・『幕末』(2017年11月29日)
『幕末』司馬遼太郎著を獄中の図書で拝読しました。
『逃げの小五郎』と題した木戸孝允こと桂小五郎が蛤御門ノ変で行方をくらました時期の物語に目が留まりました。
蛤御門ノ変では長州兵約千人が朝廷に強訴するため武装入京し、幕府側三十藩と市中で激突。京の町は八百十一町にわたり全焼し、民家だけで二万七千五百余軒が焼けたと言われています。
長州兵は敗走、幕府の残党狩りにより、長州人は見つかり次第に捕殺されたそうです。
この最中、長州藩の京都代表であった桂小五郎は武装入洛に反対し、「桂、長州武士の風上にもおけぬ臆病者」と、面罵されても、自軍に参加することなく遁走します。
「桂が塾頭をつとめた(江戸の剣術三大道場の一つ)斎藤弥九郎の道場には六カ条から成る有名な壁書きがあった。
その中で「兵(武器)は兇器なれば」という項がある。―― 一生用ふることなきは大幸というべし。出来れば逃げよ、というのが殺人否定に設定した斎藤弥九郎の教えであった。自然、斎藤の愛弟子であった桂は、剣で習得したすべてを逃げることに集中した。」
いわゆるサムライ=武士という既成概念が崩壊します。
まさに逃げに逃げます。ですが、桂とは言え、一人で逃げられるわけがありません。命をまっとうできたのは、芸妓の幾松をはじめ、手を差しのべられた多くの方々の温情のおかげに他なりません。
なかでも義侠者甚助・直蔵兄弟はもともと何の縁もゆかりもないのに、「まるで譜代重恩の家来も及ばぬほどに桂のためにつくし」ました。
「昨日は御妨げ申し候。とかく憂世の味きなきことを思ひやり、うたた寝の夢も結ぼられかね、夜な夜な明かしかね、ひたすら行末越しかたのことのみ思ひおこされ、寒夜の袖をしぼり申し候。
さりながらいまさらくどう申し上げ候ことも無え、何とぞ、昨日甚助さんへの手紙は、かならずかならず御返し被下候而(くだされそうらいて)、御破り下され候、ひとへに頼み申し上げ候。
あの手紙は、一昨日の晩、畳屋にて御別れ申し候て帰り、眠られ申さず故にしたため申し候得共。今さら別に申すことなく、野に倒れ、山に倒れてもさらさら残念はこれなく、ただただ、雪の消ゆるをみてもうらやましく、共に消えたき心地致し申し候。」
当時、長州藩は英米仏蘭の四カ国艦隊と下関海峡で交戦し、一方的に敗北し、幕軍と戦い亡国寸前にありました。
その間、桂は甚助・直蔵兄弟にかくまわれ出石におり、暮夜、桂が兄弟に書いた手紙の一通です。
幕末についての小説なども色々と拝読しましたが、この桂の手紙はとても静かに心にしみました。
その後桂は高杉晋作が実権を握り、桂を必要とする情勢に変化したのを見計って戻りますが、まず甚助を長州に行かせ村田蔵六(大村益次郎)に手紙をしたためたと言われています。
蔵六は長州出身ですが、身分の低い医者で蘭語翻訳により幕府にとりたてられた元幕臣でした。桂が蔵六の軍師としてのかくれた才能を見抜き、長州に引き戻したものの地味な存在でしかありませんでした。
ところが桂が誰よりもまず蔵六に手紙を出したことがきっかけとなり、長州の首脳部に軍師として蔵六の存在を認めさせていきます。歴史を維新へと大きく旋回させたのは、桂が蔵六を軍師として活躍できるように計らったからだとも言われています。
幕末には大義による殺人が横行しましたが、歴史を真に動かしたのは、殺人否定に徹底した教えと、それを実践するものを支えられた人々の温情にあったのが歴史のパラドックスではないでしょうか。
2017年11月29日 井上嘉浩