長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語・番外編 


<『幕間まくあい〜ユーリオンの手記〜』>


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 さて、話をいったんもとに戻して、ここで、もう一度、冒頭に触れた冬至の聖劇について考えてみたい。
 先に<マレビト>と村の娘との間に生まれた<神の子>たちの運命について述べたが、それを念頭に置いてあの聖劇の内容を見直してみると、あの聖劇の、別の意味が見えてくるような気がするのである。
 あらかじめ断っておくが、これから私が書くことは、ほとんどが、単なる推論――というより、推論以前の憶測、想像、空想である。自分の立てた、客観的な根拠のない仮説を不動の事実のようにみなして、それを土台としてその上に更なる推論を乗せるという、勝手放題の夢想である。
 が、これは論文ではなく、発表されない手記であるから、私は、この場に限って、自分のとりとめのない空想を思いつくままに自由に記すことを自分に許してみたいと思う。

 実は私は、女神の御子である童形の英雄<ドラゴン退治のおさな子>がドラゴンを退治するというあの聖劇は、もとを正せば、『<神の子>に任ぜられた少年がドラゴンに対する生贄として差し出される』という物語の変形したものではないかと、以前から思っていた。ドラゴンに対する人身御供の伝説は各地に伝わっているが、その分布と、『<おさな子>のドラゴン退治』伝説の分布は、私のこれまでの調査では、ほぼ一致しているのである。
 古代のイルゼール村で、生贄となるべき『神の子』たちは、すべて、ただ<おさな子>とのみ、呼ばれていた。たぶん、彼らには、固有の名は与えられなかったのだろう。そして、聖劇の主人公である少年英雄もまた、名無しの<おさな子>なのだ。
 もしかしたら、聖劇の中で死ぬのは、本来は、ドラゴンではなく、<おさな子>のほうだったのかもしれない。聖劇は、本来、『<神の子>が殺される物語』であったのかもしれない。
 先日訪れたエナ村では、春分の祭りを『復活祭』と称していた。『復活』とは何の復活かというと<おさな子>の復活なのだという。
 『復活』するということは、つまり、<おさな子>は、いったんは死ぬのである。土地の古老にその点を問うと、案の定、「<おさな子>は秋の収穫祭に死んで春に復活するのだ」と答えた。とすれば、ここでは<おさな子>は、作物、植物の象徴――つまり、『死んでは蘇る女神の恋人』たちの一人――という役回りを割り振られていると思われる。
 しかし一方で、<おさな子>は、冬至の聖劇のヒーローである。そこで、「だが、<おさな子>は今も聖劇の中でドラゴンを斃していたではないか。秋に死んで春まで蘇らないのなら、なぜ冬至の祭りに出てきてドラゴン退治などしているのか」と糺したら、「俺ァ、そんなことは知らん。ただ、とにかく昔からそう言われておるのだ」と、一言の下に片付けられてしまった。
 私が思うに、たぶん、エナ村の<おさな子>は、『ユールレン型』の伝説とドラゴンへの人身御供伝説の、ニつの物語の主人公たちが共に少年であり、しかも、共に一旦は死すべき定めを負っているということで混同され、互いに互いを投影されることで一人の少年に統合されてしまった、一人二役の主人公なのだろう。
 彼らは、ある時期から、『秋の収穫祭に死んで春の復活祭に蘇る植物の精』、つまり『死んでは蘇る女神の恋人』(=<マレビト>)の役割と、『ドラゴンに差し出される生贄の子供』(=<おさな子>)の役割を二重に担うはめになって、そのために、死んでいるはずの冬にまた出てきてドラゴン退治をする――あるいは、聖劇は本来『<神の子>の殺害の物語』であったという私の空想が当たっていれば、秋と冬に二重に殺されて春に一挙に蘇る――などという、一見奇妙な結果になったのだと思う。

 そして、イルゼール村でも同様に、<おさな子>は、一人二役を担ってきた。
 現在のイルゼールでは、<マレビト>と<女神のおさな子>はまったく同義語であり、<マレビト>であるアルファード君は、当然のこととして<おさな子>と呼ばれ続け、聖劇の<おさな子>に擬せられてきた。女神の聖婚の相手である<マレビト>と、その息子である神の子たち――すなわち<女神のおさな子>――が、昔から今まで、ずっと混同されてきているのである。
 考えてみれば、<マレビト>と<おさな子>は、どちらも同じく『生贄』的な役割を持つものだったのだから、この混同は、非常に自然なことだ。彼らは、どちらも、『少なくとも一旦は死ぬ運命にある』という点で共通してしたのだ。ひとくくりにされても、なんら不思議はない。
 いや、そもそも、違うふたつのものが混同されたというより、同じものがふたつに分かれていただけだったのかもしれない。
 <マレビト>と<おさな子>は、たぶん、同じ『神(あるいは『神のようなもの』)』のふたつの相、ひとつの神的な存在の別々の顔であったのだ。
 イルゼール村での、<マレビト>を迎えての秋分祭は、『招きに応じて天空の彼方の国からこの地に来訪してくれた外来の力強い男神がこの国の大地の女神と交わり、この国の大地に翌年の実りのための新しい活力、生命力を注ぎこんでいってくれる』という聖なる婚姻の祭り――大地と天空、この世と異世界との婚姻の祝祭だった。<マレビト>は、大地を孕ます『父』だった。
 古代の人々は、『父が妻の胎内を通って息子として蘇る』というような空想を持っていたらしい。だから彼らが、女神(=母なる大地)を孕ます<マレビト>と、女神によって孕まれる<おさな子>を同一視しても不思議はない。大地を孕ますものは、また、大地によって孕まれ、大地から生まれ出るものでもあったのだ。
 女神に『母』と『処女』の二つの顔があるように、その相手役である男神にも、『父』と『子』という二つの顔があり、両者の関係も、『母と息子』であったり、『花嫁と花婿』であったりと、時に応じてふたつの相があったのである。
 そう考えれば、同じ一人の男が、女神の花婿である<マレビト>とその息子である<おさな子>の一人二役を勤めてきたのは、だからむしろ、実にふさわしいことであり、本来的な正しい姿だったといえよう。
 実際、<マレビト>であるアルファード君の村での立場は――こういうと、そんなつもりはまったくなかったであろう善良な村人たちには悪いのだが――、たまたま、かつての<神の子>の立場を、非常に忠実に再現していたと思う。あえて悪意のある言い方をしてしまうと、彼は、村のために何度でも繰り返しドラゴンの前に生贄として差し出され続けることで村を守り続けてきたわけだから。アルファード君は、『いざという時にドラゴンに差し出すために村で飼われる生贄の子供』の役を、村人も彼自身もお互いにそのつもりもないまま、実に正しく全うしてきたのだ。
 彼は、そうやって、女神の花婿であるところの<マレビト>と、息子であるところの<おさな子>の役割を二重に果たし、何年にもわたって、繰り返し繰り返し、祭りの聖劇を、現《うつ》し世《よ》に再現し続けてきたのである。

 そんなアルファード君が、全国武術大会のチャンピオンであるということも、実にふさわしい――偶然にしてはあまりにもふさわしすぎるほどふさわしいことであり、私は、深い感慨を覚えずにはいられない。
 というのは、この武術大会の起源が、冬至の火祭りの奉納試合であるからだ。
 力自慢の若者たちによる武芸の神前奉納は、かつて、多くの村で、聖劇と並んで冬至の火祭りの主な行事のひとつであった。宗教行事であると同時に、冬籠りで我が身を持て余した血気盛んな若者たちが気晴らしに繰り広げる腕試し、力比べの娯楽行事として楽しまれてきたのである。
 今でも昔のままに村ごとにひっそりと演じられることが多い聖劇と違って、この行事は、今では、宗教行事という面はほとんど忘れられ、全国武術大会の予選という形でのみ生き残っている。これは、戦乱の時代に、戦火の中で一旦はほとんど廃れかけたこの奉納試合を、時のイルベッザ王が、上からの号令で復活させた結果である。彼は、戦乱時代の尚武の気風の中で、国民全般に武術を奨励するとともに農村に埋もれた武の素質ある若者を見いだして登用を図るという実利的な意図のもとに、村ごとの伝統行事であった奉納試合を、国を挙げての武術大会という形に統合し、制度化してしまったのだ。
 この奉納試合は、いったん廃れる前にもすでにほとんど娯楽行事としか思われていなかったようだが、その起源においては、『ドラゴン退治のために村一番の勇者を選出する』という意味を持っていたと、私は考えている。もちろん、古い時代においても、本当に優勝者がドラゴン退治に携わることなど、そうそうは無かっただろうが、実際にそれをするかどうかはともかく、観念上では、彼らは、その勝利によって、『もしもドラゴンが出た時は村のためにドラゴンと戦うべく選ばれた神の戦士』という、ちょうど聖劇の<おさな子>に相当する役割を任ぜられたのではないか。
 私は、以前、かつて奉納試合の際に行われていた――そして一部の村では今でも武術大会の地区予選の表彰式で行われている――伝統的な祝勝の儀式を調べて、この行事のもともとの意味を確信している。その行事をしている当の本人たちがすっかり忘れていても、昔から伝わる祝勝の言葉や賞品などの儀式の端々には、もとの意味づけのなごりが数多く見受けられるのである。
 例えば、まず、勝利を象徴する聖木の葉冠と共に優勝者に授けられる賞品であるが、これは、多くの土地で、剣、盾、槍などの武具を象った置き物、掛け飾り、装身具などである。もっと古い時代には、本物の剣や盾が使われることも多かったようだ。ある村では、今でも、古くから村に伝わる儀式用の聖剣を、毎年繰り返し賞品に用いている。優勝者は、それを一年かぎり大切に保管し、翌年の奉納試合の前には神前に返上するのだそうだ。
 そうした武具は、武勇の象徴であるだけでなく、この武具を持ってドラゴンを退治してこいという意味を持っていたのである。というのは、祝勝の言葉にも、たいてい、ドラゴン退治を示唆する言葉や、その成功を祈る言葉が含まれているからだ。
 勝者に賞品と祝福の言葉を授けるのは、村の世話役だったり祭りの役員だったりすることもあるが、多くは、その役目のために特に選ばれて女神の巫女に扮した若い娘である。つまり、これは、女神がそのしもべを任命する儀式なのだ。勇者は、神のしもべとしてドラゴン退治を下命されるのである。
 実際にその村にドラゴンが出るかどうか、彼らが現実にドラゴン退治をするかどうかは別として、象徴的な意味としては、奉納試合の優勝者は、神々にその身を捧げられてドラゴン退治に携わるべき選ばれた勇者なのだ。
 また、勝利の証として剣が渡される場合は、いったん受け取った剣を今ひとたび相手に差し出し、ひざまずいた頭上にそれを抜き身でかざしてもらうという儀式が行われてた例も多い(これは、戦乱時代の騎士たちが主君に忠誠を誓う時に行われた誓いの儀式とほぼ同じだが、年代的に見て、おそらく、表彰式が騎士たちの儀式をまねたのではなく、逆に、戦乱時代以前から各地の奉納試合の表彰式で行われていたこの儀式の形式を騎士たちが取り入れたのだろう)。
 これは、いつでも望む時に自分の命を取ってくれという、絶対の献身を表す儀式である。当然、それは、たまたま賞品授与の役になった娘なり村の世話役なりの個人に対しての献身の誓いではなく、神に対する誓いである。この誓いをしてより、彼の心と名誉は彼のものであるが、生命と身体は彼のものではなくなる。彼は、それを、神に捧げるのである。
 優勝者の身体と生命は、一年間、彼自身のものではなく、神々のものである。神々の与えた使命のためにいつでも惜し気なく投げ出され、捧げられるべきものである。
 生命と身体を、供物として神に捧げる。考えてみれば、これは、つまり、一種の生贄である。
 実際、表彰式での彼らの扱いは、古代の生贄に対するそれと酷似している。なにしろ、彼らは、聖水で身を清めた上、神聖、清浄、無私、捨身を象徴する白装束で壇上に引き出され、遠い昔に生贄に冠せられたと同じ聖木の葉冠を授かるのだから。清められた白装束に聖木の葉冠。当事者たちは誰も気づいていないようだが、これは、まさしく、由緒正しい古代の生贄の、あからさまな似姿である。
 ただし、二度とは生き返ることのない生贄たちと違うのは、彼らの生命が神のものであるのは次の勇者が選ばれる一年後までであるという点だ。
 一年間と期限を限って神にその身を捧げられるという点で、彼らの立場は、古代イルゼールの秋分の祭りでの<神の花嫁>のそれと似ている。彼女たちのように結婚や性交が制限されることはないが、建前上、家の所属からは自由になり、家族との絆を一時的に断つことを求められる。
 ある村では、今でも、表彰式の際、壇上で剣を授かった優勝者が、檀を降りたところでその父母と向かい合って立ち、彼らとの間に剣を横たえて跪拝の礼をとるという儀式を行っているが、これは、彼らが思っているような、『立派に成人した息子が育ててくれた親の恩を讚える感謝と表敬の儀式』などではなく、形式的な別れの宣告、縁切りの儀式である。父母に別れを告げて死地に赴く戦士の旅立ちの儀式なのだ。彼らは、一時的に世俗の縁を切り捨てることで、古代のイルゼールで<おさな子>たちがそうであったように、現世の誰のものでもない<神の子>になるのである。古代のイルゼールで、村で一番美しい娘が女神の現世での一年かぎりの『器』に任ぜられたように、彼ら、村で一番強い若者は、聖劇の中の<おさな子>の役割を生身で担うもの――<おさな子>のこの世での『器』――に任命されるのだ。
 そう考えると、アルファード君は、おそらく全国武術大会の長い歴史の中でただ一人、本来の役割を実際に果たしてくれた優勝者なのである。優勝の後、祝賀会もそこそこに、まるで姿をくらますようにして村に帰ってしまった彼は、優勝者であることを放棄したのではなく、逆に、選ばれた勇者として辺境に旅立ち、そこで、まさに選ばれし者のなすべきこと――ドラゴン退治をしていたのだ。

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この作品の著作権は著者冬木洋子(メールはこちらから)に帰属しています。
掲載サイト:カノープス通信
http://www17.plala.or.jp/canopustusin/index.htm


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