・『ぐるりのこと』(2015年12月16日)
フランスのパリでの自爆多発テロについてオウム事件とは背景は異なりますが、宗教のテロ事件という点において通じるものがあり、オウム事件の被害者の方々への思いと重なり、ただただ申し訳なく、悲しみがあふれてきます。
「なぜこういうことが起こりうるのか。この問いは宗教の問題とセットになって、もう随分長い間、私を罠のように捉えて放さない。
「どうしても同じ人間とは思えなかった」という感情は、おそらく大昔の十字軍の兵士にも起こった感情だろう。いや、戦場では、どこでもいつでもそうだったのだろう」
(『ぐるりのこと』P.44 梨木香歩、新潮文庫)
1995年5月に逮捕された以降、多くの方々の手助けにより、徐々に自分を取り戻しはじめました。
まるで夢から醒めるように、気が付くと、見渡す限り他者の命を奪い、傷つけ、苦しめた罪の海でした。
「一体、何ということをしてしまったんだ…」
このような大罪を犯すために18才で出家したわけではなく、あまりものギャップに途方に暮れました。
「同じ人間とは思えない」との感情を一般の方々がテロリストや犯罪者に抱かれるのは当然だと痛感しています。
どこで、何故、人としての道を踏み外してしまったのか?
ずっと悩み、考え続けています。
「私には、人並み以上にそういうものに惹かれる傾向がある。群れ全体の組織性にアイデンティティを見出しているのではなく、この、「個体性を超えた何か」に、「個体性以上の意味」を見出して行く、というところに」(同書、P.
157)
「はっ」とするものがありました。
宗教に関心をもったきっかけは、武道やヨーガを通して、自分の中に自分を超えていく何かがあるはずだと直感し、それが仏教で説かれている解脱を実現することだと漠然と感じたことによります。決して群れることを求めて宗教に入っていったわけではありませんでした。
16才でオウムに入ったのは、解脱するためのヨーガを指導すると掲げていたからです。ヨーガを学ぶことが私の目的でした。
ところが教団ではヨーガや仏教を教えると説きつつ、実際にはヨーガの技術を悪用しながら信者の意識を変容し、解体した上で、麻原の手足となって活動することが解脱のための修行であり、救済活動であると信じる人格を刷り込まされるようになっていました。
修行するほど自分を見失い、いつの間にかに麻原の手足となることが目的であるかのような生活となりました。
こうして麻原が打ち出した、「人類を救済する神々の意思」の名のもとに、「自分を空っぽにして」、教団の群れの歯車として組織的に活動することにアイデンティティを見出すようになってしまっていました。
「一粒の砂のなかにひとつの世界を
一輪の野の花のなかにひとつの天国を見る
きみの手のひらのなかに無限を
一時のなかに永遠をとらえる」(ウィリアム ブレイク)
この詩はこの世界のどのようなものであれ、一つ一つの個体性そのものに、この世界のありとあらゆるものがつながり合った全体性の働きを同時に見出していくことができる可能性を示しているかのようです。
このような世界観から見れば、「自分を超えた何か」と「何かに群れること」とは似て非なるものです。
やがてはかなく消えてしまう不安定な自分とは異なるより安定したもの、安心できるものとの同一化を指向している点では似ています。
ですが「自分を超えた何か」とは、どれほど自分がはかない個体性であろうと、自分そのものに、自分を超えていく全体性の働きを同時に見出していくことであり、何かの群れの中に埋没して自分自身を見失うことではないと言えるからです。
この勘違いが私がカルトにはまってしまった過ちの一つであり、いわゆる「自分探し」の盲点でもあったと今さらながらに思います。
2015年12月16日 井上嘉浩