・「女性芸能人の出家会見を知って」 (2017年2月21日)
最近、「出家は本人の魂の救済をすると同時に、本人が世俗と縁を断ち人の魂を救済する仕事を24時間するということ」と、某教団が20代の女性芸能人の出家について会見しているとの記事を知り、考えさせられました。
昔私がオウム真理教の支部活動をしていた現場で信者を出家させる時の常套文句と、会見のコメントがほとんど同じであったからです。
某教団の出家制度の実態も、女性芸能人のことも、ほとんど何も知りませんので、それらについて言及するつもりはありません。ただ当時、このような常套文句のスローガンのもとで多くの信者を出家させてしまい、人生のかけがえのない時間を無駄にさせてしまったり、人生を壊してしまった罪を改めてかみしめています。
振り返れば、このようなスローガンは、本来仏教が説いているものとは似て非なるものでした。
例えば仏教辞典によれば、出家とは「家庭生活を捨てて、遍歴・遊行生活に入る意で、世俗を離れ、修行者の仲間に加わること。仏教集団において受戒し、正式の修行者となること」。
遊行とは「諸国を回って仏道を修行することをいう。少欲知足を旨とし、托鉢を糊口の資としてひたすら解脱を求めるのが本意である。」とされています。
つまり、当時教団が「ワーク」と呼んでいたような世俗に働きかける仕事などは、出家者がすべきことではないとの厳格な一線があったと言えます。
さらに「魂の救済」とは何でしょうか?
なんとなく分かるようなイメージがあるかもしれませんが、そもそも仏教は魂を実在するものとして説いていませんし、教団のように、神々の意思とか、神の代理人のような特別な救済者や人物による救済も説いていません。
お釈迦様でさえ、出家者として家庭生活を捨てられているのに、教祖のみが家庭生活をしているのはおかしいんじゃないか?なぜ、出家者がワーク、ワークと本の出版・営業など世俗の仕事をするのか?と高校生の頃、教団にはまっていく中で、時として「これっておかしいんじゃないか?」と頭によぎることもありました。
オウムの出家者に尋ねると、麻原だけは特別であるとか、ワークはグルの救済のお手伝いで弟子にとっても功徳を積むためのもの、と言われました。
納得しかねていると「信がない」と突き離され、自分で考えてはいけないと言いくるめられたものです。
カルト教団にはまった私が愚かでした。
手記にも書きましたが、自分で考えてはいけないと言われ、高校生なりに悩みました。ヨーガの技術が悪用されたマインドコントロールに大きく影響されていたのも事実です。
ですが、それらを差し引いても信じてしまったのは、行き先の不透明な時代の中で、救済するんだとのスローガンを信じたかったからだと言えます。
このような若者の願いは昔も今もきっと変わらないだろうと思われます。
ですが、あえて誤解を恐れず言えば、「救済」という大義自体が諸悪の根源であったかもしれません。
「救済」の概念には、誰かが誰かを助けるとの感覚がつきまといます。
それが世俗的な仕事なら、仕事として、技術を有する者がその技術をもって行うことと割り切れます。
ですがそれが宗教のエリアに入れば、そこに上下関係の感覚が意識されていきます。
大半の新興宗教では、助ける者はその根拠を超越的な存在、神による教えや力によると自負し、信者から崇められ、やがて神の代理人のように位置付けていきます。このような構造がカルトの土台となります。
「螺髪を結っているからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生まれによってバラモンなのでもない。真実と理法とを守る人は安楽である。彼こそ真のバラモンなのである。」(法句経393)
と、お釈迦様は語られたと伝えられています。
当時のインドの社会の中で最上位とされ、宗教上の特別な存在とされた「バラモン」はバラモンでない、とひっくり返されたのです。真実と理法の前において、全ての人々は平等であり、特別な存在などいません。これが本来の仏教の在り方でした。
高校生の頃、「救済」とのスローガンを信じてしまったのは、「救済」という響きにある特別な存在へのあこがれや甘えもあったからだと内省しています。
混迷を深めていく時代の中で、なんとかしたいと願っても何をどうしていいのか分からないことばかりかもしれません。ですが一見時代への回答に思える大義のスローガンは大変な悲劇をもたらしてしまうことがあることを、オウム事件は如実に語っているのではないでしょうか。
特別な力を持った存在など妄想であり、人は人であり、自分で考え抜くことを放り出してはいけないと、今さらながらにかみしめています。
二度とこのような事件が起きないように願わずにはいられません。
2017年2月21日 井上嘉浩