句 評 集


 陽鳥の俳句  句 評 集  


  蕗を剝くことは任せてもらひけり
                (2020.5.6 詠)

 野中亮介選
「評」在宅が多くなったご主人。手持無沙汰もあってか奥様の後をウロウロと。
今まで家事に無頓着だった夫に大切な仕事を任すわけにはいかない。見かねた
奥様が出された仕事が滑稽味を誘う。
          (2021年12月25日/読売新聞西部俳壇)
2021年1月9日/読売新聞西部俳壇2020年間賞一席


 

  とんと見ぬごきぶりのゐることは居る
                   (2020.7.12 詠)

 野中亮介選
「評」衛生観念が浸透し姿を消しつつあるゴキブリ。駆除できたと思っていて
も夜、ガサゴソと台所から音がする。明かりをつけると物陰に走り入るころい
影が。忍者のごときその生態をうまく捉えている。
        (2020年9月12日/読売新聞西部俳壇)


 


  十二月八日胎児の我は母を蹴り
                   (2021.12.8 詠)
 野中亮介選
「評」十二月八日は太平洋戦争が始まった日。昭和十六年のこの日、作者は
母親の胎内だった。母親を蹴るとは兵士として戦場に赴きたいという意思の
表れなのか。母親の心情はいかがだったであろう。
        (2021年12月25日/読売新聞西部俳壇)


 


  新 涼 や 蛤 碁 石 の 縞 模 様
                 (2021.9.18詠)
   (「俳句」十月号「つくづく」八句より)

 茅根知子選
「評」碁石の白石は蛤から作られる。その価値は厚いほど希少性が高く、高価
になる。また縞目の美しさも価値を決めるポイントだ。挙句の白石は最高級の
ものだろう。茶席でお道具を褒めるように、碁会でも石を褒めたりするのだろ
うか。碁を打つ音が澄んだ空気の中に響いて新涼が合っている。
 (「俳壇」2022年12月号「俳壇月評」)
               茅根知子(第15回「俳壇賞」受賞)


 


  牛蒡引く地球の裏も誰か引く
                        (2021.9.18詠)
         (「俳句」十月号「つくづく」より)

 
山本くに子選
「評秋の収穫時、牛蒡の地下茎は一メートル以上に生育していて、その収穫作
業はなかなか大変らしい。掘り出そうとしてどんなに引いても出てこない牛蒡を
持て余し、ひょっとして地球の裏側で誰かがこの牛蒡の向こうの端を引っ張てい
るのではないかと思ってしまう。一本の牛蒡を丸い地球の反対側にいる見知らぬ
人と引き合っているという大きなイメージがとても愉快である。その空想の根底
には、我々が暮らす地球は一つという親近感と連帯感が感じられる。
       (「風港」2022年12月号/現代俳句鑑賞)


 


  曼殊沙華つくづく生きて下されよ
                        (2021.9.23詠)
         (「俳句」十月号「つくづく」より)

 川嵜昭典選
「評」生きにくい時代、と言われる。食べ物も豊富で、医療などの手当も行き届
き、ルールの整備もされ、単純に長い気をするという意味では、人間は十分に生
きやすくなった。ただ生きやすくなった分、どう幸せに生きるか、という生きる
意味については、見つけにくくなっている、ということだろう。現に私も仕事を
していて、いわゆる精神疾患の人は増えているように肌で感じるし、厚生労働省
のデータにもそのように表れている。曼殊沙華は、気付けばずっと茎が出て、花
が咲いている。それは、意味など考えず、まず真っ直ぐに生命を伸ばしているこ
とでもある。人も、何も意味など考えず、このように生きられれば、どんなに楽
だろうと思う。「つくづく生きて」という、ただ生きることへの直視が、別の意
味で必要な時代になったのではないかと思う。
     (「若竹」2022年12月号/一句一会)


 


  買ひ置きてくるる肌着や春の月
                     (2023.2.19詠)

 野中亮介選
「評」そろそろくたびれた肌着を替えねば、と箪笥を覗くと何着も買い置きがして
あった。この句の眼目は「肌着」である。直に作者の肌に触れる品であることが作品
の内容を深めている。すでに亡くなられた奥様の愛情を思い、仰ぎ見る「春の月」も
滲むのである。
                  (「花鶏」2023/5・6月号)


 


  棉吹くや母のよい子になつてをり
                  (2022.10.14詠)

 野中亮介選
「評」子供は天使である、とよく耳にする。確かに大人になる過程でいろいろと身に
付く垢が無いぶん、あながち誤りではないし、それ故、恐ろしいほどの直感を持って
もいる。しかしながら、自分自身をふり返ってみると、なかなかズルイ一面もある。
それは「こども」という隠れ蓑を着ることで、たいがいのことが許されることを知っ
ているからだ。「まだ、こどもだから」という免罪符が懐にあることを知っている。
挙句の「母の良い子」という措辞にそういうこどもながらの抜け目なさが感じ取ら
れる
                  (「花鶏」2023/11・12月号)



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