当時の路地の様子
- 路地にはポンプ井戸のある所もあって、夏場の水撒きや子供たちの水遊び等に使われていました。夏に涸れることがあって、そんな時は迎い水を入れてガッシュガッシュやることで回復しました。
- 夜間の路地の照明は、路地の中ほどに直径15センチ程の丸い電灯が3~4個所あるだけで、電灯と電灯の間は真っ暗闇でした。夏の夜に花火などをして遊ぶ時には、当時流行っていた、棒の先にソロバンの玉のような形の折り畳みの提灯を持って出た時期もありました。
- 路地の各家の前に小さな溝があって生活排水が流れており、赤いイトミミズがびっしりいました。キャッチボールや三角ベース、いんさい等をした時にボールがはまりましたが、気にせず拾っていました。消毒薬の散布が来るようになって減ったと思います。
- 各家のごみ箱は木製のリンゴ箱を利用するのが多かったのですが、昭和30年後半のある時一斉に蓋つきのポリバケツに変わりました。ゴミ収集の人が路地の外の通りに止めてあるゴミ収集車に運ぶのに便利で衛生的だから、ということだったと思います。
(昭和31年駸々堂発行)
路地を訪れた行商の人々
- 夏になると、お婆さんが大きな四角いつづらを背負って「麦茶に、はったいこ~」と言いながらやって来ました。はったい粉(麦焦がし)は、大麦の玄穀を焙煎して挽いた粉だそうで、そのまま食べたり、お湯で練って食べたりしました。
- 包丁研ぎ屋のおじさんが「はさみほーちょーとぎ」と言いながらやって来ていました。
- 竿だけ屋さんは「さおだけ、えー、さおだけ」と言いながらやって来ていました。
- 「ロバのパン屋はチンカラリ~」という音楽とともに、ロバに牽かせたパン屋が近くの通りまで来たことがありました。子供同士では、ロバの馬糞で出来ている等と言い合っていましたが。後にはロバの代わりに自動車になりました。
- 「チューヤン」と呼んでいた障がい者の兄ちゃんが、たまにサンドイッチマンとして鐘をたたきながら路地を通り過ぎて行きました。
- 手拭いを姉さん被りした花屋さんのおばさんが、リヤカーに花を積んで月に1~2度程回って来るので、主に仏さんの花を買っていたと思います。
- 正月前には賃つき屋さんが回って来ました。家の前で餅をつき、つきあがった餅を家の者が玄関の上がり框で切り分けたりしました。白餅以外にもヨモギ餅や豆餅等もついてくれました。子供たちは、どの家まで回って来たか偵察したり、出来あっがった餅を丸めたりあんこをつめる等の手伝いをしました。
当時の遊び
- 小さいうちは、地べたにゴザを引いたままごとや色水遊び、花いちもんめやかごめかごめ、ゲタ隠し等で遊びました。「ゲタ隠し」では、鬼役が目を塞いで「げたかくししゅうれんぼ、はしのしたのねずみが、ぞうりをくわえてちゅっちゅくちゅ、ちゅっちゅくちゅまんじゅはだれがくた、だれもくわないわしがくた。」という不思議な唄を歌ってから隠されたゲタを探し始めました。またろう石(月光のあれこれ日記より)で地面に絵をかいて遊びました。
- 少し大きくなると、鬼ごっこやかくれんぼ、缶蹴り・Sけん・石蹴り、竹馬遊び(上記写真)等で遊びました。また荒っぽいところでは胴馬が人気でした。
- ボール遊びは、路地でも出来る三角ベースやいんさい(呼び方は地域によっていろいろあったそうです)がメインでした。いんさいでは特に天下町人と言って、コートの4つを、天下・町人・武士・大名と名付けて、下剋上を行うルールが人気でした。路地では庭球で、小学校ではドッジボールでやっていました。
- 西部劇ブームや戦争ものブームがあり、巻き玉火薬や銀玉のピストル(東京下町TOYCLUBより)でよく遊びました。
- 虫取りで多かったのは「ブイブイ(コガネムシ)」で、色も緑や赤などの光沢色、ごまだら模様のもの等、多種多様で、薄茶色で光沢のないのは「おじんブイブイ」と呼んでいました。そのブイブイに糸をくくりつけて飛ばして遊びました。
- 花火の変わり種としては、明るいうちから遊べるネズミ花火やヘビ花火(化学と歴史のネタ帳より)、夜はお化け花火(MUUSEOより)などが面白かったです。
- 今では考えられない玩具で、ケロシンかベンジンだったかを入れて飛ぶロケットエンジン(月刊「少年」の中の広告より)というのがあり、一度だけ路地で付属の飛行機を飛ばしたことがあります。危険ということで禁止になったのだと思います。