Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・『影との戦い ゲド戦記』(2)(2016年8月8日) 

 ゲドはオジオンの沈黙に心が満たされながらも「その意味を知るには若すぎ」、ある時、魔女の娘である少女にそそのかされ、オジオンの外出中に「知恵の書」をひっぱり出し、魔法の力を見せつけようとします。
 ところがゲドは「暗黒の影のかたまり」を呼び出してしまい、間一髪のところでオジオンによって救われます。
 「ゲド、いいか、よく聞け。そなた、考えてみたことはいっぺんもなかったかの?光に影がつきもののように、力には危険がつきものだということを。魔法は楽しみや賞賛めあての遊びではない。いいか、ようく考えるんだ。わしらが言うこと、為すこと、それは必ずや、正か邪か、いずれかの結果を生まずにはおかん。」

 オウムそのものの問題や過ちを鋭く突いています。
 オジオンは日常の現実を超越するような「力」があることを認めながらも、そのような「力」は「わしらが言うこと、為すこと」の因果の法則=宇宙の均衡を超越しているわけではないとゲドをいましめています。
 ところが教団ではまるで逆に、そのような「力」の断片をヨーガの技術や薬物を悪用して信者に知覚させ、その上でマインドコントロールをかけて、因果の法則を超越したものであると麻原の立場を位置付けました。こうして麻原はそのような「力」=神々の意思の名のもとに信者に犯罪行為を宗教上の実践として命じました。

 魔法の力にとらわれ、沈黙の意味が理解できないゲドに対してローク島の魔法使いの学院で学ぶ道があることをオジオンは示しゲドは旅立ちます。オジオンは決してこうしろとは指示しません。
 「宇宙には均衡、つまりつりあいというものがあってな、ものの姿を変えたり、何かを呼び出したりといった魔法使いのしわざは、その宇宙の均衡をゆるがすことにもなるんじゃ。危険なことじゃ。恐ろしいことじゃ。わしらはまず何事もよく知らねばならん」と、ロークの学院の長たちは様々な魔法を伝授しながらも、注意します。

 ところがゲドは、「宇宙の均衡とやらも、こっちのいいように変えられるんだから」と意に介することなく、ライバルと厳しく戒められているはずの魔法を使って果たし合いをしてしまいます。
 「この天地の間にあるものすべてはおれのものだ。おれが支配し、統率できるものなんだ。おれは今、世界の中枢に位置しているのだ」、とゲドは思い、死者の霊を呼び出そうとして、「黒い影の固まりのようなものがぬっと這い出てきて、まっすぐゲドの顔にとびかかっていき」ます。
 ゲドが引き裂いてしまった天地の裂け目から「黒い影」が放たれてしまい、魔法使いの最高位の大賢人が裂け目を閉じゲドを助けますが、そのために力を使い果たし死んでしまいます。

 「自分がすべてを「支配し、統率する」という態度と宇宙の「均衡」を大切にするという態度とは根本的に異なっている。もっともここで、すべてを支配し、統率する主体として、唯一の神の存在を認めるとき、人間は傲慢になることを防ぐことができる。
 宇宙の「均衡」の場合も同様で、その均衡が自然に行われるのだが、そのすべてを自分が知りコントロールできるなどと考えはじめると、また傲慢が生じてくるのである」と、河合氏はコメントされています。

 逆に見ますと、カルト教祖のように神の名のもとにおいて支配し、統率しようとする者達は、唯一の神の存在を掲げていても、神を利用しているのに他ならず、そこには本物の信仰は全く無いと、当時の麻原の様子や自分の過ちから言えます。
 「均衡」を大切にすること自体が信仰の姿であり、神の名において現実をコントロールしようとすることやテロなどは本来あるべき信仰とは全く関係のないものであったと痛感しています。
 「均衡」と超越的な「力」とは本来矛盾するものではなく、様々な矛盾を受入れながら、何一つ見捨てることなく「均衡を保つ働きが本物の超越的な「力」と言えるのではないでしょうか?

 2016年8月8日 井上嘉浩


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