Compassion 井上嘉浩さんと共にカルト被害のない社会を願う会

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いま考えていること


・映画「永遠の0」(2016年2月26日) 

 映画「永遠の0」を拝見しました。
 いさぎよく命を捨てることが当然とされた時代に、命を惜しむ男と罵られながらも生き延びる努力をする主人公。
 それは愛する妻と娘を守るためでした。
 やがて部下達が次々と特攻していくことになり、底知れぬ絶望に閉じ込められます。
 「俺は彼らの犠牲の上に生きながらえている。彼らが死ぬことで生き延びているんだ。俺はどうすればいい」
 他人ごとではなく、この問い掛けに潜む事実に慄然とします。
 当時の人々は戦場の兵士の方々の命を犠牲にして生きながらえた面があることは否定できず、このような歴史を踏まえて現代の人々も生きているからです。

 アメリカ軍艦船に特攻する零戦。
 戦場で敵と味方に分かれていても、愛する人達を守りたいとの願いは同じはずなのに、何故、命を奪い合わなければいけないのでしょうか?
 戦争の不条理について自分の大罪からも考えずにはいられません。
 オウム事件では神々の意思によりハルマゲドンから人類を救うためには、被害者の方々のみならず、信者達の犠牲も宗教的に善行になると正当化されていました。このような独善的な教えがどれほどの悲劇を作り出し、どんなに罪深く、愚かなものであるか骨に徹しています。
 だからこそ気になることがあります。
 大義のために犠牲を強いる構造は、国家の戦争にも共通点があるように思えることです。
 映画ではおよそ4400人もの特攻での戦死者の半数以上が志願ではなく、絶対的な軍令によるものであることが浮き彫りにされています。

 「水が冷たい。雑草が風に揺れている。
 どうでもよかったことがいとおしく感じる。
 今ほど真剣に家族と日本の未来を考えたことはない」
 出撃前の特攻隊員の言葉に胸がしめつけられました。
 ジョン・レノンは「イマジン」で国境のない平和について歌っています。
 それは夢かもしれません。ですが国境がなければ、人が生きるために不可欠な食料や資源などについて問題が生じれば、少しでも利益を独占するために力によって奪い合うのではなく、分かち合い、助け合うべきだとの理念こそが平和をもたらすのではないでしょうか。
 オウム事件も教団が社会に対して自ら壁をつくり、閉鎖集団になっていったことが大きな要因でした。
 水の流れには境界はなく、草花の種子は風にのって国境を超えていきます。いのちそのものには壁も国境もないはずです。
 大義にとらわれ、このような大切なことを見失ってしまったがために、大罪を犯してしまいました。二度とこのような事件が起きないように願わずにはいられません。

 2016年2月26日 井上嘉浩


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