Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・『ブラックジャックによろしく』(2017年3月2日) 

 『ブラックジャックによろしく』を拝読し、「救い」について考えさせられました。医療漫画で新生児科医のテーマの編です。
  不妊治療のすえにようやく子供ができたものの、未熟児として出産された双子の赤ちゃん。
 「私は子供たちの将来を考えています。もしも2人に重大な障害が残った時、彼らの人生は幸せだと断言する事ができますか?このまま子供達を死なせてやって下さい」
 と、父が主人公の研修医と指導医に切り出します。
 そして弟くんは障害があることが判明します。
 手術をしなければ弟くんは死んでいくだけですが、両親は手術依頼書にサインしません。

 「オレ達は他人だ…だからこそできる事があると信じている…そして、それが限界だ」と語る指導医に、
 「僕はそんな事、信じない…だって赤ちゃんの命がかかってるんですよ、先生…あなたは同じ事を赤ん坊の前で言えますか?」と、研修医は問いかけます。

 カルト問題と重ね合わせて連想しますと、父の世界観はカルトです。幸せとは何か?こうあるべきとのフレームや答えが決まっています。母はカルトの信者のように、そのフレームにとらわれて身動きできず追従しています。
 研修医は信者の心に閉ざされた良心と言えるかもしれません。
 良心はカルトの世界観に閉じ込められ、動けなくなり、見えなくなっても、いのちある限り、どこまでもその者を見捨てることなく見守り、働きかけようとするものだと、自分の過ちから思えてなりません。

 父も母もそれぞれ悩み苦しんでいますが、どうしてもとらわれたフレームから抜け出せません。
 「オレ達が死んだあと、誰があの子達を幸せにしてやれる…?誰が愛してやれる…!?」
 と、父は病院の前に毎日、行きながらも、子供達と会おうとしません。
 カルトではカルトなりに正義や救いの名のもとに、カルトのフレーム=世界観を正当化しています。
 ですので一度、はまってしまうと、矛盾にぶつかっても、カルトを否定することは、自分が信じている正義や救いを否定することになるので、良い人になろうとする人ほど、フレームの中で頑なになっていく傾向があります。

 双子の兄はミルクが飲めない弟くんをかばうかのようにミルクを飲まなくなり、二人共どんどん弱っていきます。
 「どうして僕には何もできないんだ」と思い悩む研修医。
 「何もできないのは…、お前に覚悟がないからだ」と、親権停止の手段があることをかつての上司に教えられ、震えながら自分が育てると申し出ます。

 「オメーだけが正義だと思うんじゃねぇ」と指導医は叱り付け、「じゃあ殺したのは誰だ!?殺人者は医者か!?親か!?お前か!?」と、激しく問いつめます。
 「分かりません…、僕には覚悟はありません…、だけど…、だけど見過ごせないんです」と、研修医は言葉をしぼり出します。
 カルト的なものに同調して正義を主張することはたやすいです。ですが、見て見ぬふりをしてきた都合の悪いことを見過ごせないと、正直になることは、なかなかできることではありません。
 本当の救いとは、正義によるのではなく、見過ごせない正直さから開かれていくものなのかもしれません。

 指導医も若い頃に同じ矛盾にぶつかり、見捨てられた赤ちゃんを育てようとしたものの、赤ちゃんが亡くなってしまった体験をしていました。研修医に触発されるように、できることに努め、母と父の心を動かしはじめます。
 その最中、兄が弟くんの身代りのように亡くなり、父は心を閉ざし、指導医もあきらめざるをえません。

 この限界点を突破したのは母でした。
 「きれい…、夕日って…、きれいね…。命って…、きれいね」
 と、離婚して、弟くんを育てる覚悟をします。
 それと呼応するかのように、研修医と指導医が激しくぶつかり合います。

 「生きてる…弟くんは生きてます…!!ここで弟くんの手術をしなかったら僕たちは一生後悔します…」
 「手術をしたらの間違いじゃねえのか…?手術をすれば大学ににらまれて医者として一生浮かばれねえぞ…」
 「だけど…一つの命は助かります…!!」
 と、反逆して、承諾書なしで手術をしようと立ち上がります。指導医もひきずられ、弟くんは助かります。

 今、世界中で多くの若者が人生や社会の壁や矛盾にぶつかり、救いを求めてカルトやカルト的なものにはまっています。このプロセスをよく見ますと、物事の判断規準や価値観のフレームを社会常識のものから、カルトが提示する世界観や人生の回答のフレームに取り換えようとしているとも言えます。
 システムやプログラムを変更すれば問題は解決するとの発想に根ざしているかのようです。
 これらの発想は子供の頃から、こうあるべきとのフレームを学び、取り入れてきた流れにあるものです。
 物語ではどうしていいのか分からない問題に対して、突破した研修医と母は別のフレームを求めて、取り入れたわけではありません。悩みに悩んだ末に、自分自身を限界付けている、自分がとらわれてきた価値観のフレームそのものをぶちこわし、丸裸となって、いのちそのものと向き合っていきました。
 「命って…きれいね」
 そこにはフレームが作り出す差別などありません。

 ここから見えてくることは、いのちそのものと、社会生活のフレームは重なり合ってはいますが、別の次元にあることです。文化や宗教に違いはあっても、いのちそのものは同じとも言えます。
 ですので、救いとは、システムやプログラムの変更ではなく、それらを解除して、いのちそのものに触れていく方向にあると言えるかもしれません。
 カルトは一見、フレームをぶちこわしそうとします。
 それは目前の社会をあれこれと否定して、これまでの世界観や常識を解体していきます。
 ですがそれはカルト世界で信者を支配するために、これまでのフレームから、カルトのフレームに取り替えるための手段でしかありません。
 社会に幻滅して、カルトに入っていけば、最初は理想の世界に見えても、フレーム自体に束縛されていること自体にはちがいはありません。
 むしろ、カルトには社会のように多用なフレームは認められず、一元的なフレームであり、自由を求めたのにもかかわらず、なにもかもがどんどんと制約されて、身動きがとれなくなってしまいます。そうなるともはや自分一人では抜け出せなくなってしまいます。カルトの恐怖の一つです。

 本来の宗教ではそれぞれの手法で、信者のとらわれているフレームを解体させてはいきますが、そこで、別のフレームを植え付けたりすることなど決してしません。
 いのちそのものと向き合い、そこから自然に生じてくる智慧や愛を育んでいくと言えるかもしれません。
 ですがそれは容易なことではありません。
 物語のように宗教など知らなくても、どうしようもない矛盾と苦悩の中で、フレームを突破して、いのちそのものに触れていくことが本当に有り得ると感じています。
 宗教は救いを説くことで、むしろ本来の救いとは何かを見失ってしまっていることが多いと思われてなりません。
 「正しい答えがなんなのか…ついに…分からなくなりました…だけど…考え続けることが…答えなんだと思いました…」との父の告白で物語は、新しく始まります。

  2017年3月2日 井上嘉浩


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