昔の六甲道

街並み再現
プロジェクト
(昭和30・40年代)

六甲道駅周辺の街並みを再現します。
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  1. 駅南のウェルブ六甲道の辺り一帯は一丁にわたる広大な敷地の屋敷でした(『なだなだ』No.16号の右下の写真)。聞くところによるとある保険会社の関係の屋敷だったそうですが、昭和30年代には神戸製鋼所の深田寮の敷地となっていました。中に池もあり、赤腹などもいたそうです。その北側に隣接して大阪国税局や郵政省職員宿舎六甲寮、がありました。一度だけ、垣根の破れ目から中を覗いたことがありました。
  2. ベスト電業社(ベスト無線工業)がありました。三宮の星電社が有名になるまではこちらのお世話になっていました。S34以前には3の幸福堂の東隣にあったようです。
  3. この辺りに和菓子屋の幸福堂があり、うぐいす餅などをよく買っていました。
  4. 通りの西角のドブ川の横に理容ササマがありました。待ち時間に新しい漫画雑誌を読むのが楽しみでした。
  5. この辺りに食堂「三角」の駅南店がありました。しのだ(うどん)等を出前してもらったことがあります。
  6. 踏切のそばには小さな丸安百貨店がありました(『なだたま』の3枚目の写真。5枚目には丸山百貨店も)。
  7. この角には丸山百貨店がありました(『散歩なう』の写真の6・7枚目)。洋服などの雑貨が所狭しと並べられていたこと、入り口を入って左手に階段があったことを覚えています。また、日曜の朝等にセスナ機で「こちらは丸山百貨店~」と空から宣伝していました。空からビラをまいていた時もありました。
  8. この辺りにお好み焼き屋のちゃ子ちゃんがありました。結構有名で、遠くにまで知られていたようでした。
  9. この辺りに昭時堂時計店があり、よく眼鏡を直してもらいに行きました。
  10. 六甲映劇(六甲映画劇場)があり、ここで「宇宙大戦争」(昭和34年)や「ゴジラ対モスラ」(昭和39年)等を見ました。
  11. パニエ六甲のある場所は震災前は八幡市場でした。その東の突き当りから南北に、アーケードのある八幡商店街がありました。昭和50年の航空写真(国土地理院ウェブサイトより)にアーケードが写っていますね。55~62番の宮前商店街・市場も写っています。
  12. 八幡商店街の中にあった植松文具店は、かなり大きな店で品揃えが多く、洋裁をしていた母親が型紙用のハトロン紙を買いに行くのについて行ったりしていました。
  13. 西外科は盲腸の手術が上手いということを聞いたので、ここで手術を受けました。s35ぐらいまでは少し東南の伊藤ハムの工場の近くにありました。
  14. 家の近くに広い場所はなかったので、大和公園に正月の凧あげや野球をしに行きました。
  15. 踏切の傍にお好み焼き屋(にくてん屋と呼んでいました)があり、阪神の本屋敷選手の親族で顔のよく似たおばさんがやっていました。
  16. 小さな模型店があり、プラモデルやゴム動力の飛行機を買っていましたが、店がなくなったので、高徳町の六甲模型店(トコナミと呼んでいました)に遠征するようになりました。
  17. 間口が狭くて薄暗かったおもちゃ屋のえみやまでは、ねずみ花火やヘビ花火、おもちゃのピストルの巻き玉などをよく買いました。
  18. 浦青果店では焼き芋を売っていましたが、輪切りの芋をフライパンで焼いてゴマをふったもので、これは焼き芋ではないといつも残念に思っていました。その2階はタイル張り風のモダンな造りで、一時親戚が下宿していたことがありました。
  19. 甲南温泉では子供の日にはしょうぶ湯をしてくれて、しょうぶを詰めた袋につかまって泳いだりしました。
  20. 徳田菓子店は、駄菓子屋というより、森永などのメーカー菓子を売っており、ちょっと高級感がありました。明治のサイコロキャラメルやケンコーのこまチョコをよく買いました。
  21. 滝歯科は、当時は珍しかった美人の先生がやっていました。
  22. 坂谷内科医院のちょび髭の先生が往診にも来てくれていました。待合室には赤痢など色々な病気の便の標本が飾ってあり、いつも見入っていました。
  23. ここには黒川薬局がありました。上半分がガラスの扉が幾つか並んでいて、結構広かったように思います。
  24. 小さな喜久屋食堂があり、長靴をはいたおじさんが岡持を下げてエッチらオッチラ、中華そばを出前してくれました。
  25. 米屋の正直屋では、精米機で米が滝のように流れ落ちるのを見るのが楽しかったです。布袋さんのようなご主人と、バイク好きの若い兄ちゃんがやっていました。
  26. この角にタバコ屋がありました。父親に「いこい」や「新星」を買いに行かされたこともありました。
  27. S41頃から不二家コンフェクトがあり、嬉しく思っていました。
  28. 真っ暗な夜道にポツンと野村産院の赤い門燈がついているのを少し不気味に感じていました。私自身はここの産婆さんに取り上げてもらいました。ここの路地は、他と違って道がコンクリートか石造りでした。
  29. 駄菓子屋やまざわがあり、たこ焼やクジ引きで当たるけばけばしい色の魚などの形の寒天菓子、あるいはガラスの細い筒に入ったジュースなどを買いました。線路のそばで鶏を飼っていた時期もありました。
  30. 小さな電気屋さんがあり、電球等はここで買っていました。
  31. 謎の駄菓子屋(おばんとこと呼んでいました)。昼なお暗い店内で、祈祷師も兼ねているおばあさんがやっていました。野球カードなどを買った記憶があります。
  32. 箱屋さんが、ガッチャガッチャと軽快な音を立てて紙の箱を作っていました。
  33. 門の内に3~4段の螺旋状の階段のある洋館風の二階建が空き家になり、子供たちで空き家探検をしたことがありました。
  34. 酒屋の馬戸商店には、多い時は3人の小僧さんがおり、夏にはキリンレモンの配達もしてくれました。ショーケースで菓子パンも売っており、山の形の甘食や、真ん中に赤や緑のシロップ漬けの乗った細長いバタークリームパンを買いに行くのが楽しみでした。立ち飲みもやっていて仕事帰りのおじさんたちが立ち寄っていました。
  35. ここの店では関東炊き(おでん)を、また夏にはところてんを売っていました。
  36. 琵琶珠算塾(磯貝そろばん塾と呼んでいました。)がありました。1m位の大きなソロバンがあり、騒いでいたりしたら罰でその上に座らされたりしていました。
  37. 小さなコロッケ屋さんがあり、3個10円ぐらいだったと思います。
  38. 大規模クリーニング会社の白星社がありました。
  39. 白星社の第2工場がありました。どちらだったか忘れましたが、大型のスチーム・プレス機から蒸気が上がる様子にいつも圧倒されていました。
  40. 灘郵便局の本局がありました。たくさんの局員がのんびりしていた印象がありました。
  41. 鈴木薄荷の工場があり、近くを通ると漂ってくる薄荷の匂いが大好きでした。平成29年にポートアイランドに移転したそうです。
  42. ナダシン本店では昭和56年まで「うどん」もやっていて、安いので何度か母と食べに行ったことがあります。
  43. 今の烏帽子中学校の南には昭和30年代半ばまで大きなため池があり、魚なども釣れたそうです。
  44. また、その東側には木造平屋の県営住宅が立ち並んでいました。結婚したての叔母さんが入居していて訪ねて行ったことがあります。
  45. この辺り一帯は小泉製麻の敷地で、レンガ建ての工場か寮の2・3階の窓から女工さんたちがよく顔を出していました。
  46. トコナミと呼んでいた六甲模型店には、いつも正月にお年玉をもらうとプラモデルを買いに行きました。いまは有名な鉄道模型の専門店になっているようですね。
  47. 母親が40代で服飾デザインの勉強に通っていた六甲ドレスメーカー女学院(横田学園)がありました。1976年に神戸服装専門学校になりましたが、今は無くなりました。
  48. ご存じ南天荘書店。月間漫画雑誌の「少年」を、ここで取り寄せていました。後には「ボーイズライフ」という、ティーンエイジャー向けの月刊紙も買っていました。
  49. ここに食堂「三角」の駅北店がありました(『散歩なう』の写真の20枚目)。
  50. 貸本屋のあおい文庫があり、おばさんとお姉さんがお店をやっていました。「落語漫画」や「ロボット三等兵」などをよく借りました。また、洋裁をしていた母親が「装苑」や「ドレスメーキング」等の雑誌を取り寄せてもらっていました。
  51. ここに小さな喫茶店「三休」がありました。一度、母親に連れられて入ったことがありました。
  52. 駅の西の踏切の角に寿司屋博多鮨がありました。白い調理衣を着て高下駄を履いた板前さんたちを周囲でよく見かけました。自宅の向かいの家が良く出前してもらっていました。
  53. 氷屋さん谷林商店があり、氷式冷蔵庫用の氷を配達してもらっていました。夏には家で石鹸箱に刃がついたようなかき氷器でかき氷をしました。
  54. 銭湯の「神港温泉」がありました。何回か行ったと思います。
  55. 畑中の八百屋さん。宮前市場の中にもお店がありました。
  56. 宮前商店街の中のこの辺りにたこ焼き屋さんがあり、買い物について行って買ってもらうのを楽しみにしていました。
  57. 宮前商店街の中に専業のたまご屋さんがあり、今と同じような値段で売っていました。
  58. この辺りに岩田菓子店があり、市場についていった時にお菓子を買う時がありました。
  59. ここに豆腐屋さんがあり、「ソップ(今でいう豆乳)」の立ち飲みをやっていました。
  60. 東西に伸びた宮前市場がありました。一度中ほどで火事があったと思います。
  61. 六甲東映がありました。祖母に連れられて時代劇か何かを見に行ったことがありました。
  62. コープ神戸六甲のすぐ南隣りの船曳耳鼻科にはよく通いました。
  63. 浄土真宗の光圓寺さん。三代にわたるご住職に月詣りに来てもらっていました。
  64. 毎年12月23日に、この辺りにあった某市会議員宅で子供向けのクリスマス会がありました。お菓子が入ったサンタのお面をもらうのが楽しみでした。
  65. 踏切横に、機関車等の向きを変えるターンテーブルがありました。灘駅との間にあった東灘操作場の一部だったそうです。また、操作場の近くだったからか、夜中にこの辺りで貨物列車がガッタンゴットンと徐行し、止まってしまったりすることがよくありました。
  66. 銭湯の「古鷹温泉」があり、甲南温泉が休みの時にはよく利用していました。名前が悪かったのか、後に「美鷹温泉」と名前を替えています
  67. 千旦通にある灘小学校の場所には以前、花園中学校がありました。その後、昭和38年に花園中学校が廃校となり、代わって市立摩耶高校が出来、その摩耶高校も昭和45年に市立兵庫高校と統合されて移転し、現在の灘小学校になったという変遷の歴史があります。