令和2年度『設楽原決戦場まつり』は、 イベントを中止しました!! (法要のみ代表者で実施)
設楽原決戦場まつりは、平成2年より令和元年まで30回を数え毎年7月の第一日曜日に開催してきました。 これは、武田勝頼と織田・徳川連合軍が設楽原で合戦となった日が旧暦の天正3年5月21日で新暦では、7月9日となる事によります。しかし近年は、気温が高く『まつり』の実施環境が懸念されてきました。スケジュールを総合的に見直し、今年の開催を6月6日に決定した次第です。しかし新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から法要のみの開催を余儀なくされました。火縄銃をはじめ各種演舞は全て中止とさせていただきます。なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。
『設楽原ボランティアガイドの会』が発足!!(2016.05) なにをまもるのか? 端的にいえば、次の二つになる。 |
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どのようにして「まもる」のか? ・その事柄をよく承知しなければ始まらない・・・調査研究 ・手間をかけて、協同の手仕事として進めなければ続かない・・・協同作業 ・かけがえのない風景・佇まいの意義・価値を再認識してゆく・・・環境への関心 |
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設楽原古戦場の経緯とは
「設楽原の戦い」の三つの理解{特徴} ・武田と徳川の争いに、織田が入ってきた・・・{戦国の分岐点} ・火縄銃が、戦いに大きな役割を果たした・・・{新しい科学技術} ・戦場に倒れた武人を、村人は手厚く奉り続けてきた・・・{地元の心} (数多い武田塚と鎮魂の竹広の火おんどり) |
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活動の5原則 ○「決戦場(古戦場)まつり」の開催 ・当時の期日(旧暦5月21日、現在の7月上旬)・場所(設楽原)で行う ・設楽原陣没者の法要ではじめ、鉄砲演武で終わる |
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○馬防」柵の再現 ・材料の伐採からすべてを行う ・毎年、少しずつ進める ○史跡の整備保存・保護 ・案内看板 ・草刈り清掃 ・周辺環境整備 ○戦いの経緯の調査・研究 ・設楽原史跡調査 ・合戦 ・設楽家 ○会報発行 ・会報・特別号・調査研究まとめ |
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戦国の古戦場は私たちに何を伝えているのか?
今年も、四百三十九年前の天正の「あの日」と同じように、里山では梅雨明けの花「山ユリ」が咲き始めました。ヤマユリが声をだすことはありませんが、花はあの日のことを忘れることはありません。 戦いのすがた ①帰らなかった親子四人 武田軍の足軽大将「横田備中」は、『信長公記』の討死十九人の武田武将の中で「山縣三郎兵衛・西上野小幡」についで三番目に記されています。設楽原に横田の塚は二つあります。 ・横田備中守綱松の碑……天王山 ・横田十郎兵衛康景の碑…有海 江戸時代の『寛政重修諸家譜』等で「横田備中」の系譜を調べると、この二人は同一人物でした。さらに、備中守の四人の息子の内、長兄は三年前の三方が原で亡くなり、次の三人はこの設楽原で全員討死しています。 四月はじめ、無事帰ることを信じて出陣を見送った横田備中の妻女の許には、秋になろうとするのに、誰人帰ることはありませんでした。 |
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天王山の横田備中守の碑のすぐ後ろに、東郷地区の太平洋戦争戦没者の慰霊碑があります。その中にも、出征した兄弟三人が一人も帰ることができなかった名前があります。 横田備中の系譜を調べながら、武人の定めとはいえ戦場の悲しみをひときわ強く感じさせられました。 ※戦いから百五十年の享保の記録は「有海村 横田甚右衛門塚」と記している。「甚右衛門」は横田の五人の兄弟の末弟である。唯一自分の人生を全うした末弟が、その後父や兄たちの碑を建てようとした経緯が「甚右衛門」の名を伝えたのであろうか。 国ゼロ、安中城 甲信の隣国上野(群馬県)の安中城では、城主安中景繁以下ことごとく討死して城へ戻る者はなかったといいます。城地は荒廃し、やがて耕地と化しました。次は、隣町高崎出身の土屋文明の句です。(昭18) こばみがたき 甲斐の権勢に従ひて わが上野人 多く討たれき |
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戦いのすがた ②戦場のきまり「高札」 武田軍が長篠城を囲む直前の四月、部隊の規律を徳貞郷の村人に約束した高札が残っています。 高札 徳貞 当手軍勢甲乙 人等、於彼郷中 不可濫妨狼藉、 若有違背之族者 可被行厳科者也 仍如件 天正参乙亥 卯月晦日 |
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徳貞郷は今の新城市「徳定」で設楽原の西隣です。この七日後の高札が遠州「渋川郷」(引佐)にあり、武田軍の長篠進攻の東西の経路を意味するようにもとれる史料です。 通過する村にたいして、「皆さんに迷惑をかけるような乱暴狼藉はしない」と約束をしています。勝ち戦さも負け戦さもあり、どれほど徹底したかは分かりませんが、少なくも司令官は自分の「(武田の)龍印」を押して責任の所在を明らかにしています。 振り返って、「わが国だけではない」にはじまる時の話題提供者の言動は、その発想において許しがたい。 「戦い」は、いつの時代も理不尽です。それを踏み越して挑んだ当事者は、どんな設計図を画いていたのでしょうか? |
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