Compassion カルトを抜けて罪と向き合う 井上嘉浩

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手記

この手記は、最高裁へ上告中の2008年に井上嘉浩さんが書いたものです。
その後、2014年の平田信氏の法廷証言の前に、あらためて事件の背景事情の整理や内省を深め、加筆訂正されました。

「未来の世代へ 二度と過ちが繰り返されないように」

<目次>
 (一) 何故
 (二) 逆さま
 (三) 喪失
 (四) 罪人
 (五) 偽善
 (六) 狂気
 (七) 予言
 (八) 大罪人
 (九) 罪の自覚
 (十) 悲しみと愛

(一) 何故

 私は決してこのような大罪を犯すつもりで出家したわけではありません。それなのに何故大罪を犯してしまったのか、逮捕後幾度となく自問自答してきました。

 突き詰めますとオウムに入会する前の自分に既に問題がありました。さかのぼれば宗教とは何かを理解していなかったからであり、それはまた人間生活に矛盾した姿があることの意味に目を開かなかったことが原因であると思われます。さらに私の性格的な欠点として、あせること、いい格好をすること、早とちりをすることがありました。
 これらの問題を象徴する出来事として、高校一年生の頃、母方の実家の祖母が入院していた老人病院に見舞いに行ったときのことが思い浮かびます。そこにいるのはおじいちゃんおばあちゃんばかりで何とも言えない悲しげな目で私を追っていました。私は、「ここは現代の姥捨山ではないか!子供や社会のために尽くしてこられたのに、こんなところに隔離され、ただ死を待つだけだなんて、こんなことは何とかしなければいけない」と、悲しみや怒りに駆られました。
 もし当時抱いた「こんなことは何とかしなければいけない」との思いを本当に実現しようとするなら、何故人は人を愛しながら、私には人を見捨てているように思えた老人病院に入れたままでいられるのか、そういう人間の矛盾にまず目を開くべきでした。それなのに私は一方的に矛盾のないユートピアに憧れました。今から思えば青年の正義感ではありましたが、それは世間を知らない危ういものでした。このようなユートピアに魅かれた原因の一つに家族の不和があったと思います。
 
 私の幼稚園児の時に、母が自殺未遂をしたことが思い浮かびます。母は台所に倒れていました。
「なんやよっちゃんか、こっちへおいで」と、母はゆらりと上半身を起こして手招きしました。飛び込みたくても飛び込めずに逃げたくても逃げられませんでした。やがて救急車のサイレンが聞こえ「死なして、ほうっておいて」と母は叫び、救急車に運び込まれ、私を置いて走り去っていきました。以来、母のことがいつも心配でなりませんでした。
 父については家で暴れる姿が思い出されます。たまに日曜日に一緒に食事をすると、突然大声を上げ卓袱台をひっくり返しました。母は金切り声を上げて、父とケンカし、2階の部屋へ引っ込みました。父は一階の応接間にこもり、兄はすぐに自分の部屋に戻りました。誰も掃除せず、いつも私が片付け、無性に悲しく一人で泣きました。しかしこういう家族をとりわけ不幸とは考えていませんでした。子供の頃ドキュメンタリー番組が好きで、世界中には食べることもできずに苦しんでいる人がたくさんいると思っていました。父はタバコも酒もギャンブルもせず真面目な人でしたが、家でもくつろげない父を見ていると、「父のような生き方をしても幸福はない」と思うようになりました。

 そして中学生の頃、私にはどういう大人になりたいのか理想が持てませんでした。その頃出会ったのが武道の独学を通して知ったヨーガの「輪廻からの解脱」という思想でした。
 輪廻の思想はそのままでは信じられませんでしたが、この世の全ては無常であると言い切られていることに、はじめてごまかしのない真実に出会ったと感動しました。そして全ての幸福は例外なく無常の苦しみにつながれていると感じ、何という果てしない苦しみの中に人は生きているんだろうかとショックを受けました。私は無常の苦しみからの解脱に魅かれ、初めて人生でやってみたいことを見つけたと思いました。
 このこと自体は他者に迷惑をかけない限り批難されるものではなかったと思います。私の大きな過ちは、解脱とは何か?独学で求めていく中で出会った阿含宗の「霊性の開発による社会革命」という言葉に、よくその内容を吟味しないままにとらわれてしまったことであったと考えています。それは、現代社会は様々な問題に満ちあふれていて、今のままの人間の知能では高度に発達した近代技術をもてあそび絶滅に至ってしまうかも知れない、ただ霊性の開発によってのみその危機から逃れることができる、というものでした。オウムではこれを神々の意思によるハルマゲドンからの救済と呼んでいました。
 今から思いますと、これは宗教や思想ではなく、修行による個人の変化がそのまま社会の変化に通用するかのような幻想を煽っていたアジテーションであったと思います。
 しかし当時15歳の私はそれを真に受けて、なんとかしなければと情熱をかき立てられました。ところが阿含宗の中へ入ってみると、私には肝心な霊性の開発ということが欠けているように思われ失望しました。しかし麻原がそのパートを提示していたことから関心を持ち、16歳で入会し、そしてどんどんはまっていきました。

 人間の苦しみや悲しみに対して答えはあるのでしょうか?今、私は答えのない苦しみと向き合うことがどれほどつらいことかとしみじみ実感しています。麻原は苦しみは苦しみでしかないと断定し、苦しみとは別のところに本当の幸せ、解脱があると教え、その道を真理と呼びました。私は麻原の教えに無常の苦しみの答えがあると信じ、それを得ようと努め、それが多くの人々の救いになると信じ布教しました。
 この麻原の教えは一見、輪廻の苦しみからの解脱と同じに思え、当時私はそのように理解しました。しかし逮捕後、本来仏教が伝えようとしているものは、このような善と悪を二分するような単純な二元論にもとづいた苦しみからの救いではないことを学び愕然としました。
 具体的には人間が作りだす様々な矛盾の苦しみをじっと耐えて受け入れることで、はじめて自分の中に開かれてくる愛のような心を知り、人格を高めることが、宗教の核心のようでした。これはとりもなおさず大人になる道であったと思います。
 ですので、決して苦しみに決まった答えがあるわけではなく、逆に他者から与えられた答えがあると信じ込んで、それに自分をゆだねることは自分を見失うことであり、宗教の落とし穴でした。麻原の教えのように人間の矛盾を拒絶したものは宗教とは言えず、人としての心を見失うものでしかありませんでした。
 
 私は16歳で宗教の落とし穴に自分ではまり込み、教団内で大人になるための大切な様々な体験をまるで逆さまにすることになりました。



(二) 逆さま

 私が出会った頃の麻原は質素で飾り気がなく、言っていることと行いが同じで、本気で他者のために尽くそうとしていると感じました。それは父の理想像でもありました。さらに何でも受け止めてくれるような包容感がありました。それは母の理想像でもありました。
 高校2年生の冬に参加したセミナーで、麻原は信徒に「気」を注ぐ儀式のやりすぎで高熱を出して倒れました。そして説法で「自分が土壇場に追い込まれた時、他者のことを考えるのが慈悲だ」と、フラフラになりながら語りました。私は麻原が自分を犠牲にしていると信じ心から感動しました。

 その後教団では「自分で考えてはいけない」と教えはじめました。高校3年生の夏、私は麻原からグルと弟子の関係について「弟子は自分からは一切どんな疑問がわいても尋ねないもので、黙々とグルが言ったことをやり続けるものなんだ。どうだ、できるか」と問われ、とっさに「頑張ってみます」と答えました。しかし当時はまだ自分で納得できないことを行うことに耐え難い苦痛を感じていました。私は出家を願っていたのに、麻原から理由は教えられず、大学へ行って弁護士になれと指示され困惑していました。その困惑はエゴのせいだと言われ、自己嫌悪を感じつつも、また反対にグルに自分を丸ごと放り出してしまっていいのだろうか?という疑問が起こりました。ひたすらグルに従うことも、苦しみを紛らわすために快楽を求めることともしかすると変わらないかもしれないとも思いました。何をやっても自分をごまかしているような絶望の淵にいるような感じでした。
 「苦をごまかすことが最も苦であることを感じる」と1987年8月31日の日記に書いていました。
捨てようとしても捨てきれずに影のようにまとわりつく矛盾やエゴを、当時の私にはこれ以上追求できませんでした。「グルが間違った道へ導くことはない」と信じ、自分で考えてはいけないと言い聞かせました。
 今から思いますと、考えないことは人間をやめることであったと思います。考えるなと教えられた教団内では、全てにおいてグルの意思が正しいという答えが決まっていました。その中では、「正しいことは何であるか」と自分で考えることの不安は消えますが、代わりに自分で悩み考え成長する可能性もまた消えました。そして他者に意見を求めることもなく、他者の立場に立とうとする配慮すらなくなりました。

 1988年18歳で出家した時、両親が新幹線のホーム下まで見送ってくれました。私は両親に頭を下げると涙が溢れてきて顔を上げられませんでした。東京へ向かう新幹線の中で「親子であろうと情の喜びと悲しみの輪の中にいる限り、苦しみは果てしなく続くんだ。自分はその輪を抜けた解脱を体現し、両親にも分け与えるんだ。決して悲しむことではないんだ」と言い聞かせました。

 その年の夏、インドから帰国した麻原は道場で突然に怒鳴り声を上げ、次々と男性サマナ(出家信者)を叩き、私も頭をぶたれました。そして「これがヴァジラヤーナ(金剛乗)だ。お前たちのカルマを落としてやった」と言いました。それまで教えられていたマハーヤーナ(大乗)では、自分を相手に捧げ尽くすことが慈悲であるという教えだったのが、ヴァジラヤーナでは、自ら相手に苦痛を与え悪業を積むことで、相手の悪業を落とし相手を救うことが慈悲である、という教えへと変化しました。教義的に理屈は分かっても、「えー、そこまでやるの」とショックを受けました。しかし密教に憧れを持っていた私は「恐れてはいけない。できることからやればいいんだ」と言い聞かせました。今から思えば、麻原の暴力に恐れや不安を感じているのに受け入れてしまったのは、密教を学びたいために背伸びをしていい子でいようとしたことにありました。
 このような麻原の前でいい子でいようとする子供っぽさは、麻原に認めてもらうために信徒の頃からやってきたことでした。これは弟子として必要なことだと教えられたからでした。しかし、今正直に自分を見つめますと、いい子でいることにプライドを覚え、そういう振る舞いに自己陶酔すらしていたと思います。大人への道を逆さまに歩んでしまったのは、このようないい子でいようとした私の卑劣さにも原因がありました。

 平成元(1989)年4月に麻原が「真理のために戦うしかない」と力説した説法を聞いて、私は「もし戦うならカルマになるだけではないか?そもそも真理がつぶされるわけがないのでは?」と思いました。そして「真理のために戦おう」との麻原の弟子たちに同意を求める呼びかけに私は初めて黙り込んでしまいました。

 当時私は19歳にして初めて部下との恋愛に苦しんでいました。教団内では恋愛感情を持つことすら許されず、彼女との関係はルールを破るものでした。それ以上に麻原を裏切っている罪悪感に苦しみました。しかし、それも約半年でした。教団は急速に拡大し、密告による管理体制が厳しくなり彼女との関係が麻原に知られました。
 罰として8月の炎天下にさらされたアルミの列車のコンテナの中で4日間の断水断食を命じられました。中はまるでサウナのようで2日もするともはや汗も出ず、心臓の鼓動が速くなったり遅くなったりしました。外から鍵がかけられ、出ることは不可能で、生まれて初めて本当に死んでしまうかもしれないとの恐怖にさらされました。
 その後、選挙活動中、偶然に麻原の部屋の布団の上で、彼を待つ彼女と鉢合わせしました。私は「はっ」と息を呑んだものの、麻原に対して自分を捨てきれていない自分を、自分で責めるだけでした。
 今から思いますと、それ以上に感じたり考えたりするのは怖かったのだと思います。この時点ではすでに男として精神的には去勢されているような状態であったと思います。
 当時初めて麻原の問い掛けに黙り込んだのは、麻原の言う真理などは、彼女との触れ合いの中で自然に生まれる安らぎを前にしては無力なものだと体が反応していたのかもしれません。自分を見失っていく中で、自分を取り戻せる数少ないチャンスだったのかもしれません。
 ただそれも4日間の断水断食の死の恐怖で吹っ飛びました。人を愛することは許されないと叩きこまれ、愛と向き合えない者となりました。
 人は人を愛する苦しみの中でこそ自分を確立していけるということを今、学びつつあります。
 人を愛することで自然に人へのいたわりが自分の中に育まれていくのだと思います。人を人として愛することを禁じた教団の中では、人としての成長はあり得ませんでした。



(三) 喪失

 私が20歳の平成2(1990)年の夏、サマナがステージを上げるために修行に入る中、私は突然ステージを理由もなく下げられたうえで修行に入れられました。
 3日目の修行中に、修行監督であったT夫人に私が居眠りをしていると誤解され、再三にわたり注意されました。それから数時間後、麻原に呼び出されました。麻原は「お前は(T夫人に)反抗したそうだなあ。どこまで歪んだ根性をしてやがるんだ。このバカたれが!」と怒鳴り散らし、「今からヴァジラヤーナの帰依をする覚悟を決めろ」とドスの効いた声で宣言し、Iが部屋の鍵を閉めました。麻原はカーボン製の頑丈な竹刀を手にし、私を直立不動で立たせ、竹刀で野球のスイングをするように私の太ももの裏を思いっきり叩きました。「バシィ」と肉に食い込む鈍い音が響きました。ものすごい鈍痛で骨までしみる痛さでした。数発目には前に弾き飛ばされました。
 「立たんか!」と怒鳴られ、足がガタガタと震えながらも立つと、彼は足だけを踏みタイミングを外した上で「バシィ、バシィ」と容赦なくフルスイングで叩き続けました。激痛の上に激痛が何度も襲いました。「本番はこれからだ!」と麻原が叫ぶ声が聞こえました。怒鳴り声と恐怖と激痛に何が何だか分からなくなり、ガラスが砕けるように自分がバラバラに砕け散っていくようでした。
 やがて麻原が「いいか、お前が倒れなくなるまで何発でもしばき続けるぞ」と怒鳴っているのがかすかに聴こえました。一瞬どこからともなく力が湧いてくるのが感じられ、立ち上がりました。やがて倒れず竹刀を少し跳ね返しているようでした。Iが数えており、50発ほど叩かれたようでした。
 「今日はこれくらいでいいだろう。次こんなことがあったらどうなるか分かっているんだろうなあ」と脅されたうえで解放されました。歯を食いしばり何とか歩き、出口まで来ると立てなくなりました。
 この後、およそ2週間記憶がプチりと断絶しました。Nが公判でこの件を証言してくれたことで、2〜日後、再度ヴァジラヤーナの帰依をさせられたことを断片的に思い出しました。この時部屋から逃げ出そうとしたものの鍵が開かず、体をつかまれ滅多打ちされた場面を思い出しました。今から振り返りますと、この記憶の断絶により、人としてとても大切な「何か」を見失ってしまったと思います。

 私が21歳の平成3(1991)年の夏、
 「お前が救済の邪魔なんだ。お前は単なる駒なんだ。何で言われた通りのことができないんだ、バカ者めが。もう一度言う、邪魔なんだ。お前は駒通りやればいいんだ」
 と麻原にボロクソに言われました。当時麻原は信徒について「帰依信徒」という格付けされた新しい地位を設け、その条件を満たす信徒を短期間で多く作ろうとしました。そして彼は私に不可能なノルマを課し、私はそのノルマを実現することは到底できませんでした。それが叱られた理由です。
 支部活動ではサマナは麻原の駒として、麻原と信徒を結ぶ架け橋でなければいけないと教えられていました。
 私は麻原から出家させろと命じられれば、信徒の人生の歩みや家族と友人とのつながりなどお構いなしに出家させました。借金させても布施を募れと言われれば、信徒の生活を追い詰めることになろうと布施を勧めました。これらは信徒の健全な意思を踏みにじる、人間に対する罪でした。しかし当時の私には罪の自覚がありませんでした。私は麻原の指示によって行動しましたが、しかしそれでもそれによって信徒が苦悩する姿は見ていました。
 それなのに何故無責任なままでいられたのかと自問せずにはいられません。今から思いますと、麻原の指示はなんだかんだと言っても救済のためだと信じていました。私にとってのマハームドラーの修行であり、不合理であるからこそ修行なんだと、頑張らなければいけないと思っていました。ただそれにより私は決して人間的な心情を喪失することを望んでいたわけではありませんでした。ところが麻原の無理難題な指示は、人間的な心情をもってすれば到底やれないことが多く、その指示をなんとかやっていくうちに私の心情はどんどん麻痺し、同時に信徒への人間的な感情も麻痺していったと思います。信徒の苦悩を見ていましたが、感じなくなっていきました。
 この心情を麻痺させるはたらきはマハームドラーの修行や救済という自惚れであり、おかしいものはおかしいと呼び掛ける良心の声にしたがうことのできない頑なな心でした。この頑なな心は、麻原から受けた暴力の恐怖に屈して記憶を断絶させられたものの心の姿であったと思います。

 私は23歳の平成5(1993)年の夏、亀戸道場での炭疽菌の散布に関与しました。私は細菌を培養するための滅菌作業に携わりました。作業中一人でボイラーを冷ましている時のことでした。
 「こんなこと一体誰が信じてくれようか?いや、ビデオでこの様子を撮ればひょっとすれば警察に信じてもらえるかも…この計画を止める最後のチャンスかも…」
 と思うと、突然ガクンと体が震え、言い表しようのない恐怖に包まれました。
 「これは神々の意思なんだ。こんな計画を人が思いつくはずがない。私がそれを妨げることができるはずがない。グルを裏切れないよ。そんなことをしたら大悪業だ」
 と、このまま作業をする恐れより、神々の意思を妨げることの恐れの方が上回りました。
 散布の準備が整うと、麻原はソファの上で座を組み、スタートボタンを手にしてしばらく瞑想し、自らボタンを押しました。その後散布の悪臭に住民の方々が道場を取り囲み、大変な騒ぎとなりました。麻原と正悟師のみが車で脱出し、残されたサマナは籠城するしかありませんでした。
 その後麻原は駆け付けた振りをして住民の方々に
 「道場の清めの儀式でシャネルの香水をまいたのです」
 と説明しました。確かに臭いをごまかすためにシャネルの香水の素を入れていました。すると住民の方々は大笑いをされ、サマナはうつむいて笑いをこらえていました。

 当時の状況から自分自身の姿を省みますと、シャネルと炭疽菌をミックスした散布方法からは子供のあどけない残酷さが思い浮かびます。私は麻原の様々な不合理な指示についてマハームドラーと信じていました。これは子供のあどけなさに通じると思います。そしてそれは子供の残酷さとも結びついていたと思います。私はまるで子供のように格好をつけ、軽率に振る舞い、周りに対して無責任でありながらまるで悪いことをしていることの自覚に欠けていました。ただ私は決して自分から子供っぽい悪を平気でする人間になりたかったわけではありません。麻原から自我は悪だと教え込まれ、彼の指示に耐え、ひたすら自我を押し潰され、押し潰していくうちに自分の内面の子供っぽい悪が噴き出てしまいました。
 しかしこのレベルまでいくと、子供っぽい悪は吹き出てしまうだけでなく、飛び跳ねて「嬉々」としてしまった気がします。それは、子供っぽい悪を抑えていくはずの自我が麻原の指示によってすっかり押し潰されてしまった結果でした。そのため自分たちがすることについての事の大きさが、普通の自我の現実感覚のようには、まるで見えなくなってしまったと思います。
 ここに何故弟子たちがこのような大それた事件をやってしまったかについての理由の一つがあるような気がします。



(四) 罪人

 落田耕太郎さん事件直後、「グルの前で死ぬのは弟子として幸せなことなのかもしれない。でも…」と思いつつ、次の言葉が思いつきませんでした。ただただ恐ろしい思いで一杯でした。
 そしてこの「恐ろしさ」も「でも」も、麻原からその後、「分かっていると思うがポアだからな」と釘を刺されることで私の意識から消えていきました。
 事件後、麻原は道場へ通うとの約束を破ったYさんを弟子たちに追跡させ、秋田県で見つけ出しました。私はYさんを追跡しつつも、逃げればここまで人とお金をかけ徹底的に追跡されるのだと身をもって恐怖しました。深夜に村井秀夫、新實智光、林郁夫ら10名程がYさんのアパートへ押しかけたものの警察に通報され逃げました。
 これは当時の私自身の状況をよく表していたと思います。グルの意思の実践は救済の手伝いであり、自分の修行でもあると信じていました。しかし心のより深いところでは麻原の恐怖に立ち向かえず逃げていたため、実際には麻原に追われるように指示され、逃げるようにワークに没入していたと思います。いくら逃げても恐れの足跡は追いかけてきました。
 Yさんのアパートに押しかける直前、通報を阻止するために私がアパートの全ての電話線を意識の上では切ったつもりでした。ところが逮捕後、検事からYさんは部屋の電話で通報し、電話線は彼の部屋だけは切られず、他は全て切られていたと教えられました。これは私が無意識でやっていたことでした。当時の私の意識と麻原の恐怖に屈して影のようになってしまった心との戦いは、このレベルでしかありませんでした。

 平成6(1994)年4月、麻原はロシア射撃ツアーの参加メンバー20名程を前に、「抜け駆け(下向)はポアだ。家に戻れば家族を皆殺しにする。警察署に逃げても爆破する。性欲の破戒をした者もポアだ。井上も例外ではない。ただし結婚したい奴にはさせてやる」と落田さんが殺されたのと同じ場所で言い、名指しされた私はその言葉に恐れを感じずにはいられませんでした。
 ある日都内の公園でランニング中に、アメリカ人の親子がブランコで遊んでいる姿を見て、「私はこの人たちを殺すことになるのだろうか?」と思い浮かびました。麻原が戦いが始まったらアメリカ人は皆殺しだ、と言っていたからです。私は溢れてくる涙をこらえながら走り続けるだけでした。
 その後、同年6月私は麻原から精神的に殺害されるのに等しいことをされました。Nの公判証言によれば、原因は麻原に私がワークに身が入らず、下向するのではないかと不信や疑念を持たれたことのようでした。
 「お前はどうしようもない奴だ。もう一度しっかり瞑想して死ね」と麻原からLSDが1ミリグラム入ったドリンクを飲まされました。この少し前にLSDの実験台として150マイクロミリグラムを飲まされ、一時的に呼吸が停止し死の直前まで追いやられていました。
 「このまま意識を失ったら死んでしまう」と、すぐにもうろうとし始めた状態の中で気力を振り絞り、見張りのサマナをごまかしトイレに入り、便器の水を飲み胃の中のものを吐き出しました。部屋に戻るとそのまま意識を失いました。
 約半日後意識を取り戻すと、麻原から「俺に何を隠しているのか言え」と思いもよらぬことを言われ、黙っていると、「LSDをたくさん飲んだら死ぬぞ。お前にもっと飲ませるしかないか」とドスの効いた声で脅しました。その後スパーリングでサンドバッグ状態にされ、温熱を3回もやらされ、ようやく解放されました。その後都内の自室に戻ると、
 「もう何も考えられないよ。感じられないよ。命がもたないよ。もう心を鬼にしてやるしかない」
 と一人でうめきました。この件で私は自分の心を破壊され、また人としての心をますます見失っていきました。
 この頃、ロシア射撃ツアーのメンバーのNさんは女性問題をきっかけに殺されました。Kさんは下向し、麻原は殺害の命令を出しました。スパイの疑いをかけられたTさんは拷問の末に殺害されました。これらの事実を聞くたびに「ぎょっ」とし、まるで次の自分の姿のように感じました。そのたびにワークに手が付かなくなり、その姿に吸い込まれていくようでした。私はもう何も見ないよう、感じないよう「ぎゅっ」と心を固くして目前のワークに没入していきました。

 このような事態に陥ったのは自業自得です。落田さんの事件後、教団にとどまった大きな要因に、下向すれば同じように殺害される恐怖がありました。これは人々の救済を願っていたこととは全く逆の自己保全でした。そして自己保全はそういう我欲を克服しようと解脱を求道したことと全く逆でした。このような矛盾に向き合えなかったのは麻原への恐怖だけではなく、自分のなしている矛盾に対してまるで罪の意識がなかったからだと思います。
 当時私は、いずれくるハルマゲドンによって何もかも滅んでしまうなら、今の現代社会の生活に一体何の意味があるんだ、多くの人を助けるためにハルマゲドンへの道を歩む社会をなんとか変えなければいけないと真剣に信じていました。麻原はこれをヴァジラヤーナの救済と呼び、神々の意思により自ら武力をもって現代社会を破壊することで、悪業を積み背負いながら、新しい平和な社会を切り開こうとしていると私は信じていました。そして教団内では麻原の指示するワークは何もかもこの大義のために深い意味があるとされていました。そこでは罪とは、大義である神々の意思にもとづくグルの意思に逆らうことでした。何故なら多くの人々を救うための道を妨げることであり、弟子個人の修行を妨げることにもなるからです。つまり善悪の規準はグルの意思の一点にありました。
 そのためグルの意思に逆らう発想がまずはありませんでした。できないと思うこと自体が罪悪感を伴い、自分が未熟なんだと自分を責めるばかりでした。もし自分ができなくても、グルの意思の流れに逆らわず、自分のできるグルの意思をやればそれなりに取り返しがつくとの甘えもありました。

 当時を振り返りますと、私はこのような大義を妄信することで、善悪の判断を麻原に委ね、自己の言動に対する人としての当然の責任感を出家以来はじめから放棄していました。だからこそ私は人として恥ずべき様々な矛盾を犯しているのに全くそのことに思いいたすことはありませんでした。一方でグルの意思の実践は救済のお手伝いであり、自分の修行にもなるといい子ぶった善人意識を自己満足させてもいました。
 突き詰めますとこのような私の大義への妄信といい子ぶった自己満足が私自身を人格の崩壊の瀬戸際まで追いつめ、数々の犯罪行為に関与してしまう「罪人」にしていったのです。



(五) 偽善

 平成6(1994)年9月中旬、深夜に三菱重工広島研究所に侵入に向かい、車中で
 「侵入なんてやりたくない。怖い。だけどやるしかない。神々の意思なんだから」と思い詰めました。
 侵入は成功し、麻原の指示した図面は入手しました。ところが彼からは、「お前は帰依がずれている。何で資料を全部コピーしなかったんだ。お前は学歴もなくバカなんだから」と文句を言われるだけでした。このような人格を無視した罵詈雑言は当時日常茶飯事でした。
 「自分が残っているから苦しむんだ」と私は自分を責め、「神々の意思だ」と懸命に信じて企業への侵入を繰り返しました。

 10月17日、上九へ夜中に布施を届けると突然に麻原から、
 「土谷正実がVXを作った。本当に効くか確かめる必要がある。Tの車に付けてこい。警戒されているかもしれないから気を付けろ。すぐに出発しろ」
 と指示されました。現場では滝本太郎弁護士の自宅を見下ろすような少し離れた高い建物の一室に電灯がついていました。「これは見張られている」と私は他のメンバーに言ってホッとしました。麻原に状況を報告すると「しょうがないか」とつぶやきました。
 その後麻原は滝本太郎弁護士の件が不発に終わったのを取り返させるかのように、私にNECのレーザーの図面の入手を強く指示しました。その工場には、信徒の手助けは得られず、準備も不十分のまま侵入することになり、警備員に見つかりました。

 11月中旬、宮崎の拉致事件について警察の取り調べを受け、弁護士のAの指示で、「今は支部活動をしている」と供述しました。そのこともあり、内心もう自分ではヴァジラヤーナの実践は限界だとの思いがあり、麻原に取り調べの報告で「供述をチェックされる可能性があり、支部活動に戻りたいと思うのですが」と言ってみました。すると彼は「何をおびえているんだ」と言うだけで取り上げる素振りも見せませんでした。その数日後、麻原に目的も教えられずMさんの自宅の調査を指示されました。これをきっかけに一連のVX事件に関与することになりました。

 11月26日夜中、今川の家で寝袋に潜り込みながら悶々としていました。直前にMさんにVXをかけるために走っていったところ目が合ったような気がして、Mさんの横を何もせず走り抜けていきました。
 「私にはできない」という感覚はいかんともしがたいものでしたが、私の考えは「それでもやれと言われたら」との思いに絞られてきました。やがて心が悶々とし始め、「できなければYにやらせればいい」と言った麻原の言葉がしきりに思い出されました。そこで新實にそれとなくそれとなく、目が合ったことを理由に言うと、Yを呼ぶと即決しました。
 翌朝、実行役をYに引き継ぐ時、新實らに怪しまれないように動揺したそぶりを見せてはならないとの思いで一杯で、Yを気遣う余裕はありませんでした。Yには本当にすまない思いで一杯です。

 今から思いますと、この一連の心の揺れの中に、偽善と自己陶酔という人間としての罪があったと考えられます。実行できなかったのは救済の大義を、現実の場面では私には信じきれなかったからです。それなのに麻原に殺される恐怖から逃げ出すことができなかったのは自己保全です。それでも自分には「できない」との感覚は衝撃的なもので、悶々としました。この時、私にはできなければYにと、麻原から逃げ道が用意されていて、そちらに逃げました。そして悶々とした悩みが消えました。それは救済の大義を信じきれない現実に直面せずにすみ、これまで通り信じているふりができるからでもあったと思います。これは他者への思いやりも自分への正直さもどこにもない無責任な偽善そのものでした。
 その一方で実行を避けていることをまわりに気づかれないようにと、実行以外のことを平然とこなし、企業への侵入を繰り返しました。それでいて自分で自分を悲劇のヒーローにしたて、救済のためには誰かがヴァジラヤーナの実践をするしかないんだと、大義の精神面への自己陶酔に、麻原から色々追い詰められていた自分のなぐさめを求めていたと思います。このような自分の偽善に気づけば気づくほど、激しい罪悪感と自己嫌悪に打ちのめされます。
 何故そうまでして教団にとどまったのか?「結局のところ麻原を否定できなかったのは、自分が解脱・悟りに達しないという恐れのためではなかったのか」と言われることもありますが、麻原から疑念を持たれ、LSDを1ミリグラム飲まされた圧倒的な恐怖によって自分自身を見失ってしまった以降は、そういう感覚のものではありませんでした。
 当時は、自分も他者も修行も救済も何もかもが、麻原の一声で基準がぐるぐる変わりつかみどころのないものになっていきました。その中では麻原が全てであり、普通の感覚での自分を主体として、客観的に定義された解脱悟りに向かう合理的な思考を持っていてはやっていけませんでした。代わりに唯一変化しないグルの意思、神々の意思という名が付くものに、まるですがるように目前のワークに没入していました。

 Hさんの事件後、しばらくしてHさんがお亡くなりになられたことを知りました。その時私は闇の中にずんずんと沈んでいくような感じがしました。そして「もう自分はどうしようもないんだ、この道をいくしかないんだ」と思い、さらに目前のワークに没入していきました。
 今から思えば普通ならこの道の先はどうなるんだろうかなどと考えるものだと思います。しかし当時私は自分がどうなるのか?という自分についての思考はできませんでした。考えたとすれば自分の言動が麻原に疑念を持たれているかどうかぐらいのものでした。
 突き詰めますと、このように自分を投げやりにしていたからこそ他者をも粗末に扱ってしまった面があったと思います。Hさんの事件当時、私はHさんを人として感じたり、考えたりすることはありませんでした。麻原から指示されたワークの1つの対象として見ていましたし、見ようとしていました。これらはいのちへの冒涜でした。
 永岡弘行さんが面会に来て下さった時のことが思い出されます。私は何よりもまず事件について深くお詫びしました。永岡さんは私の目をじっと見つめられ涙ぐまれました。私は改めて何てことをしてしまったのだろうかと思い、余りにも申し訳なく涙が溢れてくるばかりでした。
 当時私は人と会い人の心に触れて涙するような、人としての自然な心をすっかり見失っていました。この頃、極限状況に追い詰められ続け、一瞬ですが、麻原に殺意を感じたことがありました。
 平成7(1995)年2月中旬、麻原に布施をすぐに持ってこいと命じられ、都内の教団の飲食店へ行くと、彼は若いサマナに囲まれながらカラオケを歌っていました。私は見るに耐えずスーッと心が醒めて何も言わず車に戻りました。車のシートに座ると「VXをかけてやろうか、それじゃ死なないから画びょうにVXを塗ってソファにセットしてやろうか」と思っていることに気付き驚きました。同時に下向すれば私だけではなく家族も皆殺しにするだろう、麻原から離れることのできる唯一の方法は、殺害を命じる麻原を殺す以外にあり得ないという直感が走りました。しかしとてもじゃないけどできない、と思い、何もかも空恐ろしくなりました。

 当時を振り返りますと、悲しく惨めなことばかり思い出されます。しかし私がワークを指示した部下や信徒も犯罪行為に手を染めました。改めて考えてみますと、当時私は麻原しか見ておらず、部下や信徒に対して、指示した責任感も思いやりと言えるようなものも持っていませんでした。教義的に麻原の指示の流れにある以上、本人の修行であり、功徳を積むためのものであるとの土台はありました。しかし実状は私が麻原の指示を実践するために、私の道具に近い感覚で部下や信徒を使っていました。
 この事実を突き詰めますと、私が麻原の支配から抜け出せなかったその理由の一つは、私が麻原にされたのと同じようなことを私が部下や信徒にしていたからだと思います。私は暴力を加えたり、恐怖を与えたり、罵詈雑言を浴びせたりすることはありませんでしたが、部下や信徒の信仰心を利用した点においては麻原と同じでした。



(六) 狂気

 平成7(1995)年1月1日の読売新聞のスクープ後、麻原は村井に「12月までには7トン(サリン)はできると言ったのにできずにこのざまだ。だから神々が12月中にやれと言われたのだ。どうするんだ」と厳しく責めていました。
 同中旬、「もうKの件はいい」と麻原は投げやりな口調で言いました。麻原の指示で、警視庁公安部の警官であった信徒のKに、読売新聞のスクープ記事以降、松本サリン事件についての教団の内偵の様子を尋ねていました。Kによれば、職場では読売の記事と同様に薬品の購入ルートの洗い出しがおこなわれていると耳にしたが、自分は末端でしかなく、これ以上は分かりませんということでした。そして、そのことを私が麻原に報告した時のことでした。

 同下旬、麻原が大川隆法の横浜アリーナでの公演中にボツリヌストキシンを散布して大川をポアしろと命じました。講演前日に大川の居場所らしきものが分かり、大川氏へのVX事件に発展しましたが、被害は出ませんでした。

 2月6日、様々な会社を作り社員を信徒にする計画が始まり、太陽寂静同盟と呼ばれました。私は「結婚相談所」を作ることを指示されました。このワークでCHSの近未来問題研究会を担当していたIも私と同様に会社をつくることを指示され、実質的にIグループはCHSから離されました。さらにH田は村井の管轄の半導体工場を担当し、ユーゴスラビアでの情報収集にH本がリーダーでCHSのメンバーを連れて行きました。当時、千数百人サマナがいましたが、私が使えるサマナは5人のみで、そのうち3人は下向者を私との関係で引き戻した者でした。「まるで私に部下やワークの力が集まることを麻原が恐れているかのようだ。だとすれば大変危険なことだ」と、じりじりと追い詰められているように感じました。

 同9日、「井上、K、お前ら次やったらポアするぞ」と麻原は大臣会議で激怒しました。CHSには経理のできるサマナさえ与えられず、東京本部長の頃の部下の女性サマナに手伝ってもらっていました。そのことのクレームが麻原に上がり、女性サマナに私が愛情があるとのことが理由でした。
 同中旬、私は「やりたくないと思っているからこんなことになるんだ。神々の意思を何だと思っているんだ」と麻原に激しく叱りつけられました。それは、大川氏の調査には自治省からサマナが派遣されましたが、彼らは未経験でCHSのサマナはステージ的に上にある彼らにものが言えず、両者は協同できなくて、すぐに大川氏側に発見されたことからでした。
 数日後、大川氏のマンションの様子を尋ねられ報告したところ、麻原と村井がトラックにマイクロ波発生装置を積んでマンションに照射し、中にいる人を全てポアする計画を立て始めました。わたしはとっさに「中には30人近くの若者も共同生活をしています。その人たちも同時にポアするんですか?」と口を滑らせてしまいました。すると麻原は「彼らは俺の前世の弟子ばかりなんだ。間違って大川についてしまっている。俺がポアしてやらないと救済されないんだ」と怒った口調で言い、私は黙り込むばかりでした。
 この件の数日後、教団の飲食店での麻原の姿を見て、初めて一瞬、彼に殺意を抱きました。
 同23日、麻原が神々の意思として大川氏のポアを指定した日ですが、マイクロ波発生装置ができず延期となりました。
 同28日、假谷さん事件。
 3月上旬、ユーゴスラビアでの情報収集にプラズマ兵器の話があり、確かめたいとの趣旨で麻原に渡航を願い出ましたが、ダメだとの一点張りでした。
 3月8日、ボツリヌストキシンの噴霧器をマスコミにセットできないかとの調査を指示され、同11日にマスコミでは不可能と報告すると、アタッシュケース事件の実行を指示されました。
 同13日、現場の下見後に都内のファミリーレストランで食事をしながら「何故私に実行させようとするんだ」との思いが膨れ上がりました。「中途半端はまずい。麻原から睨まれたら逃げ出すチャンスさえなくなりポアされる。やらないならもう麻原を殺す以外ない」と思いました。その思いは激しい自己嫌悪をかき立てました。「もうこんな矛盾には耐えられない。麻原を真正面から否定できない以上、自分を否定するしかあるまい」と思い詰めました。しかしそれだけではあまりにも淋しすぎました。「もしトキシンが生成できていれば、それは核兵器をセットするようなものだ。アメリカに物質主義の属国にされた日本の社会機構を崩壊させれば、ハルマゲドンの道は変わるのかもしれない。それが神々の意思なのかもしれない。そうだ、神々の意思のためにやろう」と決心しました。
 同15日昼前、「私には実行できないんだ」と、テレビでアタッシュケース事件のニュースを見て、私がセットしたものは作動しないまま発見されたことを知り、思いました。事前に作動のチェックはしておりましたが、私は無意識のうちにボタンを押していませんでした。
 この頃、假谷さん事件についてレンタカーが特定されたとの報道がありました。レンタカーを借りたMに尋ねたところ、「犯行に使用したレンタカーの用紙には指紋はつかないように書いた。ただ大川の時に別のレンタカー店で同じ偽造免許を使用した。そこには指紋が残っているかもしれない」との返事でした。偽造免許は一回使えばすぐに捨てる約束をしていたのに、大川氏への執拗な調査の指示で、彼らも使わずにはやりくりできなかったことを知り、部下を責めるより、麻原の私やCHSへの扱いの不満がくすぶりました。
 弁解になりますが、当時私は假谷さん事件では強制捜査は入れないであろうと考えていました。それは教団が假谷さん事件について警察の事情聴取に応じていること、それでも指紋の件でサマナの呼び出しはなく、レンタカーの中からサマナの指紋が出たとの報道もないこと、偽造免許の使用が発覚したとの報道がなく、現時点では教団の犯行であると直接結びつく証拠はないと判断していたからです。
 そのためMの指紋を除去しておけば、大川氏の件で指紋を残した可能性のある彼が彼であると今後特定されることはないと考えました。それは松本が出家前に警察に指紋を取られていることを知らなかったからです。



(七) 予言

 地下鉄サリン事件につきましては、改めて詳しくお話しいたします。
ここでは何故教団が地下鉄サリン事件を起こしたのか?との視点から、事件の目的は予言の成就であった主旨と、検察側の自作自演事件についての主張の問題点について説明します。

 既に法廷で証言していますが、事実の流れと教団の実態を見て下さい。
リムジンではサリンを散布しても強制捜査は避けられないとの話で終わりました。ですので強制捜査が入った時、教団が宗教弾圧を受けていると見せかけようとして青山道場に火炎瓶を投げる等の自作自演事件の話が出たのです。
 午前4時頃、第二サティアンに到着し、麻原は「瞑想して考える」と言ってリムジンを降りました。リムジンでは何も具体的なことは決定されていません。
 証拠上、18日午前9時頃、村井は地下鉄サリン事件を強制捜査を阻止するために実行犯に指示したとされていますが、教団全体としては18日朝からAK小銃等の違法物件を教団外へ搬出したり、強制捜査マニュアルに沿って信徒名簿や経理書類を処分したり等、強制捜査がすぐにも入ってくることを前提に対策を取っていました。
 18日朝方、村井から「私が指揮して、科学技術省のメンバーで地下鉄にサリンを撒く、井上はその前に島田教授のところに時限爆弾を仕掛け、青山道場に火炎瓶を投げてほしい」と指示されましたが、何のために事件を起こすのか一切説明はありませんでした。
 私が担当する自作自演事件については、すぐにでも入ってくるであろう強制捜査を宗教弾圧と見せかけるために布石を打つつもりでいるのだろうと理解できました。しかし、地下鉄サリン事件についてはリムジンではサリンを散布しても強制捜査は避けられないとの話で終わっていることから、その目的は理解できず、漠然とリムジン後、麻原は瞑想により、神々の意思として事件を起こすことにしたのだろうと思われました。

 19日夜、大阪支部に強制捜査が入り、90年10月、国土利用計画法違反の疑いでの熊本県警による強制捜査では全国の教団施設が対象となったことから、大阪支部への強制捜査により、全国の教団施設に強制捜査が行われるのは時間の問題で、もはや強制捜査を阻止する、妨げる矛先を変える以前の問題となっていました。
 村井は20日未明、第7サティアンで地下鉄サリン事件の実行犯に「大阪支部で強制捜査が入った。警察官はまさに機動隊のような格好をして支部に入り込んできた。まさに戦争だなぁ」と告げて送り出しています。
 この村井の発言は、強制捜査を阻止するために地下鉄サリン事件を起こしたとされる目的とは明らかに矛盾しています。

 何の目的で地下鉄サリン事件を起こしたのでしょうか?
 リムジンが上九に到着した午前4時頃から、実行犯に指示があった午前9時頃までの空白の5時間に、麻原らが謀議で決めたことは間違いないと言えます。
 私はその謀議に関与していませんが、当時の状況や証拠と教団の実態から推測すれば、麻原が予言の成就のために決断し、その上ですべての事件を弟子の責任に押し付ける布石の意味も込めていたと見るのが合理的です。
 麻原は独自に神の啓示を神々の意思として、ノストラダムスの予言書などから「神が人類の積み重ねた悪行を清算させるために、ハルマゲドンとその後に続く戦いを起こす」「ノストラダムスも、神または神の意を受けた超人類が、人類を滅亡させる大きな戦いを仕掛けていくと予言した」と読み取り、宗教戦争論を打ち出しました。
 このように麻原は自分のアイデンティティとして、自分自身のことを様々な預言書に記されたハルマゲドンを起こすことで、人類の滅亡から救済し、新たな世界を創る救済者であると信じていました。
 そこで麻原はこれまでに予言や占星学からから読み取れる出来事を自ら起こし、予言を成就させようとして事件を起こしてきました。例えば亀戸炭疽菌事件は予言の解読によるもので、松本サリン事件の決行日は占星学によるものでした。
 95年1月1日、読売新聞に松本サリン事件と教団の関わりを示すスクープ記事が掲載されましたが、1月8日、教団がラジオ放送で「占星学で予測する95年」と題し、麻原と村井が対談を行っています。そこで11月、「宗教戦争」つまり教団による武力革命がおき、1月〜4月の間にそれを「純化」する前の「現象」、つまり前哨戦が起きると暗に宣戦布告しています。
 今から冷静に振り返れば、麻原はリムジンでの会話後、瞑想して考え、この予言の成就に麻原自身の命運をかけたとみれば事実の流れと実態がぴたりと一致します。

 捜査中、地下鉄サリン事件の犯行声明が教団幹部Iのパソコンから出てきたことを知らされ、実際にそれをプリントアウトしたものを見たことがあります。20日未明、プリントアウトした時刻までがパソコンに残っており、その内容は政権交代を目的とした前哨戦と読み取れるものでした。
 村井の実行犯に対する「強制捜査を妨げるため」との説明は、「強制捜査は避けられず、教団は壊滅するかもしれないが予言の成就のためだ」と事実を言うより、教団を守るためと動機付けした方が実行犯を動かしやすいとの表面的な言い訳とみるのが自然です。
 本質的には強制捜査を妨げる、妨げられないとは関係なく、強制捜査後の4月2日「俺が11月まで生きていたら必ずひっくり返すから」と早川から麻原へのメッセージを聞かされていたことからしても、麻原にとって地下鉄サリン事件は予言の成就のための事件であったと言えます。
 「何のために村井が死んだのか考えろ。お前が喋らなければそれで済んだじゃないか」と麻原法廷での証言で、麻原から不規則発言で脅かされました。この不規則発言は麻原がリムジン後、瞑想して予言の成就のために決断した地下鉄サリン事件について、弟子に責任を押し付ける布石の意味を込めていたことが推し量れるものです。
 それは証拠上、18日朝、村井の実行犯の指示において、麻原の指示だと言わずに断ってもいいんだよとの主旨を言ったとされる不自然さ、20日午前2時ごろ、麻原が村井を「しっかりしないと失敗するぞ」と叱りつけたため、村井が上九に呼び戻した実行犯を麻原に会わせようとしても、麻原は会おうとしなかった事実からしても見て取れます。
 これはリムジン後に麻原が瞑想し予言の成就のために地下鉄サリン事件を決断した後に、麻原、村井、Aが三人一緒か、麻原と村井、麻原とA、別々かは不明ですが、事件について論議を行い、事件前に麻原と実行犯との接点を作らないように決めた上で麻原が村井に地下鉄サリン事件を指示した証左です。
 私は謀議に関与していませんが、当時の麻原の言動、村井や青山の言動、更に教団の実態から推し量りますと、予言の解読にも携わっていた村井は事件を実践しようとし、一方、Aは教団の弁護士として、あくまで反対であったと推認されます。
 そこで地下鉄サリン事件が教団の犯行であると発覚したとしても、麻原の関与が出てこないようにAなりに法律的に麻原を守る助言をし、その上で村井に地下鉄サリン事件を指示し行わせたことが推認されます。
 この発想は単なる推認ではありません。18日朝方、村井から自作自演事件の指示を受け、島田さんの住所をAから聞くように言われ、Aの部屋へ行ったところ、Aの部下からAは今いないと不自然な口調で言われ、島田さんの住所がプリントアウトされた紙一枚を無言のまま渡されました。この時、「Aは自作自演事件を実行する私と接点を持たないようにしているのだ」と分かったことに基づいています。
 このような謀議があったからこそ、麻原は地下鉄サリン事件は村井が勝手にやったことであり、自分は無罪であると主張し、更に、これを拡大解釈し、全てのオウム事件は弟子が勝手にやったことだと主張し、法廷で私にも不規則発言で脅かしてきたのだと考えられます。と調書で述べています。

 教団の組織的活動には三層構造がありました。第一は麻原のレベル。第二は麻原がその度に示す教義や活動方針を出家者、在家を含む教団全体に浸透させるシステムの構築やその運用を統括したり、武力革命のためには様々な準備を麻原と共に企画・立案し、推進したりした者たちのレベル。第三は、決定された方針や指示を現場で実施する者たちです。
 オウム事件では麻原と現場で事件に直接関与した信者は刑事責任を問われました。麻原から現場の指示に下りてくるまでの間、第二レベルの信者らは麻原といろいろと相談している形跡がありますが、麻原も彼らも供述自体を拒否することで、彼らは刑事責任すら問われていません。
 地下鉄サリン事件においても、リムジン後、実行役に指示があるまでの空白の5時間や、犯行声明文など、本当の謀議や犯行の動機、目的が、麻原と彼らが供述を拒否することで、肝心のところが中抜けの状態となり、(まるで彼らの供述がなかったかのように)事件構図自体に反映されず、未解決のままとなっています。



(八) 大罪人

 何故、宗教団体が武力革命を目指したのか?
 村上春樹氏は著書『アンダーグラウンド』の「目印のない悪夢」の章において、一般市民の論理とシステムとオウム真理教の論理とシステムは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないかと問題提起されています。その上でシステム(高度管理社会)において、個人が目的を達成する自律的パワープロセスは、社会において共有されるべき他律的パワープロセスの合わせ鏡として生まれてきたものであり、その二つの力はしかるべき歩み寄りを内包する関係にあり、試行錯誤の末に、所定の位置を個人個人の世界認識の中に見出すはずのものだとの趣旨を述べておられます。そして「その作業が達成できないのは、バランスのとれた自我のソフトな発達がどこかの段階で、何かの理由で阻害されているからである。その阻害を棚上げして、「自律的パワープロセス」というハードな論理だけで乗り越えようとするときに、社会的論理と個人との間に物理的(法律的)軋轢が生じることになる」と述べておられます。

 教団の実態と村上氏の引用文を重ね合わせて当時を振り返り考えますと、麻原は現代社会の「他律的パワープロセス」はハルマゲドンを引き起こし、人類を滅亡させると断定し、切り捨て、一方でグルの意思を絶対とする麻原の与える「自律的パワープロセス」のみが人類をハルマゲドンから救済し、信者を解脱や悟りへ至らしめると断定していたと言えます。
 この二元論には個人の自律的パワープロセスは、本来的には他律的パワープロセスとの合わせ鏡として生まれてきたものだ、との視点がそもそも抜け落ちていました。そのため、現代社会の体制の中での位置を教団が見い出していくとの発想そのものがなく、社会的倫理と個人の間に物理的(法律的)軋轢が生じる以上に、麻原は教義の世界の論理を社会的倫理そのものに変えることを救済だと位置付けていたと言えます。
 これは社会体制を根底からひっくり返すことに他ならず、武力革命を発動させるシステム以外のなにものでもなかったと言えるのではないでしょうか。
 逮捕後に学んだことですが、本来の修行においては、内面において如何なる神秘体験等をしても、それは対象化して見てはいけないようです。もし対象化して見てしまうと、それに特別な価値を与え、他律的パワープロセスの感覚が欠如した独りよがりの自律的パワープロセスを形成する逸脱に陥ってしまうからだと考えられます。麻原の「神軍を率いて戦うミコト」の啓示とはこのような逸脱の典型的な例だと言えます。
 仏教では自我への執着を捨て去り、あらゆる有情への慈悲を抱くことの重要性が語られています。これらは自己と他者を分け隔てる自我を解体し、その奥底に人間社会だけでなく、動物や自然、宇宙と一体となったような他律的パワープロセスの流れがあることに気付き、そのような流れとの感応を一人一人の固体性を通じて実現していくプロセスであると言えるかもしれません。つまり自律的、他律的パワープロセスのバランスを取り戻すプロセスとも考えられます。
 ところが麻原は自我を解体させる修行方法を悪用して、信者に神秘体験をさせ、その体験を麻原のみが持つ真理の世界とすり替えました。そのため信者は修行するほど自己を喪失し、他律的パワープロセスの感覚を見失い、麻原が妄想した自律的パワープロセスの世界を真実と妄信し、同化していってしまったと言えます。
 麻原の宗教戦争論は人間を救う者と救われる者、非凡人と凡人に上下に区別する傲慢さに基づいて、社会の法律を踏み越えていく権力、権利を神から委託されたと正当化していました。そして教団では麻原も信者も、この神と一体化する欲望によって自分たちを絶対的真理、善悪を超えた絶対的な善の立場において、ハルマゲドンから多くの人々を救う大義の名のもとに武力革命に包括される様々な野蛮な振る舞いを起こしました。これらが教団が犯した罪の正体の一つであると考えています。
 当時は人類を救う意思を持つとされた神との一体化こそ他者と自分の救う唯一の道であると信じ、それが欲望であるとは思いもしませんでした。しかし、今から思えば救いを求め絶対的な存在として崇められた神や人と一体化しようとしたことそのものが、他者への共感を見失う人間性の喪失の始まりであったと考えています。

 村上氏は「一種の合わせ鏡的な像」について「それはある意味では我々が、直視することを避け、意識的に、あるいは無意識的に現実というフェイスから排除し続けている、自分自身の内なる影の部分(アンダーグラウンド)ではないか」と述べておられます。
 「内なる影の部分」とは、人には他律的パワープロセスの感覚を見失い、独りよがりになりやすい傾向や、大義などの他者が作りだした物語に同化したり、飲み込まれやすい傾向が内在していることかもしれないと、当時の自分の過ちから考えています。人類の歴史において繰り返されてきた戦争、武力革命、そして宗教戦争において、他律的パワープロセスの母胎である社会体制を根底からひっくり返すため、集団的暴力的行動に出て殺戮が正当化されてきたのは「内なる影の部分」によるところがあるのかもしれません。
 第二次世界大戦について日本では「王道楽土を実現し、大東亜共栄圏を建設する聖戦である」と盛んに宣伝されたと言われます。オウム事件も規模は小さくても神の名において、善として他者のいのちを奪うことが正当化された点においては同じはずです。
 悲劇を繰り返さないためには、命の尊厳を否定できるような絶対的に正しい大義などない、この世は矛盾に満ち、人間は過ちを犯す生き物だからとの謙虚さが必要ではないかと痛感しています。

 被害者の方々やご遺族の方々のご証言が心から離れることはありません。かけがえのない家族や友人の方々と愛し合い、助け合って生きてこられた人生とこれからの人生を私はことごとく奪ってしまったのです。何という恐ろしく取り返しのつかないことを、しかも救済すると信じてやってしまったのだと、たとえようのない苦悶の波に襲われます。
 被害者の方々の苦悩を噛みしめますと、犯した大罪をどれほど苦しみ悶えても、苦しんでいるものまねに過ぎないと思い知らされ、ただただとりとめなく悲しみが溢れてきます。
 二度とこのような事件が起きないように、願わずにはいられません。



(九) 罪の自覚

 二審判決直後、法廷で父母を見ますと、母は私の名前を無言で叫び顔をくしゃくしゃにして泣いていました。父は悲痛な顔を歪ませてじっと目をつぶっていました。父母の姿が心に焼き付き、思い出すたびに涙がにじんできます。
 私は自分のことより両親のことが心配でなりませんでした。そして肉親を突然に亡くされたご遺族の方々の苦しみ、悲しみ、痛みがどれほどのものかをはじめて痛感しました。そしてお亡くなりになられた被害者の方々は家族のことが心配でならなかったことだろう、その思いがいかほどのもので、命を突然に奪い取られる無念さ、怖れ、苦しみがどれほどのものであったのか…、まざまざと迫ってきました。そして自分がどれほど罪深いことを他者に犯したのかその報いに気づきました。
 一方で、二審判決では一審判決を事実誤認とされて、それを理由に死刑判決が下されたことは信じられないほどショックでした。それは二審の審理ではとりわけ新しい立証もなく、被告人質問ではそもそも事実関係について確認もされず、事実誤認とされた点について弁解する機会すら与えられていなかったからです。
 しかしこのことでさえ何の落ち度もないのに命を奪われた被害者の方々の無念さには比較できるものではなく、だまってうなだれるばかりでした。
 その後私は弁護団の上告に同意しました。それは二審判決が一審判決について事実誤認とされた私の言動の全ての点において、私は決してそのような言動はしていないからです。具体的な点につきましては今の弁護団に伝え上告趣意書に取り入れていただいております。さらに一審の井上裁判長が被害者の方々やご遺族の方々、数々の証人、そして私に直接に様々な角度から質問されて事実や心情を確認された一審判決が不当であるとはどうしても思えないからです。

 私の高校一年生の時の宗教家の先生として一審で証言して下さった洛南高校の虎頭祐正先生のご縁により「『生きて罪を償う』井上嘉浩さんを死刑から守る会」が2007年1月11日に発足しました。代表を務めて下さっている児玉暁洋先生は真宗大谷派教学研究所元所長で、親鸞の教えを受け継いでおられる僧のお一人です。そして両親をはじめ「会」の先生方や友人が私に手を差し伸べて下さり、さらに罪を見つめるきっかけを与えていただきました。

 これまで私は自分が罪を犯したのは自分の責任だと思っているつもりでした。しかし心の片隅には、麻原(松本智津夫)にだまされ死の恐怖を与えられていたのだから仕方がなかったのだという逃げ場がありました。それにより私が犯した罪に対して麻原を前に置き、本当には罪を直視できていませんでした。しかし自分の死を見つめることで私が犯した罪と教えを信じた良心に対する罪は、その全責任を私が担うべき罪であるとの自覚をもちはじめました。それにより、もはや心の中でさえ何一つ弁解できない圧倒的な感覚がひしひしと押し寄せてきます。

 一審判決の説諭の中で井上裁判長は私に、
 「プライドとか自尊心とか、傲慢さとか、思い上がりとか、被告人が本件に関わるようになった全てを捨て去って一人の素直な人間としての謝罪の日々を送らなければなりません」
 と語りかけて下さいました。いま率直にその説諭を自分自身に引き当てて考えて見ますと、次のようになると思います。
 プライドは、殺害の実行行為ができないのにそれを認めず、できることは手伝おうと自分をごまかし、背伸びしたことの原因だと思います。救済するとか、修行者であるとのプライドにより、出来ないことは出来ないと、出来ない自分を素直に受け入れようとしませんでした。
 自尊心は、オウムに入会し、のめりこんでしまったことの原因だと思います。私は修行の面では人より抜き出た才能があると思っていました。そして教団の中で私は周りの信者から修行ができる人だと見られ、自分もそれについて誇らしく感じました。このようなうぬぼれによって麻原の無理な指示をなんとかこなしていくうちに、数々の犯罪に関与することになりました。
 傲慢さは、救いの名の下に他者のかけがえのない命を奪ったことの原因だと思います。私は社会経験もないのに世界はハルマゲドンによって滅んでしまうと、さも分かったように思いました。また他者の生活を実感しようとせず、真理を知らない無意味な生き方をしていると見下しました。そして、多くの人々をハルマゲドンから救うには犠牲もしかたがないとの大義を妄信しました。これらは傲慢そのものでした。
 思い上がりは、社会性を喪失していったことの原因だと思います。当時私はグルの意思は絶対であり、グルの意思を実践する限り自分が過ちを犯すはずがないと全く思い上がっていました。そして自分で自分のなしていることを自覚する視点をすっかり見失い、オウム以外の世界が見えなくなっていきました。このような思い上がりによって社会性を喪失し、人としての心を見失っていきました。
 結局私が事件に関わってしまったのは、このような私の欲望が原因でした。
 つまるところ私は、プライドや自尊心や傲慢さや思い上がりによって自分の良心を殺し続けていました。だからこそ他者の人生を実感せず、他の弟子のことも考えず、殺人を手伝えたのだと思います。私は良心を殺すことによって、他者の「いのち」とでもいうべき尊厳性を否定していました。



(十) 悲しみと愛

 罪を償うとは一体いかなる道かを学ぶため、「会」の先生方のアドバイスもあり、ドストエフスキーの小説なども私の罪と重ね合わせながら読み直し始めました。その中で人間が罪に対する良心の呵責に苦悩する姿にドストエフスキーが冷たい視線を向けている気がして一体何故なんだと考えました。そして私なりに思ったことは、犯した罪に苦悩するのは当然のことですが、それは罪を犯したことの後悔から生じるものであり、まだ罪に対する責任の自覚ではないからだということでした。そこで、罪に対する責任とは?との視点で読み進める中である一文に出会いました。

 「お母さん、本当に人間はだれでもあらゆる人あらゆるものに対してすべての人の前に罪があるんです。どう説明したらいいのかわからないけれど、僕は苦しいほどそれを感ずるんだ。」
(『カラマーゾフの兄弟(中)』 P.53 ドストエフスキー、原卓也訳、新潮文庫より)

 これを目にした時、何故か涙がとめどもなくあふれました。そしてふとどこで私が根本的に人の道を踏み外したのか、分かったような気がしました。それは、私が麻原に深く感銘を受けた高校3年生の夏休みのことでした。
 麻原は、信徒との雑談の中で、
 「解脱とは一滴の雫になるようなものなんだ。透明な一滴の雫のまま大河に溶け込むのが救済の実践なんだ」
 と語りかけました。私は、
 「自分も透明な一滴の雫として慈悲の大河の流れに溶け込みたい」
と強く願いました。この願いが、私のオウムでの活動の原点でした。
 麻原は一滴の雫たる者を、修行により霊性の開発を遂げた「新人類」と呼びました。そして、「新人類」が人類を啓蒙することを救済としました。
 今、私は「新人類」という考え方そのものが、私の犯した大罪の原因であったと思います。なぜならその考え方は、異なった価値観をもつ他者が存在している意味をことごとく排除した傲慢な救いの押し付けであり、自作自演の自己陶酔に他ならなかったからです。このような自己陶酔をさらに深めたのがオウムの修行でした。
 当時私は、修行により様々な神秘体験をしました。そして、内面に開かれる光や意識の拡大により、命そのものに触れようとしている感覚を持ちました。それにより、現実社会のルールより、このような体験に基づいた麻原の教えこそ、真実なんだとの思いを深めていきました。そしてやがて麻原が命そのものを最終解脱者として体現していると信じるようになりました。そのため、麻原が他者の命を支配したり奪ったりすることに恐れを感じながらも、逆らうすべがないという感覚を抱きました。
 突き詰めますと、私の過ちは麻原のこのような命の独占に自分ではまってしまったことにありました。このような命の独占と対極にあるものを『カラマーゾフの兄弟』での語りに感じました。

 高校1年生の時、老人病院でおじいちゃんやおばあちゃんのさびしそうな様子を見て、私には老人の方々が見捨てられているように感じ、怒りを覚え、「こんなことはなんとかしなければいけない」と思いました。今から思えば、「どう説明していいのか」わかりませんが、当時私も見捨てられていると感じた老人の方々を前にして、他者への本当の共感や愛を感ずることなく、その人たちを傍観していたという意味では一人の罪人でした。私は怒りを覚えるのではなく、深く悲しむべきでした。深く深く人間の悲しみを悲しむことによって、法律とは別に、何かしら罪を犯さずには生きていけない人間の姿を自分のものとして自覚すべきでした。

 「透明な慈悲の大河」はこの世にはありえないし、あってはいけないものであったと今、つくづく実感します。もしひとりの人間が他者と区別して自分だけが人より優れたもの、絶対的に正しいものになったと思い込んだとしますと、その人はどうして罪を犯さずには生きていけない人間の悲しみや苦しみが理解できましょうか?どうして他者と心から共感し、理解し合い、愛し合えましょうか?このような大切なことを私は何一つ分かっていませんでした。

 また逮捕後に学んだことから振り返って見ますと、修行により生じる神秘体験は、本来生き物の内面にあるいのちの共通の姿を感得することであり、“どんなに姿がちがっても、全ての生き物は平等に大きないのちに生かされている”ということをより深く理解するためのものでありました。それなのに私は、神秘体験により特別な人間なんだとうぬぼれました。そして、多くの人々を救済するという大義名分の名の下に、人よりも多くのことが許されると思い上がりました。
 自己陶酔でしかない「透明な慈悲の大河」ではなく、様々な人間の汚濁、その苦しみや悲しみをも包んだいのちの大海にこそ私は飛び込むべきでした。そして、生きる悲しみの中で、人を愛するとはどういうことか、まずこの身を持って学ぶべきでした。

 「私はいったいどうすればいいんだ」と房の中でどうすることもできずうずくまっておりますと、様々な罪をめぐる悲しみが伝わってくるかのようです。罪による様々な事件の被害者のたとえようのない苦しみが、私の罪による被害者の方々への思いと重なり、胸が突き刺されるように痛みます。同じように拘束されている誰もが罪を犯したくはなかったのではなかろうか?それなのに罪を犯してしまった罪人の悲しみが胸にしみてきます。
 この自覚において罪に苦しめられ、罪に苦しむ人間の悲しみに救いがあるのか?と自問せずにはいられません。しかしいくら思い悩んでも私には答えは見つかりません。ただ改めて当時大義による救いがあると妄信したことがどれほど愚かで、救済するんだと善人ぶったことがどれほど罪深いことであったのかを痛感します。

 私は中高生の頃、人間がつくりだしてしまう罪や矛盾を嫌い拒絶しました。それによりハルマゲドンへ向かう現代社会を変革しなければいけないと正義感に駆られ、自分は人々を導くすぐれた者なんだと善人ぶりました。しかし実際は自分たちの救済の物語に自己陶酔することで他者に壁を張り巡らし、人が当然にもつべき他者への共感を見失っていきました。
 それなのに私は他者の苦しみを背負う菩薩であるとうぬぼれ、他者のためにとの口実で何でも自分たちの都合の良いように考えるようになりました。そのあげくオウムの救いなど全く望んでおられない一般の方々に一方的に救いを押し付け、かけがえのない多くの方々の命を奪いました。

 このような大罪を見つめるほど救われようのない罪の重さと悲しみに身が沈むばかりです。それなのに絶望が深まるほど私の中にいのちが生きている力を感じます。この力は自分の生に対する欲求だけではなく、もっと大きなあらゆる生き物を見守るいのちの愛のようなものから訪れて来るように感じます。
 いのちの限りない生き物を慈しむ愛を感じれば感じるほど、このような命を奪ったことがどれほど恐ろしく罪深いことなのか痛感します。あまりにも被害者の方々に申し訳なく、とりとめなく涙があふれます。
 「では一体どうやって責任をとるのだ?」との問いが頭から離れることはありません。お亡くなりになられた被害者の方々のことを思いますと、生きていること自体申し訳ないと思います。そしてせめて同じように自分の人生を断絶するしかないとの思いもあります。しかし井上裁判長は私に「生きて罪を償う」ための「いのち」を与えてくださいました。自らの犯した罪を自覚すればするほど生きることが死ぬことよりももっとつらくなるからこそ、そういう罪を抱いて生きる命を与えて下さったのではないかと私なりに感じております。

 何故このようになってしまったのだろうか?
 せめて二度と救済の名の下において、同様の事件が起きませんように、何度も自問せずにはいられません。



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