・『大栗先生の超弦理論入門』(2017年11月14日)
『大栗先生の超弦理論入門』を拝読しました。
超弦理論の空間が九次元であるとの説明にオイラーの公式が出てきます。
1+2+3+4+5+…=−1/12
「正の整数を無限に足していくと、負の数になるというのです。
(1+2+3+4+5+… )は、どう見ても「無限大」です。
しかし無限大だからこそ、その値には正も負もないという考え方もできます。無限大とは、正か負かも分からないような、つかみどころのないものです。」
ここで超弦理論や空間が九次元であることやオイラーの公式を紹介するつもりではありません。
「無限大とは、正か負かもわからないようなつかみどころのないもの」について、少し考えてみたいと思います。
無限大を心に置き換えると、「心とは善か悪かもわからないつかいみどころのないもの」と読み取れます。
振り返りますと、当時、教団にはまっていってしまったのは、より善人に、よりすぐれた者に、なろうとした心があったからでもありました。
善を掲げるほど、自分がとらわれた善に反するものが悪に見えてきます。
このプロセスをよく見れば、自分がとらわれた幻想の中に、幻想を作り出し、その中に閉じ込められていくかのようです。
「私たちの日常の経験では、氷は固く、水は形が自由に変わるもののように感じられます。しかし、ミクロの世界までいくと、この性質の違いは分子の結合のしかたによって説明されます。
分子自身に、氷のような性質や水のような性質があるわけではなく、個々の分子を見れば氷と水の区別は消滅してしまいます。膨大な数の分子が集まったときに、その集まり方によって、氷のような性質や水のような性質を持つのです。」
心には善と悪のような固有の性質があるわけではなく、環境や本人の要求によって、形成されていくもので、条件が変化すれば心の性向も変化していきます。心は何ものにも染まっていくということは、逆に見れば、心そのものは何ものにも染まらないものと言えます。
カルトに染まっていくと、カルトの世界だけが真実のように見えてきますが、その実態は幻想でしかありませんでした。
無限大を人に置き換えますと、「人は善人か悪人かもわからないつかみどころのないもの」と理解できます。
この自覚は人として大切だと考えています。
もちろん注意は必要です。行動すればそれに伴う責任があり、善と悪とを峻別する行動の規範は、社会や組織の秩序の維持のためにも必要です。
ただそこで思考を停止させず、善人のふりをしていないか?と自問することも必要ではないでしょうか?
所属する組織の命令に従うことが組織内においての善人であっても、何かおかしい?と感じたなら、立ちどまり、考え、悪人と言われようが従わないことが必要だったと痛感しています。
良心の声を押しつぶし、善人のふりをすることほどあさましく、愚かなことはありませんでした。
心は善にも悪にもなるつかみどころのないものだからこそ、良心の声に心を澄まし、なすべきことをなしたいものです、誤解されたり悪人と言われようとも。
2017年11月14日 井上嘉浩