一柳家の歴史
一柳家は、伊予の河野氏の出身と伝えられています。大永年間(1521〜27)、河野宣高(こうののぶたか)は家運が衰えたため、縁を頼って美濃の土岐頼芸(ときよりのり)に仕え、美濃国西野村に領地を賜ります。この時、姓を一柳(ひとつやなぎ)に改めたと言われていますが、詳細は明らかではありません。
一柳家第二代直高(なおたか)は仕官することなく過ごします。一柳家が歴史の表舞台に登場してくるのは第三代直末(なおすえ)のときからです。
直末は、永禄11年(1568)、23歳の時に秀吉に仕え、以来秀吉の武将として各地を転戦、三木合戦にも参加し「国中城わるべき覚」(一柳家文書)では、「東条の城」の破却を命じられています。その後天正18年(1590)には、美濃国軽見城で五万石を領するまでになりますが、同年小田原攻めの山中城の合戦で戦死。弟の直盛(なおもり)が遺領を引き継ぎ、尾張の黒田城で三万石を領します。
直盛は、関ケ原合戦では東軍につき、木曽川の先陣争いや岐阜城攻め、長松城の守備などの活躍により伊勢神戸五万石を領し、その後二度の大阪の陣にも参加します。寛永13年(1636)には、一万八千六百石の加増を受け伊予西条に転封になりますが、このうち一万石は、播州加東郡の地が当てられました。この時、上意により播州加東郡のなかの五千石が次男直家(なおいえ)に分領されます。これが小野藩の基礎となります。(*)
寛永13年(1636)直盛は伊予西条への赴任中、大阪で急病死します。直盛の遺領は、長男直重(なおしげ)が伊予西条で三万石、次男直家が伊予川之江と播州加東郡で二万八千六百石、三男直頼(なおより)が伊予小松で一万石と分配されます。
伊予西条の一柳家は、第三代直興(なおおき)のとき、職務懈怠のため寛文5年(1665)に領地没収となります。これより先、直興の弟直照(なおてる)は、五千石の分領を受け津根八日市に陣屋を置いていました。直照の子直増(なおます)のとき、元禄15年(1702)に播州三木高木に移り五千石を領し、以後幕末までこの地を治めます。
小野の一柳家では、初代直家が、寛永19年(1642)嗣男がないまま死去。一旦は取り潰されますが、関ケ原の直盛の功績により、特別に養子直次(なおつぐ)に播州加東郡に一万石で相続を許します。以後幕末までこの地を治めます。
伊予小松の一柳家は、寛永13年(1636)に一万石を分領してから幕末までその地を治めました。
(*)小野藩は、現在の小野市の主要部と加東郡家原の30か村を治めていました。
藩士庶民の区別なく教育に力を注ぐなど、一柳家の仁政により温情豊かな小野の地へと発展しました。
*広岡家と小野藩一柳家の関係
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の主人公広岡浅子の興した加藤銀行と大同生命の第二代社長広岡恵三氏は、小野藩最後の藩主一柳末徳(すえのり)の二男として、明治九年(1876)東京で生まれました。彼は、東京帝国大学法科に進み、在学中に浅子の長女亀子の婿養子として迎えられました。その後、社業を継ぎ、加島屋広岡家を支えました。
*ウィリアム・メレル・ヴォーリズと小野藩一柳家の関係
1880年アメリカ合衆国で生まれたウィリアム・メレル・ヴォーリズは1905年に英語教師として来日しました。その後1908年に京都で建築設計監督事務所を設立し、日本各地で学校、教会、病院、百貨店、住宅など数多くの近代西洋建築の設計を手掛けました。 1919年、第十一代藩主一柳末徳の三女満喜子(1884年 東京生まれ)と結婚。1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と名乗るようになりました。ヴォーリズの代表建築物として、神戸旧居留地38番館、日本基督教団大阪教会、大丸百貨店心斎橋店、関西学院大学、神戸女学院大学・中学部・高等学部などがあります。
2014年、神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築初の重要文化財に指定されました。