BR137‐袖擦り合った人々-舌禍1




 

1917年2月10日。
この日、フォッシュ元帥手ずから勲章を授与された彼―ジャン・ポール・ルボー大佐は上機嫌であった。これまでの悔悟と逼塞の生活を払拭し、この上ない名誉を上書きされた事で、自身の存在理由を満天下に顕わせた。これに勝る栄誉は、恐らく他には無かった事であろう。



1914年8月。
共和国陸軍胸甲騎兵第二連隊を率いたルボー大佐は、配下の胸甲騎兵300騎を率いて、独仏国境を越えたドイツ軍第三軍の歩兵縦列に向け、果敢なる突撃を敢行した。彼らは一様に青い上着、赤いズボン、大佐は青いマントを羽織り、武装は象嵌した芸術品のような自前の剣や細身の槍であった。彼ら300騎は突撃する自分たちに酔いしれていた。欧州無敵と呼ばれた仏胸甲騎兵の突撃を止められる者は何物も無い。自分たちですら止める事は出来ない―。
彼らは18世紀の武装、18世紀の戦術で、20世紀の戦争を戦おうとしていた。そして歩兵隊列に突入した後、30分程で壊滅したのである。
誰も彼ら仏軍の怠慢を責める事は出来ない。この時点では独仏両軍共、戦争はせいぜい2~3ヶ月でカタが付くと考えていたからであり、ある程度の損害を出したドイツ軍側にしてもその臨戦態度は18世紀的であった事は否めない。衛生兵は傷ついた仏騎兵を介抱し、ルーテル派プロテスタントの従軍牧師は、多分カトリック信者であろう仏騎兵の遺骸の前で「主の祈り」を称える位の事はした。
命からがら自軍戦線に辿り着いたルボーは騎兵隊長を罷免され、即日スペイン国境の要塞勤務と言う、およそ考えられる限り最大の閑職に回されたのである。

ルボーは「第二身分」出身者らしく言い訳はせぬが、一方で前線勤務を切望し毎週のように参謀本部や陸軍省、更にはフォッシュ元帥やペタン元帥個人に宛てて復職を懇願し、閑職を利用してこの戦争に勝つための施策を手紙を書き綴った。
「この戦争の特殊性に最も早く気付いたのは私である。前線が叶わぬなら前線をサポートする勤務でも良い。私を起用すれば、明らかに自軍の有利となるであろう」
「この戦争を決するのは物量である。敵に勝る物量を備える事で敵の攻撃を跳ね返し、退却せしめる事が可能となると愚考する。その為には完全な補給と部隊間の緊密な連絡体制の実現が緊要であり」
「その為に必要と思われる施策を私案し別途添付する。繰り返すがこの戦争の帰趨は一に係って物量であると思惟する」。
大体こう言う内容であった。
開戦から半年も経過すると、頭の堅い首脳部も流石にこの戦争が生半可なものでは無い事を悟っていた。その上に中堅将校の戦死が相次ぎ、少尉の率いる連隊、伍長の率いる中隊が現れる始末であった。そのような流れはルボーに幸いした。彼は1915年月に「セーヌ戦域輸送司令」に任ずる辞令を得た。

この頃には戦線は膠着し、両軍共僅かの隙を見つけては敵の塹壕を突破しようとして、その都度四桁、五桁の数の死傷者を出しながら一進一退を繰り返している。究極的に今勝てないまでも少なく共負けないようにする為には前線への補給は欠く事が出来ない。当初前線への輸送は鉄道会社が請け負っていたが、軍との折衝が悪く(そもそも仏軍内の連絡機構の弱体さは有名であった)前線部隊が必要とする物品が届く時期は、早く見積もっても発注から1ヶ月を要した。1914年10月に発注した15センチ砲弾が1916年になって初めて到着したと言う冗談のような事例すらある。

これを是正する為、前線に近い区間の鉄道を軍が借り上げ、輸送を軍自身が行う事が企画されたのである。その内容は概ねルボーの私案を元に参謀本部が加筆修正したものであったが、左遷中の敗軍の将の意見を真面目に討議する仏軍は眼力を持っていた、等と言う訳ではない。彼らは敵軍にエッフェル塔が望見出来る所まで攻め込まれ、切羽詰っていたのが正直な所であった。短期的にも長期的にも戦局を好転させ得る事が出来れば、例え悪魔とでも手を結ぶ積もりになっていたのである。

増してルボーは元々地道な努力家であり、事に当っては万難を排して断固行う態度が開戦前から評価されていた。フォッシュ元帥はこの難題を彼に一任してみる気になったのは、ある意味当然であったかも知れない。



驚喜したルボーは任地に赴く5月を待たず、公務出張と称してパリに出入りを繰り返した。彼は鉄道輸送について一から学び、その一方で旧知を頼って輸送に明るい部下を集めた。陸軍省を通じて鉄道会社に技術者の徴集を依頼し、更に暇を見ては全国の軍物資集積所を訪ねて備蓄量をチェックした。そしてその足で前線部隊の指揮官と面会しては彼らが真に必要としている物は何か、輸送の問題点は何かを質問して廻った。




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