設楽原をまもる会
いろはかるた

戦国の分岐を演じた古戦場   
砲の戦いを演じた古戦場・・・設楽原


Topボタンイベントボタン調査・研究ボタン発行図書ボタンかるたボタンガイドボタンリンクボタン

かるた看板
 往時の戦いをしのびながら戦死者の供養をつづけ、戦跡や伝承をのちのちにまで残したいと、「設楽原をまもる会」を結成し活動しています。
 この戦いのすがたを、会員が苦心の末「いろはかるた」四十八句に詠みあらわして、その句標を因む場所に
たって、古戦場のガイドブック「かるたで
つづる設楽原古戦場」をつくりました。
 このかるたの絵札に使われている版画は、古戦場の真中に建っている東郷中学校の版画クラブのみなさんが学業の余暇をみつけては、戦史を調ぺ、現地を訪ね、古老の話に耳を傾けて彫りあげてくれたものです。(昭和58年)

家康が本陣ここに八剱山

天正三年(一五七五)五月、戦いは、長篠(ながしの)城をめぐる奥平(おくだいら)軍と武田軍の攻防から、五月二十一日、設楽原(したらがはら)での織
田・徳川連合軍と武田軍の全面対決へと進んだ。
 このとき、徳川家康は、両軍激突の連(れん)吾(ご)川を目の前に見下ろす弾正山(断上山)に本陣をおき、武田の主力を迎え撃ったといわれる。危険な最前線に本陣を構えたのは、信長に援軍を頼んだいきさつからであろうか?

 かるた・い
 

  老将の言 勝頼は封じたり

長篠城救援のために、設楽原に押し寄せた織田・徳川連合軍の大軍を前に、医王寺の武田本陣で軍議が開かれた。
軍議の意見は、ま二つに分かれた。二年前まで、信玄と共に戦場を駆け巡ってきた馬場・内藤・山縣ら経験豊かな老将たちの意見は慎重だった。
一方、勝頼の側近として頭角を現してきた一部若手武将の意見は設楽原進出に積極的であった。
勝頼は、全面衝突への道を選んだ。決戦の日、最前線に布陣したのは、慎重意見の老将たちであったという。

 かるた・ろ
 

   はたぼこと 秀吉陣地の名を伝う

 織田軍が設楽原へ布陣したとき、秀吉は牛倉の高台の一つに陣をしいたという。
 秀吉が布陣したとされる一帯の宗(むね)国(くに)を、土地の人々は「はたぼこ」と呼び、四百余年前のできごとを、今に伝えている。
 当時、上り坂の羽柴秀吉軍の旗が、風になびく姿が目に浮かぶ名前である。ここの峰続きは信長本陣の茶臼山であり、信長の信頼を感じさせる場所といえる。
 この戦いの前年、秀吉は、木下藤吉郎から羽柴筑前守に改めている。この時の信長の記録にも「羽柴藤吉郎」とあり、木下から羽柴への変わり目の時期でもあった。

 かるた・は
   
Topボタンへ戻る 

Copyright © 2016 mamorukai right reserved