御祭神
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伊邪那美命(いざなみのみこと)
速玉男命(はやたまおのみこと)
事解男命(ことさかおのみこと)
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御神徳
縁結び、夫婦和合、商売繁盛、事業成功、病気平癒、延命長寿
由緒
大部地区がまだ大目村と言われていた頃、当社も大目大明神と称して伊邪那美命(イザナミノミコト)を鎮め祀り大目之庄の祖神(先祖神)として毎年春秋の二季祭事を行っていました。
後に、大部村と改められ当社も大部大明神と改称されています。
その後、紀州熊野神社神主の穂積宿祢(ほづみしゅくや)の末裔、鈴木弥太夫(すずきやだゆう)が当地に来られ速玉男命(ハヤタマオノミコト)、事解男命(コトサカオノミコト)の二柱の御祭神を合祀したことにより熊野権現社と呼ばれるようになりました。
天正八(1580)年庚辰(こうしん)には、別所小三郎長治(べっしょおさぶろうながはる)が籠る三木城を羽柴秀吉が攻めた有名な三木合戦の兵火により社殿が全て焼失してしまいました。
寛文十二(1672)年壬子(みづのえね)三月には、小野藩藩主一柳但馬守末礼(ひとつやなぎたじまのかみすえれい)により社殿の再建が進められ、九月九日に完成しています。これより当熊野神社の祭礼日が毎年九月九日(新暦で十月九日)と定められました。
江戸時代を通して領内の神明神社、並びに住吉神社と共に三氏神として一柳家祈願所となっています。
明治七(1874)年二月には、村社に加列されています(村社とは神社の位の事を言います)。
祭日
歳旦祭(一月一日)
節分祭(二月三日)
秋例大祭(十月十日頃)
除夜祭(十二月三十一日)
月次祭(毎月一日)
境内の紹介
石段下からの参道をあがったところには安永八(1779)年に第五代藩主一柳末栄(ひとつやなぎすえゆき)が奉納した鳥居が残されています。
この鳥居をぬけ参道脇にずらりと並ぶ灯篭を通ると、右手に神仏習合の名残の鐘楼(しょうろう)があります。
毎日多くの参拝者が鐘を鳴らし、その厳かな鐘の音が境内に響き渡ります。
正面にある随身門(ずいしんもん)の左右には右大臣、矢大臣と木製の狛犬(こまいぬ)が対で納められています。
境内右側には土俵があり、秋例大祭では奉納相撲が行われます。
参道を進むと拝殿前には石造りの狛犬が鎮座し、この間に神社では珍しい線香立てが見られます。拝殿は、桟瓦葺(さんかわらふき)、入母屋造(いりもやづくり)の大きな割拝殿(わりはいでん)で中央には通路が設けられています。(*現在は割拝殿ですが昔は全面床でした。)
正面側約13.6m、奥行側5.2mの規模をもち、正面中央の飾り虹梁(こうりょう)の上には花と兎の絵柄の蟇股(かえるまた)が置かれています。内部は天井を張っていないことから、太い梁を渡したダイナミックな屋根組みを垣間見ることができます。また、各梁には神馬、武者、合戦、中国の故事などを描いた絵馬や和歌、相撲の番付などの額が掲げられています。
拝殿の後には正面に唐波風(からはふ)をもつ幣殿があり、その屋根から鈴尾が吊り下げられています。
本殿は銅板葺(どうばんぶき)で幣殿と繋がっている流造の大きな建物で、正面側約4.8m、奥行き側約3.2mの規模となっています。屋根の正面には千鳥破風(ちどりはふ)が設けられています。建物の正面上側や妻側に設けられた蟇股(かえるまた)は、動物や花鳥が立体的に彫られた見事なもので、華麗な組み物や絵文様の木鼻(きばな)などとともに、江戸時代初め頃の特徴が認められます。
本殿の周囲には、愛宕(あたご)さまと二柱のお稲荷さま(若照稲荷神社、速玉稲荷神社)がお祀りされています。また、伊勢神宮の遥拝所(ようはいじょ)が本殿右側にお祀りされています。愛宕さまのご祭神は迦具土神(カグツチノカミ)で火の神様です。お稲荷さまのご祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)で稲の神様です。
昔は、お米がお金の代わりになっていたことから、お稲荷さまは商売繁盛、産業発展の神様となりました。
※一柳家の歴史についてはこちらをご覧ください→
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【鳥居】 |
【左:随身門、右:鐘楼】 |
【手水舎】 |
【土俵】 |
【拝殿】 |
【左:幣殿、右:本殿】 |