長編連載ファンタジー
イルファーラン物語・番外編
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ところで、なぜ、<おさな子>たちの敵はいつもドラゴンなのか。
どこの村でも、聖劇の<おさな子>たちは、必ずドラゴンを斃す。奉納試合の優勝者の仮想の敵も、絶対に、山賊だの狼だの、あるいは他の伝説の魔物類だのであることはなく、必ずドラゴンである。
<おさな子>が戦わなければならぬ相手は、なぜ、いつも決まってドラゴンなのだろうか。
それはもちろん、当時のその村で現実にドラゴンが村を襲う最大の脅威であったからとか、また、そうでない村でも、おとぎ話の中のもっとも強大な悪役、敵役といえばドラゴンと相場が決まっていたからなどという通りいっぺんの理由はあるわけだが、どうも私には、それだけではないように思われるのだ。
そもそも、イルゼ−ル村などエレオドラ地方南部の山岳地帯はともかく、エナ村などでは、ドラゴンは、歴史的な記録によれば、実際に村を襲って現実的な脅威となっていたようなことはなかったはずなのだ。
それにもかかわらず、<おさな子>の敵が、決して何か他の魔性や怪物だったりせず、必ずドラゴンであることには、深い理由があるのではないか。
私が思うに、実は、<おさな子>(=<マレビト>)とドラゴン、その敵対する両者は、古代の人々にとって、ある意味で非常に似通った、近しい存在と感じられていたのではないだろうか。
というのは、イルシエル山脈の向こうから飛来してくるドラゴンは、<マレビト>と同様に『世界の外からやってくるもの』だったからである。他の魔物はこの世のものだが、ドラゴンは違うのだ。
古代のイルゼ−ル村で、世界の外からやって来る<マレビト>は、殺されることによって麦に生まれ変わってこの世界に豊饒をもたらすもの、生贄として大地を富ますもの、その血と精液とで大地を潤すものだった。血と精液とに象徴される異界由来の新しい神秘な生命力を世界の外からこの地に運んできて、いったん殺されることでそれをこの地に落として自分は再び異界へと旅立ってゆく――、そういうサイクルを何度でも繰り返してくれるもの、それが<マレビト>の役まわりだった。
そして、ドラゴンもまた、異界からやってきて、殺されることで大地を富ますものであったのだ。
ドラゴンは、それ自体は、イルゼ−ル村における<マレビト>のように生命力や生殖、豊饒を象徴するものではなく、むしろ逆に、死と禍いを体現するものであるが、にもかかわらず、彼らは、結果としては、<マレビト>同様に、大地に実りをもたらす。
冬至の聖劇は、ただの娯楽のための村芝居ではなく、『神の御子である<おさな子>が、天災を初めとする凶事の象徴であるドラゴンを殺すことによって、翌年の実りを約束する』という、豊饒祈願の宗教行事である。ドラゴンは、忌むべきもの、悪しきもの、危険なものではあるが、一方で、<おさな子>に斃されることによって翌年の豊饒を約するもの、その血によって大地の幸を購うものなのだ。
このように、<マレビト>とドラゴンは、片や待ち望まれる尊き客人であり、片や忌み嫌われる悪しき侵入者であり、聖と邪、幸と禍、生と死という正反対の性質を持つものでありながら、その一方で、どちらも異界からの客であり、人間を超えた激しく荒々しい未知なる力を秘めた超自然の存在であり、殺されることでその不思議な力をこの地に譲り渡して豊饒の礎となる生贄であり、その流した血によって大地を孕ませるもの、自らの死によって世界を祝福するものだった。
そういう、一見正反対でありながら、ある面で似通った、何かと符合し、呼応し合うものであれば、人々の心の中でドラゴンと<マレビト>が切り離しがたく結びつけられるのは、十分理由のあることだったのではないだろうか。
この二つの存在は、いわば、世界の枠を超える外来の強いエネルギ−のうちの正の力、負の力――人間にはその来歴、源を窺い知ることのできない得体の知れぬ巨大な力の正の面、負の面であり、だからこそ、<おさな子>には、人身御供となってドラゴンを鎮めることも、剣を持ってドラゴンを斃すことも出来ると思われたのだろう。
<マレビト>とドラゴンは、どちらも、異界からの客であった。そして、異界から訪れるものは、この世に属さない、この世の理を超越したもの――すなわち『神』であったのだ。
神話の中では、斃すものと斃されるものは、実はもともと一体であったり、あるいは、その由来から言えば非常に近しいもの、縁の深いものであることが往々にしてあるというのが、私の昔からの持論である。善と悪、性質は正反対でも、もともとは何か同じグル−プ内に属する力、その源流を同じくする力どうしであり、その両端に離れてはいても同じ一本の座標軸の上に存在するものであってこそ、同じ舞台の上で真っ向から対立でき、対等に渡り合える場合もあるのではないか。一人の人の心の中の悪と戦えるものは、結局はその同じ人の良心であるのと同じように。
思いつくまま、書きたい放題に書いているうちに、ずいぶんと話が錯綜してしまった。
けれど、伝承というものは、もともとが、あれこれと錯綜し、混乱した、矛盾に満ちたものであり、単純には割り切れないものである。さまざまな因子が置換や転嫁、重複や脱落、混同や同一視、合体や分離を繰り返し、外形は一見ごく単純に見えていても、実は知れば知るほど計り知れない複雑な要素を内に秘めて、ある時代の人にとってはたったひとつの真実であったものが後になってから幾通りにも読み解けてしまったりする。だから、こういうことがらについては、『ああでもあり、こうでもある』というようなあいまいな言い方が、実は一番正確で厳密なのだと思う。
そう、神話や伝説は、人の心や、あるいは世界の姿と同じだ。様々な意味が何重にも層をなしていて、どこまで内部に降りていくかによって見える姿がまったく違ったり、どの角度から見るかによってそれぞれ違う顔が見えたりする。決して数式のように明快に割り切れるものではない。時に、ものごとの一番根底は実はあっけにとられるほど単純なのだと――、世界のすべての事象はただ一つの法則によって明快に読み解けるのだと――、ふとそんなふうに思える瞬間があっても、それはたぶん、いつも錯覚であり、一つの見方で読み解けるのは、結局は物事の一面に過ぎないのだ。
人の心のありかたや人と人の関係について、『これはこうだ』と単純化して言い切ったとたん、そのこと自体に嘘はなくても、別のどこかできっと抜け落ちるものがあって、それは、虚しい、うわべだけの言葉になってしまう。真実そのものではなく、真実の『上澄み』になってしまう。例えば、『誰かが誰かを憎んでいる』と言った時、その言葉には一切嘘はないにもかかわらず、その憎しみの底にほのかに揺らいでいたかもしれない愛執の情は掬い上げられずに言葉の網から抜け落ちてゆき、結果として、その言葉は、事実ではあっても本当のことを伝えていないものとなり、その言葉が当事者たちを離れてひとり歩きはじめた時、そこでは何一つ嘘はつかれていないにも関わらず、真実は大きく歪められてしまうだろう。
ひとつの事しか語らない言葉は、事実であっても嘘を吐く。
物事には常にいろいろな面があり、真実はひとつではない。現実とは常にごたごたとした割り切れないものである、ということそのものが現実であり、人の世の真実である。私は、そう思っている。
人の世の事象に明晰を求めることは危険である。明晰を求めるものは、往々にして、自分の明快さの枠からはみ出すものを、知らず知らずに切り捨ててしまう。切り捨てられたものの中にこそあるかもしれない大切なものを見失ってしまう。そこに現実にあるものを、無いと信じて見落としてしまう。世界とは、人間とは、そもそもが不可解で理不尽な混沌としたものであり、自分にはそれらをすべてわかることは永遠にできないという、ただそのことだけが、人間にとってのこの世でただひとつの明快な事実であり、その事実をまるごと受け入れることこそが、世界を一番よく知ること、理解することではないだろうか。
人の世の現象にはすべて様々な相があり、層があり、ものごとは、いつでも必ず多面的に見られるべきなのである。同じひとつの出来事も、分析次第、アプロ−チ次第で、そのつど違った色合い、様相を見せてくれる。同じひとつの行為も、常にさまざまに解釈、評価することができるのだ。
たとえば、アルファ−ド君がこの国で果たしていった役割についても、そうだ。
アルファ−ド君は、彼らのあの戦いについて、世界を救う戦いなどという大それたものではなく、高邁な英雄的行為などでもなかったのだと言った。あれは決して、そんなご大層なものではなく、ほんの個人的な、自分のための戦いであり、彼らはそれぞれ自分自身の個人的な問題に決着をつけてきた――彼の表現によると『落とし前をつけてきた』――だけなのだと。身もふたもない言い方をしてしまうと、何千年越しの長過ぎた三角関係の清算をしてきただけとも言える、と、彼は静かに笑っていた。それは何かたとえ話、象徴なのかと思ったが、そうではなく、単純に、ただ言葉通り、そういう意味なのだという。
事情を知らない私には良くわからないが、彼がそう言うからには、それも一面の真実なのだろう。あの戦いは、彼らにとっては、煮つまった三角関係の清算などという、ありふれた卑近な問題でもあったのだろう。
が、一方で、彼らが、自らの危険を顧みずに世界のために戦い、この世界を守ってくれたことも、疑いようもなく本当なのだ。
私が身近に接した彼は、もちろん普通の人間であり、短い間ではあったが私の良き友となってくれた気持ちの良い好青年であったが、それと同時に、正しく<マレビト>であり、<女神のおさな子>であったのだ。
彼は、古代イルゼ−ルの<おさな子>たちの役割の通りに、自らの犠牲でもって世界の罪を償い、禍事を鎮めてくれた。この世界に蓄積されてきた古いゆがみ、ひずみを、自らの痛みを通して正し、浄化し、世界を再生させてくれた。我々の代わりに、この世の災いと辛苦を一身に引き受けて、我々に未来を購ってくれたのだ。
けれど彼は、ただ無力なおさな子として生贄となって死んでいくのではなく、たぶん一度は臨んだのであろう死の淵から――善悪の境界も消え去ってあらゆる軋轢が滅する世界の中心の熱き混沌の炉の中から、自らの心の強さで生還した。
あの戦いから帰ってきた彼は、確かに、何だか感じが変わっていた。きっと、世界の果ての北の荒野で、彼は生まれ変わったのだ。彼は、一面ではただ三角関係を清算してきただけなのかもしれないが、それと同時に、きっと、別の層では、神話を生きてきたのだ。神話を生きることで生まれ変わってきたのだと、私は思う。
<マレビト>である彼は、女神との聖婚によって地上に豊饒をもたらすべき女神の花婿であり、同時に、その婚姻によって生まれた女神のおさな子であり、祭りに屠られる生贄の雄羊であり、ドラゴン退治の英雄であると同時にドラゴンに差し出される生贄の子供であり、また、この世ならぬ力に満ちた荒ぶるドラゴンでもあった。
そして彼は、<マレビト>としてそれらのすべてであると同時に、別の地平では、恋もすれば人生に悩みもする一人の多感な青年であったのだ。それでいいのではないか。
リーナ君については、私は、どう考えていいのか、いまだに良くわからない。
彼女は、アルファード君と同じようにこの世に現れ、同じように<マレビト>と呼ばれてきたけれど、実は役割が違うものだったらしい。
イルゼールの秋分祭で召喚されるのは、<マレビト>だけではない。マレビトと交わるべき女神も、地上に召喚されることになっていた。今でも祭りの初日の宴会を<女神のお迎え>、二日目の宴会を<女神の見送り>と称していることからもわかるように、あの村では古代から今まで、人々の心の中で、女神もまたマレビトと同様に、祭りの度に地上に迎えられ、また天に送られるものだったのだ。
リーナ君は、その、女神の役割を持って現れたもの――いや、それどころか、女神そのものであったらしい。が、そんなことはそう簡単に納得できるものではなく、それで私は、まだ、いささか混乱しているのだ。
リーナ君は、それはもちろん、なかなか愛らしいお嬢さんではあるし、清らかで真っ直ぐな心を持った大変良い娘さんでもあって、その若者らしい健全で潔癖な正義感と芯の強さは私も非常に好もしく頼もしく思っていたが、失礼を承知であえて言わせてもらうと、性格、容姿、能力など、どこをとっても、これといって明白に抜きん出たところ、衆に勝れたところは何もない。ごく普通の、ありふれた、小さな、か弱い少女だ。わざと思いきり失礼ないい方をしてしまえば、要するに、『ただの小娘』である。
だが、彼女がその細い腕を差し延べて私を祝福してくれたあの時、私は確かに、彼女の後ろに、一瞬、金色に光り輝く女神の姿を見たのだ。
私は学生時代以来、ずっと神話の研究に携わってきているわけだが、深く調べれば調べるほど、神々というのは本当にいたものではなく、人々の希いや畏れが生み出した幻の像であるように思えてくる。神々の存在自体が、共同体が共有する物語であるように思えるのだ。
いや、私はもちろん、神話がすべて作り話であるなどとは思っていない。が、全部が全部、本当にあったとおりのことであるとは、当然ながら、信じがたい。神話というのは、同じひとつのエピソードでも、地方によってそれぞれ少しずつ違う風に語られていたりするのが普通である。語り伝えられるうちに変化するものである。そうした差異や変化の中に、人々の心が反映されているのは間違いない。だから、神話は、おそらく一部分は『物語の形で語られた古代のできごと』であるとともに、一方で、それぞれの立場でそうした言い伝えを受け取って自分たちが思う通りに受け入れてきた人々の『心の物語』――それぞれの共同体が共有する、人々の心のありかたの物語なのだ。
それは、我々神話の研究に携わるものは多かれ少なかれ共通して前提としていることである。ただ、それを誰もはっきりと口に出さないだけだ。表立って口には出せないが、みな承知している、いわば暗黙の共通理解事項である。神話を、実際にあったことではなく物語として捉え、象徴として読み解くという態度は、我々の間では、実際には皆よくやっていることであるが表向きは邪道であり、話の流れをあいまいにしたまま何気なくやってしまうのはいいが、そういう立場をおおっぴらに表明するのはいけないという(その上、そういう禁忌があるということ自体、おおっぴらに言明してはまずいという)、まことに微妙な禁忌なのであるが、これは、私一人しか読むもののない非公開の私的な手記であるのだから、今ばかりは、普段書けないことも思うさま書いてしまって差し支えあるまい。
そんなわけで、私は他のたいていの人よりずっと神話に詳しいが、それにも関わらず、いや、逆にそれだからこそ、この国で一番、神話を、そして女神の実在を信じていない人間だったかもしれない。
それなのに、そんな私の前に、女神は、現れたのだ。光り輝くその姿を現したのだ。
あの体験をどう受け止めていいのか、私はまだ途方に暮れているが、もしかすると自分は現実に女神にまみえたのかもしれないと思うと、なんだか、心が励まされるような気がする。今も別の世界のどこかで女神は実際に生きている――どこにでもいるようなありふれた少女の姿で生きていると思うと、何か不思議で、心楽しいような気がする。
しかし、そのようなことは、誰もが私と同じように心楽しいことと思ってくれるとは限らない。人によっては、受け入れがたいことと感じるかもしれない。そのようなことを、為政者である私が表立って表明しては、人心に無用な混乱を招きかねない。たとえ個人的な見解として口にしたとしても、私が<長老>であることに変わりはない以上、私の言葉を<長老>の言葉、<賢人会議>の言葉と捉えられることは避けられない。他の人なら言って良くても、為政者には言ってはならない事柄もある。これは、そういう、為政者が口に出すべきではない微妙な問題なのである。リーナ君本人も、それを理解しており、自分が女神であることを公表する気はないと言い切っていた。だから、このことは、このまま、我々、当時の関係者のそれぞれの胸のうちに秘めておかれるだろう。
あらゆる人は、人それぞれに自分なりの女神を心の中に描いたり、あるいは描かなかったりする権利を持っている。そして、その権利はなんぴとにも――私にも、私以外の誰かにも、たぶん、当の女神自身にさえ――侵してはならないものなのだ。女神の正体は、人それぞれの心の中にあればよいのである。
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