・映画「BOBBY」(2)(2016年11月17日)
映画「BOBBY」の続きですが、
「でもこれだけは確かです。暴力は暴力を生み、抑圧は報復を生みます。社会全体を浄化することによってしか、私達の心から病巣を取り除けません。」
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の、次の言葉が思い起こされます。
「お母さん、あなたは僕の大事な懐かしい血潮です。
ねえ、お母さん、まったく人は誰でもすべてのことについて、すべての人に対して罪があるのです。人はただこのことを知らないだけなのです、もしこれを知ったなら、すぐ天国が出現するでしょうにねえ!」
「まったくわたくしは、すべての人に対して罪があるのでございます。いや、もしかしたら、誰より一ばん罪が重いかもしれません。世界じゅうで一ばん劣った人間かもしれません!」
これは暴力を生み出す正義を競い合うような独善的な言動とは全く逆のベクトルにある人間としての罪の自覚による自然発生的な連帯と言えるかもしれません。
「あなたが誰かに人を憎み、恐れろと教えたり、その肌の色や信仰や考え方、行動によって、劣っていると教えたり、あなたと異なる者があなたの自由を侵害し、仕事を奪い、家族を脅かすと教えれば、あなたもまた他者に対して同胞ではなく、敵として映るのです。
協調ではなく力によって征服し、従属させ、支配すべき相手として、やがて私たちは同胞をよそ者として見るようになる」
当時、教団ではこの言葉通りのことが起きていました。教団の世界こそが真理であり、教団外の世界を邪悪なものと見なすように、麻原は信者に教え込み、さらに教団外の生活では来世は地獄に落ちてしまうと恐れさせました。
こうして教団は社会に対して壁を作りはじめたことで、社会も教団を拒絶しはじめました。
すると麻原はますます独善的となり、信者を協調ではなく力によって征服し、従属させていきました。
実際に、教団の非合法活動に関係したものが教団から抜け出すなら、その信者を殺害し、家族を皆殺しにすると麻原は信者を脅し、殺害された信者もいました。
このようにカルト内において暴力がエスカレートするにともない、麻原は社会を武力によって征服しようとして、神の名のもとにおいて宗教戦争まで引き起こしていきました。
「同じ街にいながら、共同体を分かち合わぬもの。同じ場所に暮らしながら同じ目標を持たぬ者として、共通するものは恐れとお互いから遠ざかりたいという願望、考え方のちがいを武力で解決しようという衝動だけ。」
教団と社会の関係そのものでもあります。
そもそもの発端は、麻原が最終解脱者を称して、絶対的な真理を掲げ、混迷する時代の中で多くの若者が引きつけられてしまったことによります。
麻原の説いた救済論はドストエフスキーの「罪と罰」で主人公のラスコーリニコフがとりつかれたナポレオン主義と大変よく似ています。
「非凡人は、ある種の障碍を踏み越える権利をもつ、ただし、その踏み越えが人類にとって必要となる場合に限る」というものです。
そこでは同じいのちをもつ同胞である人々を、信仰や考え方や行動によって非凡人と凡人に差別します。
その上で非凡人の考える正義の名の下において、凡人への暴力が正当化されていきます。麻原がハルマゲドンからの人類の救済の名の下において、宗教戦争を引き起こしたのと構造は同じです。
このようなナポレオン主義を妄信することがどれほど罪深く、愚かなことであるか、骨に染みています。
「地上での私達の人生はあまりにも短かく、なすべき仕事はあまりにも多いのです。これ以上暴力を私達の国ではびこらせないために、暴力は政策や決議では追放できません。」
何故、暴力は政策や決議では追放できないのでしょうか?
それはきっと政策や決議自体がそれぞれの社会にとっての有効性や善悪にもとづいて決定されるものであるからかもしれません。その社会にとって有効なことが、他の社会にとっても有効であるとは限りません。他の社会に強制すれば、それが争いの原因となっていきます。
それは宗教についても同じだと言えるのではないでしょうか?
特定の宗教のみが絶対的に正しいと言えるものではなく逆にカルトのように絶対であると主張するほど、他者の信仰や主義を否定し、宗教の名の下において暴力が正当化されていきます。
「私達が一瞬でも思い出すことが大切なのです。共に暮らす人々は皆、同胞であることを。彼らも私達と同じように短い人生を生き、与えられた命を私たちと同じように最後まで生き抜きたいと願っているのです。
目的をもち、幸せに、満ちたりた達成感のある人生を送ろうと、共通の運命を生きるきずなは必ずや、共通の目的をもつきずなは必ずや、私たちに何かを教えてくれるはずです。
必ずや私達は学ぶでしょう。周りの人々を仲間として見るようになるはずです。そして努力し始めるでしょう。お互いの敵意をなくし、お互いの心の中で再び同胞となるために」
いのちの願いに敬服します。
2016年11月17日 井上嘉浩