リストマークをクリックするとページが開きます
句表集
句表集
句表集
陽鳥の俳句 句評集
蟻はこぶ米粒白く揺れにけり
(1973.7.16詠)
大 木 あ ま り 選
「評」一粒のお米でも一匹の蟻には重い荷なのでしょう。蟻を通して日盛り
のむんむんする暑さが表出され、米粒の白さの誌的把握がこの句に潤いを与
えています。 (1993.9.4「週間時事」)
俳句を始めたきっかけは、同僚に倣って初めて応募した句が入選、しかも
選者の「選評」をいただいたことでした。この句はその一句、、私の生涯で
の第一作です。
職場の研修所の地鎮祭に列した私 の足元を、一匹の蟻が米粒を背負って通
り過ぎてゆく光景を詠んだ思い出 の一句です。
初空に揚がれる凧に夢託し
(1989.1.1詠)
仁科教博氏からいただいた色紙
大 木 あ ま り 選
「評」男の子の正月の遊戯の代表である凧を「凧に夢託し」と詠んで壮大な
ロマンを秘めた正月らしい晴れやかな句です。
(1994.1.8「週間時事」)
同僚の仁科氏が「俺の土俵を荒らすなよ」と笑って電話してきた。氏の冗
談?に応えて、週間時事への投句はこの句をもって止めました。
その後、氏から画家と書家の手になる素敵な額が届きました。
仁科氏は60歳で急逝され、今はもう声をも聞くこともかないません。
雷の威してばかり雨くれず
(2000.5.20詠)
藤 田 湘 子 選
「評」渕野さんの句。遠くのほうで雷鳴するばかりで、雨はやって来ない。
少しは涼しい恵みをくれ、とぼやいている。
2000.6.18「日経俳壇」(渕野純生で投句)
農業を継いだ弟・平馬からの便り(2007/2)から
日照りの続く日々、雨のほしい農家の人々の心と評してほしいですね。
宮沢賢治の「寒さの夏はおろおろあるき、日照りの夏は涙をながす」に
ある~歩くことで少でも周囲の気温をあげられぬか、涙が少しでも水の
足しにならぬか~が根底にあるように。
日本経済新聞は金融界に身を投じた日からの愛読紙でした。俳句を始め
る前から、私は日経俳壇の選者であった藤田湘子のファンでした。
入選14句の中に選ばれる夢のような幸運に恵まれました。
臥せし妻おいて祭りの中にゐる (日経1999.10.17)
雷の威してばかり雨くれず (日経2000.6.19)
前山に猿降りて来る盂蘭盆会 (日経2000.9.17)
寒鴉頻りに話し掛けてくる (日経2003.1.16)
この後、応募は中断しておりましたが、
藤田湘子主宰は2005年4月15日に永眠されました。
春泥にもうやけくその心もち
(2001.1.5詠)
宇 多 喜 代 子 選
「評」この「やけくその心もち」まことによくわかる。荒っぽい言葉で
春泥の本意を表現した愉快な句です。
(NHK俳壇 2001年5月号/特選)
(NHK教育TV・2001年2月11日(日)午前8時00分~
/再放送:2月16日)
司会:先ず、お二人がおとりになった句からはじめましょう。
今日は、お二人が共にお取りになったのは13番ですね。
「春泥にもうやけくその心もち」、では金子先生から口火を切ってください。
金子:ええ、これねえ、さらっとこう書いていますけどね。けっこう中身の
ある句でね。春泥のどろどろで、もう自暴自棄になったという事実ととも
に、心の内が書けていますね。春泥のような今の心の内と両方が見えてき
て、なかなかサラッと書けて巧いと思いますよ。けっこう諧謔味(かいぎゃく
み)があるしね。
宇多:おもしろいですね。
金子:ええ、おもしろいです。
宇多:初めは春泥を避けながらうまく跳んで歩いていたけれども、あまり続
いたりす ると、自暴自棄でもうどうでもいいやとべたべた行っちゃたり
して、こんなもんですね春泥って。
司会:しかも、思い切って「やけくその」とおっしゃったのがすごいですね。
金子:その内面もあるわけで・・・心の中の・・・・。
宇多:こういう卑属的な言い方というのも金子さんも認めてくださるのです
ね。
金子:非常に認めますね。
司会:迫力がありますね。
金子:ええ。
(注)ゲストは金子兜太先生でした。
NHKからお届けいただいた~2月11日(日)放送の「NHK俳壇」
(選者 宇多喜代子)の番組の中で使用されたボード
漣のまばゆくなりて鴨帰る
(2001.4.1詠)
倉 田 紘 文 選
「評」独断といおうか、発見といおうか、俳句の楽しさや面白さがここに
ある。春光をちりばめる「漣」が「まばゆくなりて」ほんとうに鴨が帰っ
たのであろうか?「きっとそうである」。と作者はきっぱり言い切ったの
である。もはや誰にも疑う余地はない。
(「蕗」2001年6月号)
この句が発表された2年後の7月、他の誌上に、青森県の方の句
「漣のまぶしくなりて鴨帰る」が選評に挙げられていました。私の句、
「まぶしく」と言わず「まばゆく」にしたものですが、「蕗」誌で初
めて評をいただいた記念の一句ですから掲載いたしました。
孑孒の振付け変へてみたくなる
(1993.7.16詠)
倉 田 紘 文 選
「評」あのぼうふらの踊るリズムは印象的にもほぼ一定している。ピン
と跳ねてスーツと浮揚する。その軽い振付けを一度変えてみたい、とは
面白い思い付きである。しばらくは水中の孑孒との自在な時間が流れる。
(「蕗」2002年9月号)/第三書館「ザ・俳句歳時記」所収
月刊俳誌『春耕』2013年8月号/鑑賞「現代の俳句」から
孑孒の振付け変へてみたくなる 渕野陽鳥「花鶏」
「俳人協会 令和五年俳句カレンダーより」
孑孒は、別名を棒振虫ともいう。細長い棒のような体を曲げたり伸ばしたり
しながら泳ぐ様子から名付けられた。融通の利かない単純な動きの繰返しに
やや辟易し、振付けを教えてやりたくなったと詠う。
作者の主情がかなりはっきり示された句である。類想を見ない、俳諧味あふ
れるユニークな句にまとまった。作句の際の視点を考えるうえで大いに学ぶも
のがある句である。
「評」沖山志朴(「春耕」編集長)
薄氷の気泡弾ける予感かな
(2003.1.30詠)
倉 田 紘 文 選
「評」春めいてもう暖かになりかけているのに、急に寒さが戻ってきて
薄い氷を張ることがある。それが薄氷(うすらい)。その氷に包まれた小
さな気泡が、プイと今にもはじけそう。という句。本当の春がもうそこ
に来ている予感。絶妙な季節の把握。
(2003.3.11 大分合同新聞「読者文芸」)
犬ふぐり約束とんと忘れけり
(2003.3.20詠)
倉 田 紘 文 選
「評」(犬ふぐり星のまたたく如くなり 虚子)。
この草は早春の道端にるり色の小花を咲かせる。その美しさにじっと
見とれた作者。
(2003.5.6大分合同新聞「読者文芸」)/第三書館「ザ・俳句歳時記」所収
カルチャーは女優勢山笑ふ
(2004.2.20詠)
倉 田 紘 文 選
「評」カルチャーに限らず最近はいろんな分野で女優勢」の場面に出合う。
頼もしくて結構なことである。「山笑ふ」の俳諧味」が抜群。
(2004.4.6 大分合同新聞「読者文芸」)
水かへて夢のふくらむ金魚玉
(2004.5.23詠)
倉 田 紘 文 選
「評」水を替えたのは人間。夢の膨らむのは金魚。「金魚玉」とは金魚を
入れて軒先などにつる丸いガラス器。人と金魚の共生差ー。
(2004.7.6 大分合同新聞「読者文芸」)
絵/純生
金魚にもある考ふるポーズかな
(2003.7.9詠)
倉 田 紘 文 選
「評」ロダンに「考える人」の現代彫刻の代表作がある。またパスカルが
『パンセ』の中で、「人間は考える葦である」と書く。人間は葦にたとえ
られるような弱いものであるが、<考える>という特性を持ち合わせてい
るとして、思考の偉大さを説いた。揚句の「金魚にも」の「にも」にはそ
れらのことが裏打ちとなっている。生命あるものの全てが、この「にも」
を持ち合わせているとみて間違いなかろう。その中で「金魚」を代表させ
たのである。金魚鉢の中での一瞬一瞬の動作が想われて楽しく、可愛らし
い。特に大きな目玉の出目金など親しさがある。囚われの身の「考えるポ
ーズ」には哀れさもある。一つ一つの生命を大切にしたい。
(「蕗」2004年10月号)
つばくらめ吾を信じて糞落とす
(2004.4.30詠)
石 田 郷 子 選
「評」つばめは人がいるところで安心して子育てをしますが、雛の糞は
親がくちばしで受け止めて離れたところに捨てに行くと聞いています。
そんな意外な慎重さがあるというのに、まるで信じきっているように糞
も落したのですね。把握が面白い句。
ふらんす堂通信100号(2004.4)
水仙の岬の空の広さかな
(2004.12.11詠)
倉 田 紘 文 選
「評」スイセンは一月の花。清楚で香がよく、庭園にも植えられる。
海岸にも自生して人々を誘う。「岬の空の広さかな」の清浄な世界と
よく似合う。
(2005.1.18 大分合同新聞「読者文芸」)
エイプリルフールのそなへ忘れゐし
(2004.4.1詠)
倉 田 紘 文 選
「評」万愚説、つまり四月馬鹿。四月一日をエイプリル・フール・デー
といい、この日だけは罪のない嘘なら誰にも許される。その小さな嘘に
ついて騙された、という一句。 「そなへ」を「忘れゐし」と、嘘に引っ
掛かったのである。いかにも開放的で明るい気分の愉快な句である。
(いや待てよ、それもまたエイプリル・フールで相手を油断させるのか
も・・・・・。これは思い過ごしか。四月馬鹿!)
(「蕗」2005年5月号)
ふるさとの納屋のうしろに梅の花
(2005.2.21詠)
山 本 洋 子 選
「評」ふるさとの生家、季節になるときまって古梅が咲く納屋のうしろ
である。「納屋のうしろ」がなつかしい空間を言い表している。
(「俳句」2005年6月号<平成俳壇>)
古里に母ひとり住む桐の花
(2005.5.17詠)
倉 田 紘 文 選
「評」女の子が生まれると桐の木を植える風習があった。材が軽軟で白
く箪笥などの家財具に適すから。淡紫の桐の花は母の如く心を癒す。
(平成17年度第16回豊の国ねんりんピック)
連れ添うて顔の似て来し鶏頭花
(2005.9.10詠)
石 田 郷 子 選
「評」初老といえる年代のご夫婦でしょうか。この句の面白さは鶏頭花
でしょう。何か貫禄も感じられるし、とぼけた味わいもあります。
ふらんす堂通信106号(2005.10)
神木を廻りて秋を惜しみけり
(2005.10.29詠)
倉 田 紘 文 選
「評」敬神の心が静かに伝わってくる。自然を尊び季節と親しむ姿が
ここにある。その中での大切な一日、大切な一句である。
(2005.11.11 大分合同新聞「読者文芸」)
おとうとの継ぎし山里枇杷の花
(2005.10.27詠)
倉 田 紘 文 選
「評」目立ちはしないが香は抜群のビワの花。兄が都会に出て弟が
山里の家を継ぐようになった家庭。そして一つ一つドラマを生みな
がら時が流れてゆく。
(2006.1.10 大分合同新聞「読者文芸」)
矢印に順うてゆく紅葉狩
(2005.11.9詠)
倉 田 紘 文 選
「評」行楽の秋もいよいよ「紅葉狩」の季となった。天気もよく景色
もよし。慌てず急がず十分に紅葉を堪能してのその道筋。
(俳句四季<東京四季出版社>2006年4月号)
鳥雲に入りて掛軸取り替ふる
(2005.3.21詠)
倉 田 紘 文 選
「評」秋に来た渡り鳥は春になると北方に帰ってゆく。その鳥の群れ
が遠い雲に消えてゆくのが「鳥雲に入る」である。季節の一つの節目
である。
(2006.4.25 大分合同新聞「読者文芸」)
辛夷咲くことにもふれて祝辞かな
(2006.3.10詠)
石 田 郷 子 選
「評」辛夷の花がはじけるように咲く頃の、あの嬉しさ。軽い句ですが、
その場の雰囲気がよく伝わってきます。
ふらんす堂通信108号(2006.4)
まひまひのすぐに癇癪起こしけり
(2006.7.2詠)
小 笠 原 和 男 選
「評」癇癪と捉えた打坐即刻をよろこびたい。癇癪とは潜ることも走る
ことも含めてのこと。まひまひの習性を十分知りつくしての表現に作者
のその日の生活が見える。まひまひの忙しさに加えて、すぐに、とは目
玉が四つあるのも承知の筈。
(角川「俳句」2008.9月号<平成俳壇>推薦一席)
目玉が4つあるのは承知の筈
添付しましたミズスマシにあるように、複眼は他の昆虫と同じく2個
なのですね。昆虫関係の本にはどのような本にでもこのことが記載
されています。複眼の構造が水中と水面上を見ることが出来るよう
に上下に分かれて作られていることを、その巧妙な創造主の智恵を
知って欲しいです。水面上に出る光の屈折は水中と異なりレンズの
構造は高度に光学的です。「評」文で目玉が4つあるというのは虫
やさんには承知できないのですね。
(2008/8/23 高中遊子 1回目の書簡から)
すぐに、とは目玉が四つあるのも承知の筈について
「癇癪と捉えた打坐即刻をよろこびたい。」と評されていますので、
小生は、この即刻をすぐにと受け取りました。まひまひ(ミズスマ
シ・鼓虫)の俊敏な動きを即座に癇癪に結び付けた表現の現代性が
評価されたものだと思います。その俊敏性が複眼の構造性にあるこ
とを作句者は既にご存知である。現代社会の複雑繁多な世相に連想
して現代を癇癪なしに渉れないな。世相表裏の比喩としても、上手
く詠まれた佳作だとされたのではないかと推察します。
(2008/8/29 高中遊子 2回目の書簡から)
「打坐即刻」が意味深長ですね。
小笠原和男評についての続きですが、「打坐即刻」が意味深長です
ね。この言葉は石田波郷語録の「俳句は生活の裡に満目季節をのぞ
み、粛々又朗々たる打坐即刻のうた也」(S21.3「鶴」3月号)より
引用しています。評の言葉として頂いた事は俳句を詠むものにとっ
て誠に光栄至極な事です。
(以下略)
(2008/8/29 高中遊子3回目の書簡から)
空蝉のつかむ一葉のたわみかな
(2007.7.17詠)
高中遊子/評
長い暗い地中の中での幼虫期間を抜けて、やっと自由な空への飛翔
に際して頼りない草の一葉を足場にしての羽化、吾人の理解を超え
た智恵、撓む草が命預ける強靭な基盤となるのですね。それを蝉が
どうして行動に取得しているのでしょう。
下5「たわみかな」が中7「つかむ・・」に係って、命をつなぐ予
感と句に残る余韻を強く感じます。
句評へ