Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

プロフィール
手記
いま考えていること
リンク
機関誌

資料
意見陳述
裁判資料






いま考えていること


・『影との戦い ゲド戦記』(1)(2016年8月1日) 

 ル=グウィン『影との戦い ゲド戦記』1.日本で児童文学として紹介されている作品があります。
 心理学者の河合隼雄氏は「あまり素晴らしかった」と、この作品について全集の中で論じておられます。
 「ここに勝ち負けはなかったのだ。ゲドは「自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない」。これがゲドの影のリアライゼーションであったのだ」とコメントされています。
 この名言からも『ゲド戦記』はカルト問題を解決するヒントがあると思われます。物語の粗筋にそって、河合氏のコメントを引用しつつ、私なりに考えることについて書き残しておきます。
 『ゲド戦記』は魔法使いの物語で、その意味について河合氏は「魔法の話は夢の話と似通っている。夢は人間の内界のドラマである。人間が生きてゆくためには外界も内界も必要である。(中略)まさに、ゲドの魔法の話は、ゲドの内面的成熟の話なのである」とコメントされています。

 ゲドはかじ屋の息子として生まれ、母は彼が一歳にもならないうちに亡くなり、伯母に育てられます。この伯母がまじない師であったことから、魔法使いへの道に入っていき、やがて大魔法使いオジオンの弟子となります。
 「師匠、修行はいつになったら始まるだね?」
 「もう始まっておるわ。」オジオンは答えた。
 「だけど、おれはまだなんにも教わってねえ。」
 「それはわしが教えておるものが、まだ、そなたにわからないだけのことよ。」
 このタイプの問答は宗教にはよくあることで、本物であるか、カルトであるかを見分けるには、師と弟子が何をしているのか?修行の目的とは何か?がポイントであると、教団での過ちから考えています。オジオンは質素な生活そのもので、魔法を使うことなく、「神秘のシの字も見あたらない」と言われ、ゲドは魔法の基本となる「真の名」の学習に明けくれます。

 「この草は何になるんだ?」と尋ねるゲドに対してオジオンは、「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな?(中略)そうなって初めて、その真の名をその全存在を知ることができるのだからな。用途などより大事なのはそちらのほうよ。そなたのように考えれば、では、つまるところ、そなたは何の役に立つ?このわしは?」と語りかけます。
 これは宗教の本来の目的は用途などの功利的な能力を得ることではなく、そういうことを度外視した、存在していること、そのもの意味をもれなく学ぶことだとさりげなくオジオンは語ります。

 日本でも親鸞は、「念仏をすれば、ほんとうに極楽浄土に生まれる種を播くということになるのでしょうか。それとも、それは嘘偽りで念仏すればかえって地獄に落ちるという結果になるのでしょうか。残念ながら、そういうことは私はとんと知らないのであります」と語っています。
 このように本来の宗教にはその核心に天国や地獄と言った二元論を超えたものが据えられていると言えます。ですので功利主義に陥ることもなく、師が弟子を利用しようとすることなどありえません。
 オジオンはゲドにこれと言って教えないからと言って麻原のように信者に自分で考えるなと、思考停止に追い込むことはありません。
 「聞こうというなら、静かにしていなくては」と、オジオンはゲドの用途にとらわれる功利的な欲求がおさまるようにさりげなく導くための沈黙です。
 沈黙と思考停止、一見似ていますが全くちがいます。ですがこのちがいがカルトではとんでもない結果を引き起こしていきます。

 2016年8月1日 井上嘉浩


ホーム  
(c)Compassion