Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・映画「かぐや姫の物語」(2017年9月28日) 

 映画「かぐや姫の物語」を拝見しました。昔話ですが、現代社会で人が人として生きていく意味を問いかけているかのようでした。

 「これまで姫様の幸せだけを願っておつかえしてきましたものを」
 と、かぐや姫が月に帰ることを知った父が嘆きます。父はひたすら人間社会の中で高貴な姫になることこそ、姫の幸せと考え奔走してきました。
 今でいえばいい高校、いい大学、高収入の仕事、いわゆる勝組の人生です。
 かぐや姫は社会の最高の地位にいる権力者である帝に言い寄られます。

 「お父様が願って下さったその幸せが私にはつらかった」
 と、かぐや姫は本音を吐露します。
 高貴な姫になることなどうすっぺらい偽物だと、そのような生き方に閉じ込められることを絶望し、月の世界に助けを求めてしまったために、月に戻されることになったことを告白します。

 「ようやく思い出したのです。私は何故、なんのためにこの地に降り立ったのか…
 私は生きるために生まれてきたのに、
 とりやけもののように」
 とかぐや姫は悲痛に叫びます。

 しかしかぐや姫に問題はなかったのでしょうか?
 幼なじみであこがれていた捨丸が、街でかぐや姫に呼び止められたために、ひどい暴行を受けた時、牛車の中でかぐや姫は身をふるわせながらも飛び出して捨丸を助けようとはしませんでした。
 自分の生き方に対して問題意識はあっても、「自分の心をごまかし」、受け身で、自分から立ち上がり行動に出ようとはしませんでした。
 それがかぐや姫の不幸の招いたのではないでしょうか。

 生きる意味を自覚した時、はじめてかぐや姫は心のおもむくままに行動に出ます。
 わずかな時ながらも、運命がひらかれ、かぐや姫は幸せになれるはずであった相手、下賤の捨丸と出会います。
 人生において何が大切か?考えさせられる場面です。
 「さあ まいりましょう。清らかな月の都におもどりになればそのように心ざわめくこともなく、この世の汚れも拭いさられましょう」と、父と母との別れに泣きくずれるかぐや姫に天女が声をかけます。
 映像をよく見ると、月の都の天人たちと人の世界の高貴な者たちは、かさなり合い、共にこっけいです。

 「汚れてなんかいない。喜びも悲しみもこの地に生きるものはみんないろどりにみちて とり 虫 けもの 草木 花 人のなさけを」
 と、かぐや姫はすべての記憶を失う直前に叫びます。

 自由に連想しますと、「汚れてなんかいない」とは、清浄や不浄、美や醜、幸や不幸といった二元的な概念で世界を捉え判断する意識によるものではないようです。
 「生きるものはみんないろどりにみちて」と、とり、虫、けもの、草木、花、人のなさけを、同列に見れる意識、姿にちがいがあっても同じいのちそのものの発現と感じられる心そのものからのメッセージのようです。
 このようないのちのメッセージに触れることがかぐや姫の願う生きるために生まれてきた意味だと学ばせていただきました。

 2017年9月28日 井上嘉浩


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