大分の磨崖仏 |
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大分市周辺の磨崖仏 大分市の周辺には元町、岩屋寺、曲(まがり)、敷戸(しきど)、
南太平寺、高瀬、口戸、鬼ヶ瀬(由布市挟間町)などに磨崖仏がある。
これらの所在場所は、おおむね現在の大分市の上野丘の丘陵地帯の南側の滝尾、南大
分地区で、この地域の東部には国府、西部には国分寺がある。奈良時代から平安時代
までの間、政治や文化の中心として栄え、古来から豊かな稲作地帯であった。
つけたりそうとう 曲石仏・附双塔(五輪塔)磨崖連碑 |
所在地:大分市大字曲1372
県指定史跡:1966(昭和41年)3.23 /平安末期〜室町時代
森岡小学校のある森岡丘陵の中腹南面にある磨崖仏で隣り合って掘られた
2つの石窟の中にある。
奥行約7m、高さ約6mの石窟の中央奥に、釈迦如来(大日如来とも) 坐像一躯が
安座しています。頭、胸、腰、両膝を別々の石材で組み合わせ、腹部を空洞にす
るなど、寄木造の型式をとった石仏で、鎌倉中期以降、室町初め頃の造仏と思わ
れます。
入口の両壁面には、右に多聞天立像、左に持国天立像が石窟の守護神として彫り
出されていますが、引き締まった彫方などから、鎌倉時代の作品と推定されます。
多聞天立像 持国天立像
この石窟の向って左にある龕には、おざやかな作風の阿弥陀如来像を
中尊に、右に観音、左に勢至(せいし)菩薩を配した三尊仏があります
が、おそらく曲石仏の中の初作で、平安末期の造仏と思われます。
また、これより少し東に離れた崖面には、五輪塔ニ基を薄肉彫りにした
龕や、七基の板碑を連続して彫り込んだ龕が造られています。
この地は平安中期「曲別符(まがりべっふ)」とも呼ばれ、宇佐神宮の領地
となった所です。最初の造仏には、たぶん宇佐神宮の力が関係したものと思
われます。
(注)以上の文面は案内板に記載された説明文から転載したものです。
ぶらり 2007/7/1
高 瀬 石 仏 Stone Buddhas of Takase |
大分市高瀬/国指定史跡(昭和9年1月22日)
七瀬川自然公園のあやとり橋を渡り、公園に沿う車道を横切ると小さな駐車場
に高瀬石仏の案内版が目に入る。ここから山手に農道を50メートルほど上ると
高瀬石仏に着く。
大分川支流七瀬川右岸の字加羅(から)に位置する高瀬石仏は、数少ない石窟形式
の磨崖仏です。
凝灰岩を掘り込んだ石窟は高さ1.8m、幅 4.4m、奥行1.55mの規模で、この中
に五像が彫りだされています。
中央に結跏趺坐(けっかふざ)する胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)像を中
心に、向かって右には如意輪観音像が右膝を立てた半跏の姿で刻まれ、さらにそ
の右には頭上に馬の頭を載せた馬頭観音像があります。また向かって左には六つ
の顔、六つの手と足を持って牛の背にまたがった大威徳明王(だいとくみょうおう)像
が、そして、その左にはことさら奇怪な姿をした深沙大将(じんじゃたいしょう)像が
彫り出されています。
とくに深沙大将像は、逆立った頭髪、つり上がった眉と見開いたどんぐり目に忿
怒の表情を表し、首には髑髏(どくろ)の首飾り、赤い褌(したおび)と虎皮の袴(ももひ
き)を身に着けています。また、両脚と左手には蛇がからみつき、腹には少女らし
い顔が描かれているのも異様です。
この深沙大将は中国の玄奘(げんじょう/三蔵法師)が仏典を求めてインドを往復した時、
砂漠に現れて守護した鬼神といわれます。異様な姿に表現されているのはこのため
です。腹部の人面には優しい気持ちを持っていることを表現したものです。
(大分市教育委員会が標した案内板から)
高瀬石仏は平安時代後期、12世紀後半の制作と推定されおり、
県下の磨崖仏を代表する作品として貴重なものです。
なお、石窟手前の崖面には小さな龕(がん)があり、そこには一本の蓮の茎から三
つに枝分かれした蓮華の上に、阿弥陀三尊仏の安座する姿が彫りだされていま
す。こうした一根三茎仏(いっつこんさんけいぶつ)は、7世紀後半の白鳳時代に盛ん
な造仏形式でしたが、この地方では平安時代後期まで造られたことがわかりま
す。
(大分市教育委員会が標した案内板から)
ぶらり 2006/11/12(2013/5/11加筆)