Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・『モンスター』(3)(2017年12月21日) 

 「なまえのないかいぶつ」の絵本を偶然に目にしたヨハン。
 あれだけ冷酷に、感情なく、ただ人を殺してきたのに、暴涙し、呻き、気絶します。511キンダーハイム(以下511)で消されていた記憶の断片を思い出したのでした。
 場面は怪物のルーツであるプラハへと移ります。

 「社会が要求する人間を創り上げることが教育ではないかね?
 どういう教育をほどこせば、要求通りの人間を創り出せるか…教育とは実験なのだよ」
 と、511の元院長は、ジャーナリストのグリマーに語ります。グリマーは511の出身者で、どれほどの虐待や非人道的な人格矯正が行われていたのかを暴こうとしていました。元院長が語ります。
 「憎悪、虚無、破戒衝動、どれも人間がとりこまれやすい要因だ。それらに憑かれたんだよ。あの時の511キンダーハイムは
  ある一人の少年の登場でね」
 「それもあなたの責任じゃないと言うのか?」
 「何度も言うとおり、実験は成功していた」
 「嘘だ…。511キンダーハイムは出身者にはすべて共通した欠落部分がある。彼らは、人を愛せない」
 と、グリマーは射るような視線を向けます。
 「人を愛せない」胸を剣で突かれるようです。
 当時、麻原に疑念をもった私は、LSDを大量に投与され、死の恐怖にさらされ、すっかり自分自身を見失いました。
 人を人として感じること自体が、麻原への疑念につながることから、人を愛することが恐ろしく、愛せなくなりました。

 元院長の元にいる孤児達を外へグリマーが遊びに連れ出したスキに、女装したヨハンに元院長は銃撃されます。元院長は511でのヨハンについての秘密テープを隠し持っており、それをグリマーに託します。
 グリマーは孤児達が外では笑い、元院長の姿を見ては泣く様子を見て、気付きます。
 「511キンダーハイムと異なる教育をこの子達に…」
 「憎悪、虚無、破戒衝動、闇にとりこまれない人間を創りたかった…、どうやると思うね?」
 「愛情」
 「まったく、新しい発見だったよ…」
 「それは、親が子に向ける、ごく普通の自然なこと」
 「いや…実験だ!」
 と、言い残し、元院長は逝きます。

 愛情はごく普通の自然なことなのに、カルトにはまっていくと見失われてしまいます。
 「愛と愛情はちがう」と麻原は信者に教え込み、人と人との間に自然に生まれる愛情をことごとく否定させ、自分の指示通りに動くことが、信者や他者を本当に成長させる愛だと、断言しました。カルトのトリックの一つです。
 愛そのものは姿や形のないもので、つかみどころのないものですが、確かに感じられるものです。
 ですが人の心に生まれるものは愛だけではなく、憎しみや怒り、欲望と、人を幸せにするものだけではなく、不幸にするものもたくさんあります。
 愛や愛情とは何か?そもそも答えのあるものではなく、それぞれの人が人生をかけて、失敗を繰り返しながら学んでいくものではないでしょうか?
 愛により苦しむことがあるのも確かなことで、この人間の弱さを突いて、人間らしい愛を全て否定し、神々の名や、真理の名を利用して、麻原にとって都合の良い抽象的な愛を説きました。
 このような偽善の愛を信じてしまった私がそもそも愚か者でした。

 怪物のルーツを追うテンマはグリマーとも交差しながら、絵本の作家でもある秘密警察の「赤いバラの屋敷の男」の存在を知ります。彼こそが511の構想者であり、ヨハンをマインドコントロールにより怪物に仕立てあげた人物でした。

 「俺は511キンダーハイムで、喜怒哀楽を奪われた。(中略)
 自分の子供の愛し方もわからなかった…
 俺は以前、自分の子供の死んでいく時に、どんな反応をすればいいのか考えていた…(中略)
 今でもどうしたらいいかわからない、わからないんだ…」
 と、グリマーはテンマに吐露します。私なりにこのズレはしみじみとわかります。

 連邦捜査局のルンゲ警部は長年テンマを追いまわす中で、ヨハンが実在する人物であると知り、テンマを犯人とする自分の見立てに疑念を持ちはじめます。長期休暇を取り、独自にヨハンを調査し、「赤いバラの屋敷」にたどりつきます。
 そこではかつて研究員全員がある日、消えていました。ルンゲが封じ込められていた部屋の壁を壊すと、一人の女性の大きな絵が置かれているだけでした。そして絵のうらには一通の恋文がはさまれていました。
 ルンゲとは別ルートで「赤いバラの屋敷」に向かうところでテンマは逃亡犯であることが知られ、逮捕されます。
 署内で連行されるテンマとすれちがうルンゲ。
 それとなく黙秘をささやき、一通の恋文が場面に流れます。
 「君のすべてを食い尽くすために見ていた
 だが逆に君のすべてが私を侵食した(中略)
 君は美しい宝石を残してくれた
 あの永遠の生命のような双子
 一番罪なことは…人の名を奪い去ること(中略)
 今はただ悲しい…悲しい、悲しい、悲しい…」

 紆余曲折しながらもテンマは脱走し、ヨハンを追跡します。
 何故テンマを逮捕させ脱走させる必要があったのでしょうか?
 自由に連想しますと、「誰が野獣に逆らって戦うことができるのか」とのヨハネの黙示録の一節がよぎります。
 怪物=野獣に立ち向かえるのは小羊でもなければ、別の獣でもない、神に預言された計画とは別の次元にいる存在ではないでしょうか?神とサタン、小羊と獣が相克し合う中にいる限り、計画されたものでしかなく、刻印を押すような選民思想に立ち向かうことにならないからです。
 「捨身飼虎」のサッタ王子のように、人が造り出し、支配されてしまっているものを、大自然の摂理を取り戻してこそ立ち向かえるのではないでしょうか?
 そのための象徴として、人が造り出し支配されているルールから脱走する必要がテンマにあったと看取します。

 2017年12月21日 井上嘉浩


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