Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・『モンスター』(4)(2017年12月24日) 

 廃墟でヨハンと向き合うニナは銃を向けて叫びます。
 「今まであたし達に優しくしてくれた人達、みんなあなたが殺したのよ!!」
 「あの時みたいに撃つかい?」と額に刻印を押すしぐさをするヨハン。
 「ええ…もうすべて終わりにするの」
 「終わり…終わりってなんだろう、何度も何度も終わりの世界を見てきた」
 「あなた、何を見てきたって言うの!?あなたは知らない…話してあげるわ…本当の恐ろしい話を…」
 ニナはニナで失われた記憶を苦しみもがきながら取り戻していました。物語では様々なエピソードが錯綜し、時系列もバラバラで、事実と印象が入りまじり、いくつかの見方ができそうです。

 すべてのはじまりは、「人類の未来を担う子供達」を造るために、「赤いバラの屋敷の男」ボナパルタがたてたプログラムでした。
 「人種、頭脳、骨格、運動能力、選び抜かれた男と女の間に子供をつくる実験」からヨハンとニナは生まれました。
 男性はエリート軍人。シナリオどおり任務を遂行したものの、放棄し二人で逃げますが、「その行動もシナリオに組みこまれて」おり、殺されます。とらわれた女性は、「この子達があなたに復讐する」と告げます。ヨハンとニナと共にひっそりと暮らしていたものの、やがて実験のため強制的にニナが「赤いバラの屋敷」へ連行されます。
 外界との隔離からはじまるマインドコントロール。実験の祝賀会でバタバタと倒れる人々。ボナパルタのみが生き残り、ニナは走って逃げます。ヨハンはニナの話を何度も聞くことで、自分の体験にしてしまい、ニナと共に逃げます。
 ヨハンは誰も信じられなくなり、ニナを守るために次々と人を殺しはじめます。
 国境の荒野で行き倒れたところを軍にひろわれ、ヨハンは511へと入ります。511でのマインドコントロールの数々はまるで当時の教団と重なり合います。

 銃声が響き、かけつけるテンマ。ヨハンの姿はなく、ニナは銃を頭に向けてうずくまっています。間一髪のところでテンマはニナを救います。ニナはヨハンが連行されたことで怪物になってしまったと思い込んでいたものの、実際は逆で、自分のせいだと思いヨハンと共に死のうとしたのでした。
 「笑っているように見えた、でも、泣いてるようにも見えた、あんな人間の顔、見たことない、あたしには撃てなかった、でもきっと彼は自分を破壊するわ。あたしと同じように」と絶望するニナ。
 「だめだ、だめだ、君が死んだら、私はどこへ行けばいい…生きていてくれ、お願いだ…どんなことがあっても」と、テンマはニナを抱きしめます。テンマが苛酷な運命を耐え抜くことができたのは、ニナへの愛であることがさらっと描かれています。それは野獣に立ち向かうための伏線であるかのようです。

 場面はボナパルタが隠れひそむルーエンハイムに移ります。
 ニナがテンマに語ります、ヨハンは、「完全な自殺、本当の孤独、唯一の愛情表現」をしようとしていると。「早くしないと、罪のない人がたくさん死ぬ」と。まるでハルマゲドンの自作自演です。
 いのちを救われる者と救われぬ者に選民していけば、行き着く先は絶望的な孤独です。自分以外の者を拒絶することになるからです。そこでは救済しようとするほど、他者を否定していくことになります。このようなどうしようもなく歪んだ、肥大化した自我の救済という愛情表現が、オウム事件の深層にあったと看取します。

 ボナパルタはホテルのオーナーとしてひっそり暮らし、アル中の父をもつ少年を世話する好々爺として描かれています。ルンゲとグリマ―は違った手掛かりからルーエンハイムにたどり着き、ヨハンが引き起こそうとしている街全体を全滅させる計画を食い止めようとしますが、すでに動き出していました。
 ヨハンの手足とは思えない足の不自由な老夫婦が、こっそりと心情の不安定な住民に銃をばらまいていきます。同時に手先のよそ者が次々と暴力事件や殺人事件を引き起こし、平和であった街をかき乱し、集団ヒステリーに突き落とし、疑心暗鬼となった住民達が殺し合い、まるで戦場となります。
 ヨハンの計画通りに一気に事が進みますが、プログラムからはずれた者達も、ごくわずかながらもいました。
 「おまえが生まれてきたのには意味がある」と、ボナパルタが力づけてきた少年は、ゴミだといじめられ続けていたものの、銃を使うことを踏み止まりました。

 ボナパルタは正体を見破ったルンゲとグリマ―に語ります。
 「私はここで、ただ審判の下りるのを待っていた、死ぬことは怖くない、だが、どう償えばいいのか、わからない…」
 「待っていただと、死ぬのは怖くないだと、あんたがやったことがどれほどの罪だったのか…!!(中略)
 人間の善悪の根幹を破壊するということが、何を意味するのか!!人間の中の怪物をめざめさせることで何が起きるのか!!(中略)人間は…人間は…子供が死んだ時、心の底から悲しいと思わなければいけない…」
 と、グリマーはボナパルタの胸倉をつかんで叫びます。
 頭を殴り付けられたかのようでした。

 「人間の善悪の根幹を破壊する」のが、教団のような破壊的カルトのマインドコントロールの正体です。修行の名において、信者は善悪の根幹を破壊されてしまったからこそ、これだけの事件を救済と妄信して行ったのです。
 「人間はね、何にだってなれるんだよ」、「名前などいらないんだ」と、ボナパルタは善悪の規範の要となるアイデンティティを集約する名前を奪っていきます。名前は社会のルールの中で生活するために必要なもので、社会のルールは人間が欲望のまま好き勝手に動くのを抑制するために必要なものです。
 ですので人の名前は社会の中で自分の欲望を抑え込む要石にもなっていると推量されます。そこで名前と共に善悪の規範を取り払えば、抑え込まれていた欲望や本能がむき出しになってしまい、それを怪物と呼んでいるようです。

 善悪の根幹を破壊することと大自然に食べ尽くされることは、社会でまとってきたものを取り払う点においては一見似ていますが、全くちがうものです。麻原は修行を悪用して、信者の社会的な人格を喪失させ、善悪の根幹を破壊した上で、計画の手足として動く人格を刷り込みました。このように造られた人格は信者のいのちそのものを抑圧したものですので、信者は喜怒哀楽を失い、まるで能面のような顔つきになります。
 一方、「捨身飼虎」は、自主的に大自然に食べ尽くされることにより、社会的な価値観は解体されていきますが、それにより大自然の摂理と一体となり、いのちそのものに具わっている善悪を判断し、自と他を利する知恵を取り戻そうとしていると推量されます。
 ヨハネの黙示録を悪用して麻原は自分と小羊を同一化することで、神々の意思の名において、自らハルマゲドンを引き起こすことを正当化しました。言い換えれば、麻原は自分の中の怪物を神の名において正当化していたのです。
 宗教は社会的な価値観を解体した先にあるものに、触れようとし、そこを根源にしているために、本物の善知識、先達なくしては、自分の中の怪物を神の名において正当化してしまうとんでもない過ちを犯してしまうと骨に徹しています。

 宗教に依ることなく、自分の中の怪物と向き合いながら、社会に放れてしまった怪物に立ち向かうことができるのか?
 この課題を突き付けられたテンマは悪戦苦闘しながらも、じりじりと怪物に迫っていきます。

 2017年12月24日 井上嘉浩


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