・『ぼくの地球を守って』(2)(2017年8月1日)
『ぼくの地球を守って』(7〜12)を拝読しました。
色々な読み取り方ができますが、カルト問題の視点から自由に読み解いてみます。
「でも…ここにも戦争はある…!この漠然とした恐怖…!
(中略)憎むな 妬むな 疑うな そんな事は人間には無理だ…!無理だから人間は神を必要とする
そういった超越した存在に支配でもされなきゃ
争わずにはいられない
コントロールされたがってるのは人間の方なんだ
本当は誰もが己の中の狂気と戦っている」
これはドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟での大審問官のテーマにも通じます。
カルトにかかわらず、人間が作り出す社会の暗部の一つとも見れます。
本では、神のような科学力によって、世界をコントロールして、戦争をなくそうとしますが、このようなアプローチは結果的には否定されます。
問題提起はされていても、回答らしきものはあえて示されていないようです。
ですが、ヒントのようなものは語られています。
「運命を受け容れることと、生命を放棄することは違うんだ。
犠牲を伴って生きてきた者は精一杯生きる義務がある。
でもそれは運命を放棄してでも
自分だけ生きのびよっていうのとも少し違う。
サージャリムはちゃんとわかってる
運命を受け容れた者だけを次の生命へ回帰させてくれる」
物語には生命の回帰二転廻転生が中心に据えられています。
すると現実というものが二重の意味を帯びてきます。
人が自覚しようがしまいが、現実の出来事は、幸も不幸も過去や前生の業の報いである面と、それに対してどのように反応するかは、人、それぞれに選択できる面があることです。
物語ではそれぞれが悪戦苦闘しながら、過去の過ちを未来のどこかで、別のやり方で償って、より良い未来を作っていこうとします。
このようなアプローチは、コントロールするとかされるという次元と異なるものです。
それが運命を受け容れながら、精一杯生きることであると、物語で語られているかのようです。
「己の中の狂気」を外部からの強制力によってコントロールされることと、自分自身の内部から自律的に昇華していくのとは、一見、その姿は似ていても、未来はちがってきます。
コントロールされれば、その枠内において、安定らしきものは得られても、その世界に閉じ込められていきます。
それが極端な形となったのがカルトの世界です。
そこでは全てが神のような力をもつと僭称した教祖に支配されていきます。
信者は超越した存在と妄信した、教祖に支配されることで同化して、偽りの安心感や優越感に浸ります。
このような世界は人間を劣化していくに他ならないと、当時の過ちから痛感しています。
一方、「己の中の狂気」と正面から向き合っていくのは、大変です。見つめれば見つめるほどまさに狂気です。
物語の主人公の一人、シ=オンこと輪は、前生の月の基地の科学力によって世界をコントロールしようとするシ=オンと、その企てを破戒しようとする輪とに分裂して、苦しみもがきます。
ところがその果てに見事に昇華されます。
月の基地でたった一人残され、やがて発狂したシ=オンはそれでもモク=レンへの愛から、彼女の植物を育む力を、高度な科学力によって、地球へ届ける装置をつくっていたことに、輪が気付き、シ=オンの狂気が地球の大気となったモク=レンの愛とまじわり解消されていきます。
そうして輪はようやく一人の人として目覚めます。
長い長い夢から醒めるように。
2017年8月1日 井上嘉浩