Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

プロフィール
手記
いま考えていること
リンク
機関誌

資料
意見陳述
裁判資料






いま考えていること


・『モンスター』(2)(2017年12月16日) 

 「僕を見て!僕の中のモンスターがこんなに大きくなったよ」と、殺人事件の現場に書きなぐるヨハン。
 「助けて!僕の中のモンスターが破裂しそうだ」と書き残す悲しみの淵でもがき苦しむヨハン。511キンダーハイムで生き残り、「世界が終わる話」のプログラムのために、ヨハンは多くの人々の命をただ奪っていきます。

 モンスターを「生き返らせてしまった」主人公テンマは、ヨハンを追跡しながら、ヨハンが引き起こそうとする惨事の規模を最小限に抑え人々を助けていきます。
 ヨハンの妹ニナは、テンマに「人を殺させちゃいけない」と、みずからヨハンを仕留めようと追いかけます。テンマとニナが惨事の現場で交差し、額に刻印を押すように、自分を撃てと合図するヨハン。テンマとニナが互いに撃たせないように叫ぶ中、ヨハンは炎の嵐に一人去っていきます。
 ヨハネの黙示録では、「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(7-3)と、小羊に導かれ救われるとされる者達も、
 「獣の像を拝もうとしないものがあれば、皆殺しにさせた。(中略)すべての者にその右手か額に刻印を押させた」(13-15〜16)と、獣とされる者達も、額に刻印が押されます。両者とも刻印し、選民している点においてはちがいはありません。誤読かもしれませんが、小羊と獣はまるでヨハンの二面性のようです。
 黙示録で小羊が七つの封印を開くことで、次々と大惨事が起きるように、ヨハンは本性を明らかにするごとに、惨事を引き起こしていきます。
 テンマは小羊でもなければ、獣でもありません。予言の成就のようにヨハンが封印されたプログラムを実行しようとするに対して、まるでプログラムを無力化していくのがテンマです。
 「ネオナチを名乗るチンピラに父は殺されたの。肌の色が違うだけでただ殺された」とテンマに語るベトナム人医師の娘はモグリの医者となり、ちゃんとした病院にも行けない人々を助けようとする場面があります。
 そこで街の娼婦が銃で撃たれ病院に倒れ込みます。
 「あたしだって限界は知ってる!!これはお手あげだわ!!」と泣き叫ぶ娘。
 「最後まであきらめるな!!息のある患者だったら、最後の最後まで望みを捨てるな!!」とテンマは娘の目を、厳しく、自分の信念を伝えるように見据えます。いのちの愛のように。
 テンマは娘の手術を導き、患者は一命を取り留めます。

 信じる宗教が違うだけで、神の名において行われる宗教テロ、宗教戦争。
 人は宗教を頭の中で創作することはできますが、いのちそのものは決して創造することはできません。それなのに神の名において救われる者と救われない者を差別する選民思想のニヒリズム。
 これがオウム事件の真相に、闇のように麻原にも信者の心にも潜んでいました。
 いのちそのものに向き合うテンマの姿に、改めて罪の重さ、深さ、自分の愚かさを突き付けられます。

 物語では、「なまえのないかいぶつ」と題する絵本が、物語を解く鍵として紹介されています。
 「むかしむかしあるところに、なまえのないかいぶつがいました。
 かいぶつはなまえがほしくてほしくてしかたありませんでした。
 そこでかいぶつはたびにでて なまえをさがすことにしました。
 でもせかいはひろいので、かいぶつはふたつにわかれてたびにでました。
 (中略)
 「かじやのおじさん、ぼくにあなたのなまえをください」
 「なまえなんてあげられるものか」
 「なまえをくれたら、おれいにおじさんのなかにはいってちからをつよくしてあげるよ。」
 「ほんとうか、ちからがつよくなるなら、なまえをあげよう」
 かいぶつはかじやのなかにはいっていきました。
 かいぶつはかじやのオットーになりました。
 オットーはむらいちばんのちからもち。でもあるひ。
 「ぼくをみて、ぼくをみて、ぼくのなかのかいぶつがこんなにおおきくなったよ」
 バリバリ グシャグシャ バキバキ ゴクン。
 おなかのすいたかいぶつはオットーのなかからたべてしまいました。
 かいぶつはまた、なまえのないかいぶつにぎゃくもどり。
 (中略 ※次々と人物をかえて同じことが繰り返されます。王子となり、王様もけらいもみんな食べます。やがて別れたかいぶつさえ食べます)
 せっかくなまえがついたのに、だれもなまえをよんでくれるひとはいなくなりました。
 ヨハン、すてきななまえなのに。」

 まるでヨハネの黙示録のパロディーです。
 カルト問題から読み解くと、なまえのないかいぶつとは、カルト教祖が掲げる絶対神です。麻原が利用した神々の意思とは、誰もその神々を見たこともなく、意思を聞いたこともなく、なまえがないのと同じです。
 麻原は神々の意思を利用して、信者になれば、すぐれた人間になれるとか、救われると説き、信者の心の中に入っていき、人格を食らい、支配していきます。
 やがて法皇と名のり、国家を武力で転覆しようとしたように、何もかも食べて自分のものにしようとしていきます。
 そこに出現するものは、千年王国などではなく、大惨事と虚無の広野です。ハルマゲドンのように。

 このような選民思想による絶対神の人食いと対極として、お釈迦様の過去世物語として知られる捨身飼虎のエピソードが思い出されます。
 餓死しかけた7匹の子虎と母虎を救うために、サッタ王子はわが身を投げ出してその肉をくらわせたと伝えられています。それにより、生きとし生けるものを救う菩薩道を進められたそうです。
 菩薩とは、「自らの修行の完成と一切衆生の救済のために成仏を目指す人」と説かれています。
 カルトの絶対神の化身と名のった麻原は、信者を救うとだまして、食らい、信者の人格を奪い、破滅させていきます。
 一方、サッタ王子は、目前の飢えた虎にみずから食われることにより、わが身を捧げ、救います。そこには選民思想は微塵もありません。生きとし生けるものをもれなく救う誓願があります。
 突き詰めていきますと、捨身飼虎のエピソードの場面は、深い森であり、虎とは人間社会に属さないらち外の存在である大自然の象徴とも読み取れます。サッタ王子は人間社会の文化の象徴でもあり、食われることにより、社会でまとっている地位や役割を食べ尽くされ、裸のままの本当の自分、大自然の摂理と一体となった自分を取り戻すことができたと看取できます。それにより人間により作られた社会のしがらみの中にあっても、造られない大自然の摂理をもって生きることができ、それが大人になることであると人類学は語っています。
 一方、絶対神は「ヤーヴェ」がモーゼに律法を与えたように、人々を律して民族を導くことができる面もありますが、はじめからいかに信じる者たちの王国を造るかにベクトルがあり、大自然の多種多様な精霊たちを否定したところに立っています。しかも人間の感覚ではとらえられない超越的な存在であるとされています。
 この点を麻原は悪用して、社会常識や人間の善悪を破壊することで、自分の手足となる絶対的な価値観で信者を支配していきました。
 物語ではなまえのないかいぶつがいかに人間の規範を破壊し、惨事を引き起こしていくのか巧みに描かれています。

 2017年12月16日 井上嘉浩


ホーム  
(c)Compassion