Compassion カルトを抜けて罪と向き合う 井上嘉浩

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手記

この手記は、最高裁へ上告中の2008年に井上嘉浩さんが書いたものです。
その後、2014年の平田信氏の法廷証言の前に、あらためて事件の背景事情の整理や内省を深め、加筆訂正されました。

現在は三章までの公開ですが、順次更新していきます。

「未来の世代へ 二度と過ちが繰り返されないように」

<目次>
 (一) 何故
 (二) 逆さま
 (三) 喪失
 (四) 罪人
 (五) 偽善
 (六) 狂気
 (七) 予言
 (八) 大罪人
 (九) 罪の自覚
 (十) 悲しみと愛

(一) 何故

 私は決してこのような大罪を犯すつもりで出家したわけではありません。それなのに何故大罪を犯してしまったのか、逮捕後幾度となく自問自答してきました。

 突き詰めますとオウムに入会する前の自分に既に問題がありました。さかのぼれば宗教とは何かを理解していなかったからであり、それはまた人間生活に矛盾した姿があることの意味に目を開かなかったことが原因であると思われます。さらに私の性格的な欠点として、あせること、いい格好をすること、早とちりをすることがありました。
 これらの問題を象徴する出来事として、高校一年生の頃、母方の実家の祖母が入院していた老人病院に見舞いに行ったときのことが思い浮かびます。そこにいるのはおじいちゃんおばあちゃんばかりで何とも言えない悲しげな目で私を追っていました。私は、「ここは現代の姥捨山ではないか!子供や社会のために尽くしてこられたのに、こんなところに隔離され、ただ死を待つだけだなんて、こんなことは何とかしなければいけない」と、悲しみや怒りに駆られました。
 もし当時抱いた「こんなことは何とかしなければいけない」との思いを本当に実現しようとするなら、何故人は人を愛しながら、私には人を見捨てているように思えた老人病院に入れたままでいられるのか、そういう人間の矛盾にまず目を開くべきでした。それなのに私は一方的に矛盾のないユートピアに憧れました。今から思えば青年の正義感ではありましたが、それは世間を知らない危ういものでした。このようなユートピアに魅かれた原因の一つに家族の不和があったと思います。
 
 私の幼稚園児の時に、母が自殺未遂をしたことが思い浮かびます。母は台所に倒れていました。
「なんやよっちゃんか、こっちへおいで」と、母はゆらりと上半身を起こして手招きしました。飛び込みたくても飛び込めずに逃げたくても逃げられませんでした。やがて救急車のサイレンが聞こえ「死なして、ほうっておいて」と母は叫び、救急車に運び込まれ、私を置いて走り去っていきました。以来、母のことがいつも心配でなりませんでした。
 父については家で暴れる姿が思い出されます。たまに日曜日に一緒に食事をすると、突然大声を上げ卓袱台をひっくり返しました。母は金切り声を上げて、父とケンカし、2階の部屋へ引っ込みました。父は一階の応接間にこもり、兄はすぐに自分の部屋に戻りました。誰も掃除せず、いつも私が片付け、無性に悲しく一人で泣きました。しかしこういう家族をとりわけ不幸とは考えていませんでした。子供の頃ドキュメンタリー番組が好きで、世界中には食べることもできずに苦しんでいる人がたくさんいると思っていました。父はタバコも酒もギャンブルもせず真面目な人でしたが、家でもくつろげない父を見ていると、「父のような生き方をしても幸福はない」と思うようになりました。

 そして中学生の頃、私にはどういう大人になりたいのか理想が持てませんでした。その頃出会ったのが武道の独学を通して知ったヨーガの「輪廻からの解脱」という思想でした。
 輪廻の思想はそのままでは信じられませんでしたが、この世の全ては無常であると言い切られていることに、はじめてごまかしのない真実に出会ったと感動しました。そして全ての幸福は例外なく無常の苦しみにつながれていると感じ、何という果てしない苦しみの中に人は生きているんだろうかとショックを受けました。私は無常の苦しみからの解脱に魅かれ、初めて人生でやってみたいことを見つけたと思いました。
 このこと自体は他者に迷惑をかけない限り批難されるものではなかったと思います。私の大きな過ちは、解脱とは何か?独学で求めていく中で出会った阿含宗の「霊性の開発による社会革命」という言葉に、よくその内容を吟味しないままにとらわれてしまったことであったと考えています。それは、現代社会は様々な問題に満ちあふれていて、今のままの人間の知能では高度に発達した近代技術をもてあそび絶滅に至ってしまうかも知れない、ただ霊性の開発によってのみその危機から逃れることができる、というものでした。オウムではこれを神々の意思によるハルマゲドンからの救済と呼んでいました。
 今から思いますと、これは宗教や思想ではなく、修行による個人の変化がそのまま社会の変化に通用するかのような幻想を煽っていたアジテーションであったと思います。
 しかし当時15歳の私はそれを真に受けて、なんとかしなければと情熱をかき立てられました。ところが阿含宗の中へ入ってみると、私には肝心な霊性の開発ということが欠けているように思われ失望しました。しかし麻原がそのパートを提示していたことから関心を持ち、16歳で入会し、そしてどんどんはまっていきました。

 人間の苦しみや悲しみに対して答えはあるのでしょうか?今、私は答えのない苦しみと向き合うことがどれほどつらいことかとしみじみ実感しています。麻原は苦しみは苦しみでしかないと断定し、苦しみとは別のところに本当の幸せ、解脱があると教え、その道を真理と呼びました。私は麻原の教えに無常の苦しみの答えがあると信じ、それを得ようと努め、それが多くの人々の救いになると信じ布教しました。
 この麻原の教えは一見、輪廻の苦しみからの解脱と同じに思え、当時私はそのように理解しました。しかし逮捕後、本来仏教が伝えようとしているものは、このような善と悪を二分するような単純な二元論にもとづいた苦しみからの救いではないことを学び愕然としました。
 具体的には人間が作りだす様々な矛盾の苦しみをじっと耐えて受け入れることで、はじめて自分の中に開かれてくる愛のような心を知り、人格を高めることが、宗教の核心のようでした。これはとりもなおさず大人になる道であったと思います。
 ですので、決して苦しみに決まった答えがあるわけではなく、逆に他者から与えられた答えがあると信じ込んで、それに自分をゆだねることは自分を見失うことであり、宗教の落とし穴でした。麻原の教えのように人間の矛盾を拒絶したものは宗教とは言えず、人としての心を見失うものでしかありませんでした。
 
 私は16歳で宗教の落とし穴に自分ではまり込み、教団内で大人になるための大切な様々な体験をまるで逆さまにすることになりました。



(二) 逆さま

 私が出会った頃の麻原は質素で飾り気がなく、言っていることと行いが同じで、本気で他者のために尽くそうとしていると感じました。それは父の理想像でもありました。さらに何でも受け止めてくれるような包容感がありました。それは母の理想像でもありました。
 高校2年生の冬に参加したセミナーで、麻原は信徒に「気」を注ぐ儀式のやりすぎで高熱を出して倒れました。そして説法で「自分が土壇場に追い込まれた時、他者のことを考えるのが慈悲だ」と、フラフラになりながら語りました。私は麻原が自分を犠牲にしていると信じ心から感動しました。

 その後教団では「自分で考えてはいけない」と教えはじめました。高校3年生の夏、私は麻原からグルと弟子の関係について「弟子は自分からは一切どんな疑問がわいても尋ねないもので、黙々とグルが言ったことをやり続けるものなんだ。どうだ、できるか」と問われ、とっさに「頑張ってみます」と答えました。しかし当時はまだ自分で納得できないことを行うことに耐え難い苦痛を感じていました。私は出家を願っていたのに、麻原から理由は教えられず、大学へ行って弁護士になれと指示され困惑していました。その困惑はエゴのせいだと言われ、自己嫌悪を感じつつも、また反対にグルに自分を丸ごと放り出してしまっていいのだろうか?という疑問が起こりました。ひたすらグルに従うことも、苦しみを紛らわすために快楽を求めることともしかすると変わらないかもしれないとも思いました。何をやっても自分をごまかしているような絶望の淵にいるような感じでした。
 「苦をごまかすことが最も苦であることを感じる」と1987年8月31日の日記に書いていました。
捨てようとしても捨てきれずに影のようにまとわりつく矛盾やエゴを、当時の私にはこれ以上追求できませんでした。「グルが間違った道へ導くことはない」と信じ、自分で考えてはいけないと言い聞かせました。
 今から思いますと、考えないことは人間をやめることであったと思います。考えるなと教えられた教団内では、全てにおいてグルの意思が正しいという答えが決まっていました。その中では、「正しいことは何であるか」と自分で考えることの不安は消えますが、代わりに自分で悩み考え成長する可能性もまた消えました。そして他者に意見を求めることもなく、他者の立場に立とうとする配慮すらなくなりました。

 1988年18歳で出家した時、両親が新幹線のホーム下まで見送ってくれました。私は両親に頭を下げると涙が溢れてきて顔を上げられませんでした。東京へ向かう新幹線の中で「親子であろうと情の喜びと悲しみの輪の中にいる限り、苦しみは果てしなく続くんだ。自分はその輪を抜けた解脱を体現し、両親にも分け与えるんだ。決して悲しむことではないんだ」と言い聞かせました。

 その年の夏、インドから帰国した麻原は道場で突然に怒鳴り声を上げ、次々と男性サマナ(出家信者)を叩き、私も頭をぶたれました。そして「これがヴァジラヤーナ(金剛乗)だ。お前たちのカルマを落としてやった」と言いました。それまで教えられていたマハーヤーナ(大乗)では、自分を相手に捧げ尽くすことが慈悲であるという教えだったのが、ヴァジラヤーナでは、自ら相手に苦痛を与え悪業を積むことで、相手の悪業を落とし相手を救うことが慈悲である、という教えへと変化しました。教義的に理屈は分かっても、「えー、そこまでやるの」とショックを受けました。しかし密教に憧れを持っていた私は「恐れてはいけない。できることからやればいいんだ」と言い聞かせました。今から思えば、麻原の暴力に恐れや不安を感じているのに受け入れてしまったのは、密教を学びたいために背伸びをしていい子でいようとしたことにありました。
 このような麻原の前でいい子でいようとする子供っぽさは、麻原に認めてもらうために信徒の頃からやってきたことでした。これは弟子として必要なことだと教えられたからでした。しかし、今正直に自分を見つめますと、いい子でいることにプライドを覚え、そういう振る舞いに自己陶酔すらしていたと思います。大人への道を逆さまに歩んでしまったのは、このようないい子でいようとした私の卑劣さにも原因がありました。

 平成元(1989)年4月に麻原が「真理のために戦うしかない」と力説した説法を聞いて、私は「もし戦うならカルマになるだけではないか?そもそも真理がつぶされるわけがないのでは?」と思いました。そして「真理のために戦おう」との麻原の弟子たちに同意を求める呼びかけに私は初めて黙り込んでしまいました。

 当時私は19歳にして初めて部下との恋愛に苦しんでいました。教団内では恋愛感情を持つことすら許されず、彼女との関係はルールを破るものでした。それ以上に麻原を裏切っている罪悪感に苦しみました。しかし、それも約半年でした。教団は急速に拡大し、密告による管理体制が厳しくなり彼女との関係が麻原に知られました。
 罰として8月の炎天下にさらされたアルミの列車のコンテナの中で4日間の断水断食を命じられました。中はまるでサウナのようで2日もするともはや汗も出ず、心臓の鼓動が速くなったり遅くなったりしました。外から鍵がかけられ、出ることは不可能で、生まれて初めて本当に死んでしまうかもしれないとの恐怖にさらされました。
 その後、選挙活動中、偶然に麻原の部屋の布団の上で、彼を待つ彼女と鉢合わせしました。私は「はっ」と息を呑んだものの、麻原に対して自分を捨てきれていない自分を、自分で責めるだけでした。
 今から思いますと、それ以上に感じたり考えたりするのは怖かったのだと思います。この時点ではすでに男として精神的には去勢されているような状態であったと思います。
 当時初めて麻原の問い掛けに黙り込んだのは、麻原の言う真理などは、彼女との触れ合いの中で自然に生まれる安らぎを前にしては無力なものだと体が反応していたのかもしれません。自分を見失っていく中で、自分を取り戻せる数少ないチャンスだったのかもしれません。
 ただそれも4日間の断水断食の死の恐怖で吹っ飛びました。人を愛することは許されないと叩きこまれ、愛と向き合えない者となりました。
 人は人を愛する苦しみの中でこそ自分を確立していけるということを今、学びつつあります。
 人を愛することで自然に人へのいたわりが自分の中に育まれていくのだと思います。人を人として愛することを禁じた教団の中では、人としての成長はあり得ませんでした。



(三) 喪失

 私が20歳の平成2(1990)年の夏、サマナがステージを上げるために修行に入る中、私は突然ステージを理由もなく下げられたうえで修行に入れられました。
 3日目の修行中に、修行監督であったT夫人に私が居眠りをしていると誤解され、再三にわたり注意されました。それから数時間後、麻原に呼び出されました。麻原は「お前は(T夫人に)反抗したそうだなあ。どこまで歪んだ根性をしてやがるんだ。このバカたれが!」と怒鳴り散らし、「今からヴァジラヤーナの帰依をする覚悟を決めろ」とドスの効いた声で宣言し、Iが部屋の鍵を閉めました。麻原はカーボン製の頑丈な竹刀を手にし、私を直立不動で立たせ、竹刀で野球のスイングをするように私の太ももの裏を思いっきり叩きました。「バシィ」と肉に食い込む鈍い音が響きました。ものすごい鈍痛で骨までしみる痛さでした。数発目には前に弾き飛ばされました。
 「立たんか!」と怒鳴られ、足がガタガタと震えながらも立つと、彼は足だけを踏みタイミングを外した上で「バシィ、バシィ」と容赦なくフルスイングで叩き続けました。激痛の上に激痛が何度も襲いました。「本番はこれからだ!」と麻原が叫ぶ声が聞こえました。怒鳴り声と恐怖と激痛に何が何だか分からなくなり、ガラスが砕けるように自分がバラバラに砕け散っていくようでした。
 やがて麻原が「いいか、お前が倒れなくなるまで何発でもしばき続けるぞ」と怒鳴っているのがかすかに聴こえました。一瞬どこからともなく力が湧いてくるのが感じられ、立ち上がりました。やがて倒れず竹刀を少し跳ね返しているようでした。Iが数えており、50発ほど叩かれたようでした。
 「今日はこれくらいでいいだろう。次こんなことがあったらどうなるか分かっているんだろうなあ」と脅されたうえで解放されました。歯を食いしばり何とか歩き、出口まで来ると立てなくなりました。
 この後、およそ2週間記憶がプチりと断絶しました。Nが公判でこの件を証言してくれたことで、2〜日後、再度ヴァジラヤーナの帰依をさせられたことを断片的に思い出しました。この時部屋から逃げ出そうとしたものの鍵が開かず、体をつかまれ滅多打ちされた場面を思い出しました。今から振り返りますと、この記憶の断絶により、人としてとても大切な「何か」を見失ってしまったと思います。

 私が21歳の平成3(1991)年の夏、
 「お前が救済の邪魔なんだ。お前は単なる駒なんだ。何で言われた通りのことができないんだ、バカ者めが。もう一度言う、邪魔なんだ。お前は駒通りやればいいんだ」
 と麻原にボロクソに言われました。当時麻原は信徒について「帰依信徒」という格付けされた新しい地位を設け、その条件を満たす信徒を短期間で多く作ろうとしました。そして彼は私に不可能なノルマを課し、私はそのノルマを実現することは到底できませんでした。それが叱られた理由です。
 支部活動ではサマナは麻原の駒として、麻原と信徒を結ぶ架け橋でなければいけないと教えられていました。
 私は麻原から出家させろと命じられれば、信徒の人生の歩みや家族と友人とのつながりなどお構いなしに出家させました。借金させても布施を募れと言われれば、信徒の生活を追い詰めることになろうと布施を勧めました。これらは信徒の健全な意思を踏みにじる、人間に対する罪でした。しかし当時の私には罪の自覚がありませんでした。私は麻原の指示によって行動しましたが、しかしそれでもそれによって信徒が苦悩する姿は見ていました。
 それなのに何故無責任なままでいられたのかと自問せずにはいられません。今から思いますと、麻原の指示はなんだかんだと言っても救済のためだと信じていました。私にとってのマハームドラーの修行であり、不合理であるからこそ修行なんだと、頑張らなければいけないと思っていました。ただそれにより私は決して人間的な心情を喪失することを望んでいたわけではありませんでした。ところが麻原の無理難題な指示は、人間的な心情をもってすれば到底やれないことが多く、その指示をなんとかやっていくうちに私の心情はどんどん麻痺し、同時に信徒への人間的な感情も麻痺していったと思います。信徒の苦悩を見ていましたが、感じなくなっていきました。
 この心情を麻痺させるはたらきはマハームドラーの修行や救済という自惚れであり、おかしいものはおかしいと呼び掛ける良心の声にしたがうことのできない頑なな心でした。この頑なな心は、麻原から受けた暴力の恐怖に屈して記憶を断絶させられたものの心の姿であったと思います。

 私は23歳の平成5(1993)年の夏、亀戸道場での炭疽菌の散布に関与しました。私は細菌を培養するための滅菌作業に携わりました。作業中一人でボイラーを冷ましている時のことでした。
 「こんなこと一体誰が信じてくれようか?いや、ビデオでこの様子を撮ればひょっとすれば警察に信じてもらえるかも…この計画を止める最後のチャンスかも…」
 と思うと、突然ガクンと体が震え、言い表しようのない恐怖に包まれました。
 「これは神々の意思なんだ。こんな計画を人が思いつくはずがない。私がそれを妨げることができるはずがない。グルを裏切れないよ。そんなことをしたら大悪業だ」
 と、このまま作業をする恐れより、神々の意思を妨げることの恐れの方が上回りました。
 散布の準備が整うと、麻原はソファの上で座を組み、スタートボタンを手にしてしばらく瞑想し、自らボタンを押しました。その後散布の悪臭に住民の方々が道場を取り囲み、大変な騒ぎとなりました。麻原と正悟師のみが車で脱出し、残されたサマナは籠城するしかありませんでした。
 その後麻原は駆け付けた振りをして住民の方々に
 「道場の清めの儀式でシャネルの香水をまいたのです」
 と説明しました。確かに臭いをごまかすためにシャネルの香水の素を入れていました。すると住民の方々は大笑いをされ、サマナはうつむいて笑いをこらえていました。

 当時の状況から自分自身の姿を省みますと、シャネルと炭疽菌をミックスした散布方法からは子供のあどけない残酷さが思い浮かびます。私は麻原の様々な不合理な指示についてマハームドラーと信じていました。これは子供のあどけなさに通じると思います。そしてそれは子供の残酷さとも結びついていたと思います。私はまるで子供のように格好をつけ、軽率に振る舞い、周りに対して無責任でありながらまるで悪いことをしていることの自覚に欠けていました。ただ私は決して自分から子供っぽい悪を平気でする人間になりたかったわけではありません。麻原から自我は悪だと教え込まれ、彼の指示に耐え、ひたすら自我を押し潰され、押し潰していくうちに自分の内面の子供っぽい悪が噴き出てしまいました。
 しかしこのレベルまでいくと、子供っぽい悪は吹き出てしまうだけでなく、飛び跳ねて「嬉々」としてしまった気がします。それは、子供っぽい悪を抑えていくはずの自我が麻原の指示によってすっかり押し潰されてしまった結果でした。そのため自分たちがすることについての事の大きさが、普通の自我の現実感覚のようには、まるで見えなくなってしまったと思います。
 ここに何故弟子たちがこのような大それた事件をやってしまったかについての理由の一つがあるような気がします。




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