Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

プロフィール
手記
いま考えていること
リンク
機関誌

資料
意見陳述
裁判資料






いま考えていること


・映画「ロビン・フッド」(2017年1月18日) 

 映画「ロビン・フッド」を拝見しました。
 「暴君政治と悪法が人々を苦しめる時代、アウトローと呼ばれる反逆者があらわれ、その名を歴史に残す。12世紀末のイングランドはそのような時代であった。(中略)これは弱者の味方となりアウトローとして生きることを余儀なくされたロビンという男の物語」とのナレーションではじまります。

 「手を縛られた女の足元から私を見上げました。
 その目には恐れも怒りもなく、ただ憐れみだけ。
 女には分かっていたのです。彼女の首をはねた瞬間、我々は神を失うことになると」
 リチャード一世に十字軍の遠征について尋ねられたロビンは正直に勇敢に愚直に答えます。
 ところがそれによりロビンは彼女と同じような状況に置かれます。
 まるでカルトの世界です。王に正直に答えよ、と問われ、答えても、王の感情次第で生死が支配されるのです。
 リチャード一世が戦死したことで間一髪で助かったロビンはつぶやきます。
 「神だろうと王だろうともう仕える気になっていない」

 「役人はリチャード王のためだと言って遠征のために税を取り立てる。
 教会は慈悲深い神の名のもとに情け容赦なし。
 私達が食べる穀物まで取り立てる」
 偶然が重なりロビンが鞘におさまることになるノッテンガムの領主の妻が訴えます。
 人が頭の中で作り出した神と王の実相が垣間見えるかのようです。
 当時、麻原は法皇と称して、法=宗教、皇=世俗社会、両方の王になろうとしました。それがどれほど醜いことで、それに従う信者がどれほど愚かなことであったかを、そしてそれらがどれほど多くの方々を苦しめてしまったかをじっと改めてかみしめています。

 リチャード王の弟が新しい王になったものの、部下に裏切られ、多くの民が王から離反し、フランスが付け込み、イングランドは存亡の機に立たされます。
 その最中、ロビンは自分の父が思想家であり、王に殺されていたことを知ります。

 「いくたびもいくたびも立ち上がれ
 子羊が獅子となるそのときまで」
 幼い頃に孤児となったロビンが父から覚えさせられていたことばでした。
 「彼の思想は失われておらん。君の父親は全ての人民が同じ権利を持つことを望んでいた」
 と、ロビンはノッテンガムの領主の父から教えられます。
 ロビンは父の思想を実現するかのように、全ての人民の平等の権利と引き換えに、王の下に団結することを人民に呼びかけ、フランス軍を撤退させます。
 そしてそのことが王の嫉妬を買い、アウトローにさせられ、人間社会から追放されます。
 森の中で社会から見捨てられた孤児たちと共に生きることになったロビンと仲間達。
 「税金も、肩書きも無い。貧富の差も無い。
 自然の中では全てが平等だ」
 とのロビンの妻の語りは、現代社会への問い掛けのようです。

 「民主主義を当然視せず、所属政党を超えて、誰もが民主主義の責任に取り組むべきだ」
 とのオバマ大統領のコメント記事が思い浮かびました。
 今では当然とされている平等の権利を主張したロビンの父は殺され、ロビンはアウトローにさせられました。
 神や王が絶対的な権力を持つとされることも、人々が同じ権利を持つとされることも、人が頭の中で作り出した概念です。
 ですがそれらが形成していく世界はまるでちがいます。
 人には絶対的なものに仕えて安心しようとする弱さがあると、自分の大罪から学んでいます。
 自由であることについて責任を持つことから逃避するように、絶対的なもの、強力なものと同一化しようとして、追従するのがカルトの実態の一つと言えるかもしれません。

 「いくたびもいくたびも立ち上がれ」
 一人の人間として生きること、死ぬこと、とはどういうことか?ロビンフッドは身をもって私達にも語りかけているかのようです。

 2017年1月18日 井上嘉浩


ホーム  
(c)Compassion