工学部化学科から教育学部心理学科に再入学したKanさんからのメールです。私も工学系出身ですので、やはり感覚が近いのですね。心理学者にも私とほとんど同意見の人がいて正直ほっとしました。(^^)
では、本題に移ります。
とっても(^O^)
2.お気に入りのページ
E−MAIL
3.血液型と性格の関係は?
ある
4.メッセージ:
はじめまして。楽しくサイトを拝見させていただきました。
「〜派」を自称するとすれば「現状では無価値派」のKanと申します。簡単な自己紹介を申し上げておきますと,工学部の化学系を卒業後,再受験をして教育学部(※1)で認知心理及び臨床心理を学んだ者です。まぁ,非主流派の一介の心理学徒なんです。
※1ちなみにどちらも京都大学なんですけど。これ(学歴)って修めた学問の質を図る指標として本当に有効なのか甚だ疑問なんですが,ご参考までに。
さて,owadaさんの統計に対するアプローチや「文系」「理系」の分類に関しては,残念ながら「ある部分,おっしゃるとおりです」と言わざるを得ません。
多くの心理学徒(※2)は,統計的な概念や論理性といった部分に対し,いわゆる自然科学系ほど注意を払わない傾向に有るように思えます。
※2ただし,これは私の周囲の話でサンプル数が少ないため,「統計的に有意かどうか」は保証の限りではありませんが(^^;
しかし少々弁護させてもらうとすれば,「心理学」という学問そのものがまだ未成熟な学問なんですね。ガリレオあたりにまでその歴史を溯れる近代自然科学と,せいぜいフロイト・ユングが近代にやっとその雛形を作った心理学では歴史が違いすぎます。当然,その方法論の洗練度合いもちがうわけです。ですのでクレッチマーの件にしても,「そやかて化学でも『フロギストン』とか言ってたやん」などと思ってしまうんですよね。
まぁ私自身,工学部から再受験して心理学へと専攻を変えたときに「なんつーエエ加減な学問なんや(^^;」と感じたことを今でも鮮明に覚えています。そもそも「性格」などという定量化が不可能なモノをなんとか自然科学系のツールでもって解析しようとしているのですから,方法論そのものに問題があるんじゃないでしょうか。個人的には,あと200年くらいたたないと,自然科学系と対等の土俵には立てないように感じています。
横道にそれました。何が言いたかったかというと,心理学者は確かに「プロ」なんですけど,「素人」と「プロ」の格差が自然科学系ほど開いていないので,同列には語れませんよ,ということが言いたかったと。もちろん,今後の心理学のために批判はどんどんするべきなんですが,「専門家のくせに〜」と怒られてもそれはちょっと無茶な意見かなぁと感じるときが多々有ります(^^;
で,私が「無価値派」の理由なんですが。まず,私は血液型と性格には関係が『ある』と考えています。が,同様に例えば「生まれ月」も「出身の県」も「性別」「年齢」だって関係があると思うんですね。例えば「生まれ月」ですが,現行の制度では4月生まれの人と,成長にほぼ1年差がある3月生まれの人が同学年なんですよね。小学校低学年あたりでの1年の差は非常に大きいですから,例えば「3月生まれの人は,消極的になりやすいのではないか」なんて仮説を立てることができます。こんな具合に「性格」に影響を与えているファクターは無数にあるので,血液型(それもABO式)だけをことさら取り上げても無意味だろうなぁと考えています。大脳生理学が進歩すれば,内分泌系と心理傾向の関係−−たとえばドーパミンやエンドルフィンの分泌などによるものですね−−が科学的に因果関係を検証されるだろうし,それ以外にどうしようもないだろうと思うんですね。
自然科学系出身の心理学徒は結構いるんですけど,結構みんな「性格」から逃げちゃうんですね。認知系へ行っちゃう。
一つには統計的な手法では「関係の有無」は論じられても,「因果関係」は語れないことを痛感するからなんですけど,(対照実験が不可能である以上,どうやったってモヤモヤ感が残りませんか?)多くは「性格」というものが,もう扱いにくくて仕方が無いからなんです。
個人的には「性格」を語るときには,一種のベクトル群をイメージしてるんです。が,それでも扱いづらいんですよね。例えば私はO型ですので,「目的指向性が強い」はずです。で,自分の中で「目的指向型」の行動群を選ぶ頻度と「non-目的志向型」の行動群を選ぶときの頻度を比較すると,確かに前者が多いので賛同できるんです。これはレーダーチャート形式で考えているわけです。ところが,非O型群の人と自分を比較して,「目的指向性」が強いかどうかというと,これはなんとも言えないんです。同じシチュエーションで私よりも「目的指向型」の行動をとるが,自分の行動群全体の中では「non-目的志向型」の行動群を選ぶときの頻度が多いB型の人がいる。この人は目的指向性が「強い」データケースとして処理すべきか,「弱い」データケースとして処理すべきか?(※3)
※3 肯定派でも否定派でも,これを混同している人もいますし,ちゃんと区別して考えている人もいますよね,もちろん。
こんなこと質問紙やってる連中はほとんど考えませんから,肯定派にせよ否定派にせよ,どうしても性格定義の厳密性に欠けるんです。YGあたりでも他者との比較は考慮してませんね。だから,たとえばYGが測定しているのは「YGによって定義された性格=心理傾向」でしかなく,普通我々が「性格」と読んでいる者とは別物なんですね。
極論すれば「性格っぽいもの」を測ってる「つもりになって」,関係「≠因果関係」があるとかないとか言ってるんですから,無価値だなぁと思う次第です。
長くなりました。とりあえず今回はこの辺で。あとはいくつかのコーナーの感想を。
差別:「根拠の無い区別」を差別だと規定すれば,因果関係が証明されていない現時点では「血液型による性格区別」は紛れも無い「差別」です。「だから『血液型による性格判断』はいけない」なんて言うつもりはないですけれど(^^; でも「O型ばかりを意識的に集めたプロジェクトチーム」なんていうのがあれば,「バッカじゃねぇの?」とは思います。「白色人種だけのプロジェクトチーム」と同様に。
政治:こっちは甚だ疑問なんですよね。owadaさんは「有権者は,候補者の性格によって投票する傾向が強い」という前提で語っていらっしゃるようですけど,都心部はともかく農村部では依然組織票主体でしょ? 総理にせよ派閥力学の産物ですし。少なくとも現代日本では,「議員に当選すること」と「性格」の間には相関はほとんど無いと見なすべきじゃないでしょうか? 能見サンのときも思ったけど,政治って性格を語るには思いっきり不向きなテーマだと思うんですけど如何でしょう?
メールありがとうございます。
いやぁ、私もほとんど同感です(笑)。理工系の平均的な感想だと言っていいでしょう、たぶん。エンジニアの最大素数さんもほぼ同じ感想を書いています。やはり心理学者でも同じ考えの人はいるものですねぇ。性格心理学で性格が正確に定義(測定)できないなら、血液型と性格は関係ある(ない)とは証明できないなんて当然すぎるほど当然です。それなら、私も別に反対するつもりはありませんので(笑)。
ただ、性格がまともに測定できないということなら、性格心理学者の間では大論争が巻き起こるはずです。事実、ご存じのように欧米では1960年代から大論争になっています(まだ決着は付いていないようです…)。が、日本ではいまだに同じような論争は起きていないようです(少なくとも私は知りません)。つまり、部外者から見ると、日本の性格心理学者は性格が正しく測定できようができまいがあまり関心がないことになります。違いますか?
私だったらここでイヤになります。だから、理系は性格心理学はうさんくさいのだと思っているかもしれません(失礼!)。では、なぜ欧米では論争があって日本ではないのか? それは、学会の「和」が何よりも大切だからということでしょう。実際、心理学者である古川竹二の説は戦前の心理学会ではほとんど批判されていません。彼を批判したのは法医学会です。彼が心理学会から批判されたのは死後しばらくたってからです。これはウソではありません。文部省推薦の心理学史『通史日本の心理学』にも掲載されているレッキとした事実です。
#まあ、私も日本人ですから、「和」が大切という意見自体には反対しませんが…。
おっと、ずいぶん話が横道にそれてしまいました。(^^;; 元に戻りましょう。
さて、脳内物質が性格に関係していることは、心理学者も認めている事実です。
それから、「差別」については定義をはっきりさせる必要があるのではないでしょうか? 私は、裁判で「差別」と判決が下った場合を想定しています。いかがですか? 例えば、日本では雇用契約の学歴や年齢による「差別」は違法ではありませんが(ちなみに男女雇用機会均等法があるので性別による「差別」は違法です)、アメリカでは違法(なはず)です。また、「白色人種だけのプロジェクトチーム」はおかしいとのことですが、それなら「女性だけのプロジェクトチーム」「若手社員だけのプロジェクトチーム」はどうですか? 学歴や人種や血液型と性別や年齢には絶対的な差があるのでしょうか?
#アメリカがよくて日本が悪いという意味ではありません、念のため。
#もっとも「O型ばかりを意識的に集めたプロジェクトチーム」なら、私も吹き出してしまいます。
#同じ血液型だけ集めてうまくいくプロジェクトがあるなら世の中苦労しませんよね(笑)。
次は、政治についてです。私は、「有権者は,候補者の性格によって投票する傾向が強い」とは言うつもりありません。政治家になるような人は何か特定の性格があるはずであり、そういう場合には血液型による性格の違い(つまり血液型分布の差)が目立つ形で現れるということです。また、「都心部はともかく農村部では依然組織票主体」とのことですが、都心部と農村部の政治家では確かに血液型の違いがあります。ここらへんは、ぜひ『血液型政治学』を読んでみてください。
最後に一言。一般的に、心理学者は自分自身は「専門家」で私は「素人」と主張する人が多いようです。今までは、反論してもしょうがない、と思ったのであまり書きませんでした。しかし、Kanさんならわかっていただけると思うのではここでは少し書いておきましょう。
「専門家」というなら、私のような「素人」とは桁違いの情報を持ってなければしょうがありません。しかし、多くの自称「専門家」は、私よりも血液型と性格の論文を読んでいるのでもなければ、統計学の知識があるわけでもありません。極端な例では、(海外の論文はおろか)日本の論文も全然読まずに、血液型と性格の研究は日本でしか行われていない、というような明らかな間違いを堂々と(?)主張している人さえいます。
#もろちん、私より詳しい人はいくらでもいますので、念のため。(^^;;
現在では心理学や統計学に限らず学問は極端に細分化されているのですから、心理学の特定分野が専門であったとしても血液型と性格について専門だとは言えるはずがありません。さらに面白いのは、私がこのように反論すると、とにかく無条件で「専門家」が正しいのだ、と必ず言うのです。最悪(!)のケースは、「専門家」全員を論破したとしても血液型と性格は絶対に関係がないのだと…(笑)。いかが思われますか?
おっと、思わず力が入ってずいぶん勝手なことを書いてしまいました。またご意見をお待ちしています。では。
>性格心理学で性格が正確に定義(測定)できないなら、血液型と性格は関係ある(ない)とは証明できないなんて当然すぎるほど当然です。それなら、私も別に反対するつもりはありませんので(笑)。
「測定できない」と言われると,うなずくのに苦労するんですが(^^; 「定義できない」と言うほうが現実に近いですね。
いわゆる世間で流通している「性格」という言葉と,心理学で扱う「性格」は完全に別物です。例えば,ポピュラーな質問紙法だと,「自分は……だと思う」的な質問項目を統計処理して,有意な偏りを見ます。一定数の質問でたとえば「内向←→外向」の尺度を測定し,また次の一定数で別の心理的尺度を測定するといった具合です。ですから,例えば質問紙法で得られるのは「性格と表現されるものっぽい尺度の集まり」とでも言うべき物で,世間で言う「性格」とは異なることがおわかりでしょう。しかも,内観法に頼りますから,「他人から見た性格」は測定できません(※1)
※1 たとえば「私って神経質なのよね〜」などと言う無神経な(笑)人は,心理テストでは「神経質」と判断される可能性が高いわけです。
ちまたで「性格」と言えば,「〜な性格だから,〜といった行動をしがちである」と言う文脈で使われることが多いです(実際,血液型性格分析もそういう風に使われる例を良く耳にします)。しかし,「将来の行動を高い蓋然性で予測できる,行動の根拠となる心理傾向」としての「性格」を測定できる心理学的技法は全く無いですし,これからも生まれないでしょう。
>部外者から見ると、日本の性格心理学者は性格が正しく測定できようができ
まいがあまり関心がないことになります。違いますか?
他人の米びつに砂を撒く真似は避けたいんですが(笑) ある意味で「違いません」と答えざるを得ないかなぁ。関心が無いと言うより,「測定できない部分は,無視する」という姿勢です。もしくは「測定できる部分だけを『性格』としてあつかう」と言うほうがより正しいでしょうか。(※2)ですから性格心理学分野の内部においては,矛盾は生じていません。が,大多数の共通認識としての「性格」からは乖離したままでしょうね。そもそも「心理テスト」の位置付けも,精神分析や治療用の特殊なものか集団の傾向が分かればOKというもので,一個人の所謂「性格」を測定しようという方向には向かっていませんから。
おそらくそうした「性格」は,個々の人同士の関係性,個人のライフヒストリーや記憶,体調などに大きく左右されるでしょうから,定常的に測定するのは不可能でしょうね。
※2 しかしこれは,非常に「科学的」な姿勢だとも考えます。問題なのは「測定できる部分だけに満足している人物が多い」ということなんですが(^^;
これはまぁ心理学が「未熟な」学問であるということなのでしょう。
そういったわけで,「この血液型は,こうした心理傾向を持つ」という主張については,ある種の経験知として考慮しても良いかと思うのですが,「だからこういう行動を行う」という主張になると無価値であろうと思います。たとえば「B型は協調性に欠ける傾向がある」という主張が真実だとして,それを知って意識的に協調行動を選ぼうとするB型の人も大勢いるはずです。(※3) 「自分の心理傾向」という知識が行動にフィードバックされるケースは良くあるわけで,現実には役に立たないだろうと思うのです。
※3 この考え方を演繹すると,「血液型性格分析を知らない人のほうが,その血液型に典型的な行動をとる」という結果になりそうです。真偽のほどは全く謎ですけど(^^;
以上のような考えを持っていますので,「無価値派」ということになるんだろうな〜と思っています。それでも「血液型性格分析って(その周辺も含めて)面白いよな〜」とは思っています。口が裂けてもおおっぴらには言えないんですけどね。
で,差別の件ですが,定義の違い了承しました。私は「根拠の無い,もしくは非論理的な区別」はすべて差別であるというスタンスですので,ちょっと温度差があるかもしれないですね。
>「女性だけのプロジェクトチーム」「若手社員だけのプロジェクトチーム」
はどうですか? 学歴や人種や血液型と性別や年齢には絶対的な差があるので
しょうか?
逃げになるかもしれませんが,「ケース・バイ・ケースでしょう」としか言えないです(^^;
今のところ性差等は,科学的な因果関係がある程度証明されていますよね。
例えば持久力が求められる場面で,女性や若者が優先されるのは(それでも抵抗はありますが)まだうなずけます。学歴にしても,依然としてある程度の能力指標の役割を果たしている(これは教育社会学分野になりますが)側面は否定できません。例えば,メーカーが技術者を募集するときに「理系出身」を条件にするのは当然のことですね。
ですから,血液型の差が重要なファクターになる場面(例えば輸血とか(^^;)で区別が行われるのは非常に合理的で,非難の余地はありません。が,例えば性格や人格面を理由にされますと,現状では「血液型が性格と関係がある」とは言えませんから,どうしても否定的になってしまいます。人種差別と同等だと考えているのもそういった点です。
もし仮に「白色人種が知的能力において有色人種より勝っている『科学的根拠』」が提出されて,それが追試を繰り返しても棄却できないほど確かならば,知的能力が要求されるケースでの「人種差別」は単なる区別になるだろうと考えます。血液型性格分析に対しても同様ですね。
政治のケースは……微妙ですねぇ。たとえば集計の母集団を立候補者や政治家志望者まで広げれば納得できるんですけど,当選者に絞ってもねぇ。相関があるのはわかりますが,「相関がある=因果関係がある」とは言えない(※4)ですし。他に重要性の高いように思えるファクターが一杯ある(※5)しなぁ…… 一種の解釈としては面白いんだけど。
※4 「心理学者は数学が苦手」というのは前にも賛成意見を出しましたが,文理問わず「相関あり→因果関係あり」と解釈する人が多いように感じます。
「相関無し→因果関係なし」という命題は真なんですけどね。これから言えるのは対偶命題の「因果関係あり→相関あり」だけなんですよね。統計学が苦手な人(私の場合,まわりの心理屋さん)に説明するのがしんどいです(^^;
※5 たとえば「宗教に傾倒しやすい」血液型があるとして,公明党の当選者はそういった血液型が多くなりそうです。「政治に関係ない性格要素」が絡んでいる可能性も棄却できないし,どうも「後づけの説明」臭いんですよね。
>現在では心理学や統計学に限らず学問は極端に細分化されているのですか
ら、〜(中略)〜最悪(!)のケースは、「専門家」全員を論破したとしても
血液型と性格は絶対に関係がないのだと…(笑)。いかが思われますか?
率直に言いますと,過剰防衛行動ですね(^^; 心理学が(今のところ)未熟で胡散臭い学問であるのは,心理屋が一番わかっています。その反動からか,外部からの攻撃に過剰に反応する人が多いようにも感じますね。わからないことは素直に「わからねぇ」と言やぁ良いのに。まあ,それをやっちゃうと自然科学の分野に比べて「わかんねぇ」の回数が信じられないくらい増えて,権威が無くなってしまうのかもしれませんが。ホント,自然科学系が区画整理された都会の道路だとすると,心理学分野なんて未開の密林をコンパス無しで切り開いているような現状なんですから。だから専門外の人でも好き勝手言えるのかもしれませんけど。
いろいろ大変だろうとは拝察しますが,今後の心理学の発展のためにも(とお願いする筋合いではないかな?)頑張ってください。
早速のご返事ありがとうございます。
なんてコメントしようかなぁと考えたのですが、ほとんど同感なので反論にはなりません(笑)。ということで、ちょっとだけ。
#心理学者がみんなKanさんのように物わかりのいい人ばかりだったら、
#間違って私はこんなHPを立ち上げたりしなかったでしょう(大笑)。
「血液型性格分析を知らない人のほうが,その血液型に典型的な行動をとる」というのはちょっと違います。まず、「典型的な行動」というのも統計的なものですから、別に絶対的なものではありません。実際のデータを見ると、
確かに、一般的には「血液型性格分析を知らない人のほうが,その血液型に典型的な行動をとる」と思っている(?)ようです。ただし、実際にはそれほど「その血液型に典型的な行動をとる」わけではありません。
それと、「差別」についてですが、Kanさんは血液型と性格が「関係ある」ことと「差別」は区別して考えているわけです。しかし、多くの心理学者(文系?)は、「差別」があるから「関係あるはずがない」と言いたいのか、「関係あるはずがない」から「差別がある」と主張せざるをえないのか知りませんが、とにかく絶対「差別」がある(はず)と主張するのです!
血液型と性格に「関係がある」(「関係がない」)ことと、「差別」がある(ない)ことは本来は別物のはずです。前者は純粋に科学的な問題であるのに対し、後者は一種の社会問題でしょう。私は、絶対に差別がないと主張するつもりはありません。だいたい、絶対にないなんて証明できませんしね。「差別」があろうがなかろうが、血液型と性格に関係がある(ない)という科学的事実に影響するはずがない、ということを主張したいだけですので…。
で、私が今回のように裁判の話を持ち出すと、差別がある「可能性」は絶対あるのだ!と主張を変える場合が多いのです。そりゃあ、ノストラダムスの大予言だろうがなんだろうが、正しい「可能性」ならまったくのゼロではないでしょう(笑)。ということで、他意はありませんので気にしないでくださいね。
政治のケースについては、まず文献を読んでみてください(強制するつもりはありませんので…)。
自然科学的な因果関係については、もちろん証明されてはいません。私は、相関があると主張しているだけです。そして、それなら性格心理学では「関係がある」ということになりませんか?と主張しているのです。ここらへんは、下のメールのNo.431も読んでみてくださいね。
いずれにしても、心理学者にもほとんど同じ意見の人がいてほっとしました。(^^)
どうもありがとうございました。
【参考】No.431 B型男性の篠原菊紀さんから H12.10.25 2:221.面白いですか?
2.お気に入りのページ
3.血液型と性格の関係は?
4.メッセージ:
有益な知見をどうもありがとうございます。せっかくなので、ぜひその一般向けの論文をご紹介いただければと思います。(^^) |
ご無沙汰しております。わざわざページを作っていただいて恐縮です(^^; いろいろ忙しい時期でしたので,その後話を進めることができておりません。
さて,昔の蔵書を整理してるうちに思い付いたのですが,血液型性格論争の重要なファクターとして,「性格」の定義があるのではないでしょうか。 近年の性格心理学の成果は,
“所謂「性格」と一般に呼ばれる「ある特定の状況において,どういった行動・思考を行うかという『傾向』」が,実在するという証拠はない”
という事実を明らかにしてきたことなんです。また,我々が「他人の性格を理解している」という認識自体も,多分に主観的なもので思い込みに近いという事実も,社会心理学のほうでかなり前から語られています。(*1)
(*1)おそらく将来的には一般的な意味での「性格」は,社会心理学のテーマ(たとえば対人認知のツールとしての働き)としてのみ取り扱われるようになるのではないでしょうか。
つまり,性格心理学がその研究対象である「性格」が存在するかどうかをまず検討し始めたところ,「一般的な意味での「性格」という実態はないかもしれないよ」という途中経過になっているわけですね。
ところが,一般的には「性格」の存在は無前提に受け入れられているので「性格心理学=性格を解明する心理学」と解釈されているのが辛いところではないでしょうか。
で,その解明する対象があるかどうかもわからんというのは,まるでシュレーディンガーの猫みたいな状態だろうと思い付いたんですが。
能見サンも含め,「性格」を調査するときには一定の統計調査をします。で,仮に真実血液型と「性格」に因果関係(相関ではなく)があったとして,それは統計的にしか論じることができないものであることには違いないわけですよね。そうすると,現実においては確率的な解釈として記述するべきですね。「〜型は〜な『性格』である」と言うよりは,「〜型は〜な『性格』であるという可能性が高い」と言うほうが,より事実に近いというわけです。
さて,ここまでの意味では私は「血液型(というより,内分泌系等の体質全般)が『性格』に影響を及ぼす可能性は十分ありうる」と考えています。フィフティ・フィフティから少しでも有意にずれていれば,統計的・確率的に意味がありますから。
しかし,こと個人の行動・思考に関して言えば「60%の確率で目的指向的である」などということは起こり得ません。(*2)
(*2)「目的指向的な行動・思考をとることが『多い』」という表現は,定量的な表現ではないことはお分かりでしょう。こうした認知は極めて主観的なものであるし,他人からの視点も,多分に相互の関係性が影響するので「精確な測定」は不能です。
「『性格』を知ろうとする行為(=コミュニケート)が『性格』に影響を及ぼしてしまう。」というのは,量子物理学の不確定性原理と非常に似通っているように思います。
不確定性原理の言葉を借りるなら,「量子化」された「性格」(=個人の「行動・思考」)を考える上では,統計データそのものが「性格に対する確信度」以上の意味をなさなくなるだろうということなんですね。そして,ここからは個人の価値観となるんでしょうけど,100%に満たない(おそらく血液型性格判断の「確信度」はもっと低いでしょう)「確信度」にはまったく価値が無いように思います。話としては面白いんですけどね。
というわけで,思い付くままに綴ってしまいました。落ち着きましたら,以前の議論を続けたいと思います。
追伸:シュレーディンガーの猫については,以下のサイトが分かりやすいように思います>読者の皆様
http://www4.justnet.ne.jp/~greentree/...
あはは、どうもありがとうございます。都合で返事が大変遅れて申し訳ありませんでした。
さて、そういう結論になると議論はこれでおしまいになってしまいますので、もうしばらくおつき合いください。(^^)
最近の性格心理学の傾向としては、基本に戻る(?)と言うのでしょうか、どうやら「ビッグファイブ」がもてはやされているようです。何を基準にするのかで違いますが、就職試験の対策本にも性格テストに関するものがあります(笑)。いずれにせよ、性格は存在しないというような結論を出すのは早いのではないでしょうか?
教員採用試験でもまだまだ性格テストを実施しているらしいので、それなら日本の教育委員会はどこも「非科学的」なことになってしまいます(笑)。まさか、教育委員会自身が非科学的だと知っていてわざわざ実施することはないでしょう。
それから、統計データに関する確信度ですが、それなら毎日天気予報で発表されている降水確率はどうでしょうか? 降水確率○の○%という予報は意味がありますよね?
「性格に対する確信度」についてはそのとおりですが、「首尾一貫性」が感じられる限り私は全く無価値とは思いません。
いずれにせよ、私もKanさんとほとんど同感なのはおわかりいただけると思います(笑)。
ではまた。