国鉄(インチキ)列車名鑑-2(その1)


国鉄末期、各鉄道管理局において団体旅行向けイベント列車(後にジョイフルトレインの名が定着した)が花盛りとなった時期があった。82系客車「和(なごみ)」はそれらの頂点に立つお座敷列車として昭和62年に登場した。

82系客車の基本コンセプトは「和式寝台列車」であり「走る温泉旅館」であった。時あたかもバブルに向けてカネ余りが目に付き始めた頃であり、円高ドル安傾向に歯止めが掛からなくなった為、国内旅行と海外旅行のシェアが逆転するという、旅行需要の大きな転換点を迎えた時期でもあった。
そこで低迷する国内旅行需要の喚起と、国鉄がその末期において希求して止まなかった「一般企業並みのサービスのノウハウ」の二つの目的を達成する為企画された、採算度外視、文字通りの看板列車であった。



この列車で特筆すべき点は、主に二つある。一つは鉄道史上初となる「大浴場付き」客車の連結を始め「宴会場車」「フロント車」「畳座敷の個室寝台車」と総てに亘って「温泉旅館」を基本に据えている点。
今一つは経営形態である。この系列は編成ごと「著名温泉旅館」や「温泉組合」に年契約でレンタルされ、利用者はそれらの温泉旅館等と旅行社のタイアップ企画商品に参加する者に限られると言う点である。

この方式のメリットは、

・国鉄が従来持ち得なかった旅館等の接客サービスを純民間企業に肩代わりさせる事で充分な顧客満足を与える事が出来、さらに現場要員の教育に一役買うものと期待される事。

・国鉄が団体客の呼び込みをする時代は既に終わっており、安定した集客とツアー催行率の向上の為、著名温泉や有名旅行社の看板は利用しない手はない。

反対にデメリットも当然あった。

・一車両当たりの定員が6名にしかならない上、大浴場車、宴会場車など定員を持たない車両がかなりの数に上り、収益性は殆ど見込まれない。もし収益を考慮する場合には一人当たりの包括特別運賃や料金を一般運賃・料金のレベルまで上げたのでは追い付かず、結局「風変わりな特別列車」と言うイメージにしかならない。

・ツアー運営上の種々の制約(後述)からダイヤ組成が非常に難しく通常の臨客スジを追って行くだけでは収拾が附かなくなる。また一部の車両の自重が大きすぎる為、どの路線でも気軽に入って行ける訳では無い。


先述した通り、この列車は団体旅行客向けに製造されたもので、その企画段階では数社の大手旅行会社や温泉組合等が話に噛んでいる。彼らの考えるメリット・デメリットは凡そこう言ったものであった。

・何と言っても宣伝になる。走る広告塔が全国を縦横に走り回る。TVCM一本流すより割安な買い物(旅館)。

・円高で落ち込んでいたインバウンド(外人旅行客)の取り込みの一助になる(旅行社)。

・旅行代金を国鉄・旅行社・宿で分割する為、宣伝費で割り切れない程収入面で難がある(旅館)。

・人材の派出が難しい(旅館)。

・ツアー単価が異常に高額になる(旅行社)。

・ダイヤの制約からツアー行程が組みづらい(旅行社)。


こうしたメリット・デメリットを勘案しつつ、「和」は走り始めたのである。

登場時の世間の反応は「衝撃的」の一語をもって語られよう。日本産業新聞は1面にデカデカと「お座敷寝台列車『和(なごみ)』鮮烈にデビュー・商売気を出し始めた国鉄」と見出しを躍らせた。この見出しに代表されるように、当時の世評は、問題児であった当時の国鉄がようやく企業としての自覚を持ち始めて、先ずは安心と言う物であったと考えて良いだろう。

問題はこの列車の販売方法である。例えば霧島温泉郷にレンタルされた第一号編成を例に取ると、東京の団体客を乗せて鹿児島まで走らせても余り意味はない。
当然で、現地に着けばゆったりした旅館で寛ぎながら「揺れない風呂」に浸かる事も出来る。「大浴場車」に入れてある温泉の成分が源泉と同じならばわざわざ狭い列車に揺られる必要がないのだ。
そこで拡大解釈をする必要が出て来る。ツアーの一部に霧島温泉郷が入っていればそれで良しとするのである。
例えば霧島編成で長崎まで行き、後はバスで天草、阿蘇、湯布院等を巡り、最終日に霧島に宿泊して飛行機で帰る。
列車は長崎から鹿児島へ回送して鹿児島の客を乗せ、東北や北陸の観光に出発する、と言う具合である。

列車乗組みスタッフはその性格上他の列車を圧倒して多い。

事務:事務長1、事務員2
販売:喫茶1(事務員が兼務)、売店1
接客:仲居頭1、仲居2
厨房:板頭1、若板1~2
機器:職長1
其他:警備1、医師1、看護師1
と言った大所帯で、要因は殆どがレンタル先の温泉旅館、又は温泉組合等から寄り合い所帯で派出されて来ていた。基本的にスタッフの交替は行われない。



JR化後、この列車はJR東、JR西、そして新設のJRツアーズの三社に分配され、平成5年頃までは頻繁に団体使用されて来たが、バブル崩壊による景気の極端な悪化や旅行形態の変化等の要因により次第に姿を見せなくなった。
平成10年には東編成が、平成11年にはJRツアーズ編成がそれぞれ廃車されたが、残る西編成は、編成を解かれながらも生き残っているのは幸いである。
各種イベント列車のみならず「あかつき」や「なは」に併結されて走っている姿を見ると、うたかたの残滓が胸を打つのである。

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