Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・『錨を上げよ』(2017年7月25日) 

 獄中の図書に『永遠の0』の著者である百田尚樹氏の『錨を上げよ』がありました。

 「すべて移ろい行くものは永遠なるものの比喩にすぎず」と、ゲーテの『ファウスト』のラストを引用しながら、「しかし人生は影ではないし、人の世もまた比喩ではない。皆、唯一無二の存在だ。同じに見えて同じものはない」との言葉で物語が始まります。

 主人公のジェットコースターのような人生については論評を控えますが、カルト問題の視点から、考えさせられる場面がありました。
 主人公の弟がカルト教団にはまってしまい、主人公は、脱会させようと説得を試みます。

 「説得は最初からうまくいかなかった。なぜならこれくらい論理や理屈を超えたものはなかったからだ。(中略)
 話題はすぐに宗教論そのものへとすり代わり、彼はそこで神だとか、人間存在だとか、生命の輪廻だとかいったことを問題にしようとした。
 そんな相手に、社会の常識、親子関係、金や仕事、生活の問題といったことを述べたところで、噛み合うわけがない。」
 これは的を突いています。
 社会の常識の中では、自分の抱える問題が解決できなかったからこそ、カルトの掲げる答えにひかれて、はまっていくからです。
 社会常識や正義を持ち出すほど、信者は心を閉ざしてしまいます。

 「俺は現代社会では生きていけへんのや。現代はあまりにも厳しすぎる」と、弟がぽつりと語ります。
 それに対する主人公の語りは興味深いです。
 「要するに、苦しみも喜びもすべて、その時代と社会の渦の中から、そいつ自身が選び取った価値観によって生まれてくるんや―ただ厄介なんはそいつの意志というよりも周囲の環境によって自然に植えつけられていくことの方が圧倒的に多いということや。(中略)
 これを打ち破るには自分の価値観を自分でこしらえるしかないな」

 誤解を恐れずに言えば、社会常識もカルトの正義も時代と社会の渦の中から生じたものである点においては同じです。
 自分の本来の意志というより、子供の頃から、社会に適応していくための様々な教育によって、他者によって作られた価値観の中から、自分にふさわしいと思うものを選んで自分を形成していることを、「周囲の環境によって自然に植えつけられた」と語っておられるようです。
 その価値観が社会常識か、カルトの正義かの違いがあっても、他者によって作られた価値観のものまねのようなことをしている点においては違いはありません。

 決してカルトの正義を肯定しているわけではありません。
 「しかし問題は、お前が今自分のいるところを、自分が生きていける唯一の場所やと思っていやしないかというところにあるんや。それは非常に危険で恐ろしい考え方や」と、主人公が語っているように、社会と異なりカルトは単一の教祖が作った価値観しかなく、必ず社会と対立していくもので非常に危険です。

 ですがこのようなカルトを解体するには、信者を脱会にいたらせるには社会常識の価値観だけではいかんともしがたいところがあるのが実状です。
  カルト信者が絶対のものとすがっている価値観は、よく見れば他者のものまねをしている点において、信者自身が否定した社会常識の価値観と同じです。
 本当の自分を見つけようとしたのに、それを忘れ、他者のものまねをして強がっている、弱々しい者に成り下がっていたと、自分自身を振り返り、そう思います。

 「これを打ち破るには自分の価値観を自分でこしらえるしかないな」と、語られた中にヒントがあるかもしれません。
 社会常識の価値観に疑問をもつなら、同じくカルトの掲げる正義にも疑問をもつべきです。
 他者によって作られた価値観に自分を合わせるだけでは、本当の自分は見つからないと、気付くことが大切ではないでしょうか?
 本当の自分など、カルトが掲げるように、そんな簡単なことで見つかるはずがないと、今更ながらに思います。
 「自分の価値観を自分でこしらえる」
 それは容易いことではありません。
 ですが、だからこそ、それぞれの方のそれぞれの人生に唯一無二の意味があるのではないでしょうか?

 ゲーテの語りを自由に連想すれば、永遠なるものの比喩だからこそ、人はそれぞれ唯一無二の存在だと、直感されます。
 改めて自分の犯した大罪の罪深さをかみしめるばかりです。

 2017年7月25日 井上嘉浩


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