Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

プロフィール
手記
いま考えていること
リンク
機関誌

資料
意見陳述
裁判資料






いま考えていること


・『影との戦い ゲド戦記』(3)(2016年8月16日) 

 「動機となったのは高慢と憎しみの心だった。それでは悪い結果が出てこぬのが不思議というものだ。(中略)そなたとそのものとは、もはや、離れられはせぬ。それは、そなたの投げる、そなた自身の無知と傲慢の影なのだ。影に名まえがあったかな?」
 と、新しい大賢人は、長老たちの懸命な看病と長い療養の末に歩けるようになったゲドに語りかけます。
 この影について河合氏は、ユングの言う「影」との関係から、「つまり影は「無意識の全体」と言いたいほどの無限の存在なのだ。しかし、それを知るために、われわれはその一部が姿を明確にして顕現したものと会うことになるのだ。(中略)厳密に言うと、影の一部の顕現なのである。そして、それはある意味では影のすべてでもあるのだ。つまり、それは部分が集まって全体を構成するなどという考えが通用しない世界なのである」とコメントされています。

 ゲドは長老たちや友人の温かい励ましもあって修行を続け、「まぼろしの森」で、テストのようなものを受けます。森での出来事はとても奥深く、魔法使いでありながら、魔法も知識も何もかも手放すことに気付けなければ通過できません。ゲドはその意味に素直な心で気付き、正式の魔法使いとなります。
 ゲドは事件以来、「名声とか見てくれのよさには嫌悪さえ抱くようになっていた」ので、竜があらわれたと言われた小さな島に人々を守るために赴任します。
 そこで黄泉の国に向かおうとする子供をタブーを破って助けようとし、ゲドが放ってしまった影にゲドは見つかり、影に追われはじめます。
 このままでは竜に襲われたとき、島の人々を守れなくなると自覚したゲドは自ら竜退治に出掛けます。
 ゲドは竜の歴史から竜の名を言い当てて、二度と島に行かないように交渉したところ、逆に、「ほれ、おまえのあとをつけておるぞ、その名を教えてやろうか」と、惑わされます。
 この件はカルトが甘言で信者を組織に引き入れようとする感じと似ています。
 ゲドは甘い期待と闘い、なすべきことに踏み切り、竜に誓わせます。

 「影をリアライズ(理解する、悟る)することが、人間にとっての責務である」とユングは主張されているそうです。
 「影のことを真に「知る」ためには何らかの「実行」が必要なのである。それは頭だけで知ることはできない。(中略)物語はここからも続くが、そのひとつひとつをゲドの「影のリアライゼーション」と思って読むと、その意味がよくわかる」と、河合氏はコメントされています。
 ゲドは竜退治の後、学院に行こうとしたものの、ローク島は「邪な力を近づけないようにする」力があり、影につきまとわれるゲドは行けなくなります。その後、見知らぬ男から、「影と戦う剣がお入り用なら、テレノン宮殿に行きなされ」と助言され、「従うべきか否かと迷いながら」も、向かいます。
 ゲドは途中で影に襲われ、命からがらテレノン宮殿に逃げ込みます。

 テレノン宮殿はまるでカルト球団です。中心に太古の精霊が閉じ込められた石があり、石を支配できる者は、「あらゆる敵をうち砕くだけの力を持ち、予見する力を持ち、知識も富も統治力も持ち、魔法を自由自在にあやつることができる」と言われます。そのためには石の前にまず自分の力を投げ出す必要があるとされています。
 この件は最終解脱者を称した麻原の主張と自分で考えるな、と全てを投げ出すことを出家者に求めた教えと共通します。
 テレノン宮殿の主人と夫人は自分達には石を支配できる力がないことから、ゲドの能力を利用して、石の力のとりこにさせ、奴隷にして、石の力を支配してすべてを自分の思いのままにしようともくろみます。
 これも麻原が出家者の人格をマインドコントロールで解体して能力を利用して、自分の手足として使い、自分を法皇とする世界を作ろうとしたことと大変に似ています。

 「邪悪な手段を使って、いい結果が得られるわけがありません。わたしはここへ引き寄せられて来たのではなく、追われて来たのです。わたしを追うものは、わたしを破壊させることをもくろんでる」と、ゲドは夫人の魔女の誘惑をなんとかかわします。
 石に触れ、話しかければ、影の名も分かり、「人の国の王となり、君臨するのです」とそそのかされ、ゲドはようやく彼らの意図に気付きます。
 「ゲドはほとんど敵方の掌中にあったが、しかし完全とまではいってなかった。彼は自分をすっかりゆだねてしまってはいなかったのである。他者に己をゆだねない人間はたとえ悪でもそのとりこにするのはむずかしい」と物語られています。

 ゲドが影と戦う剣を求めたのは、自分以外の何かの力に依存して影に対処しようとした自己逃避と言え、だからこそ、自分自身を見失いかけたと言えるかもしれません。
 この件はカルトとも共通するもので、自分自身がかかえる問題ともいえる自分の影に対して、正面から向き合うのではなく、都合の良い方法で解決できるとの甘言にまどわされることが、カルトにはまってしまう原因の一つになっていると考えています。このように他者のつくり出した甘言にゆだねてしまうことで、カルト内において自分自身をどんどん見失ってしまうことになると、自分自身の過ちから痛感しています。

 2016年8月16日 井上嘉浩


ホーム  
(c)Compassion