BR137‐袖擦り合った人々-舌禍2



 

1915年5月。パリ郊外に司令部を開設した「セーヌ戦域輸送隊」は、早速事前の設定通り、ルーアン、サン・ドニ、トロワ、ディジョン等に置かれた軍集積所から、前線後方数キロの地点に多数新設された「補給端末駅」の間で軍徴用列車による大規模な輸送作戦が開始された。作戦を展開して行く上で気付いた事柄は参謀本部を通じて徐々に改善されて行く。例えば前線部隊から必要な物資を請求する場合、それまで命令系統を遡って処理されていたのを一旦輸送隊司令部が受領し、カーボンコピーを作って一方を集積所に、もう一方を師団司令部なり旅団司令部なりに回送する方法を編み出した。前線部隊の司令部からすれば請求事実の追認を強制される事になるが、こうする事によって必要な物資は以前に比べれば遥かに迅速に前線に届けられるようになった。

成果は徐々に顕れた。ドイツ皇太子を司令官とする乾坤一擲のベルダン攻略戦は、中盤から次第に連合軍が盛り返し、どうにか敵を撃退する事が出来た。続くマルヌ戦においても、戦果はパッとしなかったが輸送隊の時宜を得た支援の為に前線部隊は思う様奮戦出来た。
一見地味な職務ではあるが、今や前線の諸将兵にとって輸送隊の存在は百万の援軍と見られていたのである。

輸送隊が徴用した機関車は殆ど自国の鉄道で使用されていたもので、それもかなり古い型が多かった。工業製品としてではなく、工芸品として作られたようなそれらの機関車は、見た目は美しいが性能はバラバラで独特の癖があり使いづらい物であった。無論国家存亡の折から文句も言えまいが、ルボーの頭を終始悩ませていた問題であった。



遥々日本から21両の軍用機関車が送られて来たのは、1916年の9月である。
ルボーはこの機関車の到着を非常に喜んだ。先述したように輸送隊に回された機関車はどれも旧式であり、更に効率を良くする為には「性能の均一な」「新品とは行かぬまでも新品同様の」機関車がある程度まとまった輌数必要であると感じていた矢先であった。
早速ルボーは参謀本部に掛け合い、この東洋で作られた機関車をそっくり21輌譲り受ける事に成功した。
使って見ると、東洋人の機関車らしく運転台は狭いが、元々フランス人はそれ程大柄ではない事が幸いして問題とはならなかった。更に劣質炭でも一定の性能を発揮し、滅多な事では故障しない等、日本製とはとても思えない優秀な作品に、ルボーも輸送隊の軍人軍属も大いに満足したのである。
ルボーは一計を案じ、機関車の運転台の窓下に書かれた軍番号のすぐ脇に大きく「Liege」「Charleroi」「Maubeuge」等と書かせた。これはドイツ軍に占領されているフランスやベルギーの諸都市の名であり、輸送隊や前線の兵の敵愾心を奮起させる効果と同時に、管理のしやすさを狙った施策であったと言う。
ルボーは殊の他この日本の機関車を頼みに思った。力強い太いボイラー、格闘家が身構えたような低く構えたフロントビュー、短く大きな煙突。どれを取ってもルボーと兵士らにとってそれは力の象徴であり、誰にでも「これさえあれば戦争に勝てる」と思わせるに充分な説得力を発散しているように思われてならなかったのである。



1917年初頭。
連合軍司令部にはいささかの希望も湧いて来ない頃であった。
ロシアでは革命が今にも起こりそうな情勢であり、そうなれば単独講和もあり得なくは無い。そうなれば東部戦域に貼りついているドイツ軍が雪崩を打ってフランスへ押し寄せるに違いないだろう。アメリカの参戦も未だ未確定事項であり楽観は許されない。
前線でも厭戦気分は蔓延して久しかった。敵が攻めて来るから撃退はするが、兵の動きは日を追って緩慢になり、脱走兵も現れ始めていると言う。
輸送隊の司令官、ルボー大佐を叙勲しようとする動きはこの頃起こった。前線の兵に対する間断無い補給と言う地味な職務ながら、これを完全に履行して戦線と士気の維持に功績があったと言う理由である。
叙勲の日、冒頭に記した通り、ルボー大佐の心は誇らしさで満たされていた。彼が概略を立案し自身が中心となって進めてきた輸送作戦の成功を、仏全軍によって祝福されている。一時は敗残の将にまでなった彼が完全に名誉を取り戻した日であった。

問題はここから始まる。



その3へ
目次へ