキー隊2名、中国ウルムチ楊春風氏1名それにロシア1名、カザフスタン4名がこのルートを選択入山し、いずれも少人数でわが隊が10名で多いほうであった。スペインのDrが1名登頂との知らせと祝賀会があり、祝意をもって参席。
BCでは否定的な見解の者もあった。未確認である。
 BCでの支援OKと参加の3名(小野寺、大友、井筒隊員)により登攀隊員は登山に専念できた。
 残念ながらBC入山時より体調不調を訴えていた田中隊員はポーター手配し自力下山する事になってしまった。やはりBCでの高度では回復は望めない衰退域である。

 小林隊員は7月30日夕刻呼吸困難となり、翌日ヘリコプター要請し下山。
下山後の診断は肺浮腫であった。ヘリ代8902ドル請求アリ。
日山協の海外登山の保険でまかなう事ができた。

ポーター事情について
 バルトロ氷河では今夏の登山隊が同時に入山したためポーター不足を起こし、請負でBCまでダブルボッカにて運んだケースもあった。テロ等で最後まで登山隊の可否が心配だった。入山隊が激減しており、出稼ぎポーターもアスコーレに集まっていなかったらしい。
 隊荷の移送はエージェントとスカルドのポーター頭3名がポーターを管理する。
 風噂では人の仕事を奪う、馬、ラバは排除運動が起こり、軍隊以外は無いとの事であったが帰路には馬が主力であった。緊急依頼のため麦の刈り取りが重なった為の様だ。

 わが隊のハイポーターはシムシャール出身でこの地域の夏の出稼ぎ者が多かった。シェルパと同じく、高所で生活し夏には5000m以上で誕生する子も居るとの事。
 各隊に友人が居り情報源となった。

最後に
 今回の遠征に際し、日パトラベル、北海道岳連、埼玉岳連、東海大K2隊、労山K2隊、HAJK2隊、どさんこ同人隊、の協力や貴重な情報を頂いた。またHK会議の宮森様より現地の混沌とした政情の流れを逐次メールをいただきました。

遠征に際し協力いただきましたすべての方々に感謝いたしております。帰国の挨拶に変えさせていただきます