Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・映画「陽だまりのグランド」(2016年11月24日) 

 映画「陽だまりのグランド」(2001 アメリカ)を拝見しました。
 雨がぱらつく夜、思い詰めた表情の男性が教会に入り、懸命に祈ります。時間外であったものの見かねた神父が声をかけたところ、ボソッとあるチームが勝ちますようにとつぶやきます。
 この20代後半とおぼしき主人公はギャンブルのかけに負けた借金を別のギャンブルのかけで埋合わせるために神に祈っていたのでした。
 懸命な祈りの姿と祈りの中身のギャップやズレにはカルトの信者に通じるものがあります。

 かけは負けて当然のように負け、主人公はどんどん追い詰められていきます。ギャンブルと借金のことで頭が一杯で極端に視野が狭くなり落ち着きをなくした主人公。
 このような姿もカルトの信者に共通するようなものがあると言えるかもしれません。
 ギャンブルの高揚と絶望はカルト世界での自己陶酔と社会に対する絶望感に、そして借金は信者が支配されてしまうカルトが教え込む地獄や恐怖に似たところがあります。

 主人公を破滅から立ち直るきっかけを与えたのは、かつての友人が与えたスラム街の少年たちの野球チームのコーチのアルバイトでした。
 ギャンブルにとらわれながらも少年たちや彼らの女性教師との出会いや出来事により、主人公は少しずつ自分を取り戻しはじめます。そのひとつひとつのエピソードがギャンブル=カルトの愚かさをあぶりだすようです。

 「かけなんかやめる。やめることにした。
 もういい。ウンザリだ」
 と主人公はギャンブルに誘い込む悪友をきっぱりと断ち切ります。この感覚はカルトから脱却していくプロセスと似ています。かつてあれほど真実だと信じていたものが虚構にすぎないだけではなく、そのような虚構の救いが自分の人生をめちゃくちゃにするだけではなく、多くの方々にどれほどの苦しみ、悲しみ、痛みをもたらしてしまったのか、気付けば気付くほど、このような感覚が心にあふれてきます。

 地区大会でスラム街の少年チームは大負けからスタートしたものの、やがて勝ちつづけ選手権の出場権を得ます。
 ところがチームでひときわ愛されていた最年少の子供がスラム街での銃撃に巻き込まれて亡くなってしまいます。
 主人公がかつて祈った同じ教会での葬儀、彼は少年の思い出を語ります。

 「大事な試合をしました。最終回のツーアウトで彼を代打に送ったんです」
 これはチームメイトの打者が体調不良となり少年しか代わりがいなかったものの、とても打てそうにはありませんでした。
 「何も恐れずに打席へと。その姿におどろいた。
 ツーストライクとなりもう絶体絶命。
 一塁線へヒット!勝ちました。あの時、彼は勝利を喜び両手を上げ一塁ではしゃいでた。
 あの瞬間 私は無上の喜びを感じたんです。
 あれは彼が皆に与えてくれたよろこびだ。
 彼は私を――あの瞬間だけでも価値ある人間にした。
 あの子に死ぬまで感謝します」

 まるでカルトとは正反対のものです。
 あの瞬間、皆と自然に分かち合える無上の喜び。
 カルトは救済を掲げていますが、それは救いの押し付けであり、カルト世界に閉ざされた中での自己満足でしかありません。そこでは異なった価値観をもつ人達と分かち合えるような喜びはありません。
 ところがあの瞬間は人それぞれにちがいがあってもみんなと一緒に喜びを分かち合うことにこそ大きな喜びを自然体の心で感じていると言えるのではないでしょうか?
 幸せとは何か?というテーマについても考えさせられます。

 映画ではまだこの先のストーリーがありますが、見上げる青空が天国であるかのように、もれなく人々をそばで見守っている温もりが描かれています。青空にはカルトが強調するような人を救う者と救われる者、そして救われない者とに差別するようなものはありません。あの瞬間の青空は人を差別して特別な価値を見い出すような自己愛がどれほどちっぽけでくだらないものであるかをさりげなく映し出して下さっているかのようです。 

 2016年11月24日 井上嘉浩


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