明治31年(1898)5月、藤井公巖師がこの京極に、その当時は倶知安村字ワッカタサップの地に立った。すでに3月に到着しているであろう京極農場第一回移住団のあとを追って。違っていたのは、ただ一人の旅であったこと、岩内を中心とした海岸地帯には、いくつかの浄土真宗大谷派の宗教施設があり、南部茶屋(今の国富)と倶知安村内にも説教所ができていて、すでに布教活動を行っていると教えられていたこと、および一貫代(丈180センチの掛軸)の阿弥陀如来の絵像とわずかの仏具を携えていることであった。
この旅程を今すこし推論しておきたい。京都を出発して一般的な道をたどったとすると、北国路を歩いて金沢から伏木(今は高岡市に含まれている)に出て船に乗る。日本郵船の船であれば、順調に進めると、直江津、新潟、酒田、土崎(秋田)に寄って函館に至り、別の船便に乗りかえて岩内港に上がる。船旅だけでも、潮と風にめぐまれたとしても7日ほどかかる。もしも船中で死亡すれば、遺体はそのまま海中に投棄することになっていたという。京極への第一回移住団にも命終されたかたがおり、死去を隠して岩内に上陸したと聞かされている。墓石には明治31年3月19日と刻まれている。藤井師の来た5月を中旬と仮定すると、京都では葵祭りであるが、羊蹄山麓では山桜の花に迎えられたのであろうか。ただし、原始林と熊笹の中に点在しているだけの。
以上は、墓石の日付以外は伝聞と推測である。
開基とは寺院などを創立することである。ある人物が布教活動を始め、やがてその人を中心とした信仰集団が成立し、一定の組織と施設を有するようになった時点であろう。
しかし、北海道の仏教寺院は特殊である。すでに移住し定住に成功した自派の開拓者集団に招かれ、あるいは共に開墾に従事して住みつき、やがて寺院を建立しているような例が多い。結果的には、他宗派の信徒を自派に改宗せしめることもあったが、開教(自派の教えを始めて説く)とか布教(教えを弘める)という用語は、厳密には妥当ではない。
さらに、北海道では当初より法律的に強く規制されている。寺院とは、一定以上の檀家数と土地財産などを備えていて、北海道庁許可を得なければならない。また、それに満たない場合は説教所とされるが、やはり所定の条件があって、道庁あるいは支庁の許可が必要である。このような説教所に常住する僧は住職ではなく在勤と呼ばれる。したがって、説教と認められる以前に、僧を中心とした信仰集団が成立していなければならない。このような集団が発展できた時は、その集団の成立時期を開基ということができる。
明治43年に「廣徳寺創立願」が北海道庁に提出され、この添付書類の由緒という一項に、
「明治31年5月より布教に着手、同36年に説教所認可。」という内容の記述があり、
第一世江隈圓導の署名のある「明細表」には
「京極農場への移住者のために布教を始め、京極家の特志もあって明治45年に廣徳寺となった」という内容が記されている。
旧丸亀藩主の京極高徳子爵は、明治20年から現在の洞爺村の開拓に着手し、良好な開墾成果をあげていた。京極家は明治30年に、洞爺村から5戸27人をこの地に移住させ、北陸より京極家の募集に応じて入植してくる人たちの準備に当たらせていた。
明治31年(1898) | 藤井公巖師、京極農場の移住者のため布教に着手 |
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明治36年(1903) | 説教所として認可される |
明治43年(1910) | 「廣徳寺創立願」を北海道庁に提出 |
明治45年(1912) | 「廣徳寺」寺号公称の認可がおりる 第一世住職 江隈圓導 |
大正7年(1918) | 親鸞聖人650回御遠忌法要 |
大正15年(1926) | 鐘楼堂を建立 |
昭和2年(1927) | 廣徳寺婦人会が結成される |
昭和3年(1928) | 博物館(北海児童図書博物館)を始める |
昭和4年(1929) | 住職 江隈圓導 開拓功労者の一人として東倶知安村から表彰される。 |
昭和14年(1939) | 第一世住職 江隈圓導 逝去 江隈正 第二世住職となる |
昭和15年(1940) | 東倶知安村の村名が京極と改められる |
昭和17年(1942) | 太平洋戦争により梵鐘を供出 |
昭和16年〜20年 | 太平洋中の5年間に檀信徒で23名の若者の戦死(軍属・戦病死を含む) |
昭和25年(1950) | 梵鐘を新鋳、鐘初式を行う |
昭和33年(1958) | 庫裡を新築する |
昭和36年(1961) | 納骨堂を新築 |
昭和37年(1962) | 京極が村から町に昇格する |
昭和43年(1968) | 納骨堂に御本尊阿弥陀如来像を安置し、入仏式を行う |
昭和44年(1969) | 廣徳寺開基70周年記念法要を厳修する |
昭和45年(1970) | 江隈薫(現住職)北海道大学大学院を卒業し、函館大谷短期大学講師として赴任する |
昭和46年(1971) | 江隈薫、八雲町安楽寺四女阿部貞子と結婚 |
昭和53年(1978) | 江隈薫、函館大谷短期大学助教授を辞して妻子と共に帰寺 庫裡を増築 開基80周年記念法要を厳修する |
昭和55年(1980) | 本堂の屋根を瓦風トタンで葺き替える 第二世住職 江隈正 藍綬褒章受章 |
昭和57年(1981) | 鐘楼堂および納骨堂の屋根を瓦風トタンで葺き替える |
昭和59年(1982) | 納骨堂を鉄筋コンクリート2階建で新築 第三世住職(江隈薫)襲職式兼納骨堂落慶法要厳修 |
昭和63年(1988) | 開基住職50回忌法要を行う |
平成8年(1996) | 第二世住職 江隈正 逝去 |
平成10年(1998) | 開基100年記念法要を厳修する |
平成16年(2004) | 候補衆徒・江隈智、旧三石町知恩寺三女亀田恵子と結婚 庫裡増築 |