渡邊芳之さんからのメール


ABO FAN


Pencil_and_Paper32.gif (245 バイト)渡邊芳之さんからのメール

 性格の一貫性と血液型でお世話になった渡邊芳之さんからのメールです。お忙しい中、ご返事をいただきまして大変ありがとうございました。心理学者や否定論者は議論があまり好きでないような印象を受けていたのですが、どうやら私の勘違いもあったようです。
 私の主張には、論理構成・データの間違い、曖昧で不明瞭な文章等、不行き届きな点が多々あると思いますが、ぜひ寛大な心で見守っていただいき、同時にどしどし指摘していただければ幸いです。

 なお、『ABO FAN』では、原則として敬称は「さん」で統一していますが、ここではメールの性質上「先生」を使うことにさせていただきます。どうかご了承ください。>ALL -- H12.1.21

#その後、「先生」ではなく「さん」にしてほしいとのことなので、「さん」に訂正しました。

 [その1〜14]→800KB以上あります!

 [その15以降]→700KB以上あります!

【読者のための解説】

 すごい量になってしまいました。(*_*) 議論をわかりやすくするために、ちょっと解説しておきます。

 渡邊さんは、基本的に行動主義の立場に立っています。

#行動主義の詳しい説明は専門書を読んでくださいね。

 ここでは、血液型と性格に関係するところだけごく簡単に解説しておきます。

 渡邊さんの立場(=行動心理学)では、原則として質問紙による性格心理学のデータは「ダメデータ」なのです。だから、当然のごとく無視することになります。現在の性格心理学は非常に問題がある(疑似科学?)のです。ということで、私のように性格心理学者のデータをあれこれ分析しても、血液型と性格が関係あるとは言えない、ということになります。なにしろ、元々がダメデータですからね。(^^;; 行動のデータじゃないと客観的じゃないからダメなのだそうです。

 では、能見さんが示した職業別データや行動データはどうか? これまた、ランダムサンプリングではないのでダメということです。つまり、血液型と性格に関係があるというデータは何一つない、ということになります。だから、血液型と性格は関係ないと…。少なくとも、積極的に関係あるとは言えない、という結論が得られることになります。

#ここまでわかるのに1MB以上のメールのやりとりが必要だったとは…。ふぅ。

 また、行動心理学では、原則として「意識」や「心」については、無視することになっているようです(なぜ?)。

 以上のことから、血液型が「意識」や「心」に影響を与えたり、行動に影響するということはありえない、という結論になります。つまり、現時点では血液型と性格は関係があるという根拠はない、というのが渡邊さんの主張です。

 ここまでわかれば理解しやすいはずですが…。

#現時点では、血液型と性格の関係について分析できるまともなデータがないのだそうです…。

 閑話休題。

 しかし、まともなデータがないものは確定的な結論は出せないはずです。つまり、血液型と性格は「関係ある」とも「関係ない」とも言えない、と思うのですが…。渡邊さんによると、新・心理学がまもなく完成され、そうなると血液型と性格が関係ないことが理論的に証明される…のだそうです。とは言っても、現時点で未完成(不完全?)の理論を使って、血液型と性格は関係ない、と主張するのは少々無理があるのではないでしょうか?

 ところで、行動のデータも、自分の性格の認知(血液型による自分の性格の認知)によって影響されるとのことです。つまり、行動のデータを分析すると、必ず血液型の影響が現れることになります。認知の影響を取り除く方法は不明(?)なので、行動のデータも結局「ダメデータ」と言わざるを得ません。となると、やはり何の結論も得られないことになるのですが…。はて?

 くどいようですが、関係がないことが証明されたのではなく、とにかくまともなデータがないということです。渡邊さんによると、将来的には関係がないというデータが得られるだろうのことですが、私にはそうは思えません。なぜなら、心理学者のデータによる血液型批判は、すでに20年以上の歴史があるからです。しかし、いまだに「ダメデータ」ということなら、将来的に改善されるとも思えません(失礼!)。

 だいたい、ミシェルの性格検査への批判(1968年)からすでに30年以上たっているのですが、性格心理学はあまり改善されてません。専門書にも明確にそう書いてあります。性格心理学自体がそうなのですから、血液型と性格について改善できるとは、私には到底信じられないのです。

 いずれにせよ、渡邊さんによると、心理学ではまともに血液型と性格を否定できるデータがないのは確かなようです…。

#時間切れになってしまったので、私にはこれ以上なんとも言えません。

 何が正しいのかは、読者自身で判断してみてくださいね。 -- H12.3.29

【渡邊さんからのメール】 H12.3.30 18:29

今日ひさしぶりにABOFANホームページを拝見したところ,「渡邊芳之さんのメール」コーナーが改装されていました.

新しいページでは,ABOFANさんが議論の「まとめ」をされています.しかし,このやり方は少し卑怯ではないでしょうか.そこにかかれている「まとめ」は明らかにABOFANさんの立場と理解に基づくもので,私に言わせれば「あいかわらずなにもわかっていない」としかいいようのないものです.「わかっていない」内容についてはまた議論の繰り返しになりますので述べませんが.

また,私はこの種の「まとめ」を議論の「中」で行ないました.それに対してABOFANさんは「まとめ」で答えることはせず,いつものような「質問モード」で議論を終わらせたままにしていました.それを今頃になってこのような,いかにも「議論の外」からまとめたような「解説」をつけるのは変です.ABOFANさんの「まとめ」はあくまでも私の「まとめ」を受けて,議論の一番最後のところにつくべきで,このように読者が最初に読む「解説」として示されるべきではありません.

少なくとも,この解説がページの冒頭についていることは「議論をわかりやすく」すると言うよりも,読者にABOFANさんに都合の良い先入観をあたえるもので,まったく不公平だと思います.

私の希望は,ABOFANさんの「解説」部分を「箱」から出して議論の最後の部分に「ABOFANのまとめ」として付け加えることです.そうであれば読者はこれが「全体の正当な解説」ではなく「ABOFAN個人の理解」であることがわかると思うからです.また,私の最初と最後の手紙にABOFANさんのまとめとはいえないまとめだけをつけ加えたようなまとめ方で公開することもやめてください.もし,ABOFANさんが個人的にこの議論をまとめたいというのであれば,議論のページとは別に「議論のまとめのページ」を作られたらいかがでしょうか.

もちろん,ABOFANホームページは個人的なもので,私の意見には強制力はありません.そこで提案ですが,この議論全体を私の研究室HPに転載しても良いでしょうか.そこでは,議論をまったくそのまま表示するだけで,私が勝手に解説を付けたりすることはしません.転載を認めていただければ,私はABOFANホームページにおいてこの議論がどのようにまとめられても今後一切文句を言いません.

転載を認めていただけるのでしたら,転載の条件など細かいことは改めて詰めたいと思います.

よろしくお願いいたします.

【私からのコメント】

 わざわざメールをいただき、大変ありがとうございます。

 早速ご要望の件についてお答えさせていただきます。

 まず、このコラムの中の「解説」ですが、私なりの理解を書いたつもりですので、渡邊さんの立場からすると違っている点や間違っている点(?)があるのは当然です。

 最初に持ってきたのは、読者(主に肯定側の人が多いでしょうから…)の便宜を図ったためで他意はありません。この方が読む人が増えるんじゃないかなぁと思ったものですから…。(^^;; 結果として私の立場が有利になる(?)かどうかはなんとも言えませんが、渡邊さんのように「フェアじゃない」と感じる人もいることは当然ですし、そういう批判は甘受するつもりです。

 実は、やっぱり解説を最後にもって言った方がいいのかなぁ、とも一度は思いました。そこに渡邊さんのメールも来たので、正直かなり迷ったのです。しかし、何らかの説明文がないと、どう考えても読者が増えそうもありません。心理学者から抗議のメールが殺到でもすれば別ですが、やはりこのままの方が読者が増えそうだということで、とりあえず現状のままにさせもらえないでしょうか。もちろん、今後の読者の反応によって方針を変えることはありえます。

 今回の解説の追加については、渡邊さんにメールを出そうかどうか迷ったのですが、結局面倒になってしまって出しませんでした。その点は申し訳なく思っています。

 なお、転載の件については無条件でOKです。非営利活動である限り自由ですから、解説を付けようが批判しようが別に構いません。

#逆に転載して迷惑にならないのでしょうか?(^^;;

 さて、私のHPでは誤字脱字等は明記せずに随時修正していますし、たまに今回のような追加説明をする場合もあります。予めご了承ください。もちろん、このページのような議論の記録の場合は、原則として文章の内容自体を修正することはしていません。

 よろしくお願いします。 -- H12.3.31

 次は一番最初と最後のメールだけ掲載してあります。

Red_Ball12.gif (916 バイト)No.316 渡邊芳之さんから H12.1.20 14:01

4.メッセージ:

1.心理学者が反論しない理由

 ABOFAN・HPを多くの心理学者が見ていることは事実です.しかし,菊池さんなどごく一部を除いては,その内容に反論したり,意見したりする人はいません.しかし,これを「ABOFANの内容が真実で,反論できないからしない」と捉えるのは間違いです.
 心理学に限らず学問にはそれなりの方法と知識の蓄積があります.それを専門とするものはそうした蓄積を教育され,自分でも学んでおり,学問上の議論はそうした蓄積を「前提」にして行なわれます.したがって,研究者同士の議論は前提の部分は抜きで,問題点だけを議論することができます.しかし,そうした蓄積を持たない人との議論は,前提となる蓄積から説明していかないといけないので,たいへん時間と手間がかかります.実質的に相手に「心理学の教育」をした上でないと,議論にはならないからです.多くの心理学者は,それが難しい専門知識を要する問題であるほど,一般人と議論するのは嫌います.簡単に言えば,議論を成り立たせるまでの手続が面倒だし,そんな時間があれば専門家同士で議論したり,自分の研究を進める方が効率的だと考えているのです.私もABOFANさんと議論しようと思っても,そのために議論の前に理解してもらわなくてはいけない事柄があまりに多すぎるので,げんなりしてしまいます.その点菊池さんは偉いなあ,と思います.
 たしかに一般の人としては驚異的に勉強されており,心理学者でも私たちが紹介するまでほとんど誰も読んでいなかったミシェルの本を読まれたり,統計の技法もよく勉強されていて感心します.自分の学生たちにこのくらい熱意があったらなあ,などとも思います.しかし,性格の問題,とくに一貫性問題などかなり専門的なことについては,議論するために必要な前提がまだまだ多すぎるのです.たとえば一貫性問題の解説などを読むとほとんどの人は「なんだ,当たり前のことじゃん」と思います.しかし,この「当たり前」という反応こそ,問題をまったく理解していない人,理解していない心理学者が典型的に示すものなのです.しかし,なぜその反応が誤りなのか,一般の人にわかるように説明しろ,といわれたら最低でも本一冊は必要です.
 私たち一部の心理学者が血液型性格学に興味を持つのは,それが正しいかどうか,ではなくて,それを信じている人がなぜ信じるのか,とか,どうしてそういう俗説が限りなく生まれるのか,という点です.そして,血液型性格学の分析を通じて,心理学の中にあるいろんな問題点が浮かび上がってくる点です.たとえばABOFANさんが心理学の統計技法について指摘することとか,統計的には血液型と性格に差があるということとか,これらは私も本当だと思います.だからといって心理学より血液型の方が正しいとはならない.そうではなくて,心理学が原理的にも用法的にもこんなに問題のある統計という技法にあまりに頼りすぎているのは良くない,という視点が生まれるわけです.
 心理学はその扱っているテーマが誰にでも興味の持てるものだけに,一般の人が自分でもすぐに理解でき,議論に参加できると思いやすい.もし「ケクラマゴケモドキに含まれるテルペン」とか「Aspergillus terrus K26によるイタコン酸発酵」とかいう研究テーマなら,普通の人は自分が議論に参加できるとも思わないでしょう? 実際には心理学が積み重ねてき,議論の前提にしている知識の量というのは「しろうと」がすぐ議論に参加できるほど少なくはないのです.ABOFANを読んでも反論しない心理学者の多くは,議論を成り立たせるためにまず伝達しなければならない知識の量の多さを考えると,めんどくさくて反論する気にならないのです.こうした心理学者の態度が正しいとは言いませんが,それが現実です.

2.性格と血液型に関係がないという根拠

 それでも私は議論しようとしているのですが,ここでは敢えて議論の前提が成立しているものとして議論してみます.私の説明がもし理解できなかったら(注1),それは議論の前提が成立していないということです.
 私は「性格」というもの自体,特定の時間と場所,特定の状況,特定の対人関係の中で一時的に生じる,関係的な概念であると考えています.誰かを「明るい性格」だと言うときには,「いつ,どこで,だれが,だれを」明るいと言ったのかが特定されなければ,その言説には意味がありません.同じ人が,他の場面で,他の人から見ても「明るい」かどうかはさまざまな文脈的変数の関数です.ただ,ふつう一定の安定した状況の中で暮らしているわれわれの認識はそうした文脈的な条件を捨象するように出来ており,そうした性格がその人固有で,一貫したものであるかのように錯覚します.普通の生活ではその錯覚には実害がありませんが,それをそのまま科学理論とするのは無理です.
 つまり,性格というものが本人の内部にある,固有の何かで,科学的な検討の対象になるものと考えること自体が錯覚なのです.その点で,性格が内的で一貫性のあるものと考えてきた従来の性格心理学も,血液型で性格が決まるという考え方も,錯覚を実体と取り違えている点で同じく間違っています.ところがわれわれの日常的認識はとてもいい加減ですから,性格理論とか血液型とかいった枠組みを外から与えられると,簡単にその方向に変容します.ウソでもそう見えるし,信じるとますますそう見えるのです(この辺のことは菊池さんの本にも詳しい).
 血液型にしても,心理学にしても,質問紙や性格検査から得られるデータは「人々がどのような錯覚を持っているか」を示すだけで,それが血液型と統計的に関係があったとしても,血液型とその錯覚が強く結びついていることを示すだけです.もちろん,性格検査の結果から行動が予測できる,などというのも同じ誤謬です.「性格評定行動」と性格そのものは区別しなければなりません.まあ心理学者も間違ってきたことですから,しろうとが錯覚に気が付かなくてもしかたありませんし,前にも言ったように性格に関する錯覚の多くは日常的に無害だったり,表面的に役に立ったりもします.でも心理学はそうした素朴理論よりずっと先に進みつつあるのです.

(注1)理解できるかどうかと,賛成反対はまったく別のことです.理解したけど反対,ということなら,議論は成立しています.

3.遺伝と性格の問題

 ABOFANさんは私が「環境を重視しすぎている」と言われました.その根拠は行動遺伝学の知見でしたが,私は行動遺伝学を相当疑問の目で見ています.詳しいことはまたあまり専門的になるので述べませんが,先にも言ったように性格は文脈に依存する関係的なもので,遺伝は環境と相互作用して性格に影響することがあっても,性格の実際の形態を決定するようなものではないと思います.進化論的に考えても,性格は遺伝的に決定されるよりも後天的に変異して環境に選択される方が適応に有利です.
 より具体的な点に触れるなら,行動遺伝学がなにを従属変数にして遺伝と性格の関係を研究しているのか,という点です.私も調べてみましたが,性格検査や質問紙の性格評定などがほとんどでした.つまり「遺伝が60パーセント決める」のは性格検査の結果なのです(注2).性格検査が性格関連行動(日常行動に現われる性格)をほとんど予測できないことはすでにおなじみですね.そしてもっと大事なことは,その性格検査の結果と血液型とにはほとんど関係がないということです.百歩譲って性格が遺伝で決まるにしても,性格と血液型はどちらも遺伝で決まるというだけで,性格と血液型とに関係があるかどうかというのはまた別の問題です(統計で言う疑似相関).こうした論理の飛躍は竹内久美子さんの本にも出てきました.

(注2)遺伝と性格評定行動との間に関係があるという事実は,それはそれで興味を引くものですが.

4.おわりに

 心理学者にもいろいろな学派,派閥がありますから,私の説明が心理学者を代表していると考えられては困ります.一貫性の問題や,性格の本質の問題でも私のいうことをまったく理解してくれない,理解できない心理学者はたくさんいます.性格検査がいまだに続々と開発されているのもその証拠です.そうした心理学者に比べればABOFANさんのような人たちの方がずっと柔軟な発想を持っているし,私の言うこともわかってもらえるのでは,などと期待する部分もあるし,反対に古いタイプの心理学者は基本が同じな血液型ともっと仲良くすればいいのになどと皮肉な考えを持つこともあります.
 いずれにしても,私が血液型と性格の関係を否定するのは,理論的にいって血液型が性格を決めるということが考えられないからです.理論的におかしいことが方法によって実証される場合,それは方法がおかしいか,理論がおかしい.ただ,統計という原理や心理学的用法が人間行動を研究するときにかなり欠点が多いことはすでにわかっていますから,私は自分の理論的思考を疑いません.
 心理学者の多くは,自分で考えなくてもデータが答えを出してくれると考え,データ処理の一手法に過ぎない統計を一種の理論のように崇めてきました.その結果,どう見てもおかしいことが統計的に証明されたときにはただうろたえる.心理学と血液型のように理論と理論がぶつかり合うときには,統計データなどというチャチなものではなく,理論そのもののレベルで戦う必要があるのです.
 これを書くのにも私はかなりの努力をし,時間を費やしました.このことが無駄にならないことを祈っています.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その1)

 大変ご丁寧な長文のメールをありがとうございます。m(._.)m 心理学者からはあまりメールが来ないものですから、反応が分からないので大変ありがたいです。どうもお手数をおかけしました。

 では、順番にお答えしていきたいと思います。

1.心理学者が反論しない理由

 これについては、私の書き方が悪かったと思うので、お詫びしてここに訂正させていただきます。

 私のホームページには、確かに一部に「心理学者が反論しない」というような意味の文章があるのは事実です。(^^;; ただ、それは、後日必ず返事をするという内容のメールをいただいたにもかかわらず、何ヶ月しても返事が来なかった、といった例が何回かあるので書いているだけです(しかも、そういう方は私以外の人には何回かメールを出しているようです)。さすがに少々不愉快だったので(決して感情的な書き方をしていないとは言いませんが)、他意はありませんのでどうかご了承ください。もちろん、頻繁にそういうケースがあるということではありません。また、丁寧に返事をいただいた多くの方には大変感謝しています。

 誤解のないように書いておきます。私からのメールは、原則として(反論の)メールを歓迎している人にしか送っていません。この点についてだけは自信を持って断言できます。しかし、そのほとんどは相互に納得した「関係ある」という条件を満たすというデータが見つかったとたんにピタッと返事が来なくなりました。どうしても結論を知りたかったので、しつこく何回も送ったのですが…。こういうケースが何回も(というかほとんどですが)続くと、ついそういう文章も書きたくなるのは人情というものではないでしょうか?

 その一部はこちらにあります。ただ、証明するとなるとそのメールを公開しなければなりません。そんなことをするのはネチケットに反するので、今後ともするつもりはありません。ですから、私の言うことが信じられなくとも当然ですし、信じるべきだというつもりもありませんので…。

 大変失礼しました。m(._.)m

> 統計的には血液型と性格に差があるということとか,これらは私も本当だと思います.

 統計的に差があるという主張は、日本の心理学者では坂元先生以外はたぶん初めてだと思います。いずれにせよ、どうもありがとうございました。

> 私たち一部の心理学者が血液型性格学に興味を持つのは,それが正しいかどうか,
> ではなくて,それを信じている人がなぜ信じるのか,とか,どうしてそういう俗説が限り
> なく生まれるのか,という点です.

 私の知っている日本の論文数を数えてみましたが、「正しいかどうか」と「なぜ信じるのか」が半々程度で、「どうしてそういう俗説が限りなく生まれるのか」は少ないという印象を受けました。また、「私たち一部の心理学者」というのは日本だけなのでしょうか? 海外の研究では「正しいかどうか」がほとんどのはずですが…。この文章の根拠は何なのでしょうか?

#ちょっと気になったのは「俗説」の定義なのですが、ここではあえて触れません。

> ABOFANを読んでも反論しない心理学者の多くは…めんどくさくて反論する気になら
> ないのです

 差し支えなければ、このサンプル数をぜひお教えください。

2.性格と血液型に関係がないという根拠

> 性格というものが本人の内部にある,固有の何かで,科学的な検討の対象になるもの
> と考えること自体が錯覚なのです.

 この文章には非常に驚きました。(@_@)

 私はこのHPで、基本的に「科学的な検討の対象になるもの」しか扱っていないつもりです。性格が「科学的な検討の対象になるもの」ではないとすると、私には「性格なんて非科学的なもの」としか解釈できませんが本当なのでしょうか?

 もしそうだとすると、性格心理学はオカルトなのでしょうか? まさか!

 ミシェルの本にもそんなことは書いてなかったようですし…。完全に私の誤解だと思いますので、よろしければ次回にもわかりやすい解説をお願いしたいのですが。

3.遺伝と性格の問題

 菊池先生の話題もあったので、著書から引用させていただきます(『超常現象の心理学』〜人はなぜオカルトにひかれるのか〜 平凡社 H11.12 133〜134ページ)。

性格とは血液型のように生まれつき定まるものではなく、育ってきた環境によって決まるものだ、という反論もある。性格の発達にとって環境要因が決定的であることは確かである。しかし、新生児でも敏感さや気分の安定性などが子どもによって異なることも知られており、性格における遺伝的要因は決して無視できるわけではない。最近では、「新規探索傾向」といった性格特性に、特定の遺伝子が関与するとも考えられている。

> 進化論的に考えても,性格は遺伝的に決定されるよりも後天的に変異して環境に選択
> される方が適応に有利です.

 2.での性格の定義は、「性格というものが本人の内部にある,固有の何かで,科学的な検討の対象になるものと考えること自体が錯覚なのです.」のはずです。となると、性格という非科学的(?)なものと進化論(たぶん科学だと思いますが…)の関係を科学的(?)に証明できるのでしょうか?

 それとも、進化論の研究者がそう主張しているのでしょうか? 根拠となる論文は何なのでしょうか?

> 性格検査の結果と血液型とにはほとんど関係がない

 これを読んで、すっかり混乱してしまいました。(*_*)

 というのは、性格検査の結果と性格に関係がない(?)なら、性格検査の結果と血液型に関係があろうがなかろうが、「血液型と性格」は関係があるはずがありません。なぜ、わざわざ「性格検査の結果と血液型とにはほとんど関係がない」と書く必要があるのでしょうか?

 それとも、性格検査の結果は性格と(少しは?)関係があるのでしょうか?

> 性格と血液型とに関係があるかどうかというのはまた別の問題です(統計で言う疑似相関)

 これまたわかりません。というのは、1.で「心理学が原理的にも用法的にもこんなに問題のある統計という技法にあまりに頼りすぎているのは良くない」ということですから、疑似相関があろうが本当の相関があろうが「血液型と性格」は関係ないということになります。ここでわざわざ「疑似相関」という言葉を出すのは何か意味があるのでしょうか? はて?

4.おわりに

> どう見てもおかしいことが統計的に証明されたときにはただうろたえる.

 となると、坂元先生の論文には心理学者全員がうろたえたのですか? そういう感じは受けませんでしたが…。

 最後に、血液型と性格に関係があることを証明するには、どんな条件が必要なのかご教示ください。

 では、お忙しい中お付き合いいただきまして、大変ありがとうございました。この場を借りて深く感謝申し上げます。失礼な点も多々あると思いますが、どうかご容赦ください。m(._.)m

 気が向いたときで結構ですから、ご返事をお待ちしております。

【読者からのメール】 その1

 読者の方から、このページの感想をいただきましたので、ちょっとだけ紹介しておきます。それは、渡邊さんと同様の論法を使えば、何だって証明できるのではないか(!?)というものです。例えば…、

「ある物体に万有引力が観測された、と言うとき、どこの場所で、いつの時代に、だれがその実験をしたか、が特定されなければ、その実験には意味がありません。ある物体が万有引力を持つかどうかは、さまざまな文脈的変数の関数です。ただ、普通一定の安定した条件で暮らしているわれわれの認識はそうした文脈的条件を捨象するように出来ており、万有引力が物質固有で一貫したものであるかのように錯覚します。」
 ……………………
「たしかに、無限回の追試をしない限りは、どんな法則だって論理的に証明されたとは言えませんからね(^^;)。物理学もすべて錯覚なのでしょう(^^;)。」
 ……………………
「昔の人が引力を信じなかったのは、昔は引力がなかったからなんでしょう。」
 ……………………

[その2〜29は省略]

メール(その30) H12.3.4 15:58

ABOFANへの手紙(30)

ついに「予言通り」の30通目になりました.私の手紙もこれで終わりです.議論を終えるにあたって,まとめとして書いておかなければいけないと思うことを書いておきます.


1.「血液型性格学」という「仮説」について

何度も書いているように,私は「血液型と性格に関係がある」あるいは「血液型で性格がわかる」という考えには反対ですし,この議論を終えてもその意見にはなんの変化もありません.また,私から見ればこの議論で明らかになったのは血液型側が「関係の証拠」と主張していることのいいかげんさ,不十分さだけでした.

しかし,ABOFANさんも繰り返し主張されるように,また科学的検証の論理から言っても「血液型と性格に関係がない」と言うことはできません.とはいえ血液型の「証拠」は科学的検証を経て「関係がある」というにはまったく不十分ですから,結論としては「関係があるともないともいえない」ということだし,そういう場合心理学者の「公式見解」として「はっきりとした関係はない」と表明することにはなんの問題もないと私は自信を持って言えます.

この議論を通じて明らかになった「血液型性格学」の問題点としては,

  1. 仮説と検証の区別がうまくできていない.とくに「仮説として有効」であることと「仮説が検証されること」を混同している.
  2. 仮説のもとになる「予備データ」と仮説を検証するデータを混同している.その結果検証の論理が循環論(注1)になっている.
  3. 「血液型と性格の関係」の検証の論理として「関係の証拠が十分ある」という科学的なものと,「証拠がひとつでもあれば関係ないとは言えない」という素人的なものが混在し,区別されていない.
  4. 統計を使いこなしているように見えるが,その用法は表面的で,技法の基本的な前提などはほとんど理解していない.

などがあります.まあ普通の心理学者が血液型を批判してる内容とそれほど違わないのですが,血液型性格学を主張する人とのこれだけの議論を経て,それを受けた上でこれを言っている,ということが重要です.それに,上記のことを言う論拠はすべてここまでの議論の中に明示されています.

「血液型と性格とは関係がある」という仮説自体は反証可能だし,十分に科学的な仮説だと思います.しかし,これまで血液型陣営が示してきたデータはごく部分的なもので,その仮説を提唱するための「予備データ」としては十分でしょうが,そこから「仮説が検証された」とはとうてい言えません.

「関係がある」とはっきり結論するためには,やはり一般化できるデータを伴ってそれが証明されることが必要です.またABOFANさんが何度か主張されたように,その関係がそれほど「一般的」でなく,「本来限定されたもの」であるとしても,その関係が生じる「条件」が明確に確定されて,関係の生起と不生起が予測できるようになることが,最小限必要であろうと思えます.

それらが現在の段階で検証されているとは,どうひいき目に見てもいえません.ですから,血液型性格学は現在のところあくまでも「仮説にすぎないもの」です.

今後心理学者が「血液型性格学」を批判していくときには,相手側のこうした弱点をきちんと指摘していくことが有効でしょう.大村先生のように「血液型側のデータを批判する」だけというようなスタンスでは,こうした根本的な問題があいまいになるし,表面的な「統計テクニック」で誤魔化されることもあるでしょう.

もちろん,そうした「弱点」のいくつかは性格心理学も共有しているものです.性格心理学があくまでも血液型を批判するのであれば,自分たちの中にある「非科学性」もきちんと精算して行かなくてはならない.私がむかし「科学朝日」のインタビューの中で述べた「血液型は心理学を映す鏡である」というのは,そういう意味です.


(注1)循環論  トートロジー.同じことを2回言っているに過ぎない説明のこと.ここでは,あるデータを説明できるように立てた仮説からそのデータを遡及的に説明し,それで仮説を検証したと言っていることを指す.


2.なぜ議論をはじめ,続けたのか

私がこの議論をはじめた頃,何人かの心理学者がメールなどで「あんな議論無駄だからやめておけ」と忠告してくれました.その内容はだいたい以下のようなものです.

  1. 科学的論理が根本的にわかっていない人と科学的な議論をすることは不可能である.おまえは科学的論理をABOFANに教えるつもりか?
  2. これまでの心理学者との議論を見ても,ABOFANは「ダブルスタンダード」(注2)であって建設的な議論にはなりっこない.
  3. ああいうやつをお前みたいな奴が「ちゃんと相手にしちゃう」からつけあがるので,無視しておくほうがいい.

まあある意味でどれも(3を除く)ある程度もっともな忠告だし,ほんとにそうだったかな,と思う部分もあります.しかし,私はやっぱりこれらの忠告のような考え方は心理学者としては間違っていると思います.

つまり,これらの考え方は基本的に「素人には言ってもわからないから議論してもしかたがない」「科学者は科学者同士で話をしている方が建設的だ」ということになります.

こうした考え方にも一面の真実があることは,ここでの議論の経緯を見ても明らかでしょう.私たちは具体的な議論以前の「基本的なものの考え方」でまったく一致できず,私は「議論の前提になる考え方」自体の説明に,実質的にここでの議論の大半を費やしました.これは私にとっても大変な労力であったし,また「職業科学者」でもないのにそうした論理の理解や習得を求められたABOFANさんにとっても苦痛であったでしょう.

しかし,もしそうした努力が無駄で,やらない方が良いものだ,というのであれば,「心理学の教育」はどういうことになるのでしょう.私はもちろん研究も好きですが,「心理学を教育する」ということにも日頃から強い興味と楽しみを覚えてきました.

心理学者の中には大学に勤めていても研究だけにしか興味がなく,講義や実習などの「教育」は「苦痛を伴う労働」としか見ていない人も多いと思いますが,私は全然そうではなく,講義や実習などを行なうのは楽しいし,どうやって学生さんに心理学の知識を伝えるか,などの問題を考えたり講義を工夫したりするのが大好きです.

一般的にいって大学でこれから心理学を学ぼうとする学生さんが心理学についてのきちんとした基礎知識を持っていることは稀ですし,また「科学的な論理」が身に付いていることもありません.少なくとも日本の高校までの教育では「科学技術の知識」は教えるけれど「科学的な思考と論理」は教えないからです.

私たちはそういう学生さんたちに心理学を教えるとともに,心理学の基礎になっている「科学的思考」を教えなければなりません.しかし,基礎知識や知的能力の点でも,もちろん熱意の点でも,大学で心理学を学ぶ学生が平均してABOFANさんより上であるとか,まともであるということは「まったく絶対に」考えられないでしょう.

そのとき,ABOFANさんに説明できない,ABOFANさんに教えることができないようなことで,どうして学生には「心理学の知識」と「科学的思考」を教えることができるのでしょうか.どう考えても,ABOFANさんに説明し,教える方が楽なはずです.

それが面倒だから,手間がかかるから自分はABOFANとは議論しない,無視するという心理学者は,学生にいったい何を教えているのでしょうか,また,教えることができているのでしょうか.ABOFANさんに説明できないことは学生にもぜったい教育できません.

単に学生はわからなくても先生の話を黙って聞いている,あるいは納得できなくても「大学の先生」の権威で「そういうものなんだろう」と表面的に納得しているだけ,単位さえ取れればいいから納得できないことでも内容は暗記しているだけです.心理学者は実際にはそういう学生に「何も教えていない」のです.

でも学生は何も言わないから多くの心理学者はそれに気づかない.「自分たちだけが納得している科学的論理」に基づいてただ漫然と講義をし,それで学生は「基本的な論理」もとうぜん理解していると思っているわけです.しかし学生たちは一番大切な「科学的論理」については何も学ばないまま卒業していく(これは理系学部でも同じだということもわかりました).

ところがABOFANさんは「わからないことはわからない」とはっきり言う.それで心理学者たちは(もちろん私もふくめて)「なんでABOFANはこんな基本的な論理がわからないのだ」と驚く,そして多くの人は「こんな基本的な論理もない奴とは議論できない」といって議論をうち切って行くわけです.

しかし,私はそうしなかった.それは,ここでABOFANさんときちんと議論すること,きちんと説明することが,同じことを学生さんに教育するために必ず役に立つと思ったからです.現実に,

については,私はこれまで大学で教えたことは統計に関するごく一部を除いてありませんでしたし,自分の持っている「常識」を人に教えられるほどきちんと論理的に整理したこともありませんでした.

でも,今回の議論のおかげでそれらはきれいに整理され,そのうえ「それを学ぶものがどこを誤解しやすいか,どこが理解しにくいか」まで,かなり詳しくわかりました.

これからの心理学教育は「心理学の知識や技術を教える」ことよりも「心理学的なものの考え方を教える」ことが重要になると思います(注3).その点でここでのABOFANさんとの議論は「心理学教育を考える」上でとても役に立ちましたし,私は実際の教育にもすぐに役立つ枠組みや説明技法を学ぶこともできました.

それは,ABOFANさんが「わからないものはわからない」と言いながらも,基本的には私の説明に根気よくつき合ってくれたことによる成果です.この点は私はほんとうにABOFANさんに感謝しています.

さて,

 3. ああいうやつをお前みたいな奴が「ちゃんと相手にしちゃう」からつけあがるので,無視しておくほうがいい.

という「忠告」についてですが,私はその通りならなおさら無視してはいけないと思います.ABOFANさんみたいな人に「どんどんつけあがってもらった」方が,心理学やわれわれ心理学者のためには圧倒的に勉強になるからです.

まあそういった点で,私は「議論をうち切った心理学者」とは違うし,そのおかげで私だけがいろいろ有意義なことを手に入れることができた,ということです.


(注2)ダブルスタンダード  議論の決着についての基準を複数持ち出すこと.ある問題についてある切り口から議論しているときに自分に勝ち目がなくなると,勝手に切り口を変えたり前提を変えてしまったりして,議論のテーマをずらしてしまうようなことが典型的な例.

(注3)これからの心理学教育  その点でも心理学教育を「職業的技術の教育」だけに貶めてしまう「臨床心理士養成への特化」には私は大反対です.今までよりもっと「アホなカウンセラー」が増えるだけです.


3.「素人」と「専門家」について

以下のことは最大素数さんの非常に重要な問いと関係しています.心理学者の友人からの又聞きですが,社会学者の上野千鶴子さんは,

 「学者が素人と論争するということ自体がひとつの差別である」

という意味のことを言っているそうです.つまり,


学者が論争しようと思うような問題については学者の方が最初から圧倒的に多くの知識を持っているに決まっているし,また追加的に必要な知識へのアクセスにおいても学者の方が圧倒的に有利である.だから最初から不公平だ.

そのうえ,そもそも学者は「自分の方が勝てる」と思うようなテーマでしか素人と論争しないであろう.その結果,こうした論争は多くの場合素人が打ちのめされて終わるし,そのことは学者の権威を不要に高めるだけで,その学問についての一般的理解の育成にも何ら役立たない.つまり,学者しか得をしない.

だから,素人とはむやみに論争しない方がむしろ誠実である.


ということだと思います.確かにそうかもしれません.血液型と性格という問題は最大素数さんもいうように「現状心理学が想像以上に"へたれ"っぽい」(笑)ということもあって「偶然」心理学者がやたらに有利にはならない場面が多いというだけで,科学的論理や検証の問題とか,とくに「統計的推測やランダムサンプリング」などのわりとハードな問題ではやっぱりABOFANさんは(あるいは最大素数さんも)まったく腰砕けになっちゃうわけです.

統計的検定の話を私が早く切り上げたがったのは,その直前に上野さんのことばについて教えてもらっていたからです.

今回の議論でもっとも後味が悪いのも,この部分です.私の書いたものを読んでみると,最大素数さんのおっしゃるとおり私は「学者」を宣言してみたり,「対等な議論」を宣言してみたりで,まったく一貫していません.

ただ,言い訳をさせてもらえば,たとえば私が最初の「学者」スタンスをあくまで崩さなかったら,それは「専門家が素人に本当のことを教えてやる」という形にしかなりようがなかったのではないでしょうか.それではABOFANさんとの議論は,根本的なところで成り立ちません.

手紙(5)くらいで私の意見表明が終わって(笑),ABOFANさんが本格的に「わからない」と言い出したときに,私としては「基本的な検証の論理は一方的に教えざるを得ないけれど,それを教えて理解してもらったら,その土俵の上では対等に議論する」というちょっと変則的な進め方をしようとしました.

まあそれがうまくいったか失敗だったかはわかりませんが,議論がここまで続いた(続けることができた)のはその方法のおかげだと思っています.したがって私が「学者モード」になったり「対等モード」になったりしたことも無意味ではなかったとご容赦ください.

なんてことも,結局「こっちは全部わかって戦略的にやっていたのだ」と言っているようにとられるかも知れませんし,たとえば私が他の心理学者にはそのように言って「強がる」ことも可能でしょう.しかし,私はそれほど冷静に議論していたわけではありません.

とくに論理や統計の基本的なことに対するABOFANさんの「問い」は,どれも私にとっては「衝撃的に意外」でした.自分の常識を否定されるような問いに,どうしてこんなことがわからないの,どうしてこういう問いがありうるの,とビックリし,どう説明して,どう納得してもらったらいいかと毎回毎回悩み苦悶しながら手紙を書いていました.

だから,ある意味(お互いに相手の出方は読めなかったという意味)では対等だったわけで,私がそんなに有利だったり,最初から勝ちを見越していたとか言うわけでもありません.

「勝ち負け」という点で言えば,心理学者はみんな私が勝ったと思っているらしくて,お祝いメールみたいのがあちこちからくるのですが,普通の目から見たらどうだかわからないし,ABOFANさんはまさか自分が負けたとは思っていないでしょう?

まあ心理学者が読むことを想定して書いていたことも確かですが,心理学者から誉められたところでうれしくはありません.だって,もともと同じ前提で話をしている仲間ですから.

その「前提」がどのくらいABOFANさんに伝わったか,あるいは普通の読者が「科学的検証」とか「統計的推測」とかいう「考え方」をどのくらい理解してくれたかといえば,あまり役には立たなかったかな,とも思います.せいぜい「これまであまり考えたことのない心理学者」に自分のやっていることの仕組みを理解させた程度のことかもしれません.

それでも,この議論でどっちが得をしたかといえば圧倒的に私で,それもなんか後味が悪い理由です.前にも書いたように私はこの議論から「教育者」としてたくさんのノウハウを手に入れてしまったし,これを読んだ心理学者からは誉められる.

そのうえこれが本や論文にでもなれば私は学者としての「業績」を手に入れる.まあせっかくこんなに書いたのですからこのままにしとくのはもったいないのでなんとかまとめて出版しようとは思っていますが,それがなにかABOFANさんのためになるとも思えません.

結局自分だけが得をしてしまった,という感じが強いのです.だからこれ以上不公平にならないうちに早くやめたいという気持ちと,もうすこしABOFANさんの疑問に答えた方が良心的かという気持ちが入り交じって,ここ数回のはっきりしない展開になってしまいました.でも,それももうおしまいです.

そういうことを考えると,今後また同じようなことがあったときに,自分がまた「素人」との議論に進んで参加していくか,というと,かなり疑問です.どうも最近どこかのネットの有名フォーラムで「人間の発達には環境より遺伝を重視すべき」とか「環境を見てもしょうがない」とかいう議論が盛り上がってるらしく,そんなアホな話許せないのですが,でも,今度はほっておこうかな,と考えてしまう.

ただ疲れているだけかも知れないけどね(笑).


4.お礼とお別れのことば

いずれにしても,これまでずっと議論につき合ってくれたばかりでなく,お仕事忙しい中ほぼ毎日HPを更新し続けてくださったABOFANさんに心から感謝します.本当にありがとうございました.個人的なメールでのやりとりも楽しかったです.今後のご健康とご発展をお祈りします.

最大素数さんもありがとうございました.議論が平行線になってるときに最大素数さんのメールが突破口になるときがあって助かりました.どうかお元気で.

また,討論を読んでくださった心理学者以外の方々,どのくらいおられるかわかりませんが,本当にご苦労さまでした.私の文章がわかりにくかったり,長すぎたりしたせいでご迷惑をおかけしました.この議論に興味を持たれたようでしたら,血液型関係に限らず,ここにあげた参考文献や心理学のいろいろな本などにもぜひ目を通してみてください.実際の心理学はここでの議論ほど深刻なものではないし,面白おかしい部分もたくさんありますので.

さて,心理学者の皆様.「渡邊が勝ったからこの話はこれで終わり」ではありません.結論は何も出ていないのです.ここに私が書いてきたようなことを心理学者全員がきちんと考えて,意識していかなければ21世紀も心理学は「へたれっぽい」ままだし,本当の意味での「心理学教育」だってできません.本当はいちばん深刻に考えなくてはいけないのは血液型陣営じゃあなくて,心理学そのものであり,心理学者なんですよ.

それではみなさまお元気で.さようなら.

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(とりあえず…)

 本当にどうもありがとうございました。正式な返事はこれから書きますのでお待ちください。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)読者の最大素数さんからのメール(その16) H12.3.6 22:42

1.最後のレス

> それは「科学少年」性みたいなものです(ABOFANへの手紙(26))

だからあ、少なくともわたしは、初めっからずーっと「(心理学)素人」なんですってばっ(笑)。

> 「関係あるかどうか,確かなことは言えないにしても,とっても興味深いし,あったら面白いし,考えるとわくわくするじゃないの,そういう楽しさをなぜ一生懸命否定するのよ」(ABOFANへの手紙(26))

こういう「まとめ」には「悪い意味でも,バカにしているわけでもありません」という断り書きとは裏腹の若干の「悪意」を感じます。
これでは単に「あるか無いか解らない以上あるかもしれない」と"駄々"をこねているみたいです。
何の根拠も手がかりもなく「あるか無いか解らない」と言っているのではなく、「不十分な証拠」や「仮説」を起こし得る"原データ"があるじゃないの、ということです(少なくともわたしは)。
何の兆候も認められないけれど「原理」的にあり得る以上"有る"、ということでもありません。「原理」的にあり得る以上、そうした「不十分な証拠」は、兆候かも知れないじゃないの、ということでもあります。
後段では

> 「血液型と性格」だって,・・・,それを仮説として提唱することにはなんの問題もありません.

と、それなりに解ったようなモノ言いをしていますので、余計に"若干の「悪意」"を感じてしまうわけです。
「なぜ一生懸命否定するのよ」と受け取られたなら、わたしがそう問うているのは、「可能性」のこととご理解頂きたく思います。

なんてね、一応言うだけは言っとかないとね。
あのね、それは少年の夢とかいうような次元の問題では無いと思いますよ(笑)。

> 私も心理学をぜんぶそういうふうにやりたいです(これは皮肉ではありません)

やりなさいよぉ、どうしてできないのぉ、わたしらの仕事ってそんな風ですよぉ。
"厳しさ"それ自体に"楽しみ"を見つけられないで、研究とか開発とかって出来ないんじゃあないのぉ?ノリ出してほっておくと、とことん"追究"してしまうので、商売ショーバイと歯止めをかけて、客先仕様に収まったところで切り上げるのが「プロ」の手腕&泣き所なわけです。
つまり、そういうことは個人の「資質」の問題なんじゃないでしょうか。体質か環境のせいかはさておいて(笑)。

2.あくまで「素人」として

2.1.「素人」として一言

> しかし「科学という社会的営み」の中でなにかが「科学的事実」として認められるか,という話になると

心理学って、「科学という社会的営み」の中で「科学的事実」として「認められ」た「なにか」があるのですか?
で、もう一度。
勿論そんなことは、部外者しろーとの知ったことではありませんけど。

2.2.「素人」の思惑

正直に言えば(ま、ミエミエだったと思いますが・笑)、この議論は初めっから相当にやりにくかったです(笑)。

その殆ど唯一の理由は、渡邊さんが"反"性格心理学(及び心理学の「パラダイム」変換)の立場を表明していたことです。わたし、これまでの「ABO FAN」へのメールでも度々性格心理学をこき下ろしてきているように、そういう方向では"盛り上がって"しまいそうでしたが、そこで、渡邊さんの主張である「"同様"に血液型もダメ」と区別して議論できるほどの根拠は持っていなかったからです。このポイントは「通状況的一貫性」の問題なわけですが、「首尾一貫性」との関係・違いなど、実は今でもよく解りません(笑)。
また一方、わたしは「専門家」にはまず「訊きたい」こと、「確かめたい」ことがあって機会を窺っていたのですが、渡邊さんは最初に「専門家が素人に講義する、というようなことはしない(要約文責・最大素数)」と宣言されていたので、これは出番は無いかなあ、と思っていたのです。ま、結局こうしてやり取りしてしまっていますが(笑)その経過については先に述べました。

しかし、そうした「宣言」にも拘わらず、渡邊さんにはいろいろと教えていただきまして、これは本当に感謝しています。

ご教示其の一:クレッチマー説(理論)について、日本の心理学会(界)はなんの検証もしていない。
ご教示其の二:「質問紙」については相当の研究があり、学部では「心理測定学」としての講座がある。
ご教示其の三:人間の精神活動を、項目の得点として数量化することで、統計処理による評価が可能である、というアイデアについての言及はない。

「其の一」「其の三」については、ああやっぱり、という感じでしたが「其の二」については意外でした。YG性格検査の質問項目の"イイ加減さ"から、そんな研究が行われているとは思っていませんでした。
「基礎」研究は盛んだが、実践への応用等はまだまだこれから、ということにしておいてあげましょう(笑)。

2.3.「素人」の感想

「性格心理学も血液型もダメ」という渡邊さんのスタンスを踏まえると、「ABOFANへの手紙(26)の2.じゃあどうだったらよいのか」の「検証の段階」論議もなかなか興味深いものがあります。
この議論に対しては、どうしたって「そこまでお判りならなんでそれでクレッチマー説を"検証"してないの!?」と言わざるを得ませんものねえ。(「現在心理学者としての検証」と断っての上でですからなおさらです)
特に「仮説1」から「検証1」へ進むための「不用心さの指標の完成」という作業、これ、例えば「のんきさの指標」といったことでそれなりに"実績"があるんでしょうねえ。ですから、こうして得られた指標は多分YGなみの信頼性を持つことでしょう。
手順としてはなるほど確かに「専門家」の仕事だなあ、と感心してしまいました。特に、わたしら「モノ(誤解を恐れずにいえばソフトウェアも)」相手の場合は、「確認」は「(何らかの)確定」に繋がらなければ意味が無いことが殆どで、検証の段階が「(関係の)推定」の確認にならざるをえない場合の検証の進め方は大変興味深いものがありました。
で、まあ、余計思うわけです、性格心理学って・・・と。

これに関しては又別に思うところが有りまして、結局「現在心理学者としての検証」だけかい、ということです。
読み返して頂ければ確認できますが、わたしは実は「うっちゃられ」と「不用心」をそれほど肯定的に取り上げて来てはおりません。本当は「うっちゃられ」という「行動」は行動学的にはどういうことなのか、という辺りの話しを聴きたかったのです(させたかった?笑)。ストレートに訊いては「講義するつもりは無い」と一蹴されて終わりそうだったので、ま、いろいろ絡んでみたのですが失敗しました。「うっちゃられと不用心」についてあんな丁寧な解説を頂けるのだったら質問してしまえば案外説明してくれたのかなあ(笑)、とか、あれは"流れ"でああなっただけで直截的な質問ではやっぱりダメだったかも知んない(笑)などなど、ちょっと未練。
「うっちゃられる」という"意に添わない"「行動(出力)」は入力としての「環境」からどのように説明されるのか、そして更に「うっちゃられる」という「行動の予測」ってあり得ないと思うのですが、その辺どうなのかなあ、なんてね、ま、いろいろあったのですが残念でした。

「うっちゃられ」と「不用心」の件と同様、わたしは言ってないのに言ったことになってしまっている件がありまして、それは、わたし自身はクレッチマー説を否定したりはしていなかったということです。わたしが否定的に取り上げたときは常に「精神医学会・界なり心理学会・界は否定する傾向に有るようだがそれならば」という限定での話しです。わたしはクレッチマー説も血液型同様、「仮説の段階」ではないかと考えています。議論とは関係ないんでほっておきましたが、最後ですので一言申し述べておくことにしました。
しかし、なんで性格心理学は「検証」しないんでしょうねえ、ホントに。「病前性格」って発想はかなり面白いとおもうんだがなあ(「科学少年」の夢?笑、「素人」考えなんだってばっ・笑)。

3.血液型と性格

最後にこういう話しもなんなのですが、わたし自身のまとめ、ということでわたしの考えを述べておきます(基本的には、これまでこのサイト宛のメールで書いていたことと同じです)。
わたしは原理的に関係ある筈、と考えています。
一応わたしの「専門」に拘って(笑)、電子部品の話しをしようと思うのですが、「モノ」を例にあげるのは実はかなり危ういところがあります。「モノ」の性質を言うと、殆どの場合その良し悪しという評価がついてきてしまうのですが、人間の性質の場合、それは差別になってしまいます。そういうことで、あまり踏み込んだアナロジーに展開するつもりはなく、イメージ程度で勘弁していただきます。
コンデンサーという部品は「蓄電器(素子)」などと訳されたりしてた時期もあったように、もともとは電荷を溜めることができる、という性質が注目されていました。これが、回路理論の発達とともに「回路部品」として、交流のみ伝達する素子、直流をカットする素子としても性質を考慮されるようになってきました。同時に、"電荷の溜め方"としていろいろな材料が試され、それぞれの需要に応じた性質のコンデンサーが実用に供する"商品"として流通するようになってきたわけです。かなり大雑把に分ければ五種類程度、それなりにわけたら十数種類(あ、この辺の感覚は"同業者"から異論が出そう・笑)程度になります。
さて、そうした一般的な性質の他に、過負荷状態での"破滅"の様態も、その材料によって違います。華々しく"爆発"するもの、炎を上げて燃えるもの、ピチッと鋭角的な音をたてて割れるもの、異臭を放って死に至るもの、などなど。しかし、こうした性質は、確かにコンデンサーの性質なのですが、回路部品の性質とは関係無いので、通常の設計・部品選択では殆ど考慮されません(そういう意味では破壊後回路的にショート状態になるかオープン状態になるかは重要な場合があります)。また、製品の性質・機能検査など、外部からの観測でも判りません。

わたしの血液型と性格の関係のイメージはそういう感じです。
つまり、血液型がそれなりに意味を持つ、その影響が現れる場面は限られているかもしれない、と。しかし、例えば力士の「うっちゃられ」場面(ホントに不用心?笑)程度にはあり得るのではないか、と。そういうことです。
通常の生活で、血液型による違いが観測できるかどうかについては懐疑的です。
特に、相性については、渡邊さんは、ABOFANへの手紙(18)で

> あえてもっと正直に言ってしまえば,私は日常生活ではけっこう血液型を
> 信じているところもあり,好きな女の子ができたらその血液型を必ず聞き
> ますし,一般的にいって自分の血液型と相性の悪いものだったらがっかり
> します.

と仰っており、これには本当にビックリしたのですが、わたしは殆ど信じていません。渡邊さんとは逆に、日常生活では、「○型と□型は相性が良い・悪い」などという話題に出くわすと、「血液型で相性の良し悪しはわからないよ」と、たしなめてしまう方です。相手がそれなりに話しが解りそうな場合は「血液型と性格に関係があるとすれば、後付で、うまくいった理由、いかなかった理由を説明出来るかもしれないけどね」程度の補足をすることもあります。
最近は、否定するにしても肯定するにしても、A型氏は極端に走るような気がしてまして(あくまでも印象でっす・笑。そういう意味では仮説としては認めるというA型は渡邊さんが初めてです)、相手がA型と判ると「信じないように」と言うことにしています。闇雲に肯定されてなんでも血液型で判るように思ったり言いふらされたりするよりは、関係なんか有るはずないっ、という方向で頑なになったほうが、本人のためにも"公共の福祉"という観点からも有益の筈、という理由からです。・・・気がついたかも知れませんが、これって結構「差別」的ですけどね(笑)、ま、言ってるほどのことはしてません、ということで。

ともあれ、日常生活に影響なかったら意味ないじゃん、という立場はあると思いますが、わたしは意味有るモン、という立場なのです。

4.「科学」

初めにちょっとした違和感を覚えたのが「ブラックボックス」が話題になったときでした。
その次が「科学者対素人」という対比で語り出したときです。
で、その"違和感"が何だったのか、漸く「言葉」になったのが、この2.3.でも話題にした「ABOFANへの手紙(26)」での「うっちゃられと不用心の検証の手続き」を読んだときでした。
つまり、わたしにとっての「科学」は、ごく当たり前に「自然科学」なのでしたが、渡邊さんにとってのそれは(言ってみれば)「人文科学」なのですね。どちらがどう、というわけではなく、どだい、そんなに違いがあると思っているわけでもなく、イメージとして、ということです。
殊更に「素人」と拘ってきたのは、勿論「心理学素人」が"本線"ですが、そういう"違和感"に対する拘りもあったからなのです(正直にいえば、あとイヤミも少々・笑)。『最初の違和感は大事に』という教え(メール(その5)追伸)もありましたしね(笑)。

5.まとめ

> この議論でどっちが得をしたかといえば圧倒的に私(ABOFANへの手紙(30))

それはよかったじゃありませんか。
わたし、実は"損得"に対する感受性に欠けるようで、こうした議論の総括の尺度として"損得"は全然想起しませんでした。わたしにとっては面白いかどうかが殆ど全てで、今次の議論も大変面白く、次が楽しみでした(ちと仕事がたて込んでいてリアルタイムでは読み次ぐのに手一杯だったのがちと心残りでしたが)ので、改めて考えれば「楽しんだ」分は「得」をしたってことなのかなあ、と思いました。
にしても、「損得」発想といい「大学の目的」論、「科学少年」発言といい、渡邊さん、メンタリティは案外"研究者"っぽくなくて、ガッコのセンセなんかやらせておくのは勿体ない・・・、って、これはかなり失礼な物言いですか?

さて、では、今後のご活躍を祈念して
渡邊さんが「仮説の段階」と「検証の段階」といい出したときから感じていたのですが、どうも単なる「憎まれ口」ととられそうでもっとヤワラカイ言い回しを考えていたのですが、もう最後なんで、まいっかー的に言ってしまうことにしました。

     心理学自体が「仮説の段階」なのではありませんか。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その29)

1.ちゃんと読んでください

>>> まず原則論から言えば,データというのはあくまでも仮説を検証するためにあ
>>> るもの(仮説が先にないデータはありえないということ)で,データに合うように
>>> 仮説を何回も立て直すというのは邪道ですね.

>>  なんで邪道なのかわかりません。そうなると、地動説や相対性理論は邪道なのでしょ
>> うか?

> 流れは「データ→次の仮説→次の仮説を検証するデータ」であって,次の仮説が前のデータ
> を説明することは「次の仮説の検証」にはならないよ,という意味です.データから立てら
> れた「次の仮説」は,前にあったデータ「以上のこと」を説明できなければ正しいとはされ
> ません.立て直した仮説で前のデータを解釈して説明できれば検証終わりでよければ,「前
> のデータ」の選び方次第でどんな仮説だって正しくなってしまいます.

 ちゃんと読んでください(笑)。私が言っているのは「前のデータ」ではなく、ほとんどすべてのデータという意味です。

#全部と言わないのは、例外もあるからです。

>> 時間がないのでしょうがないのでしょうが、この言い方はかなり手抜きですよ(笑)。
>> 心理学ではどうなのか知りませんが、私はこんなやり方じゃ到底満足できません。だい
>> たい、「(一般に)小学生はテレビゲームで遊ぶほど成績は悪くなる.」なんて検証し
>> ても、面白くもなんともないじゃないですか。疑似相関も多すぎるし、テレビゲームの
>> 定義もあいまいです。ましてや、ランダムサンプリングして相関を計算するなんて論外
>> です(大笑)。

>>  心理学ではテレビゲームがダメなことになっているのかどうか知りませんが、この仮
>> 説が正しいかどうかは非常に疑問です。

> そういう「論点ずらし」はやめましょうよ.私はデータと仮説の関係を説明するための
> 例をあげたので,テレビゲームと成績の関係を論じようとしてるわけじゃありません.

 今までは大人気ないので黙っていたのですが、そういうことならちゃんと書いておきましょう。渡邊さんのメール(その22)では、ナマズと地震の関係についても同じようなことを書いています。私が「論点ずらし」が必要となるような例をわざわざ出すことはないと思います(笑)。

2.血液型ステレオタイプの問題

> また「心理学者の論理」が破綻していることが「血液型と性格に関係があるという証明」
> にはなりません.

 もちろんそのとおりです。

> それに,血液型の80-90%がFBI効果だとして,あとの20%は「真実」だと考える根拠がな
> いでしょう.あとの20%はFBI効果以外の錯覚,ということもあります.

渡邊さん自身の論理によると、「錯覚」があることは証明されていないので、「錯覚」はないということになります。
  もちろん、「真実」であるということもできません。だから、20%はなんだかわからないということですね(笑)。

> 血液型の正確な知識がある人の方が「各血液型の性格」をよく知っているが,それで人の
> 性格が決まると思っていないし,自分の性格がそれにあてはまるとも思っていない.
> いいかげんな知識より詳しい知識の方が実際には人の性格と一致していない

 ちゃんと読んでください(笑)。

 「血液型の正確な知識がある人の方が『各血液型の性格』をよく知っている」って何でしょう。これではトートロジーです。確信度の数値が正なら、多かれ少なかれ「あてはまる」と思っているのですが…。だから、決して「あてはまらない」とは思っていないのです。

> 「心理学者の論文」はステレオタイプを測定するのではなく「性格を測定」してそれと
> 血液型との関係を見たもので,そこで「一貫した傾向」がでるかどうかは,その質問紙
> が「ステレオタイプ的」な項目を含むかどうかで変わるでしょう.目的が違うのだから
> 間違いもくそもありませんよ.

 ちゃんと読んでください(笑)。

  ほとんどの心理学者の論文は「血液型ステレオタイプ」を測定するようにできています…。

3.対立する仮説があるときは...

> 従来の性格心理学も血液型も「自分や他者の性格に関する認知はある程度正確である」
> という前提を持っていますよね.それを否定したら血液型のデータのほとんどは無駄に
> なりますね(確認!).

  従来の心理学はたぶんそうでしょう。しかし、血液型は分野別データもあるのですが…。

> 一番シンプルな結論として「正確な血液型知識」の方があてにならない,といえます.
> だって「自分や他者の性格の認知」と一致していないし,多くの人に共有されてもい
> ないから.いっぽう「いいかげんな知識」は多くの人に共有され,自分の性格の認知
> とも一致しているから

 こうなると、もはやなんと言っていいのかわかりません。心理学者の論文は読んでいないのでしょうか?

> しかし「新しい仮説」が正しいかどうかは,それが既存のデータを説明できるかどうか
> ではなく(できて当たり前でしょう?そのために仮説を立てているのだから),その仮
> 説だけから予想されるような「新しい事実」に関するデータによってしか判断されません.
> 天動説だって,相対性理論だってそうだったのではありませんか?

 天動説は違います。相対性理論は(基本的には)そうです。これは、私の返事(その10)に書きました。

> 「血液型と性格」の議論に決着をつけるには,「既存のデータがこう説明できる」みた
> いな話だけではなく,「血液型では説明できて,性格心理学では説明できない現象」
> をはっきり予測し,それを検証するという「新しいデータ」が必要だし,その新しいデー
> タを示す「義務」は血液型性格学の側にあるのです.

 これもどうもわかりません。確かに、渡邊さんに対してはそうでしょう。しかし、大部分の心理学者に対しては、この方法は有効ではありません。それは、渡邊さんも認めているはずですが…。

> 心理学者のデータを使ってあーだこーだ言うだけというのはまったく姑息ですよ.

 これって、大部分の心理学者が姑息(?)ということでしょうか?

 おっと、今回はちょっと口が悪かったようです(毎回ではありません…笑)。ご容赦ください。

Red_Arrow38.gif (101 バイト)私の返事(その30)

1.「血液型性格学」という「仮説」について

 やはり、これパラダイムの違いなのでしょうか…。最大素数さんが直前のメールで書いているように、「自然科学」と「人文科学」の違いなのかもしれません。「社会科学」はどうなのでしょうか?

2.なぜ議論をはじめ,続けたのか

  1. 科学的論理が根本的にわかっていない人と科学的な議論をすることは不可能である.おまえは科学的論理をABOFANに教えるつもりか?
  2. これまでの心理学者との議論を見ても,ABOFANは「ダブルスタンダード」(注2)であって建設的な議論にはなりっこない.
  3. ああいうやつをお前みたいな奴が「ちゃんと相手にしちゃう」からつけあがるので,無視しておくほうがいい.

 この部分は、心理学者の本音が聞けて非常にありがたいです。ちょっとコメントしておきます。

 1.については、心理学で言う「科学的論理」ならそのとおりです。(^^;;

 2.については、発言者がほぼ特定できてしまいます。(^^;; このままでは、「ダブルスタンダード」の意味がわかりにくいと思うので、読者のためにちょっと解説しておきます。

 この人は、私と議論をしたのですが、結果的に黙って(?)しまいました。本当の原因は不明ですが、どうやら私の統計的解釈の方が正しかった(?)ということのようです。HPにも、それらしいような意味が行間から読み取れます(あくまでも私の推測です、根拠はありませんので念のため)。しかし、統計的には私が正しい(?)にしても、能見さんの言うような性格特性は証明されたとは言えないだろうということです。確かに、全部証明したのか、と言われると困ります(笑)。メインの部分は証明したつもりですが…。

 3.については、明らかに間違っています(笑)。私がつけあがる(?)のは次のような理由です(返事その1)。

1.心理学者が反論しない理由

 これについては、私の書き方が悪かったと思うので、お詫びしてここに訂正させていただきます。

 私のホームページには、確かに一部に「心理学者が反論しない」というような意味の文章があるのは事実です。(^^;; ただ、それは、後日必ず返事をするという内容のメールをいただいたにもかかわらず、何ヶ月しても返事が来なかった、といった例が何回かあるので書いているだけです(しかも、そういう方は私以外の人には何回かメールを出しているようです)。さすがに少々不愉快だったので(決して感情的な書き方をしていないとは言いませんが)、他意はありませんのでどうかご了承ください。もちろん、頻繁にそういうケースがあるということではありません。また、丁寧に返事をいただいた多くの方には大変感謝しています。

 誤解のないように書いておきます。私からのメールは、原則として(反論の)メールを歓迎している人にしか送っていません。この点についてだけは自信を持って断言できます。しかし、そのほとんどは相互に納得した「関係ある」という条件を満たすというデータが見つかったとたんにピタッと返事が来なくなりました。どうしても結論を知りたかったので、しつこく何回も送ったのですが…。こういうケースが何回も(というかほとんどですが)続くと、ついそういう文章も書きたくなるのは人情というものではないでしょうか?

 その一部はこちらにあります。ただ、証明するとなるとそのメールを公開しなければなりません。そんなことをするのはネチケットに反するので、今後ともするつもりはありません。ですから、私の言うことが信じられなくとも当然ですし、信じるべきだというつもりもありませんので…。

 大変失礼しました。m(._.)m

3.「素人」と「専門家」について

 試しに、メール(その8)〜返事(その10)などをご覧ください。(^^;;

 閑話休題。

 私は相手が間違っている(正しい)とは言います。しかし、私が勝った(負けた)とは言いません。それは読者自身が判断すべきことで、自分で書くのには非常に抵抗があるからです…。

4.お礼とお別れのことば

 どうもありがとうございました。

 今回は公開メールなので、戦略を考えて本音が出にくかったこともあるかもしれません。非公開だったら、もっと有意義な話ができたかもしれませんね(笑)。しかし、それでもあえて公開することには大きなメリットがあると思います。

 失礼な点が多々あったかと思いますが、これに懲りずによろしくお願いします。

 今までの議論が、読者、心理学者、そして渡邊さんに何かのお役に立てば非常にうれしいです。

 では、長い間本当にどうもありがとうございました。m(._.)m


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最終更新日:平成12年3月31日