ふるさと散策  大分の磨崖仏


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大分市周辺の磨崖仏 大分市の周辺には元町、岩屋寺、曲(まがり)、敷戸(しきど)
南太平寺、高瀬、口戸、鬼ヶ瀬(由布市挟間町)などに磨崖仏がある。
これらの所在場所は、おおむね現在の大分市の上野丘の丘陵地帯の南側の滝尾、南大
分地区で、この地域の東部には国府、西部には国分寺がある。奈良時代から平安時代
までの間、政治や文化の中心として栄え、古来から豊かな稲作地帯であった。

  元 町 磨 崖 仏     

元町磨崖仏は、上野丘台地の東端の崖下にあり、現在は瓦葺の覆屋に囲まれている。
堂内には、座高 307cmの薬師如来像を中心として、向って右に像高約 260cmの
多聞天立像、左に像高約 250cmの不動明王立像と、像高約 150cmの2体の童子
立像が彫られている。

   

 薬師如来像
如来形の大日ともいわれる。
頬や腹のあたりの黒い点は釘の頭で、粘土をささえていたもの。

薬師如来像は、向って左の頬に、剥げ落ちた部分があり、その部分に点々と鉄釘が
打ち込まれているのが見える。これは釘の頭を支えとして、地石の不足したところ
を粘土で埋めて、その表面を仕上げていたものであり、 この他に両膝のあたりから
台座の部分にも釘の跡が見られるので、衣の裾の部分や台座の連弁なども、粘土で
仕上げてあったことがわかる。胸のあたりにも粘土がつめ込まれており、 膝の上の
左手は現在欠失しているが、手首のところに鉄芯が見えているので、 もとは粘土で
掌が造られていたことがわかる。右手は、ほぞの一部が手首の地石に残っているの
が見られるので、手は別石で造り差し込んであったものとみられ、 塑像や木彫りの
技法が石彫りに併用されていたことがわかる。

通例では薬師如来には、日光、月光両菩薩と十二神将を配置するものであるが、元
町のように四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)の中の一尊と不動明王を配置する
のは、天台宗系のみに見られるといわれるがあまり例がない。
           (大分の歴史<2>大分合同新聞社刊より)

   
                            覆屋
 多聞天像
脇侍多聞天像は、胸から上と膝から下が欠失している。不動三尊像も、不動王明
王像の頭部が欠け落ちているが横に置かれているその頭部は、厚みのある堂々と
した表情である。
堂内諸像は同時期にできたものではないという考えもあるが、おおむね11世紀に
さかのぼる貴重な磨崖物である。
                     ぶらり 2007/3/31

  岩 屋 寺 磨 崖 仏  

元町薬師堂の西、約100mほどの所に岩屋寺磨崖仏がある。
総数17体が彫られており、その向って右の崖上と、その下に転落している土の
千仏龕(せんぶつがん/多数の小枠の中に小さな仏像が造られているもの)があ
る。国史跡でしたが、傷みが著しいため県史跡に変更された。

   十一面観音立像

    

磨崖仏群の向って右側に、欠けているところもあるが、像高 224cmの十一面観音
立像があり、豊かに整った姿は藤原時代の作風を示している。
17体が同時に造られたものではなく、追刻のものもあるとみられるが、いずれもか
けた部分があまりにも多く、判別が困難である。


  千仏龕(せんぶつがん)

   

もともと岩屋寺の十一面観音像の岩壁には珍しい千仏龕があって、その下には崩
落した部分が今なお現存している。しかし、その龕中にもともと奉納されたはず
の磚仏(せんぶつ)あるいは泥仏、あるいは石仏は一つも現存しない。
日本のそれの直接的な形式は、中国の雲岡や龍門の石窟などにも見られ、さらに
その淵源がインドのアジャンターの石窟やエローラ石窟にあることは周知の事実
である。
                    ぶらり 2007/3/31