句 評 集

  陽鳥の俳句  句 評 集  

     彫像の影の割込む日向ぼこ
               (2014.11.20詠)

   星 野 高 士 選
「評」少し日が陰ってきたのであろうか、日向ぼこをしているときに近く
に建っている彫像の影が自分のほうに傾いてきたということ。確かに日向
ぼこはそんなに長い時間ではなく冬の日の濃いときの一瞬。そのことを現
実の景でうまく詠みきったところがこの作品の際立ったところ。
             (俳句2015年3月号「平成俳壇」)

 

     親であり子である顔の焚火かな
              (2014.12.1詠)

   石 田 郷 子 選
「評」焚火もまた文化として引き継がれてゆくようです。頼もしい親子
関係。美しい句です。
  (2015/1/31ふらんす堂通信143「なづな集」兼題:焚火)

 

     台風のそれて約束うやむやに
              (2014.8.11詠)

   星 野 高 士 選
「評」近頃は本当に時季外れの台風が次々とやってくるがその度にいろ
んな約束が果たせないこともある。そしていつの間にかその約束も消え
失せて台風の所為にしてしまう。この作品はずばりそこのところを詠み
なぜか儚い。自然の力には勝てないが季語が小気味良い。
         (俳句2014年12月号「平成俳壇」)

 

     母さんが戻つてこない鬼やらひ
              (2014.2.3詠)

   小 島  健 選
「評」戻らない?その意味は多義的だ。が、鬼やらいが疫鬼を追い払う
ことから、母の病状が元に戻らない、とも解しえよう。母の心身の回復
と、家族の幸せを祈る優しい作者。「鬼は外!福は内!」。
          (俳句2014年8月号「平成俳壇」)

 

     カンツォーネ歌うてシャワー全開す
                 (2014.5.14詠)

   夏 井 い つ き 選
  兼題<シャワー>
「評」「シャワー」を浴びながら鼻歌を歌うという発想の句は沢山ありま
したが、「カンツォーネ」の明るさがいいですね。ご機嫌で高らかに歌う
「カンツォーネ」の声に、勢いのよい「シャワー」の音が重なってきます。
真夏の明るさが「カンツォーネ」の一語に広がってくるかのようです。
      2014/5/30 「俳句の街まつやま 俳句ポスト365」)

 

     おごそかに薬缶をまはす夜食かな
                 (2013.9.29詠)

    夏 井 い つ き 選
  兼題<夜食>
「評」町工場の夜業の「夜食」を想像しました。運ばれてきた「夜食」
がおにぎりかパンが、なんてとこに目をつけるのではなく、ドスンと
置かれる大きな「薬缶」に目をとめるあたりが、いかにも俳人らしい
視線です。工場の年配者が座っている席から順に大きな「薬缶」が回
されてきます。それぞれが自分の湯飲みに注いでいくこの場の空気を、
「おごそかに」と表現できるこの作家のアンテナの感度の佳さ。下五
「かな」の詠嘆も「おごそかに」広がります。
    (2013/10/18 「俳句の街まつやま 俳句ポスト365」)

 

     鯊釣の棒竿貸して並ばせる
                 (2013.8.14詠)

   夏 井 い つ き 選
  兼題<鯊釣>
「評」これも、いかにも「鯊釣」らしいお手軽さです。鯊ならば誰に
でも釣れるからと、「棒竿」を何本か余計に用意しているのでしょう
ね。興味半分に声をかけてきた人に「竿ありますよ、やってみます?」
と勧めるのでしょうな。「貸して並ばせる」という描写にさりげない
臨場感があります。
    (2013/8/26 「俳句の街まつやま 俳句ポスト365」)

 

     旧交をあたためてゐる落葉かな
                 (2012.11.5 詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」春には新芽を吹き、夏には青葉を茂らせ、秋には黄葉紅葉とあたり
を粧う木の葉たち。そして冬には枯葉となり、落葉となって散ってゆく。
この大自然の厳かな輪廻の中で、 私達人間も四季折々を楽しませていただ
いている。自然の移り変りを楽しんでいるのは人ばかりではない。この句
に詠まれた落葉たちも、春夏秋冬を楽しみながら久し振りの出会いを楽し
んでいるのである。見事!
      (俳句四季<東京四季出版社>2013年4月号)

 

     山彦の紅葉山よりこたへけり
            (2011.10.28詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」山彦は古くに山神の声と考えられていた。山などで起こる反響
が「紅葉山より」とあり、いよいよ清麗になってくる。自然の美の讃
仰(さんぎょう)に敬服。
     (2012.1.10 大分合同新聞「読者文芸」)

 

     露の玉真に迫れり大宇宙
            (2011.10.2詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」露はあわれさや儚さを表す。<露の世は露の世ながらさりながら>
の一茶の句が象徴的。この句は、さらに大きく宇宙の命に迫っての大作。
       
 (2011.12.6 大分合同新聞「読者文芸」)

 

     怠らぬ老後の備へ蟻の道
          (2011.6.3詠)

  倉 田 紘 文 選
「評」夏の暑い中、冬のえさを備えるため列をなして往復する「蟻の道」
健気であり、備えあれば憂いなしの姿。人もまた斯あるべし。
         (2011.7.19 大分合同新聞「読者文芸」)

 

   たれかれと来て草を引く母の庭

                 (2010.5.18詠)

  石 田 郷 子 選
「評」かつてはせっせと草むしりをしていたお母さんも、お年を召さ
れたのでしょうか。 庭から入って立ち寄ってゆく人たちが、話のつい
でに草を引いてくれるのでしょう。心温まる情景です。
     ( 2010/7/ 25 ふらんす堂通信125「なづな集」)

    母の庭

 

     湯けむりのあしらひ上手春に二番
              (2010.3.4詠)

   
    平成23年(2011年)鉄輪ごよみ/4月に掲載されました。

   倉 田 紘 文 選
「評」二月から三月にかけて、その年初めて吹く強い風が春一番。その
あと大陸の寒波が入り込んで来て強く吹く風が春二番。別府のゆけむり
は上手にそれをあし らって受けとめるという。天晴れ。

「鉄輪俳句筒/湯けむり散歩」平成22年春句集第71集/ 2010/6/12
 第18回年間最優秀句に推されて、鉄輪上広場(句碑公園)に句碑が
 建立(2010/5/29)されました。

 

     ご一行様と呼ばるる浴衣かな
                   (2009.8.24詠)

   宇 多 喜 代 子 選
「評」仕事先の慰安旅行か、ご町内の親睦会か、同好会のグループか、
たぶん団体旅行でしょう。みんなが同じ柄の宿浴衣です。宿をうろうろ
していたり、宴会を楽しんだり散歩に出たりしています。まさしく「ご
一行様」という名の一団体となります。くつろいだ感じをユーモラスに
表現した句です。
    (第14回江山文庫俳句大賞・与謝野町長賞 2009/11/15)

 

     花曇り秒針刻む大時計
           (2006.4.10詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」桜の花の咲くころの曇り空を「花曇り」という。暖かくて花の
蕾が膨らむので「養花天(ようかてん)」ともいう。大時計の秒針が正
しくその花の時を刻んでいる。
        (2006.6.13 大分合同新聞「読者文芸」)
 

   せりあうて紫陽花の毬をさまりぬ
                (2006.6.25詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」次々に花の毬を大きくして盛りを迎えるアジサイ。「せりあうて」
「をさまりぬ」に生きとし生けるものの生命の姿を見る。作者は自愛の
まなざしで、それを詠ったのである。
         (2006.8.15 大分合同新聞「読者文芸」)

 

     蟻の列確としんがりつとめけり
             (2006.6.18詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」「しんがり」とは「殿」と書く。意味は軍隊を引き上げる時、最
後尾にあって迫って来る敵を防ぐこと。故に「確と」とは「蟻の列」で
は必定の一語である。
     (俳句四季<東京四季出版社>2006年10月号)

 

     春昼の辻馬車人を拾うひけり
              (2007.3.11詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」長閑さを具現する春昼の一語。観光地であろう。路傍で乗合馬車
が「人を拾ひけり」という素朴で情感のある一場面。なんとも羨ましい
時空の一コマである。
   (俳句四季<東京四季出版社>2007年7月号)

 

     立葵岬の風の静かな日
            (2007.6.2詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」まっすぐに立ち、花を咲き上がらせる「立葵」。かぜの静かな
日は更に凛とした姿であろう。背景が「岬」であるだけに、どこか灯
台の趣さえ想像される。
       (2007.8.21 大分合同新聞「読者文芸」)

 

     威銃間合に仕掛けありにけり
                   
(2007.8.30詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」鳥獣などを威して追い払うための空砲が「威銃(おどしづつ)」。
その絶妙なタイミングを「間合に仕掛けありにけり」と、端的に表現
した。まさに秋の風物詩の一景。
          (2007.10.16 大分合同新聞「読者文芸」)

 

     コンビニに手配の写真熱帯夜
             (2008.8.3詠)

   河 野 輝 暉 選
「評」「現金に手を出すな」スリラーものの映画が始まる冒頭の
シーンの様だ。ギクリとさせられるが、一時、オーム真理教の写
真が貼られていたり、地 球温暖化現象を思うと、残念ながらこん
な日常化された世相を活写して いる。
    2008.8.3 第49回大分県短文学大会(分科会/特選)

  高 中 遊 子/評 2008/8/4
コンビニ・手配写真・熱帯夜と並んだ語のいずれも現代それも都会
風景の句に、幾多の事件が日常化する都会での無関心な多数派都会
人の倦怠と無聊の日々を覚えます。更に、熱帯夜が加重し、鋭い風
刺、写生句となっています。手配の写真は殆んどコンビニの客には
見られることもなく、徒に凶暴な顔を蛍光灯に曝しているのでしょ
うね。

 

     脇役へ百本の薔薇届きけり
            (2008.6.13詠)

  倉 田 紘 文 選
「評」普通薔薇の花は主役に捧げられる。だが、「傍役へ」とあり、
しかも、「百本」とある。なんとも大らかであり、送った人の心の
広さがゆかしくて快い。 
    (俳句四季<東京四季出版社>2008年100月号

 

     星月夜階下の妻へEメール
           (2008.10.21詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」いかにも今日風の一句である。二階の窓の美しい星空を見な
がら、その感動をそのまま、「Eメール」で一階の妻へ送る。やが
て妻も夫の許に上って来て、しばらく星月夜を共に堪能したことで
あろう。空間の扱いが実に鮮やかであり、みずみずしい受け取りが
交されていて快い。
               (俳誌「蕗」2009年1月号)

 

     介護士のほぐるゝ言葉牡丹の芽
           (2008.4.10詠)

  倉 田 紘 文 選
「評」高齢者や病人などを介抱し世話をする「介護士」。愛と優し
さが基本の精神であり、「ほぐるゝ言葉」には見事な対応の姿があ
る。折りしも牡丹の芽のほぐるゝころ、明るい夢を呼ぶ最高の取り
合わせ。
         (2008.3.17 大分合同新聞「読者文芸」)

 

     職退きて月日十年鳥雲に
                (2009.2.10詠)

    武 石 花 汀 選
「評」退職して十年、老境を感じ、越し方を振り行く先を想う心境が
鳥雲にの季語に凝縮されて共感を誘います。人も鳥も自然の法則にし
たがって。
(平成21年度第200回豊の国ねんりんピック短歌・俳句・川柳展)

 

     まくなぎの加はる野外コンサート
                (2007.6.14詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」目のあたりにうるさくまつわる「まくなぎ」。夏の日の野外
コンサートとの取り合わせが絶妙な場面を生む。おおらかさもあり
て俳諧味も十分。
      (2009.6.23 大分合同新聞「読者文芸」)

 

     噴水の思ひの丈に届かざる
              (2009.4.27詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」大空へ向って噴き上げている噴水。人に思いのあるように、
噴水にもその心意気があるに違いない。「思ひの丈に届かざる」
とは、もうひと伸び欲しい姿である。
      (俳句四季<東京四季出版社>2009年7月号)
 

     静けさの蛍袋に詰まりけり
                   (2009.6.9詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」蛍籠の代わりに蛍を中に入れてこどもが遊んだことによる命名
の「蛍袋」。ちょうど蛍の飛ぶ頃の初夏、淡紅紫色または白色で紫斑
のある鐘状花を下向きにつけて咲かせるので「釣鐘草」ともいう。人
声の外にまったく物音もないその辺り。その人声も消えればただ静け
さが残るだけ。その状態は全くこの「蛍袋に詰まりけり」の雰囲気で
ある。情も景も含んでいる。
              (俳誌「蕗」2009年9月号)

 

     天国は三日で飽きぬ明易し
              (2009.6.7詠)

   小 島   健 選

「評」明け易い夏の夜のこと。さては天国にいるいい夢を見ていたな。
でも、天国もすぐ飽き易し。やはり、天上の理想郷より喜怒哀楽のあ
る地上・この世が一番だ。健康なユーモラスに乾杯!
          (俳句2009年100月号「平成俳壇」)

 

     孑孑の直ぐ投げやりにしてしまふ
                  (2009.7.12詠)

   倉 田 紘 文 選
「評」ぼうふらのあの自由気ままな動きが軽妙に活写されていて愉し
い。ぴしぴしと全身で体位を取り、とても格好がいいが、それもその
時、その場限りで、あとはうやむやに姿を崩す。「直ぐ投げやり」と
はいかにもその通り。俳句の面白さが十二分に発揮された快作なり。
              (俳誌「蕗」2009年11月号)

 

     妻見舞ふ金魚の餌を忘れずに
               (2016.5.28詠)

   野 中 亮 介 選
「評」待合室から診察室に呼ばれて、その結果、入院となったので
あろう。病室の妻を見舞うことが作者の日常となっている。男手に
揃えた入院準備の品々であろうから、遺漏も少なくはない。毎日、
病院に持参するものを袋に詰め込んでばたばたと家を出る。いや、
待てよ、と作者を引き止めるのはガスの元栓や戸締りの確認ではな
い。「そうだ妻が飼っていた金魚のご飯が未だだった」と家に戻る
夫。それが命に直結することであるが故に、それを怠らねば絶対に
妻は快復するという願いを込めての、今、流行の言葉でいうなれば
ルーチンという行為なのである。それが些細であればあるほど、作
者の願いが深く強いことが伝わってくる。
         (「花鶏」2016年9-10月号/観鳥余録)



   つくしんぼ真つ直ぐ伸びて摘み取らる
                   (2016.3.8詠)

   野 中 亮 介 選
「評」詩の魅力のひとつにアイロニーがあろう。特に社会的な事業を切り
取る場合、危ないものを危険だ、と叫んでみても、汚い物を触るな!と大
声で警告してみたとしても一時的なサイレンに過ぎない。一過性であり普
遍的ないのだ。それはそうした声が聞く耳を介して第三者の頭脳に届くか
らである。知識は忘れやすいものだ。そこで標準的な呼び掛け、しかも、
少々、皮肉をふくんだものが効果を上げる。「スピードを出しても信号に
すぐ引っ掛かりますから無駄ですよ」と諭すより「狭い日本そんなに急い
でどこへ行く」と言ってあげた方がいい、といった類。さて、揚句はもう
少し皮肉の利いたもの。戦前の帝国主義、あるいは軍国主義へもアイロニ
ーとも取れる一句。教えられたままに素直にすくすくと成長しただけなの
に、そこにあるのは花咲く未来ではなく黒い空であった。甲種合格が率先
して最前線に送り出されたこともふっと頭を過った一句。下五の着地で舞
台をどんでん返しした作者の手腕が見事である。
            (「花鶏」2016年5-6月号/観鳥余録)



     寒風や根つこゆるがぬ湯の煙
             (2015.11.13詠)

   野 中 亮 介 選
「評」「日本列島改造論」ではないが高速道路や空港などの交通網、イン
フラが発達するにつれ、日本全体がどこも近似したような顔を見せるよう
になった。かつて俳壇では痴呆性を重視した、風土俳句なるものが流行し
た時代があった。それは経済の高度成長の時期と合致するように私は感じ
ている。インフラが整備されることで地方への人口移動がより安易になっ
たためでもあるのだろう。風土俳句というものが決して人の踏み入ること
のできないような秘境俳句ではないからだ。そこにはしっかりとした「見
ることのできる」生活の存在がある。そこに日本列島均質化計画が出現し
た。確かに外見上は差異が僅かになってきているようにも感じられるのだ
が、父祖より長く暮らした産土の確かさは、単に観光ガイド化し、イヴェ
ント化した茉莉や行事をよそに、しっかりと生活に根ざしたところで充実
した作品に昇華している。この作品は作者が在住している別府の風景であ
るということは特定し難いかもしれないが、熱海や草津などの温泉に恵ま
れた土地であることは想像できよう。温泉ブームに乗ってそのような土地
は随分と賑わってきているのだが、そのスポットを少し離れたところには、
まだ畦に捨湯の煙が立ち上がる光景を見ることができる。しかし、それは
決して「秘境」というものではなく。自宅に温泉を引いたり、共同炊事場
で「地獄蒸し」なる蒸し料理にそれを使ったり、と実生活にしっかりと根
付いているのだ。さて、陽鳥氏の温泉はどちらであろうか。その答えは上
五の季語にある。由布岳や鶴見岳から吹き下ろす「寒風」、その暗示する
ものは生活環境における「辛さ」に外ならないだろう。一見、ひょろひょ
ろ上がる「湯の煙」でありながら、その根っこは産土にしっかりと食い込
んでいるのだ。強度の風景と作者の実生活が見事に交錯している。
同じ風景を描いてみても、
      (「花鶏」2016年3-4月号/観鳥余録)

 

     行くあてのある敬老の日なりけり
               (2015.9.20詠)

   野 中 亮 介 選
「評」この句もそこはかとないおかしみが漂う。昨今の壮健なお年寄り
の姿であろうか。デイケアなど現在はお年寄りを一時的に預かりお世話
する施設が増えて来ている。まして「敬老の日」となれば各種のイヴェ
ンへと施設の車がお年寄りを乗せて巡る。しかし、私はやることも行く
ところもありますので、とさらりと躱すお年寄り。季語の力を借りつつ、
その盲点を見事に突いている。
          (「花鶏」2016年1-2月号/観鳥余録)

 

     朝顔の蔓の及ばぬ取つ掛かり
               (2015.7.29詠)

    野 中 亮 介 選
「評」朝顔の蔓の及ばぬ取つ掛かり 渕野陽鳥
朝顔の蔓みちびきてひとりなり 桑野英子
ともに「朝顔の蔓」を読み込んだ作品だが捕らえ方真逆であるところが
興味深い。渕野作品はひょろひょろと伸び出した「朝顔の蔓」があたか
も赤子が母親の乳を求めるがごとくに手探りしている、と見た。俳句に
詠まれた素材が自らの投影だとすれば、俳句に暗中模索している作者の
姿をそこに見てもおかしくはないだろう。作者の謙虚な姿勢がある。
一方、桑野作品はすでに成長して支柱に絡まっているそれであろう。蔓
は人生の指針、道標として作者を導いている。人生、最初も最後もひと
りぼっち、とでも言いたげな「朝顔の蔓」である。
       (「花鶏」2015年11-12月号/観鳥余録)



     青柿の心がけても落ちにけり
              (2015.6.21詠)

   野 中 亮 介 選
「評」雨や風で落ちる果実と言えば柿が直ぐに思い浮かぶ。
それも赤く熟したものよりもまだ青々と尖っているものだ。 夜風に落
ちてごとんごとんと屋根を打つ「青柿」の音に目が覚めたこともに三度
ではない。朝起きて道を片付ける面倒さ。しかし、これはどう考えてみ
ても「青柿」のせいでは無い。どうしょうもない植物の性を中七で掴む。
        (「花鶏」2015年9-10月号/観鳥余録)

 

     終わりなき白山茶花の一つ咲き
                (2015.1.15詠)

   野 中 亮 介 選
「評」椿は落ちるが山茶花は散り零れる。そして、垣根に第一花を見
つけた日より次々と果てしなく続く。それは人間が生れて死ぬまでの
営みに近い。渕野さんは白い山茶花のひとつを見つけた瞬間、赤ん坊
の産声を聞いたに違いない。今から全てが始まるのだと。この感性は
大切だ。
         (「花鶏」2015年3-4月号/観鳥余録)

 

     ちちろ虫レシピ恃みの鰥夫なる
                   (2019.6.1詠)
   野 中 亮 介 選
「評」妻のいるときは当然のことのように並んでいた食事。その味や盛り
付けに口出ししていた自分。しかし、ひとりになると、料理本のレシピに
頼るしかない。過ぎし日の反省と共に妻への愛情が新たになるのである。
           (2019.10.26/読売新聞西部俳壇)

 
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