Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・『新カラマーゾフの兄弟 上』亀山郁夫(河出書房新社)「大審問官」について(2016年4月30日) 


 「「神がなければすべては許される」。ドストエフスキーはべつに無神論者ではないので、神は存在しないのだから、何をしてもいいんだ、ってことを言ったわけじゃない。むしろ、神の存在というか、神という規範が失われることの恐ろしさを予言的に語ったわけです。(中略)これは、言いかえると、神の代理人の話なんですね。神の代理人が絶対的な権力を握っているので、もはや、神もキリストもいらない。」(P.600)

 「神という規範が失われる」。これは神の名の下において起こされる様々な戦争やテロや事件に共通する特徴かもしれません。
 麻原が説いた教えの特異な特徴の一つに、麻原のみが絶対的な真理の境地や神々の意思を信者に伝えることができるというものがありました。
 それにより教団内において麻原は「神の代理人」として、真理を独占し、様々な欲望を神々の名のもとにおいて宗教的に正当化して、信者に命じて実現しようとしていました。
 「神の代理人」のように振る舞う麻原を信じたこと自体が罪のはじまりであったと考えています。

 「それこそが大審問官の考えです。善と悪、白と黒に分けておいて、一方の価値だけを絶対視するんです」「自分で善悪を選ばなくても、だれかが決めてくれるんだよ。そんないいことないじゃないか」「でも、それでも人間は、自分の意志で選ばなくてはならない。そしてそのためには、だれかにひざまずかなくてはならないんです。ひざまずくべき相手がないっていうのは、とりもなおさず、すべてが許される事態を招くことになるわけですから」(P.604)

 単純な二元論思考、「神の代理人」から一方的に決定され与えられる善悪、信者は自分で考えることなく従っていく、これらはカルトに共通する構造です。
 この構造の中でカルト教祖のように「神の代理人」を僭称する者は、神に成り代ることで「神が不在」となり、「すべてが許される」かのように振る舞いはじめます。
 一方、信者は「神の代理人」にひざまずくことが、神に通じる唯一の道と信じ込むことにより、主体的な善悪の判断を手放し、ひざまずくほど人間性を喪失していきます。
 まるで神の名において、「神という規範が失われ」ていくかのようです。
 このプロセスをよく見れば信仰において、「神の存在」と信者との間に、「神の代理人」を立てた瞬間、「神の不在」が発生すると言えるかもしれません。

 「ただ一つ言えることは、国家も、独裁者も、神の代わりにはならない。神は神でしかないということです。」(P.621)

 これはとりもなおさず、「ひざまずくべき相手はいない」ことであり、逆説的にそれが「だれかにひざまずかなくてはならない」意味かもしれません。
 だからこそ「人間は自分の意志で選ばなくてはならず」、それが現代に必要な「神という規範」であると暗示されているかのようです。
 これは信仰において、「神の存在」をどれほど信じようとも、社会の中で何をなすべきか?は、それぞれが考え、責任をもって行うべきことであり、神の名の下において、自己の行為を正当化してはならない意味だと、自分自身の大罪から痛感しています。

 2016年4月30日 井上嘉浩


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