・映画「レ・ミゼラブル」 (2015年11月9日)
ビクトル・ユゴーの名作を基にしたミュージカル映画「レ・ミゼラブル」(2012年)を見ました。
舞台はフランス革命後、世情が不安定で公正とは言えない法律がまかり通っている時代。主人公はパンを盗んだ罪で19年間服役後、仮釈放されたものの、国家の呼び出しに応じず逃走した罪人です。
映画には様々なメッセージが込められていましたが、カルト問題の視点からあれこれと考えたことがあります。
主人公と追手の、神への信仰をめぐるスタイルの違いにはハッとするものがありました。
追手は警官のような役職で、逃走する主人公に法律を犯した悪の裁きを与えることが神の意志であり正義だ、と信じ、信仰の実践として執拗に主人公を追い詰めていきます。
主人公は罪人です。ただパンを盗んだのは飢えに苦しむ親族の子供を助けるためであり、逃亡が発覚したあと逃走したのは、時代に翻弄されて若くして亡くなった女性の孤児である女の子を助けるためでした。
主人公にとっては、それが神への信仰の実践でした。
神の意志とは何か?追手にとっては国家や組織が命じる指示に従うことであり、主人公にとっては自分の目の前にいる苦しんでいる人達を助けることであり、誰に命じられたわけでもなく、その都度、自分で考えて行動しています。
同じ神が一方では裁きの神となり、一方では愛の神となっています。
時が流れ、場面は不正のはびこる社会にもう一度革命を起こそうとする若者たちのグループの街です。
主人公が娘として育てた孤児とメンバーの若者の一人が恋に落ちます。若者は、革命か恋かに揺れながらも革命に身を投じます。
主人公は娘の恋を知ると、愛する娘が若者に奪われるとさえ言える状況で、若者を助けるために捨て身の行動に出ます。
そして革命は失敗し、命を失って当然な若者を主人公がボロボロになりながらも助け出します。
その姿はまるでイエスその人と重なり合うかのようです。
主人公、追手、娘、若者の人間模様と結末に様々なメッセージが込められていました。
「人を愛することそのものが、神を信じることでもあるんだ」と獄中で一人つぶやいていました。
追手と革命グループは、体制側と反体制側という違いはあっても、カルトと共通する点がありました。
自分が信じるもの以外を一方的に否定する偏狭さ、神を信仰しながらも神の教えにかなう行いとは何か?と自分で考え抜くことなく組織の命令に従う盲目さ、神の正義の実現を愛ではなく悪の裁きとしているところ、などです。
これらはオウム事件と共通する点でもあります。
主人公は神に救いを求めていますが、そのためにどうすればいいのか?と神に答えを求めていません。
この姿勢がカルト問題の解決の糸口の一つかもしれません。
カルトは救いを求める人々に対して「こうすれば救われる」という答えを用意し、人々を巧みにカルト内に引き入れていくからです。
それにしてもなぜ、世界中で多くの若者がカルトにはまってしまうのでしょうか?
私自身の過ちから気付いたことですが、例えば聖書や仏典には神仏の教えが説かれており、一見それらが救いの答えであるかのように思えます。
ですが、それらははるか昔の民衆に対して説かれた教えです。昔の人々の悩みには、現代社会と共通する点もあれど、多くの違いがあります。
そのため専門的に宗教を学んでいない一般の方々にとっては神仏の教えは日常生活とかけ離れたものとして映り、どのように苦悩を解決していけばよいのか?よく分からないのが現状です。
カルトはこの盲点を突いて、現代社会の矛盾や悩みに対して一見わかりやすい回答を神仏の教えの一部を巧みに利用して提示しているため、「それこそが本物の神仏の教えなんだ」と本物の教えの意味が分からず誤解してしまいがちであると言えます。
私もこのような誤解から教団に入ってしまい、やがて多くの方々を教団に導いてしまいました。罪が罪をつくり出していくカルトの大罪と恐ろしさを改めてかみしめています。
映画では、神の国の実現は死後の世界でのことのように表現されていました。
これは神には姿や形はないことから、神の救いそのものはこの世にあらわれるわけではないとのメッセージに思えました。神に救いを求めても神は沈黙されています。
ではどうすればいいのか?神は関与しないからこそ、一人一人が考えて努力すべきであり、神の名において自分の行動を正当化してはいけない、と自分自身の大罪から痛感しています。
人を愛し人に尽くす時、人と人との垣根を超えて自ずとあふれる愛に姿なき神が一瞬姿を現しては消え去っていく。
そのような光景が映画から垣間見えるかのようでした。
2015年11月9日 井上嘉浩